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時に末日聖徒/モルモン教への私見含むメモ帳にて御座候 ほな毎度どんもにて 御きげんよろしゅうで御座候

“生者は死者によって支えられて”

2019-02-09 09:18:06 | 先祖、系図、臨死、あの世、神殿

「また山形氏は「〈千の風〉から〈花は咲く〉へ」として、大ヒットした「千の風になって」を取り上げて以下のように述べています。「『死者のざわめき』は、そうした失われた共同体の思えば懐かしい死者たちの今に続く声ではないか。今にして思えば、震災前、日本中を席巻した『千の風になって』(新井満訳詩)に登場する歌い手も死者だった。死者は『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。死んでなんかいません』と歌っていた。新しい知の挑戦であるかのように、テノール歌手の透明な声が日本中に響き渡った。さる高名な僧侶が書いていた。『あの歌のお蔭で、寺の法事が激減した。わたしは愉快ではない』と。わたしは無理もない、と思った。あれは、日本仏教が、タブーとして封印してきた『死者のざわめき』であったのだから。なぜ封印されたのか。その理由は、はっきりしている。『死者のざわめき』は、平穏な社会秩序をおびやかす危険な亡霊の怨嗟の声とみなされたからである」」

千の風」は、それまでのそうした観念をひっくり返す不思議な歌であったのだと指摘する山形氏は、続けて、東日本大震災の復興ソングとしてヒットした「花は咲く」に言及します。「『千の風』の歌の流れは、3・11以後、こんどは『花は咲く』に引き継がれ、1本のガーベラの花を手に、静かに祈るように歌う東北ゆかりの俳優や歌手をとおして、被災地から日本中にひろまり、世界の各地で歌い継がれつつあると言うに。遠くから『誰かの歌が聞こえる・・・・・・それが誰かを励ましている・・・・・・笑顔が見える・・・・・・』。いったい励ましているのは誰なのか、笑っているのは誰なのか。涙を抑えて歌っているのは、他でもない『死者』ではないか」

そして、「死者のざわめき」の「おわりに」で、山形氏は以下のように述べるのでした。「問われているのは、残された者の悲しみであり、数え上げれば際限のない悔いと、やり場のない怒りである。そうした途方もない理不尽の痛苦と、いかに向き合って生きることができるか。問題は、そうした理不尽や際限のない感情に、どうすれば居場所を与えることができるか。それがどうにも分からない。だから『ざわめく』のである。確かなことは、この『ざわめき』の地平から『宗教のレッスン』が開始される、ということである。『ざわめき』の奥に、耳を澄ませば、死者たちが、きっと何かを語りかけてくる。『千の風』のように、『花は咲く』のように

https://shins2m.hatenablog.com/entry/2018/10/08/000100

うぅぅんん、そして、上、ブロガーさん

「400ページ近い本書を通読すると、あまりにも多様な問題が凝縮されているので、眩暈のような感覚を覚えました。しかし、本書で取り上げられている問題はどれも看過することのできない重要なものばかりです。読了して、わたしは「生者は死者によって支えられている」ということを改めて痛感しました。・・・」

と終わりで結んでますな。

その書とは、『〈死者/生者〉論――傾聴・鎮魂・翻訳――』 鈴木岩弓・磯前 順一・佐藤 弘夫編 2018/3/7 (ぺりかん社・・・

https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%AD%BB%E8%80%85%EF%BC%8F%E7%94%9F%E8%80%85%E3%80%89%20%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%B2%A9%E5%BC%93

この前読んだところの聖句、思い出しましたぁぁ・・・

「19 もし、御自分の民のために主が行われる、世の初めから備えられた贖いがなければ、わたしはあなたがたに言うが、これがなければ、全人類は滅びるほかはなかった。
20 しかし見よ、死の縄目は断たれ、御子が統治し、死者を治める力を持たれる。そこで、御子は死者の復活をもたらされる。
21 こうして、復活が起こる。・・・」 (モーサヤ書15)   


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