今日は、春分の日、お彼岸中日と言うんですかね、ちょうどご先祖に思いをはせる機会ですかぁぁ。でですねぇぇ、最近、たまWEB、在日系コリアン、朝鮮系とかって書いてきましたけどねぇぇ、どうも不思議というか、先祖に、まぁ江戸時代末ですが、朝鮮系と推測される血筋があるようなんですよねぇぇ。
教会員は亡くなった先祖の救いのために、先祖探求するわけなんですが、たまWEBは、父方母方合わせての先祖調べで、直系の苗字、40+くらい、わかってるんですけど、前にも少々書いてましたか、父方母方それぞれの祖母が昔の侍、士族につながってですね。もち、遺伝子で、ほんとにつながってるかどうか、戸籍のようにはいかないですけど、まぁ江戸時代はおそらく八割がた正しいんじゃないかと。父方祖母の代は下級貧乏士族ではあったんですがね、遡るほど伊達藩で中級ぐらいに偉くなっていくような・・・・ラッキーなことに系図資料を持ってるところの、先祖の子孫の方にお会いできて資料見せてもらえたお宅が何軒かあったかな。あと、角川の県別姓氏家系大事典(宮城県)とかですよねぇぇ。・・・・昔は同じ侍身分での結婚だったでしょう。家を継承するみたいなことで、まぁ、江戸末はどうだったか??
父方祖母の母の母の母、推定1810年くらい生まれの、大内はんという女性。親兄弟とか一切不明なんだけど侍身分の藩士の家だったと、んで、この名前、”はん”ねぇぇ、”韓”じゃないかと。といいますのは、大内氏は伊達藩で何家かあって、そのうちの半分以上は西国の大内氏につながるんですよねぇぇ。まぁ伊達政宗(1567-1636)の代に仕官ということですかぁぁ・・・・
けっこう近畿方面の武士も政宗の代に仕官してるんですよねぇぇ、政宗が京都に行ったじゃないですかぁ、白装束で金箔施した大きな十字架担いで、秀吉に謁見で(1591)。たまWEBの先祖で他には、竹村氏というのが同じ頃、江州近江出身。竹村氏の先祖には、同じく近江からのキリシタン大名の蒲生氏郷(1556-1595)の先祖蒲生氏が入ってるみたいんなんですよねぇぇ。伊達藩には、けっこうキリシタン侍が多かったんじゃないかなぁぁと。だから、慶長遣欧使節(1613 スペイン国王、ローマ教皇)を送ったりしたんですよぉぉ、つまり、ヨーロッパでの旧教と新教の対立と連動してたんですよねぇ、あの頃の日本の歴史が。結果は、徳川のオランダ、イギリスの新教陣営が勢力を増すわけで、で、それが、樅ノ木は残ったの伊達騒動(1660)ということですよねぇ。まぁ、京都が情報キャッチしてコントロールしてたんでしょうか?? 他には武藤氏が。切腹となった豊臣秀次(1568-1595)の配下だったようで。九州黒田藩に落ち延びて、徐々に四国の徳島藩に移り、京都に戻っては、奥州伊達藩に仕官と。秀次もキリシタンと関係は無かったんだろうか?? まぁ、利休はルカっていう話もあるくらいで。
あっ、それで、その大内氏は朝鮮系なんですよねぇぇ・・・・まぁ、『仙台藩士事典』とかもう一度チェックしてみますかぁ・・・・
「フルベツキ博士の集合写真について 黄金玉を知らないか? 2014/03/20
明治から400年程さかのぼること戦国時代。西日本には多くのキリシタン大名がいました。その中で、当時、一番最初にキリスト教の布教を許した大名。大内義隆(おおうちよしたか)さんという大名がいますた。
」
http://golden-tamatama.com/blog-entry-1403.html
えぇぇと、たまWEBのたまはですねぇ、珠たま、光あるたま、真相探れる光、そんなイメージで、よろしくのほど。あれですよ、あれあれ、とうてい及ばないわけですが、聖見者の石くらいの玉石だったら、たいへんなっこったなと、ま、当然そうでないわけで安堵ですが。
あ、そうそう、たまWEBの、さらに伊達政宗の先祖にもつながったりするんですよね~、苗字はちょいと今失念、福島県伊達市近辺の市町村史本の資料編に系譜ありますんですが、1400年代くらいだったかぁ、伊達氏から分かれてるんですよ。ということはですよ、伊達氏の祖と言われるのが念西、んで、念西の母の父は源為義で、為義の孫は源義経、つまりチンギスカン/成吉思汗。いやぁぁ、たまWEBにジンギスカンと同じ一族のDNAがあるとしたら、えらいこったなぁぁ・・・・系図調べ、やってもやってもキリが無いみたいなぁぁ・・・・
チンギス・カン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3
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