かれは十歳、これは六十(むそぢ)。
そのよはひ、ことのほかなれど、
心をなぐさむること、これ同じ。
或は、茅花(つばな)を抜き、岩梨(いはなし)をとり、
零余子(ぬかご)をもり、芹(せり)をつむ。
(鴨長明『方丈記』より)
十歳の子と、六十歳の男が、一緒に遊ぶ姿が微笑ましい場面ですが、
このあと、六十の長明は、この子と一緒に、40キロぐらい、
野山を歩き回るんですから、すごいです。
僕は、もうすぐ五十で、
五十年過ごしたことを思うと、そのあとの十年は、五分の一。
「よはい」六十も、すぐそこです。
それで、この文が、気になったところです。
六十といえば、周りにかっこよく六十をこえた先輩方がたくさんいらっしゃいます。
見習いたいこといっぱいです。
ところで、ここに出てくる、
茅花、岩梨、零余子、芹、
僕は、芹の名前は知ってるけど、形が思い浮かばない。
ほかのものは、まったく知らないことに愕然とします。
そして、それぞれにつく言葉、
抜き、とり、もり、つむ。
茅花を、なぜ「抜く」のか、
岩梨が「とり」で、零余子が「もり」で、芹が「つむ」なのは、どうしてか、
想像するのみですが、
これが実感としてわかったら、いいだろうなぁ、と思うことです。
他の本で、読んだことがあるのは、
日本語は、草花の名前や、それにまつわる表現が、非常に豊か、と。
生活に密着していたからです。
身近なものを、よく観察して、それにぴったりの言葉を、選べたんでしょう。
素晴らしいことです。
そういうことが、いつもできるような心でいたいな、と思います。
そして、皆さんと、心なぐさむること、これ同じ、でいられたら、と。
朝から、「方丈記」を読んで、当時の暮らしの大変だったことや、
次々起こった災害のことなどに、今と重なるところも多くあり、
そこは、記録としても、こういうものを書き残していた長明に、感心することですが、
なんといっても、中学か高校で読んだ「方丈記」は、
はるか昔の、立派な仙人みたいな人が書いた、よくわからないもの、と感じていたのに、
今、読めば、世代の近い、ちょっと変わり者の、
自分のダメダメなところも、さらっと言えるお兄さんが、
狭い小屋で、ざくっと書いたもののように思え、
わりと、すらっと読めて、どこか親近感も覚えるという、
楽しい体験をしたところでした。
さ、制作中の新曲の詞が、まだ、途中。
26日に、ブルースアレイで、披露予定。
がんばろう。
皆さん、是非、聞きにおいでください。
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