ひよりみっ!

ディープインパクトが三冠馬になった年からやってる日記

責任の所在がはっきりしないから悲しいという感情になる

2018-11-29 21:52:58 | 雑記
Twitterのほうで、虚淵のシナリオは鬱なのかどうかに関して、こんなことを書いているのをみまして。

「みんなが幸せになろうとして、おのおの正解の行動を見つけようとするんだけど、結果として『誰が悪いわけでもないのに』悲劇になる、という話を作るのがうまいってことなんじゃないのか」

確かに、これは鬱がどうこうとかいうんじゃないかも。
古典的な悲劇からしてそうなんだよな。オイディプス王とか、悲劇を回避しようとした結果として、悲劇に到達するw
ただ、悲劇というのはさっき書いたように「誰も悪くない」と感じさせることが前提。

「悲しいという感情は、自分に不都合な事象が発生したとき、その原因を何者にも負わせることができないときに生じる感情だ。
何かに責任を負わせられるなら、それは『憤り』という別の感情になる」

というのは私の見解。
ゆえに、他人のせいにする人ほどすぐ怒るのだw

オイディプス王の場合、本気で悲劇を回避したかったのなら、オイディプスの実の父が自分の手でそのまま赤ちゃんを殺していればよかったわけでw
それができずに、配下に殺してこいとかいうから、「あまりにかわいそうすぎる……」とかいう理由で生き延びちゃった。
ここで「王が悪いよ!」とか「命令に従わなかった配下が悪いよ!」とか言い出すと、悲劇じゃなくなるのね。
そこに、それぞれの事情や心情があって、結果的には悲劇を引き起こすような行動をとったとしても、それはやむをえないことだったと考えたときに悲劇になる。
「結局のところ、予言から逃れることはできない運命だったのだ……」とね。
別のパターンなら、「冷たい方程式」だな。
あれも、「最初に勝手に宇宙船に乗り込んだ少女がバカなんだろ。自業自得だよ」と言っちゃうと悲劇じゃなくなる。
「遠い惑星にいるお兄ちゃんに会いに行きたかった」という少女の心情に感情移入できないといけない。

まあ、悲劇については、必死こいてそれを回避する方法を考えようとする作業が楽しいという説もあり。
「冷たい方程式」にしても、ハッピーエンド版を考えた人はたくさんいたらしいから。
それをふまえると、悲劇に対する姿勢は、

・ビターな終わり方をそのまま受け入れる人
・そういう終わり方になったことについて、戦犯をつるし上げる人
・ハッピーエンド(それは往々にしてご都合主義的である)を夢想する人

に分かれるんかな。
何回か書いてるけど、私は悲劇上等派よ。
その中に、ほんのわずかの救いがあるみたいなのがより好みだね。
コメント
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