伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

チャンバラ映画

2017年05月02日 | エッセー

 『無限の住人』、封切りを観た。時代劇はかなり久しぶりだった。“今の”時代劇はどんなふうになっているのか、そこが識りたかった。
 人気時代コミックを主演・木村拓哉、監督・三池崇史で実写映画化した作品だ。永遠の命を与えられた人斬りが剣客集団に両親を殺された少女の用心棒となって壮絶な仇討ちを繰り広げる。キャストも豪華だが、それ以上に殺陣がリアルなのか荒唐無稽なのか異常に豪勢だ。屍累々、文字通りの百人斬り。これでもか、これでもかと斬り合いが続く。音といい、色といい、カメラワークといい、食傷するほどに畳み掛けてくる。過ぎたるは及ばざるがごとし。漫画の実写版というが、これではまるで漫画だ。漫画だからこそなし得ることに不用意に踏み込んだのか。逆転のトリックに嵌まっている。さらに筋書きが浮世離れしている分哲学的脚色をしたのか、主人公が不必要に多弁だ。とっくにその年頃を過ぎているのに、キムタクのちょい悪感を乗せた台詞回しも気に障る。
 “用心棒”といえば、はるか56年前昭和36年の黒澤映画『用心棒』が想起される。主演は三船敏郎。モノクロながら迫真の殺陣は未だに脳裏から離れない。当時異色の時代劇だった。というか、東映を軸とするチャンバラ時代劇を一刀両断したエポックメーキングな作品であった(『七人の侍』を含め)。台詞も当時としては随分現代風だった。
 世界のクロサワと比較するのは可哀相だが、今風が極まると先祖返りしてしまうのかと苦笑してしまった。なんのことはない、チャンバラ映画だ。意匠は今風でも、まことにえげつないチャンチャンバラバラだ。斬り落とされた手首はモノクロだけに『用心棒』の方がむしろリアルだ(三船は目を背けたそうだ)。なにより役者の腰が低い。謙虚のそれではなく、フィジカルに低い。半世紀を経て体格に違いが出たのか。走る姿なぞは地に足が付いていない。剣術でも剣道でもなく、まさにチャンバラだ。チャンバラ映画への先祖返りである。
「テレビ出身の人の歩幅はどうしても狭くなるんですが、映画の人の歩幅は大きいんです。」
 今年1月に亡くなった松方弘樹の言葉である。昨日、朝日の連載コラム「折々のことば」で哲学者の鷲田清一氏が紹介していた。氏は、役者として大成するには等身大ではなく自らを超えるスケールの芝居への挑戦を、との教訓と捉えている。だがそのものズバリ歩幅としても、大いに合点が行く。立ち回りが騒々しいだけで、どだい迫真に欠けるのだ。
 当時、三船は41歳。木村は当年44歳。育ってきた畑が違うとはいえ、その存在感は悲しいくらい違う。『大芝居』への挑戦ではあろうが、木村が活きる芝居はもっと別のところではないか。
 ともあれ、黒澤映画という時代劇の『無限の住人』はまだまだ死なせてはもらえない。 □