伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

坑道のカナリアか?

2017年05月26日 | エッセー

 昨日(5/25)の報道によると、商工中金の大規模不正融資に対して金融庁など3省庁が立ち入り検査に入り、経営陣の関与を追及するという。1割強の調査でも760件、約413億円に上る。
 このニュース、初出のころは不可解だった。中小企業への融資を主務とする政府系金融機関がしでかす不正な融資がイメージできなかったからだ。民間が貸し渋る相手に融資するのは、生活保護費と同様本来的に抑制が働くと考えるからだ。でなければ、貸し方が袖の下を受け取って借り方の担保能力を過大評価し融資したか。ところが話は逆で、企業実績を実際よりも悪く見せかけていたという。あるいは、融資の必要がない健全な企業にも貸し付けていたらしい。貸し方がわざわざ借り方の担保能力を過小評価し融資していたことになる。いわば、『無理強い貸し』だ。背景には貸し付け実績の「過大なノルマが不正の要因」との指摘がある。社長などは「ノルマは(現場の)誤解」と釈明しているが、下手な言い訳だ。なにより管理能力を問われる。なんのことはない、レゾンデートルのために実績を上げようとしたのではないか。
 それにもう一つ。予算消化を優先させる「お役所体質」。年度末になると急に道路工事が増える、あれだ。いずれにしても自堕落な公金の無駄遣いに違いはない。商工中金は経産、財務、金融の3省庁が共管する。その1人、世耕経産相は「役員の減給処分で済む話ではない」と語ったそうだが、牛は牛連れではないか。
 さて翻って、民間金融機関はどうか。こちらは「銀行カードローン」が悪評を買っている。保証人は要らず、保証会社の保証が付けばすぐに審査。限度額300万、年7・6%の金利(ある大手の例)でATMから現金が引き出せる。金利も割安で、銀行だけに借り方にも安心感がある。
 曲者は保証会社だ。なんとこれが消費者金融会社なのだ。かつてのサラ金地獄を受け、06年の法改正で消費者金融は融資額が年収の3分の1以内という縛りを受けるようになった。当然、貸し出しは激減。その起死回生策が保証業務だ。保証料を銀行から貰い、返済不能になると肩代わりする。ノウハウもあるので銀行には都合がいい。中には審査も委託するところがある。銀行ローンは3分の1規制がないから、消費者金融にとっては貸出料が増える結果となる。「銀行の看板を借りてお金を貸すようなものだ」という消費者金融幹部もいるそうだ。ために、銀行と消費者金融はWin―Winの関係を築くに至っている。貸し出しによる利益の5割をカードローンで稼ぐ銀行もある。地銀でも1~3割は常態だという。
 そこで持ち上がっているのがカードローンによる多重債務、個人破産の問題だ。銀行カードローンにも消費者金融と同等の規制を求める声が上がっている。
 商工中金と銀行カードローン。原因は同根ではないか。つまり日銀によるゼロから始まってのマイナス金利政策である。銀行がカネを抱えていては損をするように追い込んで、市中にカネを放出させる。そうすれば、投資も消費も増えるにちがいないという目論見である。
 経済構造の変化への認識をまるっきり欠いた金融政策だ。案の定、効果なし。それどころか、逆効果が出始めた。商工中金は『無理強い貸し』を押っ始め、銀行はサラ金紛いのカードローンにのめり込んでいる。風が吹けば桶屋は儲かるが、桶屋が儲ければ風は吹くか──。2つの事例こそマイナス金利の愚策を象徴して余りあるのではないか。
 野口悠紀雄氏は近著で「糸は引けるが、押せない」の譬えを引いて「金融を引き締めて過熱した経済活動を抑制することはできるが、金融を緩和しても停滞した経済を活性化することはできない」と語る(講談社現代新書「日本経済入門」)。「資金需要がない経済では、貸し出しが増えることはなく、したがってマネーストックは増えないのです」とも。挙句が如上のごとき畸型のマネーストックだ。何度も触れてきたが、成熟経済でのパラダイムシフトが模索されない限り負のスパイラルは続く。
 ゼロ・マイナス金利とは「資本が自己増殖する」という資本主義の属性を失うことであり、それは「資本主義の終焉」を意味する──そう、よりドラスティックに現代を鷲掴みにするのは水野和夫氏だ。著作は何度か取り上げてきた。新刊「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」(集英社新書、今月刊)も納得の力作だ。グローバリゼーションを軸に、誕生800年の資本主義と同500年の国民国家の終焉を論じている。大きな絵が豊富なデータと緻密な分析で描かれている。併せて、将来の見取り図も。
 となれば、商工中金も銀行カードローンも「資本主義の終焉」を報せる坑道のカナリヤなのか。切ない抗いを無駄にしてはなるまい。 □