伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

外れた似顔絵

2012年06月08日 | エッセー

 菊地直子の逮捕には驚いた。まずは、あまりの変わりようにびっくりした。ある意味、『落胆』もした。捜査員が「すれ違っても判らなかっただろう」というほどだ。おまけに現年齢に合わせて作られた手配の似顔絵は、惨めなほど似ていなかった。あれでは別人だ。担当者にはかわいそうだが、現実はそれほど『甘く』ないということだ。むしろ一番変わらないのは声ではないかと、こういうことのたびに考える。手配には面相だけでなく、声をフィーチャリングする工夫を望みたい。
 久方ぶりに、養老孟司氏の言が蘇る。

◇個性とは、じつは身体そのものなんです。でもふつうは、個性とは心だと思ってるでしょう。話は逆じゃないんですか。心に個性があったらどうなるか、まじめに考えてみたことがありますか。心とはなにかといえば、共通性そのものです。なぜなら私とあなたで、日本語が共通しています。共通しているから、こうやって話して、あなたがそれを理解します。同じ日本語で話しても、それが理解できなかったら、どうなりますか。つまり通じないわけです。通じなかったら、話す意味がありません。通じるということは、考えが「共通する」ということでしょうが。◇(PHP新書「養老孟司の<逆さメガネ>」から)

 さすがに深い。菊地たちは「心に個性があった」。あり過ぎた。「心に個性があったらどうなるか」。「同じ日本語で話しても、それが理解できなかったら、どうなりますか。つまり通じないわけです。通じなかったら、話す意味がありません」。その「話す意味」を認めない狂気の「個性」が、あの酸鼻をきわめた地獄絵を招来したといえる。あらためて「まじめに考え」ねばならぬ。
 親子間の臓器移植でさえ儘ならぬほど身体は個性的だ。

◇個性は身体でしょ、身体は自然でしょ、都市社会は意識の社会で、そこには自然は「ない」でしょ。だから個性尊重という嘘をつく。というより、嘘にならざるを得ないんですよ。都市社会は意識の世界、「同じ、同じ」を繰り返す世界です。そこで「違う」個性が認められるはずがない。学校も社会のうちですから、もちろん社会の常識で動きます。その社会は都市社会、意識の世界です。そこではだから、身体という個性は、本当は評価されません。身体は自然ですから、むしろそんなものは「ないほうがいい」んです。だから運動会をすれば、全員が一等賞になる。◇(上掲書から)

 菊地たちの偏狭な世界では、「意識の社会」「意識の世界」が極限的に煮詰められた。「そこで『違う』個性が認められるはずがない」し、「身体という個性は、本当は評価されません。身体は自然ですから、むしろそんなものは『ないほうがいい』」とされる。『ないほうがいい』指向が外に向かえば「ポア」となり、内に向かえば「ヘッドギア」「体外離脱」「臨死体験」となる。いずれも「身体という個性」を強圧的に均し、身体という「自然」をネグレクトし、支配しようとする。養老説でいえば、身体と心の完全な倒錯である。だから社会との向き合い方も逆転した。いま麻原の目前にある鉄格子も、むしろ社会を隔離する鉄扉でしかなく、病的に個性と化した心には法廷の日本語は異星の音波でしかない。だから彼は語りようがないのだ。
 振り返れば、彼女はそれ以前も、そしてそれ以後の17年間も、ひたすら意図的に「『身体という個性』を強圧的に均し、身体という『自然』をネグレクトし、支配しよう」とし続けた歳月だったといえる。身体を「共通」化し、寸毫もその個性を際立たせてはならないシシュポスの如き苦役だ。逆位は、これで戻るだろう。外れた似顔絵は容易ならざる「身体という個性」との格闘の、刹那の「技あり」だったかもしれない。 □