伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ファスト・総選挙

2012年06月01日 | エッセー

 世のトレンドは明らかに“ファスト”に向かっている。マック、ケンタのファスト・フードを筆頭に、ユニクロを旗頭とするファスト・ファッション、ニトロのファスト・ファーニチャー、ワタミとくれば居酒屋チェーン、それに回転寿司チェーン、空ではLCCと、引きも切らない。ファストビジネスがデフレの一大要因にはちがいなかろうが、「速く、安く」に「こだわり」や「クオリティ」を加えた商品が消費者を掴んだ。
 芸能界も劣らず、相当早くからファスト化してきた。お笑いもそうだし、おにゃん子はその代表だった。だが、なんといってもAKB48が極め付きだろう。その『総選挙』が近々あるらしい。今年1月朝日新聞がシリーズ「カオスの深淵」──「選ぶ」って何だろう──で、件の『総選挙』を取り上げた。
〓〓AKB48のファン投票による「総選挙」で昨年、1位に選ばれた前田敦子さんはこういう。「ファンに選んでもらって、ここにいていいんだ(中央で歌うことについて・引用者註)と思えました」。選挙だからこそ得られる正当性。「ファンが決めて何かを背負うのなら、それは素直にうれしい」「私を嫌っても、AKB48を嫌いにならないで」。総選挙のあと前田敦子さんは、ファンにそう訴えた。「ファンにはそれぞれ好きなメンバーがいる。私が1位なら、AKBなんてもういいよ、って思われたくなくて」多数決は、決を採るだけでは完結しない。負けた人たちも「私たちみんなで決めたことだから」と結果を受け入れなければ民主主義社会は動けない。ファンの間にも争う雰囲気はあった。「選ぶというのは残酷に見えるかもしれないけれど、人数の多い私たちには必要だと気づいた。ファンの参加が私たちをまとめてくれる」と考える。選挙がはらむ分裂の危機をくぐり抜けながら社会は結果をみんなで受け入れ、「私たち」という感覚を確認して前に進む。だが、多くの民主主義国では選挙がそんな機能を果たせなくなっている。
 AKBの「総選挙」は確かに民主主義をめぐる寓話やパロディーかもしれない。だが、本当の選挙が「99%」の声を政策に反映できないならば(1%の富裕層が決定権を握る寡頭制への流れが強まるならば・引用者註)、それもまた民主主義とは似て非なる戯画にすぎない。〓〓
 括りの部分に主眼はあるとしても、ずいぶん持ち上げたものだなと違和感を抱いた。社会契約論風にいえば、「本当の選挙」は私権の委託である。わが身を委ね、縛られることだ。権力の遣り取りだ。まるでトポスが違う。似て非なるものだ。朝日はよほどAKBが好きなのかもしれないが、年増の深情けか。どだい、比べようのないものだ。引き合いに出すのも憚られる代物ではないか。
 こんなあざとい仕掛けは高名なプロデューサーAによるものであろうが、付加価値の付け方が人を食っている。なんとも阿漕なファスト・エンターテインメントである。
 5月「週間現代」が「この国の未来 原発と橋下を語ろう」と題して、文芸評論家の加藤典洋氏と内田樹氏の対談を組んだ。そこでも件の『総選挙』が出てきた。
◇加藤 AKBの総選挙ではアイドルグループの人気投票なのに、まるで国民的イベントのようにファンが盛り上がる。橋下候補への投票行動も何か面白いことやってみようということで、あれはもはや政治行動というより、イベント参加なんですね。
内田 芸能人の人気投票を「総選挙」と名づけること自体が、ある種、選挙制度を侮っていると思いますね。国政選挙とは人気投票じゃありません。政治家としての見識であったり器量であったり、政策の適否を議論するわけであって。ポピュラリティと選良としての適性の間には相関はありません。◇
 我が意を得たりである。「ある種、選挙制度を侮っている」との内田氏の舌鋒はどうだろう。逞しい商魂にくるんだAの人品骨柄の軽さ薄さを見事に抉っている。
 ところが、捨てる神あれば拾う神ありか。批評家・濱野智史氏は「AKB的『劇場』を政治に」と題して、朝日に寄稿している(5月31日)。──民衆と政治家との信頼関係が崩れ政治へのシニシズムが蔓延する中、AKBの「総選挙」は低迷する社会を突破する重要なヒントを与えてくれる。AKB総選挙の熱狂には、AKBの徹底した現場主義がある。劇場での連日公演、握手会、ファンとの対話という現場での繋がり。小さいことからコツコツ積み上げる「スモールスタート」。地方を含め、小さい劇場での舞台と観客とのダイレクトな触れ合い。ファンとの繋がりの中で見守られ、成長していく。たかがアイドルのファン投票イベントと侮ってはいけない。AKB的スモールスタートの実践こそが、政治家と民衆の信頼関係を取り戻す。──大要、そう述べている。
 AKBを見倣ってどぶ板選挙をせよという戦術的訓戒なら、理路は整然としている。しかしイベント的熱狂と政治的熱狂を並置すると、理路は突如雑然とする。ナチズムのような熱狂よりも、シニシズムの方が百千万億倍尊い。Aの術中に嵌まった思考停止、ないしは混濁としかいえない。あるいは、とてつもない能天気か。
 低迷する社会の病根はもっと深い。選良と選挙民との関係に落とし込んで済む問題ではない。パイロットと乗客が和気藹藹であっても、機体に穴が空いていたのではフライトは危ないですよという話だ。

 突然だが、美空ひばりをこよなく愛した者のひとりとして歌ってほしくない曲が一つだけあった。「川の流れのように」だ。耳に触れるたびに、気が滅入る。使い古して擦り切れた定番のことばが、あざとく定型的に羅列されているだけだ。ひばりともあろう者が、なぜこんな薄っぺらな歌詞をチョイスしたのか。筆者にとっては大きなあやかしだ。Aの作詞である。作詞家として「大成」する嚆矢となった曲だ。例によって、“ファスト・ソング”の典型でもある。 □