伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『世代幻想論』

2012年06月15日 | エッセー

 内田 樹氏による以下の考究には案を叩いて得心する。

◇「世代」というものはけっこう重要な概念だとぼくは思っています。世代論なんて何の意味もないよ、と言う人がいますが、それは短見というものです。確かに世代そのものにはたいした意味はありません。どんな世代にも優秀な人、愚劣な人、卓越した人、凡庸な人がいます。その比率はどの世代も変わりません。でも、自分がある世代に属しているという「幻想」を抱いたときから、「世代」はリアリティをもって同世代集団を縛り上げてゆきます。自分一人の経験の意味を、横並びの「同世代」的経験の中に位置づけて解釈するということが起こるからです。◇(角川文庫「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)

 『世代幻想論』とでも名付けるべきか。『世代幻想』によって成員がリアリスティックな縛りを受ける。たとえば、かつてほとんど「青春歌謡」にしか興味がなかったのに……

◇それがどうでしょう。ロック・ミュージックが六〇年代の若者文化のランドマークに認定された「後になって」、同学年の諸君が次々と「私は中学生の頃ビートルズに夢中だった」というふうに回想し始めたのです。これは明らかに模造記憶です。でも、本人はそう信じているのです。これが「世代」というものの「怖さ」です。自分がリアルタイムでは経験しなかったことを、自分自身の固有の経験として「思い出してしまう」というのが世代の魔力です。ぼくが世代論の有効性を見るのはこのような「偽造された共同的記憶(コメモレーション)」という幻想の水準の話です。◇(上掲書から)

 抜き書きだから否定的なニュアンスにとれるかもしれないが、決してそうではない。「幻想」には力がある。氏は『ためらいの倫理学』で「人間というのは、とても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ」とも述べている。
 かつて同窓会で中島みゆきの『時代』を、なんとしっかり演歌のこぶしを効かせて“歌い上げた”クラスメートがいた(女性である)。その時は吹き出してしまったのだが、よくよく考えると重層的で示唆に富む。同窓会の場でコメモレーションの縛りから、フォークをとなったにちがいない。しかし、「原体験」はない。「近回り」のところで、『時代』をチョイスしたか。だが、喉は「原体験」の演歌のままであった……と。(別に演歌が古臭いといっているのではない。誤解なく)
 内田氏の伝でいくと、「ロック・ミュージックが六〇年代の若者文化のランドマークに認定された」ように、「フォーク・ソングが七〇年代の若者文化のランドマークに認定された」といえなくもない。ただ注意を要するのは、ロックの主役たちは今はもういないが(主役たちはすべて海外だったし、本邦には紛い者しかいなかった)、フォークのメイン・メンバーは本邦で健在だということである。地続きの日本でともに同じ空気を吸い、齢を重ね、風雪を超え、かつ今もって黙ってはいないということだ。

   吉田拓郎 「午後の天気」

 3年振りのアルバムが、今月20日にリリースされる。インフォメーションによると、NHK時代劇「新選組血風録」の主題歌『慕情』、10~11年ニッポン放送「ショウアップナイター」のテーマソングだった『that's it やったね』、キンキキッズへの提供曲『危険な関係』など全10曲。通算33枚目のアルバムである。 06年「つま恋」が跳ねた時、あとは人生の錦秋を闊歩する白虎となって自適に、と本ブログに記した。しかしまだまだ白虎も自適も性に合わぬと見える。こちとらだって、それに越したことはない。なんとも楽しみな。
 前作が「午前中に・・・」だった。今度は「午後」である。次作は「夜」か。「午後」と「天気」、なんだかメタファーじみてくる。中身? 聴いてはないが、いいに決まってる。いいものしか世に出すはずはない。前作はアルバム・ヒットチャートで、60歳以上初のベスト10入りを果たした。さて、今度は。

 あと20年ぐらい経って、団塊の世代のランドマークはどのように認定されるだろう。まさか、AKB48ではあるまい。おぞましい予想だが、老人ホームの語らいに「私は還暦過ぎの頃拓郎に夢中だった」と回想する者はいるだろうか。呆けて連れ合いの名さえ忘れても、『世代幻想論』は有効で、コメモレーションは機能するだろうか。もしも筆者が棲息していたら……、絶対に言ってやる! 「今も夢中だ」と。 □