山代中ブログ~伊万里市立山代中学校~

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山代の自然と歴史21~山代の地名⑤久原~

2010年01月05日 21時35分25秒 | 自然と歴史

「久原」は,山代町の中部に位置し,山代町内で最も広い地区です。『慶長肥前国絵図』には「久原 楠久ノ内」と書かれています。地名の由来はよくわかっていません。

江戸時代の元和3年(1617年)から小城藩領になりました。延宝元年(1673年)には,小城藩士の馬渡百郎左右衛門が城山の背後に大規模な田代池をきずきました。それからは久原の農地の灌漑が安定しました。また,地区内の「大波瀬搦」や「小波瀬搦」は宝暦から明和(1751~1771年)にかけての干拓地です。

久原の石炭(関連  の発見ははやく,文化から文政(1804~1829年)にかけて,瀬戸内の塩たき用として石炭が移出されました。天保10年(1839年)ごろは,炭坑は7カ所もありました。炭坑の持ち主の名にちなんで「弥右衛門山(やいもんやま)」「お崎ノ谷」という地名が残っています。炭坑は明治,大正,昭和と繁栄し,昭和30年代まで続きました。

久原は明治22年(1889年)に1つの行政区となりました。第2次世界大戦の炭坑景気による人口の増加で,昭和19年(1944年)に3つの区に分かれました。現在の久原1区(高田,原,堀田),久原2区(下場,上揚,布蘭),久原3区(波瀬)です。

久原の西側に,飯を盛ったような形をした「城山」があります。源直(みなもとなおす)が城を構えた山といわれ「飯盛城」と呼びました。直は城山西側に飯盛神社を建てたと伝えられ,そのあとが残っています。

竜蔵寺隆信にやぶれた山代虎王丸貞が現在の北方町芦原に移されたあと,領民たちは,この神社を城山の南側のふもとにまつりました。その後,この神社のある場所を「飯盛」と呼ぶようになりました。さらに明治9年81876年),飯盛神社は久原の原に移され,現在にいたっています。

「山代町」内の詳細は、『山代エンサイクロペディア』をご覧ください。

<このブログに用いた写真や地図、内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第7集 地名編ー」から引用しています。>

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