関係者ベルナルドがコンスタンティノープルに逃れていたところを捕らえられ、1479年12月に絞首刑に処された。この模様を レオナルド・ダ・ヴィンチ がスケッチに残している。また ボッテチェリ が市庁舎の壁にフレスコ画で処刑の様子を描いたが、現存していない。
なお、のちの教皇クレメンス7世はパッツィ家の陰謀で殺害された ジュリアーノ・デ・メディチ の遺児である。
ジュリアーノの遺骸は後に発掘された。全身腐敗していたが、遺骨の鑑定の結果頭部に大きな損傷を受けていたことが確認されている。
2004年になって、アメリカの研究者マルチェロ・シモネッタがパッツィ家の関係者などが残した暗号文書を解読し、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが事件の首謀者であるとする説を唱えた。