goo blog サービス終了のお知らせ 

マガジンひとり

https://www.tumblr.com/magazine-hitori に移転しました。

いまを生きる水俣病 #1

2010-02-23 23:58:42 | Bibliomania
PreStudies「水俣病と私たち─映像・報道・表現を通して考える 若宮啓文さんと映画『水俣病─その20年』を見る」@御茶ノ水・明治大学リバティタワー(2月23日)
大量の被害者を生み、先進国の公害事件としては類例のないほど注目を集めることとなった水俣病は、その記録・報道を通じて現在までさまざまな問題を投げかけている。中でも故・土本典昭監督による一連の作品は、わが国のドキュメンタリー映画を語る上でも欠かすことのできないものといえよう。今回は2010年9月に水俣・明治大学展の開催を前にした「学び」の機会として、2月23日と3月18日の2度にわたって上映・解説の企画が持たれ、誰でも費用1000円で参加できることになった。



↑1977年1月15日、父に抱かれて晴れ着姿の上村智子さん。生まれて3日後に発病してしまった胎児性の水俣病患者で、ユージーン・スミス氏が撮影した「Tomoko Uemura in Her Bath」があまりに有名。この年の12月に21年の生を閉じた。

私の育った1970年代に魂の原風景と呼べるものは大阪万博に象徴されるような明るいものばかりではなかった。むしろ暗かった。その代表が水俣病などの公害問題である。とうてい当ブログ1回分の題材として使い捨てられるものではない。これからも折を見て触れてゆきたいが、当時子どもとして親と一緒に報道を見ていて、家族そろって反応した印象的なエピソードがあった。

上の写真の女性ほど病状が重くなく、しゃべることはできる、やはり胎児性水俣病の患者女性がいた。10代の思春期くらいの彼女は「雨」という寂しげな歌謡曲をヒットさせた歌手・三善英史のことをかわいいと言っていたと記憶する。

彼女にも人生がある。世界がある。先日の映画『だれのものでもないチェレ』では、1930年代のハンガリーの孤児の少女は、養親から虐待されて素っ裸で働かされるような悲しい世界が彼女に与えられたすべてだったが、私たちと同じ世代で同じ言葉を使って生きている少女にも、胎児のときから多くを奪われて生きざるをえない人生がある。奪われたもののほとんどは私たちが幸せになるために欠かせないようなものたち。

わが国は決していまの中国を対岸視できない人権侵害大国である。



↑チッソ水俣工場と水俣の町。1973年8月


◆水俣病─解説3「メチル水銀と食物連鎖」
水俣病の原因物質メチル水銀は、チッソ水俣工場から排水に含まれて海に流されたものである。この排水路と塀で囲まれた広大な敷地の内は、製造設備と一体となった建屋がいくつも立ち並び、事務棟や各資材置場、タンク、変電所のほか、引き込み線や専用港、研究棟まで備えた工場群といったさまを呈していた。

その中の一つでは、アセチレンガスを水中に吹き込んでアセトアルデヒドを製造していたが、この水溶液中に触媒として入れられた無機水銀が有機化してメチル水銀となっていた。製造過程で猛毒のメチル水銀ができてしまうことを、チッソは以前から知っていたとされるが、この廃液も無処理のまま流された。

製造は昼夜三交代で続いたため、濃厚なメチル水銀を含む排水も多量だったが、もちろん海水の比ではない。不知火海という内海の、またその内の水俣湾という閉鎖的な海とはいえ、大きな干満の差は海水を入れ換えて工場排水を希釈した。しかし、ここは多種多様な生き物たちが棲む海だったのである。

海の中で生き物たちは、互いに喰って喰われる関係を作っている。それを食物連鎖という。植物性のプランクトンを動物性のプランクトンが食べ、それをゴカイなどの虫が、それを小さな魚が、というような連関が数段階から十数段階におよぶ。そこにメチル水銀が入ったのである。

金属水銀や硫化水銀などの無機水銀も有毒物に変わりはないが、生物の体内にはわずかしか吸収されない。しかし、有機物と化合した有機水銀の一種であるメチル水銀は、消化管に入れば大半が吸収されて、ほんのわずかしか排出されないし、表皮からも吸収される。食物連鎖の段階を一つ経るに従って、生物体内の濃度は数千倍に濃縮され、最後は食卓にのぼるような大型の魚介類へ。

人の口に入ったメチル水銀は、腸管から吸収され血流に乗って全身をめぐり、次第に脳の神経細胞の、中でも大脳皮質にあって感覚情報の処理にかかわる顆粒(かりゅう)細胞を破壊する。

この種の神経細胞は下等動物には存在せず、高等動物ほど多くなる。そのせいか、魚はピンピンしていても、それを食べた人間は発病した。

そして、神経細胞は再生しない。人は誰でも持って生まれた神経細胞によって生きているだけなのだ。水俣病が治らない由縁である。長年の血のにじむようなリハビリによって代替機能が発達したり、症状が安定することはあっても、一度脳内に入ったメチル水銀はほとんど排出されず、さらに老化は症状を重篤にする。

 わずか耳かき一杯で人を不治の病に落とし入れるこの毒物を、1932(昭和7)年から68(昭和43)年までの36年間にわたってチッソが流したその総量は、2億人を殺してもなお余りある量だった。 ─(実川悠太:『僕が写した愛しい水俣』塩田武史著、より)



↑水俣病の原因が工場排水ではないかと疑われ始めた1958年ころ、チッソはひそかに排水の放流先を百間港から水俣川河口の八幡プールに変えていた


コメント    この記事についてブログを書く
« キング・レコードが紹介した... | トップ | 闇金アメリカくん─堤未果の金... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Bibliomania」カテゴリの最新記事