マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

もっともこわいまんが

2009-10-29 22:27:05 | マンガ
先日お送りした、山岸凉子さんの短編マンガ「キメィラ」が25年後に一部現実のものに…っていう件なんですが、彼女は別に未来を予測したとかじゃなく、ただ純粋におもしろいマンガを描きたい、なかんずく彼女の考えるおもしろさっていうのは「恐怖」が主で、それを追い求めるうち、実現しうるような人の世の理(ことわり)を描いてしまった、とでもいうか。
別段すべての作品がそうであるわけでもない。予定調和に堕しているものも少なくないし、そもそも山岸さんには長いキャリアのわりに長編の代表作といえるものが『アラベスク』『日出処(ひいずるところ)の天子』そして今やってる『舞姫テレプシコーラ』くらいしか見当たらない。
彼女の持ち味は、人間の心理にひそむもの、神話や伝説ともなってきたような古来からあるそれらを丹念に追っていくことでかもし出される怖さにあるのでわ。一人の人間の心理を描き出すのに長じているものの、複数の人間が織り成す複雑な群像劇には不向きなような。
ただ、一人の人間=主人公の立場で味わう密室的な恐怖からいったら、右に出る者はない。判型が小さいのが難だが、文春文庫の『わたしの人形は良い人形』には、彼女の作品の中でも、いやありとあらゆるホラー漫画の中でも特に怖いと定評ある「汐の声」と、それに次ぐといわれる表題作の2作が収められてお得。しかし昨日書いたみたいに、心霊体験をしてても、霊魂なんてものは存在しないと確信してるオラにとっては、表題作は霊現象に寄りかかり過ぎており、エンターテインメント的なホラーとしては一級品だが、ほんとうの怖さはそれほどでも。何度見ても怖いということはない。
初めての方は怖いと思います。思いますが、その点では「汐の声」なんかでは、初めて見たとき↓画像のページをめくると出てくる次のページを見て心臓が止まりそうになった。ほんとうに怖い。
サワという、「霊感少女」として母親から売り出されてる=本人はあまり気が進まない=少女が、テレビの企画でスタッフや先輩の霊能師などと幽霊屋敷に泊り込む。そこで彼女は、霊能師たちは何も見えないというにもかかわらず、いろいろ怖ろしいものが見え、聞こえ、霊と感応してしまう。そして…。
ううぅぅ怖いよぅぅ…どうして彼女には見えたのか、彼女だけには見えたのか、まだ未読の方にはぜひご覧いただきたいんですが、そこにほんとうの怖さがあります。
オラの心霊体験では、薬物やレム睡眠のせいかもわからないが、確かにオラはちんちんのあたりを狙ってくる何者かの気配を感じます。金縛りにもあいます。オラは感じている。
以前にも、父が自殺してから、葬儀が一段落して、母は気が触れてしまった。夫に自殺された妻は悲しい。悲しいし怖ろしい。気が触れた者には、気が触れた世界が見えているのだ。母はだいぶ回復したように見えたが10ヵ月ほどで父の後を追ってしまった。心の中に、魔物が住んでいる。自分で自分を殺させてしまうほどの。
霊魂とかいうものは、客観的には存在しないかもしれないが、心の中にはいるのではないか。人間の心理というものが、いちばん怖ろしいと思います。もし気が狂った人の心象風景をマンガ化できるとしたら、どんなに怖ろしいでしょう。「汐の声」の結末は、それをも感じさせます。
とわいうものの、その時期にすばらしい成果を挙げた少女マンガの大家の先生がたが、90年代あたりからは軒並み力量を衰えさせてしまって…。実はテレプシコーラも最初の2冊を買ったんだけど、ナニワ金融道~ウシジマくん系統のリアリズムを経てきた目には、どうにもぎこちなくて読み進められなくて、手放してしまっていた。このほど「キメィラ」のこともあってネットなど渉猟するとやはり評判いいし、スポーツジムにいるお人形のような主婦バレリーナさんのことも思いながら再度挑戦してみようかと。

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旧作探訪#77 『永遠のモータウン』

2009-10-26 22:22:09 | 映画(映画館)
Standing in the Shadows of Motown@渋谷・ヒューマントラストシネマ文化村通り、ポール・ジャストマン監督(2002年アメリカ)
「ヒート・ウェーヴ」「マイ・ガール」「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」「ホワッツ・ゴーイン・オン」…世界で一番数多くのヒット曲を世に送り出した男たち。
公民権運動とともに黒人音楽が市民権を得ていくのに主要な役割を果たし、マーヴィン・ゲイ、スプリームス、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン5など多くのスターを輩出して数え切れないほどの名曲を世に送り出した、モータウン・レコード。そのレコーディング・バンドとしてあの独特な“モータウン・サウンド”を確立し、陰から支えたのがファンク・ブラザーズと呼ばれるミュージシャンたちだ。もし彼らがいなければ、星の数ほどのヒット曲も、その輝きを半減させていたかもしれない。
しかし彼らの卓越した演奏力と斬新なアイデアが助けた偉業であったが、隠れた存在の彼らにもたらされた名誉はあまりにも小さかった。誰もが記憶するフレーズなのに、初期のモータウンはレコードに演奏者のクレジットを記載しなかったため、その名前が一般に知られることはほとんどなかったのだ。
やがてモータウンがデトロイトから西海岸へ移ると彼らは仕事も失ってしまう。この映画では、彼らの足跡を追う本を基に、そのインタビューや演奏シーン、そして亡くなったメンバーもいるが久しぶりに再会してチャカ・カーン、ジョーン・オズボーンらをゲストに豪華ライブを繰り広げる様子を描く、心躍る音楽ドキュメンタリー。とともに映画化によって彼らの功績はあらためて見直され、2004年グラミー賞でファンク・ブラザーズが功労賞を得ることにもつながった。



先日の『ラブドール 抱きしめたい!』は、いつもの映画の感想記事よりも、その記事単独での来訪者が多く、1日あたり70から120名ほどに達する。2週間限定でのレイトショー公開という珍品で、オラの見た13日目にはお客さんが15~20名くらいだったのに…。
映画館でお金を払って見るのはいやでも、とりあえず情報だけはつかんでおきたいという隠れた需要があるのね。その映画はダッチワイフの宣伝フィルムみたいなものなので、採算はそれほど気にしていないかもしれないが、映画館や洋画の配給会社がバタバタつぶれるなど、映画を取り巻く状況はかつてないほど厳しい。旧シネ・アミューズも、下の階のシネ・ラ・セットがつぶれ、名前を「ヒューマントラストシネマ」と改めるなど危ない予兆はあったが、『ラブドール~』の際にユーロスペースで「さよなら興行」と題して、10月いっぱいで閉館するのでこれまでかけた映画の中から選んで上映します、と書かれた白黒コピーのペラ紙を見つけて、ああ、つぶれるのか…と。
“ヒューマントラスト”なんて保険会社みたいな名前だと思ったら、経営するシネカノンが同名の人材派遣会社に映画館命名権を売ったとのこと。「トラスト=信頼」という名で人材派遣のピンハネ商売。ったくウソばっかつきやがって。
にしても映画と金融が似ているのも確か。ミニシアター系の佳品を配給する会社が減ってしまったので、安全策の娯楽映画、ゲームみたいな映画ばっかで足が遠ざかる。無料でダウンロードできるゲームがいっぱいあるご時世。ゲームみたいな映画にお金を払うんだったら、ゲームをやるでしょうね。そういう映画を見るお客さんは。
オラはゲームなどやらないが、時間の多くを音楽に費やす。音楽サイトpitchforkが、2000年代の優れた500曲を発表したので、すべては無理でも、よさげな曲はできるだけ集めようと。そして、自分でもその年代の曲を200位までチャート化して年末に発表しようと。そのためすでに持ってる曲も厳しくチェック。pitchforkの奨める未知の曲たちが新たに入ってくるが、時間は有限。移動の時間も聞きまくって、つまらない曲はどんどん削っていかないと、過去の膨大な音楽を消化しきれない。
きょう、映画館までの中で、エミネムの「Now I'm Gone」が削られることが決まった。リリースから4年経って、すっかり輝きを失った旬の商品。そこで語られる、離婚して娘と離ればなれになってどうたらこうたら、なんてエミネムの私生活に興味はない。女性週刊誌みたいなやつやな。pitchforkの00年代の500曲で彼の曲は3曲が入選してるが、ローリングストーン誌の(ずっと過去からの)500曲に選ばれたほどの「Stan」が漏れた。
ストーカーみたいなファンレターを送りつけてくる男のことを語る。考えてみれば、それは「有名人であるエミネム」に寄りかかった設定である。純粋な創作とはいえないかも。
モータウンの映画は前にも見たのでだいたい憶えていたが、このほどあらためて印象に残った部分が。テンプテーションズの「マイ・ガール」のあまりに有名なギターのリフを演奏したロバート・ホワイト氏。惜しくも映画化よりかなり前に亡くなってしまったが、生前の彼を訪ねたかつての同僚と一緒に入った店で、「マイ・ガール」がかかったのだという。彼は店員に「ほら、この曲の…」と言いかけたが、自分が演奏したギターなんだよ!と言わなかった。「いかれた年寄り」と思われるだろうと。
永遠に輝くような名曲なのに、携わったことをひけらかさないなんて、彼らの人がらをしのばせますね。いやもう、「エミネムのStan」じゃないんだけど、今のマスコミにのさばっている人たちは、自分が発明するんじゃなくて、いかに他人を使い倒すか、でしょ。使う他人とお客にえばり散らし、金も儲ける。
いや島田紳助はわりと最近までちゃんとした仕事をしていた。ここで特に名指したいのは太田光。あいつは最低だ。
ちゃんとした仕事をしたのはごく短く、司会者として、本書きとして、夫婦で芸能プロを経営して、とにかく他人をエサにすることばかり考えてやがる。それでいて社会派ぶったりね。
スポーツにまつわる社会問題では、必ず二宮清純がコメント。貧困にまつわる社会問題では、必ず雨宮処凛がコメント。既得権益。彼らはすでに有名人として生きることに慣れきっており、厳密な意味でリアルな社会のことを語れるはずがないのに。小説、映画、テレビ、雑誌といった、媒体的な意味合いで成り立ってきたものが、利権にまみれて新陳代謝がなくなって沈没しかかっている、のようなことにも薄々気づきながら、手を放すことができないんでしょ。
え??弊ブログ『マガジンひとり』??なにしろ「ベニスに死す計画」の彼からも出資を断られてしまい、利権を築こうにも築けませんので、独りでこつこつやっていきます。特段の発明もできませんが、今年は【●賀さつきの腋毛の需要】を発見したよ??
あの記事は今でも、日に数名の来客があるんですわ。オラ自身、有●さつきの腋毛なら死ぬまで見ていたいし、そういう自分が欲しいものについては、これからも本気で追い求めていこうかと。

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旧作探訪#76 『アメリカン・ヒストリーX』

2009-10-18 23:21:48 | 映画(レンタルその他)
American History X@レンタル、トニー・ケイ監督(1998年アメリカ)
兄さん、僕たちの物語は、憎しみの歴史にピリオドを打てるだろうか─。
デレク(エドワード・ノートン)はかつて高校の優等生だった青年。しかし、消防士の父が黒人に殺されたことをきっかけに、白人至上主義の活動にのめり込んでいく。限界まで鍛え上げた肉体、左胸にナチス崇拝を意味する鍵十字の入れ墨を彫り、マイノリティを攻撃することに怒りのはけ口を見出すデレク。そんな彼に強烈な憧れを抱く弟ダニー(エドワード・ファーロング)は、兄のデレクが黒人に対するエスカレートした憎悪から犯した殺人で、刑務所に入れられた後、兄の意志を受け継ぐかのようにその活動組織に足を踏み入れていく。やがて3年の歳月を経て、デレクが出所した。獄中で何があったのか、別人のように変わってしまった兄の姿を見て困惑するダニー。この後、二人の兄弟に想像を絶する事件が待ち受けていた…。



「カウチポテト族」なる言葉があったっけ。ポテトチップスこそ食べないものの=あ、たまには食べます=くつろいで寝そべって、コーヒーなど飲みながらレンタルDVDを見る。「旧作探訪」ではすでに定評のある映画を見ることが多いので、物語が進むにつれ、興奮して立ち上がったりしゃがんだり、うろうろ歩き回ったり、ということが5回に1回くらいは起こる。この映画。
寝そべってはいられない。主要なテーマは2つ。「兄弟や家族」と「人種差別主義」。親兄弟がおらず、日本から出たこともないオラにはどちらも関わりの薄い。それらを緻密に重層的に描いて、我がことのように感じさせ、寝そべっていられなくさせる、すばらしい映画。重大なテーマで、かつセンシティヴな問題を多く含むので、こればかりは先週の『エル・マリアッチ』のような低予算で済ませるわけにはいかない。プロの俳優と専門のスタッフをたくさん雇って、できるかぎり最善をつくさなければ。中でもすごいのが、ハリウッドきっての演技派ともされているらしきエドワード・ノートン。極右組織を操る初老の男からも、特にそのカリスマ性を見込まれて、表向きのリーダーを打診されるほど。それが打って変わって刑務所では…。そのあたりを、弟が黒人教師からリポートの書き直しを命じられて、過去を回想する形で、モノクロ映像で描き出すというやり方も秀逸。
この中から後に「カリスマ性」や「心酔」といったテーマに絞って、エドワード・ノートン自ら製作・主演で描いた『ダウン・イン・ザ・バレー』も印象的な佳品でした。副次的なテーマを、後から掘り下げて1本の映画にまでふくらませる姿勢は、たとえば『闇金ウシジマくん』の以前のエピソードでさりげなく描かれたことが、ずっと後のエピソードで中心的に描かれるのとも似た。現在の「楽園くん」の主要な題材である覚醒剤は、初期の「若い女くん」でも軽く描かれたが、もっと掘り下げて描くべきだと踏んで温めておいた作者の誠実さに拍手を贈りたい。
この映画にも『闇金ウシジマくん』と共通するテーマが随所に見られ、その最たるものは「悪意や憎悪はいったん始まると連鎖して歯止めが利かなくなる」ということであり、またその土壌となる、貧困、酒、煙草、麻薬、入れ墨、銃といったものども…。その延長上にカリスマ、あるいは教祖といったものもあるのは、われわれとも無縁ではない。
極右・白人至上主義の人びとが演説をぶつ口調には一定のパターンがみられる。《あなたがた善良な白人の職を、黒人とか不法入国者とかが奪う。あなたがたは悪くない。黒人やユダヤ人やアジア系やヒスパニック系が悪いのだ》。媚びがみられる。テレビの司会者や、日本人の音楽からも同じものが感じられることがある。さだまさしなどの音楽のイントロや歌い出し、あるいはみのもんたや島田紳助の話法に。関係が薄いということはない。デレクとダニーの兄弟や家族や仲間たちは、われわれとも近しい隣人だ。

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父ちゃんと母ちゃんの音楽

2009-10-14 22:34:32 | 音楽
iTunesプレイリスト <父ちゃんと母ちゃんの音楽> 53分
1. "黛敏郎:スポーツ行進曲(NTV)" 汐澤安彦;東京アカデミック・ウィンド・オーケストラ (2007) - 父
2. "Sous le ciel de Paris" Juliette Gréco (1951) パリの空の下 - 母
3. "Mussorgsky: Night on Bald Mountain" Giuseppe Sinopoli; New York Philharmonic (1990) ムソルグスキー:はげ山の一夜 - 父
4. "なごり雪" イルカ (1976) - 母
5. "Sixteen Tons" Tennessee Ernie Ford (1955) - 父
6. "Orinoco Flow" Enya (1988) - 母
7. "Heykens: Ständchen" Ronald Corp; The New London Orchestra (1998) ハイケンスのセレナーデ - 父
8. "Milonga del Angel" Astor Piazzolla (1992) - 母
9. "ウナ セラ ディ東京" ザ・ピーナッツ (1964) - 父
10. "Smetana: Vltava" Rafael Kubelìk; Czech Philharmonic Orchestra (1990) スメタナ:モルダウ - 夫婦そろって



あるテーマに沿って選曲するとき、「ジャケットでいくのさ」なら20数曲とか、「ユダヤ音楽家」なら30曲とか、多過ぎるんじゃないかと思って。選ぶ本人は把握してるからいいが、いきなり突きつけられる側としては、わけわからないんじゃないかと。ですので、これからはテーマによっては10曲まで絞ることもやっていきたい。
というわけで故・父と母。1998年と99年に相次いで自殺しており、すでに10年が経とうと。まあ最期は悲惨ですけどね。おおむね充実した人生ではなかったかとも思う。上記の曲たちから察して。逆に今の、ゲロみたいなJ-POPやアニソンで育つ若い人たちに哀れみを覚える。1930年代に生まれた父母の子ども時代は戦争。母は嫌っていたが、早くに両親を失くして養子としてもらわれた父は軍歌なども好きで口ずさんでた。♪父よあなたは強かった、とかね。
7の「ハイケンスのセレナーデ」なる曲は、その当時にラジオ番組『前線へ送る夕』のテーマ曲として用いられたのだとか。同じ頃のラジオでは、「みかんの花咲く丘」や「とんがり帽子」で知られる、父母と同世代の童謡歌手、川田正子・孝子姉妹も活躍しており、オラが2枚組LPレコードからカセットにダビングしてあげたそれらの曲を、父は死ぬ前日に聞いていたそうだ。おそらくそれが、最愛の音楽。
中野区の職人の家で育った母は、嫁入り前のお稽古ごととして小唄を習っており、後にカラオケとかでどんな曲を歌っても小唄のような節回し。ところが、聞く音楽としてはシャンソンやタンゴといったおしゃれで情熱的なものを好み、文学少女で太宰治にとち狂ってたこともあるらしい。音楽よりも絵を見たり描いたりすることが大好きだったみたいですね。いわばフランス型かも。落語や園芸を好み、晩年まで巨人ファンでもあった父は、わりと権威的なところのある、いわばドイツ型かも。
そんな2人が見合い結婚してできた一粒種のオラは、40過ぎた最近になって、父の精子に書いてある情報と、母の卵子に書いてある情報を基に組み立てられた体で生きているってことをしみじみと感じる日々。体質や嗜好の変化などに。最後の10の曲では、泉が湧き出て、やがてヴルタヴァ(モルダウ)川となってボヘミアの地を流れていく様子が音楽で表される。父母はともに60代で亡くなったが、ずいぶんと変化の激しい年代を生きたことが実感されるような、このクーベリック指揮の演奏は、ビロード革命でチェコが共産党支配から自由になった直後のライブ録音。
ドイツの男とフランスの女が、ボヘミアの地で出会って恋に落ちた…。なあんて。美化すんのもいい加減にしなさい。

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日本のたばこデザイン1904-72

2009-10-12 23:17:49 | Bibliomania
「楽園くん編」の主人公・中田広道から通販社長に売られて、覚醒剤漬けにさせられた中田の彼女パピコは言う。「大丈夫大丈夫いつでもやめる自信あるから─」。
やめられないのが薬物の怖さ。酒もたばこも立派な薬物だが、下表によれば依存性や耐性や精神病を引き起こす度合いはそれぞれ異なる。
たばこは依存性が高く、毒成分が体内に蓄積されるので、致命的な病気をもたらすこともあるが、精神疾患につながることは稀。それでか。オラ入院中に、アル中でなくとも酒は一滴も飲めないが、たばこについてはわりと自由。シケモク拾って吸ってるやつまでいる。吾妻ひでおさんの『失踪日記』にも、そういう描写が出てくるね。



ただ、↑画像の骨董品みたいのは、江戸時代後期の煙草や煙管をしまう道具なんですけどさ。典雅な楽しみだったみたいじゃないですか。
国が売るようになっても「敷島」とか「大和」とか日本国そのものを表す名前を付けてるし、やんごとなき菊の紋の入った恩賜たばことかもあるんでしょ。あるいは死刑囚の最後の一服とか。
それがずいぶんと様変わりしてきてるような。下グラフによると、1980年代前半をピークに、覚醒剤は漸減、シンナーなど激減。今の若い人はビールもあんま飲まないっていうしね。悪徳にまつわる生命エネルギーも枯れつつあるんでしょか。



それと清潔志向も。肌が汚くなるのとか、口が臭くなるのとか、もってのほかなのかな。いずれも、即効性というより、遠い将来にそうなるんですけどね。計画的でらっしゃる。そうした社会風俗を『闇金ウシジマくん』は見逃さない。↑画像をご覧あれ。「フリーターくん編」の終盤に川沿いの町で、宇津井優一を地獄へ送ろうかという4人の未成年。4人ともたばこを持っている。彼らには計画すべき未来などありえないのかもしれない。



明治・大正時代の口付たばこ─「敷島」「大和」「朝日」



両切たばこ「ゴールデンバット(戦時中は金鵄)」の変遷─(明治39~昭和20年)現在も発売されている



アメリカ人のデザイナーにより新装された両切たばこ「ピース」と、戦後から作られた「新生」の初期



昭和30年代から現れたフィルター付きたばこ「ホープ」「ハイライト」と、東京五輪の時期に販売された「オリンピアス」



明治時代の刻みたばこ「はぎ」「もみぢ」



さまざまな葉巻リング

かつては葉たばこのまま売られたり、刻んだ葉を量り売りされていたたばこも、長い年月を経て幕末ころには商品としての形を整えてきた。そして明治9年に太政官令により煙草税則が公布され、課税されることになったので、品質と容量の違いにより異なる印紙を貼らねばならず、量り売りができなくなって、ここにたばこ包装の歴史が始まる。
さらに明治37年(1904)年になると、国の財政上の必要から専売局を設けて政府がたばこの製造販売を独占的に行うことになる。それまで全国には5000軒もの民間メーカーがあり、包装のデザインも多岐におよんでいたが、傾向としては刻みたばこに日本の伝統的文様から採ったもの、紙巻たばこには外国のラベルを模倣したものが多くみられた。
そうした情勢から専売局が新たに製造するにあたって、紙巻たばこのうち口付にはシェアの広い岩谷商会と千葉商会、両切には独占的な村井紹介の意匠を受け継いでゆくこととなった。当初、紙巻たばこは贅沢品だったが、明治27年の日清戦争をきっかけに需要が増し、それらのメーカーが3大メーカーといわれるまで育っていたのである。
口付では「敷島」「大和」「朝日」「山桜」、両切では「スター」「チェリー」「リリー」といった銘柄が専売局から売り出されることになり、日本画や図案ですでに名高い面々が包装デザインを手がけることになった。それらは当時の人びとの嗜好に合っていたが、やがて第一次大戦後にヨーロッパで新しい感覚の美術や機能的なデザインが盛んになると、古めかしいものになっていくのは避けられなかった。それにつれ昭和5年ころから包装や銘柄自体にも新旧交代が始まっている。
太平洋戦争に突入するとデザインどころではなくなり、包装に図案を残すことがやっとという状態で、用紙の不足から包装形態の変更もしばしば行われた。かくて終戦時には口付の「朝日」、両切の「光」「金鵄」、刻みの「みのり」というわずか4種の銘柄を残すのみとなった。
戦い敗れた昭和20年、たばこは配給制度で1日3本、それも刻んだたばこを自分で紙に巻く状況だったが、早くも新たな銘柄の発売が決まり、包装デザインは公募されることになって、翌年に「ピース」「コロナ」が発表された。またGHQの命令で昭和24年、専売局は公共企業体の専売公社と形をあらためた。1940年に「ラッキーストライク」のデザインを改めて売り上げを倍増させた著名なデザイナー、レイモンド・ローウィ氏もそのころ来日し、これまでのデザインへの批評と「ピース」の改作を引き受け、やがて届いたデザインはまさしく舶来のデザインとして、たばこ包装のみならずデザイン界に少なからずの影響をもたらした。 ─「日本のたばこデザイン1904-1972」田中冨吉(専売事業協会)



↑各種薬物の心身におよぼす作用

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