自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

政治家と企業家と個人~プーチン大統領から学ぶ

2016-06-16 18:15:36 | 自然と人為

 世に知られた政治家のことも企業家のことも、私たちは映像を通してしか知らない。また、政治家や企業家として有名になった人も、生まれた時には政治のことも、経済のことも何も知らない。何かの縁でそれぞれの道に入ったときに、人々は何を感じ何を考えているのだろう。
 官僚の道を歩んでいて、エリツイン大統領の指名で政治の道を歩むことになったプーチン大統領が、個人として政治家としてどう生きてきたのかを教えてくれる映像がある。我々はその人を知る前にその人のことを勝手に想像することが多いが、この映像は政治家と企業家と個人の関係を教えてくれる。個人が政治と経済の様々な関係の中で、何を大切にし何をしようとしたかを、政治や経済を知らない私にも教えてくれる。

 「柔道は武器を持たない格闘技である。この『ジュードー』という言葉は『柔らかい道』と訳すことができ、この武術における哲学的な意味が込められている。柔道は単に技術的な鍛錬だけを目指すものではなく、モラル的な精神性をも高めるものである。私は子供の頃に柔道と出会い、素晴らしき勇気、誠意、高潔を学んだ。柔道を学ぶ価値は、単に技術的な強さを得られることではなく、人間性をも高めることができることだ。」 これは柔道を愛するプーチン(動画)の言葉である。

 2000年(平成12年)7月21日から23日まで沖縄で開催されたG8に大統領に選出されたばかりのプーチンが出席した。沖縄を開催地にしたのは小渕首相であったが、開催前倒れて議長国として出席したのは森首相であった。会議終了翌日に、プーチン大統領は中学生と柔道(動画)をした。プーチン大統領のスポーツに対する理解と熱意と他者への尊敬と誠実さは、熱中症が心配される真夏の日本でお金で汚れたオリンピックを開催しようと準備を進めている「神の国」の元森首相より、はるかに立派だと思う。私はオリンピックは返上すべきであり、実施する場合は秋の開催に変更すべきだと考えている。
参考: プーチン大統領、宙に舞う/志喜屋君が一本背負い/具志川で柔道交流
     プーチンと柔道
     プーチン大統領の柔道の師匠の葬儀に参列、思い出の道をひとり孤独に歩く


 「プーチンの野望 」第1回 新大統領 誕生 | BS世界のドキュメンタリー は、プーチンが大統領になって最初の仕事をした当時の様子を映像で伝えてくれる。なぜ、「プーチンの野望」なのか? 「ロシアを欧米諸国の“価値ある協力国”から、“信用できない敵”へと変えた」原因は何なのか? 政治家や公務員は税金で仕事をし、生活をしているので、東京都知事や日本の政治家のように金銭的な公私混同をするのは論外であり、公のために誠実に仕事をすることが第一に求められる。公の権限を巡って対立も生まれるだろうが、ここでは政治と経済の関係について、政治家としての初期のプーチンの対応から学んで見たい。


プーチンの野望 第1回 新大統領 誕生(動画)
広告~4分30分 チェチェン紛争~プーチン大統領「テロとの戦い」
  ~ 7分16秒 プーチン大統領初仕事~ロシア新興財閥との闘い
  ~ 9分56秒 ロシア財政の改革~新興財閥との円卓会議
  ~15分50秒 アメリカ・ブッシュ政権との関係 
  ~17分50秒 土地法改正と財政の健全化

「第1回は、プーチンが大統領就任直後に取り組んだ税制改革や土地の自由化、そしてチェチェン紛争を振り返る。さらに、2001年6月、ブッシュ大統領が「プーチンの魂に触れた」と述べた初会談。当時 大統領補佐官だったコンドリーザ・ライスが、そこでパキスタンとアフガニスタン、タリバンについて述べたプーチンの予言的な警告を語る。その3か月後、アメリカで同時多発テロが起きた。」 NHK解説より

 プーチンは映画や小説からスパイに憧れを抱き、柔道を熱心に練習し、ソ連国家保安委員会(KGB)に就職した。その後、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになり、レニングラード市ソビエト議長だった大学時代の恩師アナトリー・サプチャークと懇意となり、そ仕事を手伝うために1990年、KGBに辞表を提出し、サプチャークの国際関係担当顧問となった。

 1991年6月にサプチャークがレニングラード(同年11月にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。この時期、「ゴルバチョフのペレストロイカ路線に反発する保守派は1991年8月にクーデターを起こしたが失敗した。この時、鎮圧に当たったロシア共和国大統領ボリス・エリツィンの影響力が拡大し、保守派に監禁されたゴルバチョフは政治的影響力を失った。11月、エリツィンは共産党解散を指示する大統領令を発令。12月、党は正式に解党してその歴史に幕を引いた。」 「ソビエト連邦共産党」より引用。

 1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙でウラジーミル・ヤコブレフに敗れて退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。その後、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。1998年5月にはロシア大統領府第一副長官に就任し、同年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁の長官に就任。この時、エリツィン大統領(当時)追い落としクーデターを未然に防いだ功績により、エリツィンの信頼を得るようになり、エリツィンによって1999年8月9日に第一副首相に任命された。(同日セルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた。

 こうしてプーチンは官僚の道から政治の路を歩むようになる。2000年3月26日に大統領に選出されると、初期の仕事で、エリツィンの負の遺産であるロシアの新興財閥の利権に対して、国益を優先する毅然とした抑制策をとった。このロシア財政の改革~新興財閥との円卓会議(7分16秒~ 9分56秒)は、次のように印象の残る場面である。
ロシア財政の改革~新興財閥との円卓会議(動画)
プーチン「以前から計画していた円卓会議に出席していただき感謝します。時々このように顔を合わせるのはいいことだと思います。」
ゲルマン・グレフ ロシア経済発展相の解説「長年、こういう新興財閥が政治を思いのままに支配していました。大統領は彼らに言いました。ビジネスの世界を選んだのなら、ビジネスに専念してもらいたい、と。」
プーチン「あなたたち全員がこの政府を作ったのです。あなたたちは政治プロセスを支配してきた。もし不満があるのなら、それは”身からでた錆”です。」
ゲルマン・グレフ ロシア経済発展相の解説「プーチン大統領は、彼らの事業を国有化するつもりもないし、財産を没収するつもりもないと強調しました。そしてこう続けました。我々は妥協する用意がある。減税を行うから、あなたたちも支払うべきものを支払って欲しい、とね。」
ニコス社長・ホドルコフスキー「あの会議のおかげで、国が我々に何を求めているのか分かりました。それに応えるように行動すればいいのです。やっとゲームのルールが理解できました。」
 プーチンは政治と経済の明確な役割分担を実現させて、国の財政を健全化させ「前進しているという希望を国民に与えることができた」と私も思う。政治家は国民のために誠実に働き、企業家は「経世済民」のために政治に口を挟まないで誠実に働く。この原則から日本の政治、経済は遠く離れたところにいる。この場面を多くの方に知って欲しいため、少し時間がかかったがここにまとめておいた。

 次に、チェチェン紛争とは何か? という独立の問題は、独立したいと思う人々の心を考えると複雑だ。しかし、独立は他者の廃除の裏面もあり、独立の側の論理と統一側の論理の対立がある。アメリカのトランプ旋風やEUにおける難民廃除に見られるように、他者に排他的になるのは危険の前兆だ。もう一つ、英国のEUからの離脱を巡る問題もある。EUは一つであることに意味がある。世界が他者を尊重しながら平和に生きていく具体的な方法はないものか。

 「ロシアを欧米諸国の“価値ある協力国”から、“信用できない敵”へと変えた」原因の一つにアメリカ・ブッシュ大統領の出現があると、私は思う。一般に我々が知る情報はアメリカからのもので、ロシアの考え方を知る機会がほとんどない。ブッシュ大統領はABM(弾道弾迎撃ミサイル制限)条約を一方的に破棄したが、プーチンは軍縮や核不拡散の取り組みを台無しにする動きだと警告した。ここではこれ以上は触れないが、「アメリカが悪化させた対ロシア関係、プーチン氏の「過剰反応」要因に」は当然考えられると思う。
 欧米諸国に対し柔軟な姿勢を見せていたプーチンと欧米が平和的な関係を構築できないでいることは不幸なことだ。それは政治と経済を明瞭に区分していたプーチンと政治と経済の区分が不明瞭な欧米の関係に始まり、やがてプーチンが国内で力をつけることで、プーチン自身も政治と経済の区分が不明瞭になっていったことも考えられる。政治に景気の回復を求めるのが当然となっているように、政治と経済が癒着してゆくことに誰も疑問を持たなくなるのは、日本だけではないのかも知れない。

初稿 2016.6.16 更新 2016.6.17(動画追加、ブロックされているかも?)

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