自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

腐らないお金と腐る経済~権力の集中と分散

2016-05-25 20:14:32 | 自然と人為

 1999年(平成11年)5月4日放送の「エンデの遺言~根源からお金を問う」(動画あり)は、資料室(反ロスチャイルド同盟)にテキスト起こし(現在は映像は削除)されているので、少し引用させていただく。なお、この資料室にはお金に関する興味深い話が多く紹介されているが、講演録は「武器商人として明治維新の裏で暗躍」したグラバーについても触れている。このグラバーと坂本龍馬の関係については、もう少し勉強したいと思っている。
以下に「エンデの遺言」を引用します。--------------------------
 NHKスペシャルの案内役を務めたエンデは、科学だけが唯一絶対真実ではなく、人間の精神や魂もまた真実だと主張しました。
 『ドイツでは古くから「金を出すものが命じる」という諺があります。現代の技術や科学は、軍事のためには国家から、政財的な利益のためには企業から金を受け取ります。そこで研究は知らず知らずに特定の方向に推し進められてしまうのです。ここ数十年は特に恐ろしいスピードで科学と技術を変えています。』
 死の前年エンデは、NHKに新しい提案をしました。それは、現代の貨幣システムをテーマとするものでした。『環境、貧困、戦争、精神の荒廃など現代の様々な根源にお金の問題が潜んでいる』というものでした。私が考えるのは、もう一度貨幣を、『実際になされた仕事や物の実体に対応する価値』として位置付けるべきだということです。この打ち合わせで2時間に及ぶテープが残されたのです。
-----------------------------------------  引用終わり
 それが「エンデの遺言」としてこの番組に残されました。

 ちょっと道草をさせていただくが、私の大好きな韓国のイ・ビョンフン監督 「 トンイ 第33回 疾病の正体」(1)(特にお気に入りは2分13秒~5分18秒)は、美しい女優も楽しみだが、差別と闘う物語も好い。
王妃「・・・女官の地位など不相応と言いながら、結局のところ私と同じ野心があったのだ。違うか?」
トンイ「王妃様が何を野心と言われているのか分かりません。もし正しいことを貫くのが野心だと仰っているなら、はい、そうです。私には野心があると言えます。誰であれ無実の罪に問われるのをほおっておくことはできません。これまでは力のあるものが何食わぬ顔で、弱いものを虐げてきましたが、私は今の立場で出来る限りのことをして、無実の弱いものを守りたいと思います。それが私に過分な座を与えられた理由だと、信じていますから。」
王妃「そうか、ではやってみるがいい。そなたは未だ愚かで無謀な夢を語るのだな。力のあるものが、何食わぬ顔で、弱いものを虐げる理由は何だと思う? それが力というもので、権力というものだからだ。そなたにも直わかるであろう。そなたの立場で、そなたの力では何もできぬということをな。」

 力あるものが何食わぬ顔で弱いものを虐げてきたのは、日本の政治、経済も同じです。「腐らないお金」が腐る経済をつくる。その腐る経済を腐らせて「腐る経済」にする。日本語はどこに力点を置くかによって、同じ言葉でも使い方や解釈の仕方があって難しい。
 戦前の憲法戦後の憲法の大きな違いは、戦前は天皇主権(立憲君主制)であったが戦後は国民主権になったことである。
 しかし、憲法は文章であり解釈と運用は時の政権により異なってくる。戦前の憲法の第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の統治の意味は、当初は「公平に治める」であったそうだが、意味は文字として残さないと残らない。また「統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)が、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上(機務六条)、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。」

 この天皇主権の下での「統帥権の独立」が戦争の原因となったという番組に対して、この番組を批判する【百地章】「JAPANデビュー・天皇と憲法」の問題点(動画)では、「憲法そのものが構造的に持っていた問題ではなくて、解釈及び運用の面で時代の変遷とともに問題を孕むようになってきた。運用の誤りであったと思いますね。(15分17秒~15分31秒)」と憲法の統帥権には問題はなく、解釈、運用の問題だと戦前の天皇と憲法(動画:6分24秒)の関係を擁護している。しかし、憲法解釈、運用の問題こそ政治の責任であり、国民主権の戦後の憲法でさえも統帥権と同様に天皇の国事行為(憲法7条)を利用して衆議院を解散しているように、日本人は権力闘争に明け暮れて、天皇の権威を利用して政治(国民)に責任を持たない点では変わっていない。
 参考:NHKスペシャル「JAPANデビュー第2回 天皇と憲法」全1時間14分

 「現時点での衆議院解散は憲法上重大な問題」(郷原信郎が斬る 投稿日: 2014年11月17日で指摘されているように、衆議院解散は『内閣総理大臣(首相)の専権事項と言われているが、憲法第69条は「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」と定めている。戦後の日本国憲法下で行われた衆院解散のうち、「69条解散」は、第1回「馴れ合い解散」(1948年吉田内閣)、第3回「バカヤロー解散」(53年吉田内閣)、第12回「ハプニング解散」(80年大平内閣)、第16回「政治改革解散」(93年宮沢内閣)の4回しかない。「69条解散」以外の解散は、天皇の国事行為による「7条解散」とされ、すでに1952年8月28日には、吉田内閣は69条によらず天皇の国事行為を定めた7条を利用した抜き打ち解散をしている。』このとき衆議院議員であった苫米地氏は7条解散を憲法違反と訴えたが、最高裁判所は衆議院解散に高度の政治性を認め、違法の審査は裁判所の権限の外にあると司法判断をしなかった。前年の砂川事件における最高裁判決に続いて憲法違反に関する判断を最高裁がしなかったことにより、司法、立法、行政の3権分立は早くも形骸化していた。

 憲法はGHQに押し付けられたと改正の必要性の根拠にする人たちがいる。しかし、最初の「馴れ合い解散」は、『当時の日本はGHQ施政下にあったが、GHQは衆議院解散は69条所定の場合に限定する解釈を取った。そのため妥協案として与野党が内閣不信任決議に賛成して可決させた上で、衆議院を解散するという方法を取った。この時の解散詔書には、「衆議院において内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載された。』GHQによる憲法解釈の方が国民主権に忠実であり、日本の政治は戦後の憲法においても天皇の国事行為を解散権に利用している。しかも、3権分立の司法も行政も独立していなくて首相に権力が集中し、中央集権国家のピラミッド構造を形成している。
 「私は立法府の長であります」(動画)の安倍首相の発言は憲法の構造上の問題ではなく、議員内閣制におけるこのピラミッド構造が憲法の解釈、運用の問題として(彼の政治認識からすれば)自然にできたものであることを公然と認めているように思える。これを憲法解釈、運用ではなく憲法改正でつじつまを合わせたいというのが本音だろう。戦前は軍部が統帥権の解釈と運用によって暴走したように、今は内閣が暴走を始めている。

 東京の一極集中は権力の集中で生まれているが、地方分散させなければ地震に弱いように、権力も3権分立させ、さらに地方分権させなければ国民生活は疲弊する。政治の中央集権化は個人が人間らしく生活する基本的人権の対極にある。個人を尊重することは他者を尊重することで守られる。そのような個人の認識を持たない政治の暴走を、個人や論理の尊重に疎い国民が許している。
 ドイツの諺「金を出すものが命じる」に対して、『環境、貧困、戦争、精神の荒廃など現代の様々な根源にお金の問題が潜んでいる』、もう一度貨幣を『実際になされた仕事や物の実体に対応する価値』として位置付けるべきだというエンデの遺言を、日本こそ魂に根付かせなければならない。国民と共に政治の道を歩んだホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領のような人材が日本の首相として生まれる可能性は皆無なのであろうか。

初稿 2016.5.25 更新 2016.5.27

最新の画像もっと見る

コメントを投稿