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「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

「ミクロの実在」

2012-11-30 01:01:27 | 深層心理学
「ユングはくり返し、超常的現象は日常経験における時間・空間の絶対的制約を相対化するものだということを力説しているが、このような考え方は相対性理論にヒントを得たものと言っていいであろう。アインシュタインは特殊相対性理論において、古典物理学のように物体の絶対運動を決定することはできないこと、したがってわれわれは、ミクロの実在については四次元の空間―時間連続性を考えなくてはならないということを明らかにした。一般相対性理論になると、空間内部に物質が存在することによって空間に曲率が生まれるという重力場の考え方が提出された」(湯浅泰雄 ユングと東洋 下 p233 人文書院 1989年)

「ユングが元型の考え方に至った一つの出発点は、無意識の内部には、意識の作用に対する補償compensationのはたらきが潜在しているということであった。重要な夢が示しているように、元型は補償的効果をもっている。元型のはたらきは遍在しているものであるから、その本性上、直接に関係のある個人ばかりでなく、他の人間、あるいは同時に何人もの人間において現われることができる」(前掲書 p228)

浦島説話研究所

量子力学の見方

2012-11-29 00:57:14 | 深層心理学
「「心的なものの本質についての理論的考察」(1954)という論文の補論で、ユングは、元型論の考察を進めるにつれて自分はしだいに物理学的問題にみちびかれていった、と回顧している。
「私は、純粋に心理学的な考察によって進んできたけれども、元型が全く心的な性質のものでしかないということについて、疑いをもつようになった。私は、心理学は物理的諸発見をも考察に入れて、その“単に心的な”諸前提を修正すべきであるという考えにみちびかれた。物理学は、望み得るだけ明らかに次のことを論証してきた。それは、原子の大きさの領域では、客観的事実の中に観測者が前提されていて、このような条件の下でのみ、十分な説明図式が可能になるということである。このことは、物理学者の世界像に対して主観的要素が結びついていることを意味する。またそれは他方、たましいPsyche(のはたらき)の説明のためには、時間―空間連続性との必然的な結びつきがあることを意味する。この物理的連続性は(直観的には)表象しにくいものであり、したがってわれわれは、それと同じく存在しているその心的側面についてもイメージをもちにくい。それにもかかわらず、心的および物的な連続性が、相対的あるいは部分的に同一であるということは、理論的にみて重大な意義をもっている。なぜならこのことは、みたところ結びつけがたいように思われる物的世界と心的世界の間に橋を架けることによって、問題を非常に簡単にしてしまうからである。ただしいうまでもなくそれは、何か具体的な形でそうするのではなく、物理的側面からは数式によって、心理的側面からは経験的にみちびかれる要請―つまり元型によってそうするのである(43)。」
右の文中の観測問題は量子論に示唆されたものであり、時空連続性は相対性理論からヒントを得ている。ミクロの世界では、主観と客観、ないし心と物質はしだいに近づいてくるようである。ユングはここで、超心理現象を念頭において次のように言う。われわれの直観的知覚はユークリッド的空間(マクロの物質的世界)に基礎をおいているが、その限界内で心的現象をできるだけ説明しようとすれば、「われわれは、元型が心的でない側面をももつはずであると仮定しなくてはならないであろう」。そう仮定する根拠は、共時性の現象によって与えられる。それは無意識の活動と結びついて起るテレパシーその他の現象である。現在の私の考えでは、これらの現象は、「心的に相対的な時間―空間連続性を前提することによって完全に説明できる」。しかし、心的内容が意識面に限定されれば、共時性は消滅し、意識は主観の中でふたたび孤立してしまうであろう。
ユングはさらに、パウリの助言を得て「相補性」complementarityの問題に注意する。物理学における相補性とは、不確定性原理にもとづく量子力学の見方を強調するために、ニルス・ボーアが導入した哲学的概念である。量子力学では、粒子の運動を時間―空間的に記述しようとすると、その因果的経過は不確定になる。逆に因果的に説明しようとすると、粒子は波動に変るので、粒子の軌道というような時間―空間的性格を示さなくなってしまう。このような量子力学の性格を、時空的記述と因果性は互いに相補性をもつと言い、また粒子的表現と波動的表現は相補的であるという」(湯浅泰雄 ユングと東洋 下 pp241~242 人文書院 1989年)

ユングは、意識と無意識の間には相補性があるという見解を示している。(前掲書 p242)
このような認識は、「浦島説話」を深層心理学の観点から考察するうえで大変意義深い。
ボーアが易(陰陽)の哲理に深い感銘を得たのは、自身の研究を通して得られた理論との親和性にあるが、肉眼では見ることのできないミクロの世界を扱う理論物理学者の思索は、ともすると物理学者という立場を超越し、哲学者、数学者、心理学者、あるいは宗教家といった職分にまで翼を広げるようになるのかもしれない。

浦島説話研究所

ミクロの世界

2012-11-28 00:33:22 | インポート
「あの外界で、空間と時間の中で、われわれとは無関係に確固とした法則に従って進行する物理的過程のあの客観的世界を研究することを、アインシュタインは彼の畢生の仕事としたのであった。彼によれば、理論物理学の数学的記号がこの客観的世界を描写すべきであり、それによって世界の将来の振舞いについての予測が可能になる、というのであった。原子にまで下りて行くと、空間と時間の中のそのような客観的な世界は全く存在せず、理論物理学の数学的記号は、実在のものではなく可能なものだけを描写するということが、今や主張されているのだった。アインシュタインは、-彼がそう感じたようにー足もとの大地を取り払われることを承認できなかった。後になって、量子論がすでに久しく物理学の確定した構成部分になってしまってからでも、アインシュタインは生涯彼の立場を変えることができなかった。彼は量子論を過渡的なものとしては認めても、原子的現象の終局的な説明としては、認めようとしなかった。「神はサイコロを振り給わず」、それがアインシュタインにとってゆるがすことのできない根本原則で、彼は何人たりとも、それをおびやかすことを許さなかった。ボーアはそれに対してただ次のように答えるしかなかった。「しかし神がいかに世界を支配されるべきか指図することは、われわれの課題ではありません(2)。」」(W・ハイゼンベルク 山崎和夫訳 部分と全体 p131 みすず書房 1999年)

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「客観的現実と主観的現実」

2012-11-25 21:18:35 | 深層心理学
「信仰の問題に関しては、そこには二つの現実があると思われることを強調しなければなりません。それはすなわち、客観的現実と主観的現実です。客観的な現実は非心理的なものとして確定することが出来ますが、心理的な現実はそれと同様の意味で客観的なものとして確定することはできないからです。もちろんこのこと“客観的現実”は、知覚と判断もそれ自身心理的なものなのであって、したがって人は自分自身の頭上を飛び越えることはできないという必然的事実を主に前提としています。だがしかしそれにもかかわらず、「たましい」の実在は検証可能な言述、あるいは客観的に証明可能な兆候によって措定し得るのです」(ユング超心理学書簡 湯浅泰雄訳 p85 白亜書房 1999年)

臨死体験や宗教経験などにおける心的現象と科学とがなじまない理由は、前述の2つの性質を異にする“現実”を同一次元で語ることが困難だからである。
臨死体験時の「現実感覚」を第三者を前に再現させて客観的に見せることはできない。しかし、それでもその体験は確実に「心理的な事実」なのである。

浦島説話研究所

心的現象と科学

2012-11-23 00:14:06 | 深層心理学
「超能力は現在のところ、極めて再現可能性に乏しい現象である。もし、再現可能な形で超能力が定式化できれば、それは科学の研究対象となる。しかし逆にそうなれば、それは超能力ではなく、常能力になってしまうだろう。オカルトと科学の違いは研究対象とする現象ではなく、それを認識するやり方にある。
心的現象であろうとそうでない現象であろうと、科学は個別的、一回性の出来事は説明できない。しかし、科学は因果関係を解明するものだと誤解すれば、特に心的現象には、科学的には解明できないものが多いと思う人が沢山いても不思議ではない。なぜ、地球があるのかはいつの日か科学的に説明できるようになるかもしれないが、なぜ“私”がいるかを、科学が説明できる日はこないだろう、とこういう人たちは思うのだろう。本当のことを言えば、こういう一回性の出来事はどちらも、科学がどんなに進歩しても、決して説明できるようにはならないのだけれど。」(池田清彦 科学とオカルト pp135~136 PHP研究所 1999年)

易では、神意を問う際、同じ質問を繰り返し問うてはならない、という不文律がある。
天武帝が、式盤を用いた占法を軍事行動に採用した際、おそらく易の作業と同様、質問(軍事行動における時間と方位“空間”)は繰り返さなかったはずである。それは、神意を問うことは「聖」なる作業であり、繰り返すことを禁忌としたからである。
心的営為の途方もない複雑さを思うとき、定式化や数量化を基盤とする科学とがなじまないことに納得する。
臨死体験における「心理的体験としての事実」「現実感覚(reality)」を、第三者に客観的に証明する手立てはない。それは、あくまでも個人の問題に帰結する事柄である。臨死体験などは宗教経験同様、何度も容易に繰り返せるものではない。
他方、臨死体験といった無意識領域に根ざした心的現象に普遍的な要素がみられることが様々な形で検証されるようになってきている。
ユングは、普遍的な神話素の発生母体を、人間の個人的な無意識の領域を超えた集合的無意識(普遍的無意識)という概念を用いて説明しようとした。

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