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「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

時間

2011-02-28 23:05:00 | 浦島説話研究
「よく、ギリシャ的時間は円環構造だとか、キリスト教的時間は直線構造だとかもっともらしく語っている解説書を見かけますが、ギリシャ的時間であろうとキリスト教的時間であろうと、そもそもそれが時間であるかぎり円環でも直線でもありません。問題はただ「未来に過去と同一の状態Kに戻ることがある」か否かだけであって、これを肯定する場合に比喩的に「円環」という表現を使い、これを否定する場合に比喩的に「直線」という表現を使うだけのことです。
輪廻やニーチェの言う「永遠回帰」も、絶対に空間的な表象に引きずられてはならない。それは運動する物体の「永遠回帰」ではなく、あくまでも出来事の「永遠回帰」なのですから、太陽の周りを地球が回転するような状態とは、まったく異なったものなのです。しつこく私がーそしてベルクソンがーこう言いますのも、ほかの場合と異なって時間の場合はとりわけ空間化の誘惑が強いからです」(中島義道 「時間」を哲学するー過去はどこへ行ったのか p93 2006年 講談社)。

「時間であるかぎり円環でも直線でもありません」ということは確かなのであろう。
しかし、それでも、時間は、円環構造の如く、あるいは直線構造の如く、相容れない二つの性質の相を内包しているのではないだろうか。直線構造を、例えば測り得る客観的な性質のものとするなら、円環構造は測り得ない主観的な性質のもの、後者は、時として夢、あるいは幻覚、神話といった無意識を含むたましい(Psyche)が体得する霊的次元に関与する性質のものという理解である。その意味で、時間は、円環的でも直線的でもあり、その両者でもないといった表現を許容するように思われるのである。

浦島説話研究所

陰陽五行思想の伝来

2011-02-27 16:22:01 | 浦島説話研究
「天文・遁甲を能くしたまふ」ことで知られた天武天皇。天武4年正月五日条には「始めて占星台を興つ」とある。
大和岩雄氏は、天武帝は僧旻から天文・遁甲を学んだと指摘している(大和岩雄 日本書紀成立考 p168 大和書房 2010年)。孝徳朝で国博士を務めた旻法師は24年間にわたり唐で学問を修めた人物である。帰国したのは舒明4年(632)。旻法師は「周易」を講じた人物としても知られる。
百済僧の観勒が暦本、天文、地理、遁甲・方術の書を献じたのは推古10年(602)で、欽明14年(553)には百済に対し、医・易・暦博士の上番を求めたという記録が残る。
陰陽五行思想が我が国に伝来した時期については諸説があるが、暦の移入と密接に結びついていることだけは間違いない。正史に記載された暦本の初めての渡来が欽明14年なので、この点は移入時期を考察するうえで参考になるだろう。ただ、雄略朝期の471年に相当するとされる干支紀年(辛亥)を記す埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の考察から、5世紀後半にはすでに暦(元嘉暦)が行用されていた可能性も指摘されている。
吉野裕子氏は「天武朝に及んで陰陽五行思想の盛行は、その頂点に達したと思われるのである」という見解を示している(吉野裕子 持統天皇 p234 人文書院 1999年)。天武朝期にあらたに儀鳳暦が移入されていることを考えると、吉野氏の見解は妥当と思う。
伊預部馬養連が「撰善言司」に任じられたのは、天武帝没後3年が経過した持統3年(689)6月である。
本論は、馬養が文武朝初頭に書き記した「浦島説話」には、当時の時代精神が反映しているとみる立場である。

浦島説話研究所

三王朝交替論

2011-02-26 11:42:31 | 浦島説話研究
『古代社会と浦島伝説』上・下巻(雄山閣出版 1975年)という大著をまとめた水野祐氏は、三王朝交替論を説いていることでも知られている。仁徳天皇陵をはじめ、巨大な前方後円墳が築造された古墳時代に皇統の断絶があり、王朝の交替があったとみる考え方である。
「王宮と王墓が、大和から難波・河内地域へ移動することから、王朝の交替を主張するのが、「河内王権論」(「難波王朝」の名称もある)である。厳密にいえば、五世紀を通じて河内に所在したのは王墓であるので、河内王権論は王墓の位置から立てられた学説となる」(吉村武彦 ヤマト王権 p98 岩波書店 2010年)。
吉村氏は、水野氏の見解(王朝交替論の考え方)の要素をまとめたうえで自らの考え方について触れているので以下に引用し、紹介しておきたい。
「水野の主要点は、『古事記』における歴代天皇の没年干支を歴史的事実として認め、和風諡号と『日本書紀』の空位の分析から、「万世一系」という天皇系譜を否定し、①古王朝(崇神王朝)、②中王朝(仁徳王朝)、③新王朝(継体王朝)という三王朝交替説を提示する。ここで応神天皇を持ち出さないのは、『古事記』没年干支への考察に基づいている。水野は、仁徳天皇以前の『書紀』の記載は史的事実として信用せず、仲哀天皇と応神天皇の間に王位継承上の断層があるとし、応神が新たな征服国家の主権を掌握したと主張する。しかし、応神の没年しか認めないので、応神・仁徳王朝ともいいつつ、仁徳王朝を評価する(『増訂日本古代王朝史論序説』)。
この水野の指摘は、前提とする『古事記』没年干支の評価ひとつをとっても、それを歴史的事実と認めるわけにはいかず、支持することができない。しかし、万世一系の否定は、戦前の皇国史観に通じる万世一系的天皇史観を否定し、かつ研究史上には万世一系の考え方を相対化した点で、大きな意味をもつ。ここでは水野説が、仁徳王朝を画期として重視していることをおさえておこう」(前掲書 pp100~101)。

水野祐氏は、人皇初代・神武天皇から推古天皇に至る33人の歴代天皇のうち、『古事記』が没年を明記している15人について着目したのである。水野氏が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表したのは1954年であるから、「浦島説話」への関心はそれ以後ということになる。水野氏が「浦島説話」を研究するに至る背景には、倭の五王の治世に対する研究が関係しているだろう。『日本書紀』、『丹後國風土記』「逸文」は、この説話の歴史的端緒を、倭の五王の一人「武」に比定される「雄略」朝としている。この説話が依然厚いヴェールに包まれているのは、説話誕生を雄略朝期に求めていることも要因の一つである。
2月25日付けの新聞報道によれば、宮内庁が指定・管理する第15代応神天皇陵(在位270~310年・大阪府羽曳野市)は24日、考古学・歴史学関係16学会の代表による立ち入り調査が行われたという。「古代の天皇の陵墓について、学会の要望で宮内庁が立ち入りを認めたのは初めて。調査では、墳丘を取り囲む内堤の内側と外側の両側の数ヵ所で、埴輪列の痕跡を確認した」(毎日新聞 25日付 27頁)という。古代天皇陵墓への立ち入りが認められたことは画期的なことであり、今後の調査研究に期待したい。

浦島説話研究所

雄略朝期の王宮の所在地

2011-02-26 00:23:24 | 浦島説話研究
「・・・雄略天皇は、金錯銘鉄剣と「記・紀」とでは、名前がワカタケルで一致する。また、王宮の名称(所在地を含む)は、金錯銘鉄剣は「斯鬼宮」、『日本書紀』は「泊瀬朝倉宮」(『古事記』は長谷朝倉宮と表記)、『日本霊異記』には「泊瀬朝倉宮」と「磐余宮」の記述がある。斯鬼(磯城)と磐余は近接した地名なので、同じ宮と判断するかどうかで王宮の数の見方が分かれてくる。両者が異なるとすれば、斯鬼宮・磐余宮・泊瀬朝倉宮の三宮。同じであれば、斯鬼宮(磐余宮)と泊瀬朝倉宮の二宮となる。いずれにせよ雄略天皇の王宮は、必ずしも一ヵ所ではなく、複数営まれていた。記載自体にもそれほど矛盾はなく、王宮の所在地は信憑性が高いといえるだろう」(吉村武彦 ヤマト王権 p92 岩波書店 2010年)。

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西北と先天易

2011-02-24 22:50:59 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
「先天易においては西北は「山」東南は「沢」で水を意味する。沢は井・泉・湖・澱む水である。『説卦伝』はこの「山・沢」の軸を「山沢通気」と説いている。つまり山と水が気脈を通じているということ、即ち水の源は山に求められるのである」(吉野裕子 持統天皇 p214 人文書院 1999年)。

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