「よく、ギリシャ的時間は円環構造だとか、キリスト教的時間は直線構造だとかもっともらしく語っている解説書を見かけますが、ギリシャ的時間であろうとキリスト教的時間であろうと、そもそもそれが時間であるかぎり円環でも直線でもありません。問題はただ「未来に過去と同一の状態Kに戻ることがある」か否かだけであって、これを肯定する場合に比喩的に「円環」という表現を使い、これを否定する場合に比喩的に「直線」という表現を使うだけのことです。
輪廻やニーチェの言う「永遠回帰」も、絶対に空間的な表象に引きずられてはならない。それは運動する物体の「永遠回帰」ではなく、あくまでも出来事の「永遠回帰」なのですから、太陽の周りを地球が回転するような状態とは、まったく異なったものなのです。しつこく私がーそしてベルクソンがーこう言いますのも、ほかの場合と異なって時間の場合はとりわけ空間化の誘惑が強いからです」(中島義道 「時間」を哲学するー過去はどこへ行ったのか p93 2006年 講談社)。
「時間であるかぎり円環でも直線でもありません」ということは確かなのであろう。
しかし、それでも、時間は、円環構造の如く、あるいは直線構造の如く、相容れない二つの性質の相を内包しているのではないだろうか。直線構造を、例えば測り得る客観的な性質のものとするなら、円環構造は測り得ない主観的な性質のもの、後者は、時として夢、あるいは幻覚、神話といった無意識を含むたましい(Psyche)が体得する霊的次元に関与する性質のものという理解である。その意味で、時間は、円環的でも直線的でもあり、その両者でもないといった表現を許容するように思われるのである。
「浦島説話研究所」
輪廻やニーチェの言う「永遠回帰」も、絶対に空間的な表象に引きずられてはならない。それは運動する物体の「永遠回帰」ではなく、あくまでも出来事の「永遠回帰」なのですから、太陽の周りを地球が回転するような状態とは、まったく異なったものなのです。しつこく私がーそしてベルクソンがーこう言いますのも、ほかの場合と異なって時間の場合はとりわけ空間化の誘惑が強いからです」(中島義道 「時間」を哲学するー過去はどこへ行ったのか p93 2006年 講談社)。
「時間であるかぎり円環でも直線でもありません」ということは確かなのであろう。
しかし、それでも、時間は、円環構造の如く、あるいは直線構造の如く、相容れない二つの性質の相を内包しているのではないだろうか。直線構造を、例えば測り得る客観的な性質のものとするなら、円環構造は測り得ない主観的な性質のもの、後者は、時として夢、あるいは幻覚、神話といった無意識を含むたましい(Psyche)が体得する霊的次元に関与する性質のものという理解である。その意味で、時間は、円環的でも直線的でもあり、その両者でもないといった表現を許容するように思われるのである。
「浦島説話研究所」