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「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

個人的無意識と集合的無意識

2012-10-31 23:23:43 | 深層心理学
「個人的無意識の内容は、ユングによれば、「感情を強調する葛藤」であり、集合的無意識の内容は、これに反していわゆる「元型」(Archetypen)である。作用単位としての元型は、人間的な根源的性格、衝動力および魂の永遠に存在し、無時間的である像であり、調整者である。それ故に、それは精神の中で、人間的現存在の形態原理や形成原理を表現している。このような創造的な形成原理は、ユングの精神にとって特徴的である」(L.ソンディ 佐竹隆三訳 運命への挑戦 p128 金沢文庫 1984年)

フロイトは「無意識においては、時間喪失性が支配している。時間は、意識においてはじめて置かれる」(前掲書 p142)と指摘しているが、「浦島説話」を深層心理学の観点から考察するうえで、前述のユングとフロイトの見解は参考になる。

浦島説話研究所

太安万侶の存在

2012-10-30 23:11:46 | 時代精神
「江戸時代後期から長い間、『古事記』は平安時代初期に作られた偽書であると言われ続けてきました。なぜなら、作者である太安万侶の実在を示す史料がなかったからです。ところが、昭和54年(1979)に、奈良県奈良市此瀬町の茶畑で、畑を掘り起こしていた作業中に、木棺に入った人骨と、41文字が刻まれた銅版が偶然出土し、歴史的発見となりました。その銅版には、安万侶の墓誌銘と年号が記されていたことで、安万侶が実在する人物であったことが確認されたのです。それにより『古事記』偽書説は雲散霧消しました。遺骨の調査によると、安万侶は小柄な体格だったそうです」(竹田恒泰 現代語 古事記 p333 学研 2012年)

『古事記』偽書説は大きな問題提起を内包している。
天武帝の命により編纂が始まった『古事記』は、帝が崩御したために作業は中断を余儀なくされた。その後、元明天皇の代になってから漸く作業は再開され完成をみたということになっている。
太安万侶は『古事記』のみならず『日本書紀』の編纂にも携わった可能性が指摘されているが、両書の成立がわずか8年の隔たりしかないことには奇異な感じをもつ。とくに、『古事記』を勅撰とみるなら一層その思いは強くなる。
天武10年に始まった国家正史(『日本書紀』)編纂事業は、持統、文武両帝の治世に大きく進展をみたが、他方、『古事記』については、その間に作業が中断し、元明天皇の御世(711年)になって唐突に作業が開始され、その翌年に『日本書紀』と同様の勅撰の歴史書として完成をみたという経緯には違和感を覚えざるを得ない。『日本書紀』が712年に完成したというほうが合点がいく。『古事記』を勅撰とみる考え方は説得力が乏しいように思う。
『古事記』撰修作業には舎人の稗田阿礼という28歳の人物が関わっているが、この人物も謎に包まれている。彼が編纂事業に直接ではないにせよ関与したのは、生まれつき聡明で、どのような文でも一読すればすぐに音読できたうえ、一度耳にすれば絶対に忘れることがなかったからだという。いつの世にも天賦の才に恵まれた天才は存在するとはいえ、阿礼なる人物は、本当に全ての歴史を包括し、暗記していたのであろうか。にわかには信じ難い。阿礼を女性とみる見解もある。
大和岩雄氏は『新版 古事記成立考』(2009年第一刷)で従来の研究史を踏まえ、「序」文の不審についての自説を詳細に論じている。そして「『古事記』は正史(『日本書紀』)と違って歴史学者だけでなく、国文学者の研究対象としても重視されている。この両書の違いに留意せずに、単に両書の「歴史意識」のみにこだわっての偽書説批判は、一面的で説得力はない」(前掲書 p644)という認識を示している。
太安万侶が実在したことと、『古事記』偽書説とは論点を異にすると思われる。『古事記』序文が後世に書き加えられたとすると、序文の記述に秘密を解く鍵が隠されているはずである。『古事記』偽書説の問題は今も収束してはいない、ということだけはいえるように思う。

「浦島説話」は『日本書紀』と『万葉集』に収載されているものの、なぜか『古事記』には記録が残されていない。この事実は、「浦島説話」とは何か、という問いと同時に、『古事記』とは何かを考えるうえでも大変興味深い問題を投げかけてくるのである。

浦島説話研究所

古事記偽書説

2012-10-28 22:25:34 | インポート
「古事記の成立事情がわかる唯一の資料はその序であるが、この序を後人の偽作とした人がある。その一人は賀茂真淵であり、他の一人は中沢見明氏である。真淵は明和5年3月13日付けの宣長宛書翰の中で、この序は和銅以後に安万侶ならぬ別人によって追って書かれたものであろうと推測し、(これに対して宣長は記伝巻二で、「序は安万侶の作るにあらず、後人のしわざなりといふ人もあれど、其は中々にくはしからぬひがこころえなり。すべてのさまをよく考るに、後に他人の偽り書る物にはあらず。決く安万侶朝臣の作るなり。」と駁している。)中沢氏は、「古事記の序文を精察批判して見ると平安朝初期に仮託された文らしい。」(「古事記論」)と言われた。
しかし古事記の偽書説は、ひとり序文にのみとどまらず、その本文にまで及んでいる。中沢氏は、詳細な考証の結果、古事記は平安朝の初期、天長・承和の頃に、日枝・松尾の社家に関係ある人が偽作して、和銅の勅撰であるかの如く装ったものであると、その著「古事記論」を挙げて主張された。また沼田順義はその著「級長戸風」の端書で、筏勲氏はその著「上代日本文学論集」の中の「古事記・歌経標式偽書論と万葉集」において、それぞれの立場から古事記の偽書説を提唱している。しかしながらこれらの偽書説には、明らかに誤りと認められる点や、根拠が薄弱な点が多く、承服することのできないものであることは、拙著「古事記論攷」所収の「古事記偽書説論を駁す」において詳論した通りであって、古事記は、その序も本文も、和銅に正撰されたものと見て誤りはないといえるのである」(倉野憲司 武田祐吉校注 古事記 祝詞 pp13~14 岩波書店 1958年)

大和岩雄氏は『新版 古事記成立考』の「現存『古事記』の最終成立時期」について触れている。「天武十年に『日本書紀』によれば勅命で国史編纂が開始されているから、天武天皇が正史以外に史書(古事記)編纂を命じたとは考え難い。『古事記』の内容は柳田国男や折口信夫らが書くように歌物語である。三谷栄一は後宮で編纂されたと主張するが(23)、女性・母性的内容の語りの書であることからみても、天武朝ではあるが内廷(「後宮」は大宝令以降の呼称)での編纂であろう。問題は序文の書く和銅五年(712)に成立したであろうか。否である。理由の一例として、「ワニ」表記を示す。「ワニ」は動物の「ワニ」以外に、春日氏・小野氏・柿本氏らが、ワニ氏を称しており、このワニ氏の部民は「ワニ部」といっていた」と論じ、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『続日本紀』『姓氏録』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』から「ワ二」の漢字表記を列挙し一覧表にまとめて比較検討している。(pp46~48)そして「『万葉集』の時代は「爾」が通常表記で、「邇」は新表記で特例であり、ほとんど使われなかった新表記だが、『古事記』の表記はこの新表記を用いている」(P49)、・・・「『古事記』の「邇」の使用は「和邇」と「丸邇」に別れるが、「丸」の使用は『続日本紀』以降である。このように「丸」も「邇」も平安時代初頭以降に用いられている表記である。この平安時代以降の表記が、百年も前の『古事記』序文が書く撰録(和銅4年・711年)・撰上(和銅5年正月)の時代に使われることはありえない」と指摘している。(p49) 大和岩雄氏によれば、『古事記』の成立を疑う諸説は4分類できるという。
一 本文・序文とも和銅5年(712)以降。
二 本文は和銅5年。序文は和銅5年以後。
三 本文は和銅5年以前。序文は和銅5年。
四 本文・序文は和銅5年。後から新しい記事・表記を書き入れた。(p633)
ただ、大和氏は、上記の「四つに分類した見解のいずれにも入らない」とし、独自の見解を述べている。(p633)

『古事記』偽書説が成立するとするなら、なぜ、『日本書紀』完成の8年前(712年)を成立年としたのか。その背景にはどのような意図が隠されているのか。大変興味深い問題である。

浦島説話研究所

「特別展 出雲―聖地の至宝―」

2012-10-27 01:37:17 | 時代精神
東京国立博物館で「特別展 出雲―聖地の至宝―」が開催されている。この特別展は「古事記1300年 出雲大社大遷宮」という冠が付されている。
パンフレットには「八百万の神、上野に降臨」「古代史の常識をくつがえした大量の青銅器群」「天にそびえる神殿を支えた巨大柱」といった活字が躍っている。

会場は「1章 出雲大社の歴史と宝物」「2章 島根の至宝」という構成となっており、「1章」のコーナーでは、①「銅戈・勾玉(島根・真名井遺跡出土)」、②「古事記 巻上(近衛本)」、③「寛永御絵図」、④「宇豆柱」、⑤「金輪御造営差図」、⑥「出雲大社本殿復元模型」、⑦「秋野鹿蒔絵手箱」、「2章」コーナーは、⑧「銅鐸(伝出雲出土)」、⑨「銅鐸(島根・加茂岩倉遺跡出土)」、⑩「銅剣(島根・荒神谷遺跡出土)」、⑪「銅鐸・銅戈(島根・荒神谷遺跡出土)」、⑫「兵庫鎖太刀」などの貴重な文化遺産に触れることができる。
なかでも、2000年に発掘され大きな話題となった、鎌倉時代(宝治2年 1248年)に遡る巨大な「宇豆柱」(出雲大社大型本殿遺構の柱材)は圧巻で、杉材を使った巨木3本を合わせて1つの柱を成したという。
「柱材はいずれも年輪間隔がきわめて広く、樹齢200年以下の成長の早いスギ材であった。これはある程度保護、管理された環境下で生育したことを示唆する。平安時代を通じて幾度も転倒を繰り返しながらも、そのたびに大材を用いて造営され続けた出雲大社の高層性を端的に示す柱材である」という(東京国立博物館 島根県立古代出雲歴史博物館編集 特別展資料 p30)。
かつては、この巨大「宇豆柱」が50メートル近い高層神殿を支えていたといわれている。「出雲大社本殿復元模型」(実寸の10分の1)も一見の価値がある。復元された模型の柱は3本を組み合わせて1本にしたという状態で再現されている。「出土した柱は3本の柱を束ねているが、模型はさらに3本の空隙を埋めて1本の柱状にした、との解釈に基づいている」という(前掲書 p36)。
「聖なる三位一体」を柱で具現化したように感じられる。
来年は出雲大社の大遷宮が60年ぶりに行われるという。

世俗の喧騒を離れ、しばし時空をトリップしてみるのも愉しい。
会期は11月25日まで。

浦島説話研究所

「浦島説話」といかに向き合うか

2012-10-21 15:34:06 | たましい(Psyche)の構造と機能
5世紀後半の雄略帝の治世、丹後半島東部の与謝郡筒川(管川)の地に水江浦嶼子なる人物が存在した。海原で釣りをしていた彼は、美しい神女(亀の化身)と出会い、異界に赴き夫婦となる。3年が経過し、現世に戻ってみると300年余の時が流れ、当時を偲ばせるものは何一つない。茫然自失に陥った彼は、別れ際に神女から決して開けてはならないといって渡された「玉匣」の蓋を約束を破って開けてしまう。こうして再会する機会は永遠に失われてしまったのである。
物語は、哀切に満ちた悲しい結末で幕を閉じるのである。

持統、文武朝の治世に活躍した官人・伊預部馬養連が700年前後に書き記した「浦島説話」は原文それ自体失われてしまっているが、原文内容を知る手がかりとなる始原の三書(『日本書紀』、『丹後国風土記』「逸文」、『万葉集』)を通した考察から得られる概略は、このようにまとめることができるだろう。ただ、『万葉集』が伝える説話は、作者が高橋虫麻呂で、成立時期も30年ほど隔たりがある。舞台は「墨吉」と記述されており、現在の大阪住吉の地に比定する見方が一般的である。とすると、この説話は、丹後半島と摂津国の二箇所に伝承地を有していたことになる。他方、「水江」を地名由来に関わる呼称と解し、丹後半島西部の網野の地に隣接する海浜周辺を伝承地と主張する意見もある。
この説話は、今も未解決の研究課題を残しているのである。

「記紀の所伝に対する徹底した科学的批判を遂行して、前人未発の巨大な業績を築き上げたのが、津田左右吉であった。津田の研究は、大正二年(1913)の『神代史の新しい研究』に始まり、同八年の『古事記及び日本書紀の新研究』(同十三年『古事記及日本書紀の研究』と改題の改訂版発行)、同十三年の『神代史の研究』、昭和八年(1933)の『上代日本の社会及び思想』等の一連の著述として大成された。記紀の伝える神代および神武以下歴代初頭の皇室起源説話の体系が、素材としては民間説話をふくみ、また歴史的事実を反映する部分もあるにもせよ、全体的な構想としては、六世紀前後の大和朝廷の官人により、皇室の日本統治を正当化する政治的目的を以て作為されたものであり、神武天皇以下仲哀天皇にいたる歴代天皇の系譜とともに、客観的史実の記録ではないこと、応神以後の所伝についても、天皇の系譜を除けば、正確な史実の記録から出ていない作為された説話・記事のきわめて多いこと、特に書紀については、漢籍・仏典の文章を借りた潤色が多く、天武・持統紀三巻を除くと、陳述史料としてはそのまま信憑しがたい記事の少なくないこと等、今日ではほとんど古代史研究者の常識となっている学界の最大公約数的命題が、これら津田の一連の著作により、はじめて公然と提示されたのである。津田の研究は、たとい津田の真意が天皇制から神秘主義的・前近代的非合理性を除去し、近代的立憲君主制たらしめようと念願するにあったとはいえ、記紀の所伝をそのまま客観的史実となしこれを「国体観念」の「淵源」として権威づけてきた国家権力の基本政策と到底両立しがたいものであったことは、明白である。そのような研究が最初合法的刊行物として継続的に出版できたのは、何といっても大正から昭和初年にかけての大正デモクラシー期の民主主義的意識の高揚を背景に置いて考えねば理解できない現象と思われるが、満州事変から中日戦争を経て太平洋戦争に突入する昭和十年代の極端な言論弾圧時代に入ると、津田の研究もついに迫害を免れることができず、昭和十五年(1940)『神代史の研究』等の著作が発売禁止の処分に付され、次いで津田は、これらの著作により皇室の尊厳を冒涜したとの理由で有罪の判決を受けるにいたった。・・・
津田が戦前に達成した高度の業績は、戦前の学界において十二分にこれを活用できる歴史的条件がそなわっていなかったため、いわば異端的な業績として孤立しており、前述のとおり最後には権力のために社会的にも葬り去られてしまった。昭和十年代に「日本精神」が声高く叫ばれ、古典としての書紀の尊重が異常なまでに強調されながら、書紀研究史の上では、この時期ほど研究の自由の徹底的に剥奪された時代は前後に例がなかったといわなければならない」(日本古典文学体系67 日本書紀 上 pp63~64 岩波書店 1967年)

この記述は、現在からみると隔世の感があるが、今からわずか80年にも満たない時間を遡ったときの時代の空気は、重苦しい閉塞感に包まれていたことがわかる。
神話を含む記紀の研究は、天皇称号成立時期といった事柄を含む天皇制という極めてデリケートな要素を内在しているために、純粋な学問の研究対象としても、皇国史観という厚い壁に隔てられ、門戸は固く閉ざされてきた歴史的経緯がある。しかし、今に至る記紀研究の深化を考えるとき、津田左右吉氏が果たした偉業の質的意義の重さと、津田氏の、研究者として真理を探究せんと欲する情熱を支えた学問的態度に改めて思いをめぐらすのである。
そのうえで、前述の記述には、2つの問題点を摘出することができる。
津田氏は、記紀編纂の全体的な構想について、「六世紀前後の大和朝廷の官人により、皇室の日本統治を正当化する政治的目的を以て作為されたもの」という見解を示しているが、上山春平氏は次のように述べている。「私は、記紀神話の体系性とイデオロギー的性格に着目する点では、津田説とほぼ軌を一にしながら、記紀神話の基本構想の成立時期、制作主体、製作意図等については、津田説と全く相容れない見解に到達した。津田説と私の見解の相違点は、(一)津田が記紀神話の基本構想の成立時期を六世紀と見るのにたいして、私はそれを八世紀前後と考え、(二)津田が記紀の制作主体を皇室とみるのにたいして、私は皇室よりもむしろ藤原氏、さらに焦点をしぼって藤原不比等に着目する、といったぐあいに要約することができよう」(上山春平 続・神々の体系 ppⅰ~ⅱ 中央公論社 1994年)。
両者の見解について、現在では、上山氏の考え方が主流となり、同氏の見方を支持、援用する研究者は多いといえるだろう。「八世紀前後」といえば持統、文武両帝の治世頃となる。つまり、伊預部馬養連によって「浦島説話」が書き記された時代と重なり合うのである。
次に、「津田の真意が天皇制から神秘主義的・前近代的非合理性を除去し、近代的立憲君主制たらしめようと念願するにあった」という文脈における「神秘主義的・前近代的非合理性を除去」という箇所であるが、こうした思考、方法論は、明治の近代国家成立と密接に関わっている。西欧の科学的合理主義という価値観が大きな思想潮流を形成した時代背景と無関係ではあり得ない。
「浦島説話」の研究も大正年代から本格的になされるようになったが、その基底に近代精神が強固な影響を及ぼしていることを汲み取ることができる。
だが、この説話が書き記された時代に生きた人びとの宗教意識を含む他界観、あるいは世界観を考える場合、「神秘主義的・前近代的非合理性」という要素は絶対に切り離すことはできず、むしろ第一義的価値を有していたといえる。このような理解と認識を前提に据えることなしに、馬養等の心性を理解することも共有することも不可能と言わざるを得ない。
湯浅泰雄氏は「フロイトとユングによって始められた無意識の心理学は、神話を手引にすることによって無意識の世界を発見したものと言ってもいい性質をもっている。彼らはそれによって、近代人が長く見失っていた心の世界の深層領域を再発見するに至ったのである。その意味では、神話の思考は現代によみ返ったともいえるであろう。そしてこのことは、人間における宗教性、たとえば「聖」なる次元にかかわる宗教経験の発生根拠や人間の精神性といった問題に対して、新しい眼で考え直す糸口をわれわれに与えている」(湯浅泰雄 身体の宇宙性 ppⅴ~ⅵ 岩波書店 1994年)と指摘しているが、「浦島説話」を読み解く作業を行ううえでも留意しなければならないと考えている。
深層心理学の知見に照らせば、「浦島説話」とは、無意識を含む「たましい(Psyche)」に関わる研究テーマを内包していると思う。

浦島説話研究所