「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

「丁酉」(ひのと・とり)

2017-02-12 12:31:32 | 浦島説話研究
今年は西暦2017年。近代日本の歩みは、明治の太陽暦導入・行用と軌を一にしている。西暦という観念の浸透は、実質的にこの時に始まったと言える。
明治政府は1872年(明治5)12月3日を明治6年1月1日とし、暦を従来の太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦に切り替えた。
明治の近代国家誕生の産声を、太陽暦導入に求めることは有力な選択肢の一つになるはずである。今では西暦にすっかり馴染んでいるが、旧暦が使用されていた時代の人々は六十干支に親しんでいた。今に伝わる「浦島説話」の作者・伊預部馬養連もその一人であった。
旧暦に従えば、今年の六十干支は「丁酉」である。
六十干支は、陰陽五行思想を内包している。十干の甲、丙、戊、庚、壬は陽、乙、丁、己、辛、癸は陰で、十二支の子、寅、辰、午、申、戌、は陽、丑、卯、巳、未、酉、亥は陰。六十干支は、陽干と陽支、陰干と陰支との六十種類の組み合わせから成る。
陰干の「丁」は十干の第四、五行では「火」に属する火の弟(ひのと)。陰支の「酉」は十二支の第十で、五行では「金」に相当する。
陰陽の気が交合することで万物が生成されると説いた陰陽説に対し、木・火・土・金・水の五要素で万物の生成・循環を説く五行説とは、元々別のものとして存在していたが、自然哲学として一つのものに習合していった。
大宝元年に制定された大宝律令によって「日本」という国号が法的に定まったが、制度として年号(元号)が確立した確実な端緒は「大宝」からで、以後、現在の「平成」に至るまで連綿と続いている。
現在、「大宝律令」の制定について触れる場合、年号「大宝」と、西暦「701年」を意識することはあっても、六十干支の「辛丑」を意識することはまずないだろう。だが、「大宝律令」の撰定作業に加わった伊預部馬養連は、六十干支の「辛丑」を念頭に置いたうえで「年号」について考察を深めたはずである。
馬養は、我が国で初めて本格的な都城が建設された藤原京(奈良県)に都が置かれていた時代に生きた。最近の調査で藤原宮の大極殿院跡の回廊と東門が接続する部分の遺構が発掘されたことが明らかになり、報道された。今後、大極殿院の構造解明につながることが期待される。


「浦島説話研究所」

丙申(ひのえさる)

2016-01-01 22:57:57 | 浦島説話研究
今年の干支は「丙申」。
十干の第三である「丙」は、ひのえ(火の兄)の「陽」気、五行配当では「火」にあたる。
十二支の第九で「陽」気の「申」は、五行では「金」に相当する。
十干も十二支も「陰」と「陽」のいずれかに分けられる。
「火」と「金」は、五行相剋(火は金を溶かす)の関係にある。
十干十二支は「天干地支」ともいい、十干十二支の組み合わせで六十干支を数える。
我が国最初の暦法が行用されたのは1684年であるが、太陽暦移入以前は、長く中国の太陰太陽暦(旧暦)が用いられていた。陰陽五行思想は、天文学や暦法を基礎づける理論的支柱をなしていた。

「浦島説話研究所」

藤原宮の時代

2015-10-17 20:53:05 | 浦島説話研究
10月10日付け新聞報道によれば、藤原宮跡(奈良県橿原市)で、大極殿の正面階段の一部とみられる切り石が見つかったことを報じていた(1)。
我が国で初めて条坊制が採用され、持統・文武・元明天皇3代にわたる宮城であった藤原宮(694~710)は現在、大極殿の基壇(通称大宮土壇)が残り往時をしのばせている。即位式や元旦の朝賀など、天皇が国家的儀式の際に出御された大極殿の遺構の一部が発見されたことの意義は大きい。
「日本」という国号は、701年に制定された「大宝律令」で法的に定まったが、「浦島説話」を書き記した伊預部馬養連は「大宝律令」撰定作業に加わった人物なのである。
今回の発見が大極殿の構造解明につながることを期待したい。

「浦島説話研究所」

「浦島説話」にみる深層心理学的モチーフ

2015-03-08 10:32:22 | 浦島説話研究
「我々人間が客観的にものが存在することを認めうるのは、感覚的認識による。科学は自然的事物を精密に観察―ここでは感覚的認識が主役を演じる―して得たデータより自然的事物の本質的メカニズムを考察して仮説を立て、これを実験し、初めて学説を立てる。右のごとく科学では、理性的考察あるいは推論と同時に観察、実験を行なって、その研究対象が客観的に存在することを、直接にか間接にか、感覚的認識によって確かめる。この感覚的認識による客観的存在の確認は、我々普通の人間にとっては、唯一の確認方法である。したがって、観察実験に基づく自然科学が着々と成果を挙げ、我々の日常生活に大なる便益をもたらせば、我々が自然科学に迎合しそれを信仰するに至ったのも、当然のことであろう。それにつれて、感覚的認識の対象とはならぬ超感覚的存在に対する不信、無関心、忘却が増大するのもまた、必然の勢いであった」(本山博 超感覚的なものとその世界―宗教経験の世界―pp3~4 宗教心理出版 1990年)

「浦島説話」が、深層心理学の観点からの考察対象として興味深いのは、主人公が異界に赴くとき、戻るとき、いずれの場合も「閉眼」していることと、異界が、「目所不見」「耳所不聞」と表現されている。つまり、異界は、「目」や「耳」で見たり聞いたりすることができない世界であると描写されている点にある。主人公の体験は、感覚器官を通して把握することのできない、「超感覚的」な体験として語られているからである。
本山博氏は「超感覚的なものは、ギリシャの昔から神、不死の魂等を意味し、ソクラテス、プラトン、プロチノス、あるいは中世のスコラ学者達によってその存在を証明され、近世ではカントによってその存在が倫理的立場より要請され、その本質について種々の哲学的思索がなされた」(前掲書p3)と指摘しているが、不老不死を説く「神仙の堺」も同様に超感覚的な世界なのである。
異界描写は、感覚的な認識の対象とは次元を異にする夢や臨死体験、宗教経験などで語られる内容との同質性のもとに把握する必要があり、その意味で、深層心理学の重要な研究課題となる。そのことは、異界描写は古代人の特異な経験ではなく、現代人も体験し得る普遍性をもった心的現象と重なり合うことを意味する。この説話には、科学の枠組みには収まらない“霊性”というテーマが内包されている。ともすると、「スピリチュアル」「オカルト」といった表現のもとに軽視、忌避されるようになってしまった非科学的な事柄なのである。


「浦島説話研究所」

馬養の眼

2015-01-18 09:51:15 | 浦島説話研究
奈良県明日香村川原の小山田遺跡で、未知の遺構が発掘され、16日付新聞各紙が大きく報道している。同遺跡からは、1972年に藤原宮期(694~710年)の木簡が出土している。
今回発掘された遺構は7世紀中ごろの古墳であったらしく、出土したのは「方墳の一部」とのことで、「石敷きの濠」は東西約50mの規模に達するという。古墳の場合、被葬者については、舒明天皇(593?~641年)と蘇我蝦夷(?~645年)の二人の人物の可能性が指摘されている。蘇我蝦夷に推されて即位した舒明天皇は、大化改新の立役者である天智天皇と、壬申の乱を経て覇権を手中におさめた天武天皇の父である。
今回発掘された巨大な石張りの溝が方墳の濠の一部だとした場合、「浦島説話」を書き記した伊預部馬養連は、遺構の偉容を目にしていたであろう。当然被葬者も知っていたはずである。

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