goo blog サービス終了のお知らせ 

「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

大海人皇子と漢の高祖

2011-01-31 22:00:21 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)軍は、衣の上に赤色を纏ったという記事がある。これは、皇子が漢の高祖を意識していたという見解が通説となっている。では何故赤色なのかといえば、五行思想に基づく五徳終始説の考え方にある。 大和岩雄氏は次のように書いている。

「「赤」は漢の高祖の軍の旗印で、陰陽五行思想の火をあらわしている。天武天皇は天武15年(686)9月9日に崩じている。干支にすると丙戌年戌月丙午(ひのえうま)である。「丙」は十干で「火の兄」で火気をいい、十二支で「午」、五行で「火」に配される。方位では「南」だが、南も火である。このように天武天皇の崩御日は丙午だが、9月9日は重陽の節句である。吉野裕子はこの崩御日は天武天皇の「火徳」に合わせて呪術的に決められたと書いている(17)。私も吉野説を採る」(大和岩雄 日本書紀成立考 p278 大和書房 2010年)。

天武天皇の崩御日(9月9日)を五行思想の観点から分析したのは吉野裕子氏であるが、大和氏はその見解を援用している。「火」徳は、五色では「赤」にあたる。漢の高祖は「火」徳を自認していた。易でいう陽の極数「9」を二つ重ねているのが重陽の意味である。寿ぎの象徴である。
「天武天皇の崩御年を改元し「朱鳥元年」に改元している。「朱」は赤で火である。五神では朱雀が火にあたるから、朱雀の意味で朱鳥という元号をつけたのである」(前掲書 p278)。
天武天皇は、「火徳」高祖に重ねあわされたのである。漢代思想の影響が色濃く反映されている。

浦島説話研究所

「浦島ノ子」

2011-01-30 11:19:58 | 浦島説話研究
鎌倉時代初期の成立とされ、神武天皇から仁明天皇までの歴史を綴った歴史物語『水鏡』下巻の淳和天皇の条に「浦島説話」を取り上げた記事がある。
「天長二年十一月四日丙申ニ、御門ハ彼嵯峨法皇ノ四十御賀シ給キ。今年、浦島ノ子ハ帰シ也。・・・」とある。「天長二年」は西暦825年にあたる。この記事を書いた人物が『日本書紀』「雄略紀」22年(478年)をもとにしているとするなら、主人公は348年ぶりに異界から帰還したということになる。825年12月には渤海使が隠岐に来着している。
同書の記事に従えば、平安時代初頭には「浦島説話」の主人公の姓名は「浦島ノ子」と呼ばれていたことになるが、同書の「内容はほとんど「扶桑略記」からの抜粋で、信頼できない記事や誤りが多く、四鏡のなかでも水準は低い」(日本史広辞典)といわれている。「扶桑略記」が成立したのは12世紀後半とされているので、『水鏡』の記事は13世紀に入ってから書かれたものであろうか。とするなら、馬養が説話を書き記してから500年以上が経過していることになる。
いずれにしても、「浦島子」を「浦ノ島子」ではなく「浦島ノ子」と呼んでいたことは確かである。姓名から「水江」は抜け落ちている。後世の「浦島太郎」の名前を含め、「水江」と姓名との関係は薄いと考えざるを得ない。両者は切り離して考えるべきであろう。
原文を書いた作者の隠された意図はすでに不明になっていたのである。

浦島説話研究所

地名由来の議論

2011-01-29 17:14:02 | 浦島説話研究
「浦島説話」始原の三書中の主人公の名前に付随する「水江」を地名とする見解がある。
『万葉集』中の「墨吉」を「水江」と関連づける見解もある。両者の関係について重松明久氏は次のように指摘している。

「墨吉と水江との関係については、両者が峻別されるべきことはいうまでもなかろう。水江については、私見によれば、筒川に対立する一般的呼称と考えられる。しかし水江を特定の地名とする見解もある。吉田東伍氏によれば(23)、丹後半島西北部の竹野郡網野町の海浜地帯にある浅茂湖・離湖付近の地とされる。近くの福田川の河口に、古くから浦島児の社がある。或いは筒川辺りのこの伝説が網野辺りに波及し、その主人公を水江浦島子と呼んだのであろうかといわれる。このような推測も可能であろうが、私見によれば、筒川の伝説が全国的に拡散した結果、水江浦島子との名称が生れた。そののち網野辺りにおいて、筒川に対抗的にこの種の伝説を持ちこみ、水江浦島子の発祥地と宣伝するに至ったのだろう。・・・この地方に浦島伝説が持ちこまれたのは、恐らく平安時代以降であろう。この段階で一般的呼称であった水江というのを、地形に合せて、この付近の海浜地帯の呼び名として呼称するに至ったのではなかろうかと察せられる」(重松明久 浦島子伝 pp124~125 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)。

本論は、「水江浦嶼子」という名称は、伊預部馬養連が命名したとみる立場であるが、網野の地と「水江」とを関係づける伝承は、「平安時代以降」であるか否かは別として時代的にはかなり下ってから成立したと思う。この点については、重松氏の見解を援用したい。
『續浦島子傳記』は「浦嶋子者。不知何許人。蓋上古仙人也。齢過三百歳。」とある。「承平二年」(西暦932年)と書き出しているので、この頃にはすでに主人公の出自は「上古」に求められ、深い霧に覆われ伝説化されていたという認識が読み取れる。 「齢過三百歳」、単純に300年を遡ると630年前後に至ることになる。『日本書紀』は「雄略22年」(西暦478年)のこととし、馬養が書き記したのが文武朝初頭(700年前後)であるので、いずれの時代とも合致しない。
この『續浦島子傳記』中に「澄江浦」と「澄江」という地名に由来するような名称が出てくるが、この名称と「水江」あるいは「墨吉」とを結びつけるには無理があることは容易に察せられるのである。こうした観点からも「澄江浦」「澄江」「水江」「墨吉」を同一のものとして括るのは困難であることがわかる。

浦島説話研究所

「常遊澄江浦」

2011-01-28 23:40:10 | 浦島説話研究
『續浦島子傳記』によれば、「浦嶋子」は「澄江浦」でよく遊んでいたと記されている。
書き出し部分に、「浦嶋子」は「上古仙人也」とあり、文中、「嶋子」を主語とする書き方が成されている。
「嶋子」を主語とする表現の仕方は、『丹後国風土記』「逸文」のものと同様であり、この書き方を見る限り、「浦嶋子」を名とみるのは無理であることがわかる。「逸文」と同じく、名は「嶋子」とみる解釈が妥当であろう。とすると、「浦」は自ずと姓ということになる。
『續浦島子傳記』は「承平二年」の書き出しで始まる。西暦では932年、朱雀天皇の治世に「注(しる)せり」とある。
文中には「遊澄江之波上」という記述もみえる。「澄江浦」と「澄江」とは同じ地域をさすものと思われるのであるが、「浦島説話」始原の三書のうち『万葉集』では、舞台は「墨吉」と記述されている。
「承平二年」といえば、伊預部馬養連によって説話が書き記された700年前後から数えて230年余りも時代は下る。
「澄江浦」あるいは「澄江」は、ともすると「墨吉」と同定視されるのであるが、おそらく「澄江浦」「澄江」は、「墨吉」と「水江」とを混用し後世に成立した可能性が高いと考えられる。
「浦島説話」の主人公の姓名、出身地を含む地域という課題を検討するうえで、『續浦島子傳記』の記述の仕方は大変参考になることがわかるのである。

浦島説話研究所

『釈日本紀』

2011-01-27 22:44:24 | 浦島説話研究
「『風土記』は完本としては伝存しない。浦島関係をはじめ二、三の逸文が、『釈日本紀』などに見出されるにすぎない。『釈日本紀』そのものは、鎌倉時代の神道家卜部兼方(懐賢)の著である。かれの父兼文も『書紀』学者。文永11年(1274)又は建治元年(1275)に、前関白一条実経らにこの書を講義した時の説に立脚し、従来の『書紀』研究関連諸書を引勘し、編集したものである」(重松明久 浦島子伝 p117 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)。

鎌倉時代中期の学者で神道家の卜部兼方の生没年は未詳とされる。『釈日本紀』は『日本書紀』の注釈書。
『風土記』は、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五カ国がまとまったかたちで伝わっている。

浦島説話研究所