壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)軍は、衣の上に赤色を纏ったという記事がある。これは、皇子が漢の高祖を意識していたという見解が通説となっている。では何故赤色なのかといえば、五行思想に基づく五徳終始説の考え方にある。
大和岩雄氏は次のように書いている。
「「赤」は漢の高祖の軍の旗印で、陰陽五行思想の火をあらわしている。天武天皇は天武15年(686)9月9日に崩じている。干支にすると丙戌年戌月丙午(ひのえうま)である。「丙」は十干で「火の兄」で火気をいい、十二支で「午」、五行で「火」に配される。方位では「南」だが、南も火である。このように天武天皇の崩御日は丙午だが、9月9日は重陽の節句である。吉野裕子はこの崩御日は天武天皇の「火徳」に合わせて呪術的に決められたと書いている(17)。私も吉野説を採る」(大和岩雄 日本書紀成立考 p278 大和書房 2010年)。
天武天皇の崩御日(9月9日)を五行思想の観点から分析したのは吉野裕子氏であるが、大和氏はその見解を援用している。「火」徳は、五色では「赤」にあたる。漢の高祖は「火」徳を自認していた。易でいう陽の極数「9」を二つ重ねているのが重陽の意味である。寿ぎの象徴である。
「天武天皇の崩御年を改元し「朱鳥元年」に改元している。「朱」は赤で火である。五神では朱雀が火にあたるから、朱雀の意味で朱鳥という元号をつけたのである」(前掲書 p278)。
天武天皇は、「火徳」高祖に重ねあわされたのである。漢代思想の影響が色濃く反映されている。
「浦島説話研究所」
「「赤」は漢の高祖の軍の旗印で、陰陽五行思想の火をあらわしている。天武天皇は天武15年(686)9月9日に崩じている。干支にすると丙戌年戌月丙午(ひのえうま)である。「丙」は十干で「火の兄」で火気をいい、十二支で「午」、五行で「火」に配される。方位では「南」だが、南も火である。このように天武天皇の崩御日は丙午だが、9月9日は重陽の節句である。吉野裕子はこの崩御日は天武天皇の「火徳」に合わせて呪術的に決められたと書いている(17)。私も吉野説を採る」(大和岩雄 日本書紀成立考 p278 大和書房 2010年)。
天武天皇の崩御日(9月9日)を五行思想の観点から分析したのは吉野裕子氏であるが、大和氏はその見解を援用している。「火」徳は、五色では「赤」にあたる。漢の高祖は「火」徳を自認していた。易でいう陽の極数「9」を二つ重ねているのが重陽の意味である。寿ぎの象徴である。
「天武天皇の崩御年を改元し「朱鳥元年」に改元している。「朱」は赤で火である。五神では朱雀が火にあたるから、朱雀の意味で朱鳥という元号をつけたのである」(前掲書 p278)。
天武天皇は、「火徳」高祖に重ねあわされたのである。漢代思想の影響が色濃く反映されている。
「浦島説話研究所」