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「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

「六十四卦について」

2009-11-30 23:35:20 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
「三爻の八卦同士を互いに組み合わせて六爻とすると、六十四種類のパターンができる。これが易の最終レベルである六十四卦である。占いもこの六十四種のパターンによって行なうが、占断の辞は六十四卦だけでなく各卦の個々の爻にも付されている。幹としての前者を卦辞(かじ)、枝葉としての後者を爻辞(こうじ)と呼ぶが、爻辞は六十四×六の合計三百八十四通りもあることになる。しかし、これだけ備わっていても現実の力はもっと多様多彩であって、三百八十四程度では占者の複雑多岐な現実にとても対応しきれない。それに、旅のことを占って旅(りょ)の卦が出るというふうに、常に占問のテーマに沿った卦が出るとは限らない。この隘路を開くのが「象(しょう)」という考え方である。つまり、易は占者に象=象徴としてしか答えを啓示しない。その象をいかに自己および現実に引きつけて読み解くか、そのとき占者の力量が問われるのである」。
(三浦國雄 気の中国文化 p322 創元社 1994年)
易が示すのは、いわば象徴表現である。その“象徴表現”をどう読み解くか。それは「浦島説話」が語る内容をどう読み解くか、という問いと通底するものであると本論は考えている。

浦島説話研究所

「陰陽説」

2009-11-30 22:22:22 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
「陰陽説とはいかなるものかというと、その内容から推して、太極陰陽説とか太一陰陽説と呼ぶことができる。陰陽説とは、本来この世の中にある「陰」の気と「陽」の気が、その相反する二種の相対的活力をもって、天地万物を生成するところの基礎となるものであるというのである。そして、その二種の活力が互いに消長しあって、陰が極度に増殖すればそれが減衰して陽が代って発動し、陽が極度に増殖すればそれが減衰して陰が代って発動し、その交代が相錯綜して無数の組み合せを生ずる間に、宇宙内における現象を常に変化させていくものであるというのである。・・・太極陰陽説の「太極」とは、宇宙・本体の根本原理、または宇宙を構成する陰陽二気が分れ出る根本のことである。また、太一陰陽説の「太一」とは、天地創造のときの混沌としている根元の気、または万物を包含する大道のことを言う」(水上静夫 干支の漢字学 pp197~198 大修館書店 1998年)

「太極」、「太一」両者は、いずれも万物生成の根源に相当する。「宇宙生成の根源は宇宙の最高実在とも考えられ」ている(道教事典 p362 平河出版社 1994年)。

浦島説話研究所

十干と十二支

2009-11-29 20:15:00 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
「干支は十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)の組み合わせによって構成される中国最古の暦表である。干支表は武丁期の頃と考えられる甲骨文字版に既に見られることから、おそらくその起源は更に古いものと推測される。干支表を構成する十干と十二支の起源については研究者が諸説を主張しており、未だに定説はないが、しかし、商人が卜旬の中で十日を一旬としていたり、十進法を使用していたことなどから、十干はおそらくこの「十」という単位を重視した習俗に起因しているのではないかと考えられる。十二支については十干の「十」という数からその起源を推測するのと同じく「十二」という数に意味があるのではないかと思われる。「十二」という数はちょうど一年の月の数であり、卜辞には一月から十二月までの月数が見られ、また閏月としては十三月を使用しているので、この十二ヶ月の周期を本としているのではないかと推測したい。
世界古今の天文暦法を見てみると暦法には陰暦、陽暦、陰陽合暦の三種類が存在していることがわかる。陰暦は月の運動を天文のよりどころとし、月の満ち欠けの周期を基準とするもので、陽暦は太陽の一年の周期運動を基準とするものである。陰陽合暦とは太陽と月の運動を同時に考慮し、それを天文暦法のよりどころとしたものである。商代ではそのうちの陰陽合暦が採用されていた。甲骨文には日食、月食を占うものがあるが、それらは太陽と月に対する観察の結果であった」
(井上 聰 古代中国陰陽五行の研究 p52 翰林書房 1996年)
『日本書紀』の暦日表記には干支が用いられている。干支、つまり十干・十二支には陰陽五行思想が畳み込まれている。暦を使役するということは、こうした思想哲理にも通じていたであろうことが容易に推測されるのである。漢籍に通暁していた伊預部馬養連も当然精通していたであろう。「浦島説話」は、馬養の深い思索のもとに構想されたのではないかと本論は考えている。

浦島説話研究所

易と日本文化

2009-11-29 13:40:38 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
「現在の日本において易は占いの世界に生きるに過ぎず、易といえばほとんど迷信と同義語にさえなっている。従って、易が学術研究の方法に導入されることは、明治以来、今日に到るまで僅かの例外を除いては皆無に近いという状態である。
しかし易は約五・六千年前に成立したという古代中国の思想哲学、あるいは科学でもあって、その陰陽思想から発展した五行思想を併せて、占いのみならずひろく道徳・学術・宗教の基となり、儒教・道教・方術等の盛行をもたらしたのである。
日本国家の揺籃期、この後進国の識者達が文字通り寝食を忘れて大陸文化の導入摂取にあけくれていた当時、易の理解はその中心課題であったと思われる。その様相は正史の記録からも窺うことが出来るが、その歴とした証拠は最古の古典、『古事記』『日本書紀』の冒頭の序文の内容である。中国の創世記の内容はそのまま『記・紀』に記述され、既著に縷々引用したのでここではくり返さないが正に中国のそれの引き写しである。
さらに『日本書紀』の橿原奠都の詔には、「屯蒙」「大壮」「随時」「養正」など、易の引用が到る処にみられる。
創世記といい、初代天皇の奠都の大詔といい、国家の太初に関わるいずれの場合にも、それらが易の哲学を基に記述されていることは、古代日本の深層に易が根をふかく下ろしていることを物語る。
私どもが自分の国の昔を知ろうとする時、重要なことは祖先達が何を信じ、何を規準として生きていたか、その精神生活の中心を求めることである。昔を知ることは、古人の拠り処としていた処を視ることである。従って先ず、しなければならないことは、時を遡行して古人の側(かたわら)に近づくことであって、現在の位置に居坐って今の心で合理的な解釈とか推測を加えることではない。古人の遵奉していたものが今日からみれば迷信に過ぎず、たとえ非科学的なものであるにせよ、とにかく先ず以てそれを学ぶことが先決である。非科学的といって却け、それを問題解明の手がかりとして用いないことは、科学的ではない」(吉野裕子 易と日本の祭祀 序文~ 人文書院 1999年)
伊預部馬養連が書き記した「浦島説話」は西暦700年前後に成立した。持統、文武両朝に至る治世は国家正史の編纂事業も大きく伸展をみた時代でもあった。

浦島説話研究所

四神相応と風水

2009-11-28 17:23:10 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
「古代から近世に至る日本の都市は、「四神相応の地」に造られたと、さまざまな歴史解説書にうたわれている。平城京・平安京のみならず、江戸までがそうだという。われわれにもおなじみの「四神」とは、東・西・南・北四方に想定された霊獣のことをいう。すなわち東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武である。解説書のなかには、これらの霊獣を、事実「神」だとして説いたものがあるが、これらはそもそも人びとが祀るべき神だと考えられてきたわけではない。古くは中国の方位観や色彩観、そして想像上の動物観に発したもので、本来は都市の立地条件の判断とは関係のないものだった。それが後年の「風水」知識の発展にともなって、立地の好環境を判断する項目の一部に採用された。土地の判断に採用されると、「四神」に地形条件が加味されるようになる。すなわち、東に川があれば青龍、南に池あれば朱雀、西に道あれば白虎、北に山あれば玄武という具合にである。かような条件にかなう地が、すなわち理想的な「四神相応の地」とされた」(渡邊欣雄 風水 気の景観地理学 pp57~58 人文書院 1994年)。

和銅元年2月、平城遷都の詔が発せられた。「方(まさ)に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。都邑を建つべし」とある。四禽とは、四方を守護する四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)のことをいう。平城京遷都と四神相応とは密接に関係していることがわかる。
7世紀末から8世紀初頭の築造とされる高松塚、キトラ両古墳には、天井の星宿図と四神図が共通して描かれている。四神の成立について、根本幸夫氏は「あまり定かではないが、『淮南子』の「天文訓」や「兵略訓」ではすでに確立しているので、戦国後期から前漢初期の頃と考えてよいと思う」と指摘している(根本光人監修 根本幸夫 根井養智 陰陽五行説―その発生と展開― p72 薬業時報社 1991年)。陰陽説と五行説が結合したのも戦国時代頃とみられており、この思想哲理と四神ともまた深い関係を有しているとみられる。

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