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◇ ヤン・ブレキリアン「ケルト神話の世界」

2024年02月13日 | ◇読んだ本の感想。
最初はだいぶ観念的に始まるので、読まずに返してしまおうかなと思っていた。
ケルト神話を読みたかったんですよね。分析ではなく。
でもしばらく読み進めていったらケルト神話も書き始めてくれたので、
少し面白くなって読み続けることにした。
解説部分と神話部分が交互に出てくる感じ。だいぶ観念寄りだが、そんなに不満はなく。
面白かったですよ。少し長さを感じたが。


この著者、略歴を見ると元からケルト学者ってわけじゃないようなんですよね。
判事をやっていたようなんです。どの年齢でかはわからないけれど、ケルト学の学位取得。
「ブルターニュ史」という著書があるらしい。ブルターニュ生まれ。

そういう意味で、いわゆる学者とは違う毛色をちょっと感じる。
神話部分にしても解説部分にしても、たまにぼそっと私見が入るんだよね。
本を書いてる以上全ては私見なのだが。私的なつぶやきというか。

何よりも「これを言ってくれたのはすっきりした!」と思ったことがあった。

   そもそも善良なるキリスト教徒は、どのようにして無限の神の慈愛という教義と
   これほど相反する観念を彼らの教えに加えることができたのだろう。みずからの意志で
   不完全な存在を創り出しながら、その一方で、その不完全さ故に、一部の者を
   永遠に終わることのない恐ろしい苦痛によって罰するというのは、もはや正義では
   ないだろう。創造主がそのようなことを成し得るなどと考えることこそ冒涜である。
   愛の神である創造主に、永劫の地獄を設置することなどできなかったはずだ。

これはなんのことかというと、ケルトの宗教観とキリスト教の宗教観の違いの部分で、
簡単にいうと、「全知全能と言いながら不完全な人間という種を(自らの意志で)創り出し、
その不完全な人間が悪いことをすると咎めて罰を与える」のは変だ、という話。

これなのよ。
わたしもキリスト教についてはずーっと思っているのだが、
「全知全能ならば100%善である人間を創造することも出来たはずなのに、
なぜ悪いことも出来る存在に人間を作ったのか?」
これが疑問。
悪いことをする小さきものの過ちを楽しんでいるのか?
罰を与えることが趣味なのか?

他にも、知恵の木の実のことも腹立たしい。
「この木の実を食べるな」――そう言われたら気になるよ。食べたらどうなるんだろう、と
思わない人は人間じゃない。人間には好奇心というものがあるんだから。
好奇心が人間を進歩させるんだから。そう創っておいて、禁止して、楽園追放なんて。
本当に人が悪いと言わざるを得ない。

しかも知恵の実ですよ。人間が知恵をつけるのが嫌だったのか?
無知のままいさせたかったのか?
まあそんな簡単な話ではないのかもしれないが、昔から腹立たしい。


それから別のところで、この著者は「原罪=性行為ではない」と言っている。
なぜなら神は「産めよ、増えよ、地に満てよ」と言っているから。
たしかに。片方で性行為は悪だといい、片方で産めよと言われたら、
どうしたらいいねん!でしょ。

旧約の神は罰する神。人間を苛む神。複数である可能性もある。
新約の神は愛の神。……らしいのだが、旧約の神を乗っ取った可能性もある。
普通に考えれば旧約の神と新約の神は全然別物じゃないですか。共通点がない。
でもそこを父と息子などと不自然に繋げている。

まあそれまでの土着の信仰を取り込むことなんて、どの宗教でもやっていることだが、
キリスト教の場合は、イエスを磔にしたことを含めて釈然としない。
なぜ神が息子を犠牲として欲するのか?それをなぜ教義として納得出来るのか?


そして肝心のケルト神話については、なかなかボリュームもあって良かった。
長年ケルト神話について何冊か読んで来たなかで、ブルターニュの神話の存在を知ったのが
つい1年前くらいだったのだが(それまではアイルランドの神話しか知らなかった)、
この本でも広い範囲の神話を採取していたような気がする。詳細は覚えてないが。

読まずに図書館に返さなくて良かった。

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