uparupapapa 日記

ようやく年金をいただける歳に。
でも完全年金生活に移行できるのはもう少し先。

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(41)

2021-03-30 03:45:55 | 日記












このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










  第41話 秩父事件

 1884年(明治17)10月29日
自由党は解党した。
その2日後の10月31日、
秩父事件は起きる。 

 秩父事件とは、
埼玉県秩父の農民が起こした明治一揆である。
 その規模は、近隣諸県
(埼玉県の他、群馬・長野)に及び、
自由民権運動に触発された事件としては、
参加人員数千人規模の、
空前の武装蜂起事件と云えた。

 前話でも少し触れているが、
1881年(明治14)
大蔵卿に就任した松方が執った松方財政
(通称:松方デフレ=西南戦争で生じた
インフレを是正するための、
デフレ誘導の経済政策)は、
 脆弱な農業の経済基盤を直撃、
農作物価格の下落を招く。

 決して裕福とは言えない下層農家に
その影響が直撃、深刻な困窮状態に陥った。

 更に生糸の国際市場価格の大暴落が発生、
日本の国内取引価格もつられて暴落する。

 特に養蚕農家が多い地域は
その二重の下落・暴落の犠牲となった。

 特に秩父には養蚕農家が多く、
当時の直接の取引相手である
フランス国際生糸市場が大暴落の震源地であり、
その影響と被害を一番受けた。




 そうした背景の中、
政府は全国で多発・過激化する民権運動に
弾圧強化を以って応える。
 民権派はそれに対抗、
「圧政政府打倒止むなし」
と考える者が多数出た。

 彼ら急進・過激派自由党員は各地で扇動、
群馬事件、加波山事件が発生した。

 特に加波山事件は
「完全なる立憲政体を造出」の実現を目指し、
公然と自由の公敵たる専制政府打倒を宣言した。
 しかし、その武装蜂起は
小規模な政府高官襲撃事件に過ぎない。
 彼らは力で鎮圧された。
 

 これが風前の灯火の自由党に止めを刺す。

 だがそれで終わりではなかった。

 秩父の地域では自由党員が
増税・借金苦に喘ぐ農民を結集
「困民党」を組織する。

 彼らは当初、政府に対する請願、
高利貸しとの交渉を主な活動としていたが、
全く聞き入れられなかった。
 止む無く彼らは、
政府に訴えるため、
蜂起を困窮農民に提案する。
 その結果、我も我もと
多数が参加した。
 彼らは二日前、
自由党が解党した事実を知らない。

 秩父と周辺農民は、
負債延納、雑税軽減を求め
未曾有の規模の武装蜂起に打って出る。

 蜂起の目的は当初
政府に減税を訴える事にあり、
高利貸しや、当該地域の役所が保管する
帳簿を廃棄させることにあった。

 一種の徳政令発動を求めたのだ。

(徳政令とは、それまで背負ってきた
借金などの負債に対し、
幕府などが無効を宣言する事。
鎌倉時代、困窮した御家人に対し、
救済措置として発令したのが始まり。
以降、一揆をおこした農民は、
徳政令を求めるようになった。)


10月31日決起集会が行われ、
蜂起が実行に移された。
 翌11月1日、秩父全域を制圧、
役所及び、高利貸しの貸付証書を
処分・廃棄する。

 その報は電信により、
いち早く政府に届く。
政府は鎮圧のため、迷うことなく即座に
警察・憲兵隊を派遣した。
 更にそれだけでは治まらないと見た政府は、
最終的に東京鎮台の兵士も送り、
農民たちの秩父困民党は、
その武力により鎮圧された。

 後日、事件に関わった
1万4千名が処罰され、
うち首謀者7名に
死刑判決が出され終結する。

 江戸時代と変わらぬ、
力による一揆の制圧。


 もちろん、現在でも
武装蜂起や、その容疑のある集団を
許容するわけではない。


 しかし、そうなる前に
救済措置を取るとか、
できる限りの方策を尽くし、
行政として誠意を見せるべきであった。

 困窮し、
行き場を失った民衆に対し、
何の救済策も取らず傍観しておきながら、
イザ不満を爆発させると力で押さえつける。
そんな民衆からの信を奪う権力は、
いつか必ず悲劇を生む。

そんな国家に明るい未来は無い。



 



 自由党を解党し、
秩父事件の顛末を目の当たりにした退助は、
暗澹たる生活の中にあった。


 そこに追い打ちをかけるように、
妻、お鈴の容体が悪化、次第に弱り
ついに1885年(明治18)6月28日に没した。

 死因も病名も公開されていない。


 鈴との最後の別れの時、
退助は鉾太郎に云った。
「いいか、鉾太郎。
男が泣くときは、人生で一度だけだ。
・・・それは愛するひとを失った時ぞ。」
 そう言って退助は妻を安置する部屋の
ふすまを締め、ひとり声を殺して泣いた。

(ただし、退助はもう幾度か女性を失い、
その都度何度も泣いているが。)

 ひとり残された鉾太郎。

 彼の味方は多忙な父と、
犬のクロ、猫のミケだけであった・・・。

 だが今は新たに加わった
手伝いの絹子もいる。
 彼女はいつも鉾太郎に寄り添い、
かけがえのない強い味方となっていた。

 そんな彼女の支えもあり、
母の面影を胸に抱いて、
気丈にも雄々しく生きる鉾太郎。

 絹子はそんな鉾太郎を
我が子のように思い、心から愛した。

 退助に対しては、
「変なおじさん」との
感想しか持たなかったが、
鉾太郎を守りたい。
出来れば母となり、
行く末を見守りたいとの
母性が生じ始めていた。


  実はこの時から次第に、
初めて退助を鉾太郎の父として、
男として見るようになってくる。

 妻を、母を失い、
悲嘆にくれる生活も、
次第に日常を取り戻してくる。

 甲斐甲斐しく板垣家の家事をこなす絹子。
鉾太郎の世話を焼きながらも、
次第に父退助の存在に意識が向く。

 背後に誰かの視線を感じる退助。
常に誰かに見られている気配を感じる。

 ん?鈴の霊か?
いや違う。

 しかし、不意に誰かが背後から
人差し指で背骨を上から下に
スーッと触れる感覚。

 ゾクゾクっとなり、
左右に身体を捩(よじ)る退助。

 誰だろう?
こんな感覚をもたらすのは。

 
 その正体を知ったのは、
妻を亡くした寂しさから、
退助がお菊のいる「むろと」で
苦い酒を遅くまで飲み、
いつものように女将の菊に冷たくされ、
千鳥足で帰宅した時だった。

 そこに居たのは、母を亡くし
退助以上に打ちひしがれている鉾太郎。

 その鉾太郎が
涙の跡を残しながら眠るその寝顔を、
絹子が添うようにじっと見ていた。

 その様子はまさしく母と子であり、
その時初めて退助は気づいた。

 絹子は手伝いとしてではなく、
母として、家族として接したいのだ。

 退助は絹子を初めて
愛おしいと思った。

 もしかしてその感情は、
恋愛とは言えないかもしれない。

 それでも良い。

 退助は密かに、
絹子を後添えとしようと決めた。

 自分の事を
「変なおじさん」と思っているとも知らずに。

 そして鈴の一周忌を終えた後、
絹子を板垣家に紹介した福岡孝弟に
相談する。

    つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(40)

2021-03-27 05:20:24 | 日記











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       第40話 罠



 明治十四年の政変をきっかけに
大隈重信が下野し、
政府は伊藤博文の専制が固まった。


 その結果、政府部内から
民権運動擁護派は一掃され、
弾圧政策と、懐柔策による内部分裂策動が
同時進行する事となる。

 
 伊藤はまず、後藤象二郎に食指を伸ばす。

 憲法制定と議院設立を目指すなら
まず、先行した欧州などの実情を視察し
我が国に活かすべきであると、
 欧州視察旅行を勧めた。

 


 しかしそれは巧妙な罠だった。

 象二郎は退助を誘い、
まんまとその罠にはまった。

 象二郎は伊藤の企てに気づかず、
得意の錬金術で渡航費用を工面した。
(財閥三井を言葉巧みに説得、
資金を供出させたのだった。)

 退助は費用を捻出できたなら、
洋行しても良いと、
誘いに応じただけであった。

 だがその費用は、
実は政府からの拠出であるとの
疑惑の噂が新聞報道で流布される。
意図的に流された誤報。

当然政府と対峙していた自由党総裁の退助は、
誤報を信じた党員たちから批判に晒され、
外遊反対決議が成された。

 即ち「民権運動の重要な時期に、
政府から金をもらって
海外旅行するとは何事ぞ!」
との批判が噴出したのだ。

 しかし退助は洋行を強行した。

 退助には自負がある。

自分は維新の立役者であり、
元勲のひとりである。
 故に、自分は下野したからと云って、
決して部外者ではない。

 仮に例えその出資金が
政府からでたものであったとしても
自分にはその資格が有るのだ。

 国家を支えるには、民権運動を熟成させ、
一刻も早く、西欧諸国に負けない社会制度を
作り上げなければならない。

 それができるのは自由主義政党を立ち上げ
推進した自分たちだけである。

 
(それが国家からの金であったとしても、)
だから今、
この時期に敢えて視察旅行を挙行するのは
当然である。

 しかしそんな退助の姿勢は、
疑惑を信じる党員たちは理解しようとしない。
当然激しく非難し、対立は深刻化した。

その結果、政府との癒着疑惑を批判した
馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを追放。
田口卯吉・中江兆民が去ったため、
策士伊藤の自由党内部分裂工作は成功した。

 更に退助らの留守中に、
党内急進派が貧農層を扇動、
様々な事件を起こした。

 退助不在の自由党は弱体化し、
過激化した運動は、徹底的な弾圧を受ける。


 一方、退助は象二郎と共に、
1882年(明治15)11月出発。
ジョルジュ・クレマンソー(政治家)、
ビクトル・ユーゴー(文豪)
ハーバート・スペンサー(学者)
などと会談した。

 特に当時の日本では、
スペンサーの著作が数多く翻訳され、
「スペンサーの時代」と呼ばれ、
もてはやされていた。

スペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、
日本でも自由民権運動の
思想的支柱として位置付けられ、
数多くの訳書が出版された。
 退助は『社会静学』を
「民権の教科書」と評していた程である。

 しかし退助はスペンサーと会見した時、
「白色人種が言う自由とは、
有色人種を差別し、
奴隷化した上に成り立つ自由であり、
これは(白人にとって)
都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言した。
 これに対しスペンサーは、
「封建制をようやく脱した程度で
憲法さえ持っていない日本ごときが、
我ら白人社会と肩を並べて語るのは傲慢である」
と退け、退助の発言を空理空論となじる。
納得できない退助は尚も反論しようとした。
 しかしスペンサーは発言を制し
「NO、NO、NO!」と席を立った。

 退助は1883年同6月の帰国後、
フランス革命および白人社会の
「自由」の概念に関し、
批判し、持論を展開した。

 

 フランスという国は
一言でいうならば非常に野蛮な国家である。
 表向きは自由や平等を標榜しながら、
実際には世界中に植民地を有し、
有色人種を使役して平然とし、
世界の貴族階級であるかのように振舞っている。
 彼らが「天は人の上に人を作らず」
と唱える自由と平等は、
白色人種にだけ都合の良い
自由と平等であると言えまいか。

 私はこのようなことであっては
決してならないと考えるのである。
 私が維新改革を憤然決起して行った理由は、
かの国(フランス)に於ける革命主義の如き
思想に出でたるものに非ずして、
尊皇主義に徹した結果である。
 然るに昨今は、
西洋の主義に幻惑して
これを崇拝するが如くあるは、
最もその間違いの甚しきものと
言わざるを得ず。

 皆これを見誤ること勿れ。


 退助は
「日本の自由民権思想は
こうであってはいけない。」と、
フランスの主義を断罪した。



 しかし、フランスの民権思想を妄信し
かぶれた民権家の中には、
退助の主張に異を唱え、
フランス革命思想を礼讃する一派が存在し、
退助の民権思想の間に亀裂が生じた。

 それに加え、
一部の自由党過激派が
1882年12月1日の福島事件、
1883年3月20日の高田事件などが起こしている。

 帰国した退助は、
分裂と過激化による事件の多発、
及び政府の弾圧により党が弱体化した現状を
深刻に受け止めた。
 そんな先行きに不安を感じ、
解党するか、党再建に
10万円の政治資金を調達するかの
いずれかの選択を提議した。

 だが、松方デフレ
(西南戦争の戦費調達で生じた
インフレを解消しようと行った
デフレーション誘導の財政政策)
が原因で、有力な資金提供者であった
豪農層の脱落が相次いだため、
資金集めに失敗した。

 追い打ちをかけるように、
1884年(明治17)
自由民権運動の激化で
加波山事件が起きる。
その事件がとどめを刺し、
10月29日、自由党は解党した。

 更にその2日後の10月31日、
急進派による最大の蜂起事件である
「秩父事件」が発生した。

 退助が撒いた自由民権運動の種は
分裂し、過激化するなど、
残念な結果となり、裏目にでた。
 しかし、ここで息の音が
止められたわけではない。
 
 退助の不屈の執念はまだまだ続いた。




 この頃東京の板垣家では、
新たな動きがあった。

 最近体調の優れない
妻のお鈴を心配していた退助は、
あの福岡孝弟(第3話、20話参照)
が申し出た、
家事手伝いの斡旋を受け入れる。

 荒木伊佐次の七女で
名を絹子と云う。

 絹子は明るく闊達で、
鉾太郎はたちまち懐(なつ)いた。

 福岡は絹子を花嫁修業のつもりで
板垣家に派遣させたが、
奔放な彼女は周囲の思惑の型には
嵌(はま)らなかった。

 明るい人柄の分、
お鈴とは気が合ったが、
退助には手厳しい。

「旦那様はお金持ちなのに、
貧乏と聞きます。
 それはどういう事ですか?」
「旦那様は大層女好きと聞きますが、
本当ですか?」
「旦那様の若い頃の武勇伝は
とても面白いと聞きます。
私にも聞かせてくださいな。」


「そんな事、誰から聞いた?
ワシが貧乏なのは本当じゃが、
それ以外は全くの出鱈目じゃ!
 ガセネタにも程がある。」

 背後から鈴の声がする。

「あら、全部本当じゃありませんか。
私の旦那様は多分宇宙一
ヘンテコなお方。
 絹子にも気をつけるように
私がレクチャーしました。」

 鉾太郎までが無言で大きく頷く。

「鉾太郎!この裏切者!!」


鉾太郎とお鈴と絹子が同時に
ウインクし合った。

 またしても孤立する
可哀そうな退助。


   つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(39)

2021-03-24 03:32:50 | 日記











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   第39話 「板垣死すとも自由は死せず」

 
 1882年(明治14)
伊藤博文と大隈重信の確執の結果、
明治十四年の政変が起きる。
 参議の大隈は、国会の早期開設を唱えていた。
しかし時期尚早派の同参議、伊藤博文との
主導権争いに敗れ下野したのだ。
 大隈は自由党を結成した退助に次いで、
1882年3月14日、新党結成趣意書を発表、
4月16日、東京明治会堂で
立憲改進党の結党を宣言した。
 初代党首(総理)は大隈重信、
副総理に河野敏鎌、
これに自由党から分裂し
立憲改進党の立党に合流した
都市士族民権派、沼間守一、
尾崎行雄(父行正は断金隊2代目隊長であり、
本人は国会議員在位世界最長の記録保持者)、
前島密(郵政創設の父)など、
草々たるメンバーが参加し、
盛大に結党式が行われた。

 これで自由党と立憲改進党の
二大政党が出そろい、
政府と対峙する事となる。

 新たなライバル政党の出現により、
俄然奮起した退助は、
全国遊説を精力的に行い、党勢拡大に努めた。

 そんな情勢の中、
1882年(明治15)4月6日、
『岐阜事件』が起きる。

 東海道遊説旅行で遊説中に、
暴漢・相原尚褧(あいはらなおぶみ)
に左胸を刺されたのだ。

 詳しくは、

退助が午後6時頃、
自由党懇親会の演説を終え、
午後6時半頃、
帰途に就こうと
中教院の玄関の階段を下りた。
その時、「将来の賊」と叫びながら
暴漢・相原が、刃渡り9寸(約27cm)
の短刀を振りかざし、
襲い掛かったのだった。
 退助はとっさに相原の腹部に肘で
当身(あてみ=肘鉄砲)を喰らわす。
(退助は呑敵流小具足(柔術)を会得していた。)
 しかし総てをかわし切れず
負傷してしまった。

 この時、あの有名な
「板垣死すとも自由は死せず」
の言葉を発したと各新聞は報じている。
事件後すぐに発刊された
4月11日付『大阪朝日新聞』は、
「板垣は、
『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』
と叫んだ」と記されており、
他の報道機関でも
これを否定する報道は一つも無いばかりか、
事件現場の目撃者ら及び、
兇漢の相原自身もこれを否定していない。

 退助には平素から自由主義に命をかける
覚悟があった故に、
咄嗟の場であの発言が出来たのだった。
 


 後の取り調べで犯人の相原が
警察に脾腹が痛いと云うので、
調べて見ると黒いアザになっていた。
 それ程退助の肘鉄砲は
強力な反撃であった。

  一方、退助を詳しく診察すると、
命に別状は無いが、
左胸、右胸に各1ヶ所、
右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、
左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っている。



 その日の夜、
東京の自由党本部に板垣遭難の第一報が入った。
「板垣が殺された!」
それがその内容である。
 一報を受けた大石正巳は、
直ちに象二郎にその事を伝えた。

 唖然とする象二郎。

 激しく狼狽し、
男泣きの涙を拭おうともせず、
退助の許、岐阜に馳せ参じようとした。

 第二報で無事だと知ると、
その場にへたり込む。
 暫く立ち上がることもできないほどであった。
 この第二報を受け自由党総代として
谷重喜が岐阜へ向かう。
 更に大阪の幹部党員十数名、
高知の片岡健吉、植木枝盛、
その他愛知、土佐からも
自由党志士が多数終結した。
 設立したばかりのライバル
立憲改進党総理大隈重信でさえ
使者を岐阜へ送った。

 4月7日、
政府首脳にも板垣受難の報が入る。
政府は直ちに閣議を中止。
山縣有朋が明治天皇に事件を上奏した。
 それに対し明治天皇は、
『板垣は国家の元勲なり。
捨て置くべきにあらず』
との御辞、御見舞金三百円の下賜を命じ、
直ちに勅使を派遣した。

 この日、各地の民権主義者の集結で、
さながら岐阜は革命前夜のようになり、
この状態は明治天皇勅使到着まで続いたという。

 4月15日傷が癒えた退助は、
(ええ!もう??!!)
幹部たち主催の演説会に出席、
演説と懇親会では
群衆3000人が集まった程の盛況で、
その関心と人気の高さを物語っていた。

 その事件の余韻が冷めやらぬ12月、
明治13年12月2日号の朝野新聞には、
唯、余(退助)は死を以て自由を得るの
一事を諸君に誓うべき也。
   板垣退助
との記事が掲載されている。

 相原尚褧は愛知県東海市横須賀の
小学校の教員であり、温和で寡黙な性格、
政治運動には関心が薄かったが、保守主義に傾倒、
自由党を敵視し、退助の殺害を計画していた。

 後に退助は
自ら国事犯の相原尚褧に対する
助命嘆願書を提出した。
 これにより相原は
極刑を免れ無期懲役となった。

 後日、(もちろん数年後のことだが)
東京芝区愛宕町の(当時の)退助の寓居に
刑期を終え、改心した相原が訪れる。

 退助は、
「この度は、つつがなく罪を償はれ
出獄せられたとの由、
退助に於ても恭悦に存じ参らす。」
と、温かい声をかけた。
 相原は畏まり
「あの時の事は
今更申すまでもございませんが、
更にその後も小生の為に幾度も
特赦のことを働きかけて下さった
御厚意につきましては、幾重にも
感謝している次第であります。」
と礼を述べた。



 退助は相原に、  
「併(しか)しながら若(も)し此後、
退助が行う事にして
如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば
、その時はこう斬らるゝとも、刺さるゝとも
君が思ふが儘に振舞ひめされよ」



 (もし、この退助が今後、
国家に不忠な行為をしたと思うなら、
私をもう一度刺してくだされ。)

と云っているのだ。

普通自分を刺した相手に
そんなこと言う?


 それが板垣退助という男だった。



 蛇足ながら、
退助が全快し、東京に戻った時の
象二郎のハシャギぶりは尋常ではなかった。

 
 その喜びようは、
妻の鈴でさえ、嫉妬するほどである。

「ありゃ!退ちゃん!!
ほんまに退ちゃんか?
幽霊とチャうんか?」
「何を云う!こうして生きて帰ったじゃろう?
ワシゃ不死身じゃき。
チャンと足も有るじゃろ?」
「確かに足はあるが・・・・。
足はあっても、
顔に締まりが無か。」
「じゃかましか!
締まりがないのは生まれつきじゃ!
・・・って、
おまんにだけは謂れとうなか!
何が締まりの無い顔じゃ!
こう見えてワシは不死身の
『梅干し食べて酸ッパマン』じゃぞ!
ほれ!!!キリリと引き締まった
正義のヒーローの顔をとくと見よ!」
と、梅干しを食べた後の
酸っぱい顔😖をしてみせた。
(しかしその顔は、
ポポポポとした時の顔だった。)
一同呆れ、しばし無言。
 気まずい雰囲気が漂い、
その空気に耐えきれず
植木枝盛が口を挟む。

「後藤はんは、第一報で先生が死んだと聞いて
えらく取り乱しておりましたぞ。
百里四方に轟く程、大きな声で
泣き叫んでおりました。」
「こら!枝!!
何、でまかせを云う!
ワシがいつ泣き叫んだ!」

顔を真っ赤にし、
あからさまに狼狽する象二郎であった。

 退助は、そんな我を忘れ
アタフタする象二郎を初めて見た。

 全快祝いを「むろと」で行った時も、
お約束の、有り金全部供出の儀式から始まり、
恥ずかしい話のオンパレードだった。

 しかし、今回の宴会は、
明治天皇から下賜された見舞金三百円がある。

の筈だったが・・・、
そんなものいつまでも後生大事に
懐にいれている退助ではない。
 とっくに党の活動費に消えていた。

ううん、残念!
やはり懲りない面々であったか。

女将のお菊の苦労もいかばかりか・・・。

 つづく


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(38)

2021-03-21 03:49:48 | 日記












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    第38話 自由党


 1880年(明治13年)11月10日、
国会期成同盟の大会にて植木枝盛、河野広中らが
政党結成の提案を提出、
「自由党準備会」を発足し、
自由党結成盟約4か条を定めた。

(第2次)愛国社の使命は
次の段階へと発展する。


 1881年(明治14)
明治天皇より国会開設の詔(みことのり)が発布される。
 10年後、帝国議会を開設すると云う
政府の約束を取り付ける事に成功したのだ。

 退助の目指す自由・平等・人権の確立のための
第一関門突破の瞬間であった。

 
 退助はここに日本初の近代本格政党である、
『自由党』を結成した。


 初代党首(総理)は退助。
後藤象二郎は常議員として参加した。

 結党の理念は
当時士族の支持者たちの間で急速に普及した
フランス急進思想(ルソーなど)の影響にて、
一院制・民本主義・尊王・公正な選挙制度を掲げる。
 退助は西洋の啓蒙思想とは
一線を画す独自の考えを持つが(尊王思想)、
敢えて就任を受諾した。


  『自由党の尊王論』
 退助は1882年(明治15)3月、
著作『自由党の尊王論』を発表、
自由主義は尊王と同一であると説き
自由民権の意義を表した。


 「世に尊王家多しと雖(いえど)も
吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。
 世に忠臣少からずと雖も、
吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。
 吾党は我 
皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。
 皇帝陛下には
「広く会議を興し万機公論に決すべし」
と宣(のたま)ひ、
又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」
と宣(のたま)ひたり。

 故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は
悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、
一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。
  
 吾党は我人民をして自由の民たらしめ、
我邦をして文明の国に位し、
(陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、
無上の光栄を保ち、
無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。

    (抜粋)

   板垣退助 著


 自由党が強力に推進する自由民権運動は、
全国に組織を広げた。
 しかし政府はその急進的且つ、
過激な言動を問題視し、
集会条例を以って弾圧した。 

 何故急進的、過激な傾向があるのか?

 それは自由党を構成する党員にあった。
それまでの愛国党などは、
士族が中心だったが、
今回の自由党は農民が大半を占める。

 つまり、税金を直接負担する階層なのだ。
だから、彼らの関心は、自由や平等ではなく、
如何に税金を軽減するかにかかっていた。

 税負担軽減を掲げる、一種の一揆感覚なのだ。





 
 退助が全国を飛び回る中、
ひとりの女性が退助の元を去る。

 土佐の本宅を守ってきた展子(ひろこ)である。


 退助は政治に傾注し、
もうここには殆ど戻ってこない。

 どれだけ待っても、
待っても
待っても
待っても

戻ってこない。

 東京の妻には嫡男がいる。
 しかし私には何も無い。

 夫がたまに帰ってきたとしても、
もう心が通じ合う事はない。

 いつも隙間風が体を貫くこの寂しさに、
展子は耐えられなくなっていた。

 たまたま退助が運動で土佐に帰郷した折り、
展子は意を決し、
ついに退助に離婚を切り出す。

 退助は最初から気づいていた。
東京の妻、鈴との間にできた鉾太郎の誕生は、
展子を孤立させると。
 展子にも子ができるという可能性は極めて低い。
 第一に、自分がこの土佐に留まるのは
ほんの一刻(いっとき)に過ぎない。
 離れたお互いの心を修復する術はなく、
一緒にいるのが苦痛にさえ思えた。

 「・・・済まぬ。
総てワシが悪い。
 ソチを幸せにできなかったこと、
自分勝手なワシの振る舞いに
さぞ心が痛んだだろう。
ワシを恨んだだろう。
寂しかっただろう。

 ソチのその涙は、
裏切りや、恨みの眼差しより辛く痛い。

 いっその事、ソチに愛想を尽かされ
浮気され、裏切りに遭った方が
どれだけ気が楽か。

 ワシは我が身の身勝手さを、
死後の世界で閻魔に厳しく裁かれるだろう。

 だからといって、
それで済むとも思っておらぬ。
 ソチを不幸にした報いは
ワシの生涯を蝕み、苛まされ続けるだろう。

 だが、これだけは分かってくれ。
今となってはもう
信じてもらえぬかもしれぬが、
ワシはソチを愛していた。
 心から愛していた。

 ・・・本当に済まぬ事をした。」

「あなた様の事は
良く分かっております。
 いつも一生懸命で、悪気はなく、
人の事を第一に考えてくださるお人だと。
 ただあなた様のその情の深さが
仇(あだ)になっていることも。
 あなた様は人を引き付けます。
同じくらい女心を刺激します。
 そしてあなた様はそのご気性から、
惚れた女子(おなご)を放したくないのです。

 多分あなた様のその性向は
今後も変わらぬでしょう。
 願わくは、私のような寂しい思いをする者が
もう出ないように、と思うだけです。」



  別れの朝

 私は、ちぎれるほど手を振る
あなたの目を見ていた。

(どこかで聴いたフレーズ?)


 もうとっくに母は他界し、
この家には誰も居ない。



 退助は東京に帰ると
鈴に展子との離婚を告げた。

 鉾太郎はじっと父を見る。
無言でひたすら見ている。
 この日の父の表情を
生涯忘れぬと決めたかのように。

 いたたまれない父、退助は、
ひとりでお菊の店に足を運んだ。
 「今宵は酔いつぶれるまで
飲むから、そのつもりで。」
 女将のお菊は、
何か言おうとしたが止めた。


 
 程なく障子の向こうの廊下から、
聞きなれた声の一団が近づく。

 ノックもなく、「入ります」もなく
ニコニコ顔の象二郎。
 その後ろから植木枝盛、河野広中が続く。

「なんだ、退ちゃん、
やっぱりここにいた。
お宅に行ったらどこかに出かけたというから、
きっと此処じゃろと思った。
 他に行くところは無いんか?」

「ん?その顔はどうした?
左の頬が赤いぞ。」

 憮然とした退助、
「何でもない。」

(実はこの少し前、退助がおいおい泣きながら
お菊にすがろうとしたら、
ピシャリと平手が飛んだのだった。)

 何かを察した象二郎が
底抜けに明るく話題を変えて、
「さあ、皆の衆、
今、手持ちの有り金を全部ここに出せ。」
とテーブルを指した。
 すると広中が、
「え?象二郎殿、活動資金は任せろと
云っていたじゃないですか?」
「活動資金はな。
ここの飲み代は別会計じゃ。」
「出たよ、大風呂敷の真骨頂!」
と枝盛。
「やかましい!さっさと出さんかい!
有り金全部だぞ。
 なんだ、広ちゃん(広中の事)、
そんなぽっちしか無いんかい?」
「だって、今宵の会計は象二郎どんが
持つとおもっとたから。」
「何か怪しいな・・・。
ちょっとそこで何回か飛び跳ねてみよ。」

 するとポケットからチャリチャリと小銭の音。
「やっぱり隠しておった。
正直に全部出さんかい!」
「だってこれは帰りの馬車代だから。
これだけはお代官様、お許しを!」
「いや、許せん。
帰りの事まで計算して飲もうなんぞ、
天下の自由党員の風上にもおけんきに。
帰りの金が無いときは、
徒歩か野宿と相場は決まっちょる。
軟弱な考えはご法度ぞ!」
すると枝盛が
「女将、今宵は豆腐とモヤシだけで良いぞ!」
「何をおっしゃいます!
天下国家のお話をされる志士の皆様が
豆腐とモヤシだけなんて。
今日は生きの良いカツオがあります。
遠慮のぉ、ご注文ください。」
「え?いいんかい?じゃぁ、納豆も!」
「その代わり、後日厳しく取り立てますので。」
「また出世払いの借金が増えたか。」
「また?どんだけ借金があるのですか?」
と広中が不安な顔になる。
 すると枝盛が
「大丈夫、イザとなったら大風呂敷象二郎様が
何とかしてくれますけん。」
「だれが大風呂敷じゃ!
ワシャ名高い後藤象二郎様ぞ!」
「ハイハイ、この失業者集団は
いつになったらもっと羽振りが良くなるのでしょう?」
「何を云う女将、それが伝統というものぞ!」
すると枝盛も口をそろえるように、
「それが貧乏政党、自由党の真骨頂じゃ!」
と胸を張る。


 存在を忘れられていた退助が、
「なあ、お主ら何しに来た?
ワシを忘れておるぞ。」
「ああ、退ちゃん、居ったのか。
今日は憂さ晴らしにぱぁ~と行こう!
のう、広ちゃん!」
「ワシが悲しみに暮れるのを、
皆でハチャメチャにする気じゃな?
仕方ない。
 よぉし、今宵は飲むぞ!
菊、ジャンジャン下町のナポレオン三世を
持ってきてくれ!」


 さっきまでの退助の悲しみは
何処に行ったのでしょう?

 懲りない面々でした。

   つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(37)

2021-03-18 03:33:25 | 日記











このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。











  第37話 国会期成同盟

 西南戦争、立志社の獄に加え
退助の参議復帰により、
出来たばかりの愛国社は
自然消滅した。(第一次愛国社)

 
 明治新政府以降、
不平士族の反乱は
征韓論をきっかけに起きた
明治6年政変以降、
頻発している。

 佐賀の乱(江藤新平)、
神風連の乱(熊本、廃刀令に反発)、
秋月の乱(福岡、神風連の三日後)、
萩の乱(山口、秋月に呼応)。

 そして極め付けが
西郷隆盛の私学校が起こした西南戦争。

 それら不平士族の反乱は
政府により、悉(ことごと)く潰された。

 それは士族民権運動の終焉を意味し、
不平士族たちの武力に頼った運動は、
武力によりねじ伏せられ
終わりを迎えたのだった。

 しかし、それは民権運動の
消滅を意味しない。
運動の主体が士族(士族民権)から
農民へ移るきっかけとなる。



 士族に代わり立ち上がったのが、
何の力も持たない、(国民の大半を占める)
農民層であった。
 有史以来常に支配を受け、
国家の屋台骨を支える
税金捻出マシーンとして
虐げられた人々である。

 しかし彼らは退助の呼びかけから
僅か数年後、雄々しく立ち上がった。

 その背景は、
大規模な内戦となった
西南戦争の戦費調達のため、
新政府が発行した紙幣の乱発にある。

 お金を発行すれば戦費は賄える。
しかし、その通貨である紙幣には
発行する国が保有する
金など財政の裏付けはない。
(不換紙幣)


 裏付けのない紙幣は、
妻たちの信用のない退助のようなもの。


 新紙幣は発行された途端、
市場原理が働き、お金がだぶつき
購買対象物が不足する。
 つまり物の価値が上がり、
お金の価値が下がったのである。


  *蛇足ながら*

 この仕組みを狡猾に利用しているのが、
現在の中国。
 国家経済の実態に於ける
実力以上のお金(電子マネーを含む)
を湯水の如く発行しても、
インフレにはなりにくい。
 それは似非(えせ)市場原理を
共産党政府が統制し、
上手くコントロールしているため。
 他の資本主義諸国が真似できない
国家的詐欺行為の成せるワザなのだ。


 横道に逸れたので、
話を明治政府に戻す。

 正直な明治政府は、
市場原理の調整能力も、その意思もない。
 その結果、インフレーションが発生。
農民が政府に払う
年貢の税額は変わらぬため、
(相対的に)実質負担が軽減された。


 更に1876年(明治9)
地租改正反対一揆が農民の間で勃発。
 政府は一連の不平士族たちの乱との結託を恐れ
地租軽減策で譲歩、
(地租を100分の3から100分の2.5に減額)
農民層の租税負担が減少し、
政治運動を行う余力が生じた。



     *蛇足2*

    地租改正

 1873(明治6)に
明治政府が行った租税制度改革。
地租改正法(上諭と地代の3%を地租とする)
では、江戸時代の年貢率と変わらない。
 新政府になって租税軽減を期待していた
農民の失望は大きく、
不平士族同様、不満が溜まっていた。 


     *蛇足3*

 不平士族は日本の総人口の1割に満たない。
しかし、農民層は8割超であることから、
一揆が全国に広がると、
政府は如何に武力で鎮圧しようとしても、
それは不可能と云える。
 政府には懐柔策しか無かったのだ。


 そうした事情から自由民権運動の主体も
士族から農民、とりわけ地主と呼ばれる
農民指導者層を中心に、
『豪農民権』へと変遷した。

 退助が士族ではなく、
農民をターゲットにした意識改革運動は、
ここにきてようやく実を結ぶ。

 この情勢を受け退助は、
1878(明治11)愛国社を再興、(第2次愛国社)
1880(明治13)国会期成同盟の結成を成す。

 これにより政府に対し国会開設の請願、
建白書が多数提出される。

 富農層中心の運動は瞬く間に広がりをみせ、
政治的要求に民力休養・地租軽減を求めた。
 更に士族民権や豪農民権の他にも、
国の施策である殖産興業策の結果興った
都市ブルジョワ層や、
貧困層までも参加するまでになってきた。


 一方民権運動の盛り上がりに対し、
政府は1875年(明治8)、
讒謗律、新聞紙条例を公布、
1880年(明治13)、
集会条例などで言論弾圧し対抗した。



    私擬憲法



 国家の弾圧なんぞに負けてはいけない。

 国会期成同盟は、国約憲法論を展開する。

 即ち、『國家の根本法たる憲法は、
君主と人民との一致に基づいて定むべく、
國約憲法とは之(これ)を謂(い)ふなり。
 (後文省略)

  板垣退助』


 1881年(明治14)
その前提となる試案として、
自ら憲法を作ろうと、
私案を持ち寄ることを決議し、
国民に広く求めた。

 これを受け、
全国に憲法草案を発表する者たちが多発、
1881年(明治14)
交詢社は『私擬憲法案』を発行、
あの植木枝盛も『東洋大日本国国憲按』起草、
発表した。



  *蛇足3*

 昭和になって
東京五日市町で発見された
『五日市憲法』などは、
地方における民権運動の高まりや、
思想的な深化がみられた。


 

 退助の活躍の陰に
常に象二郎あり。
 活動の裏付けとなる資金調達担当は
失業したあの日、
料亭『むろと』で
他のメンツとジャンケンで負けた
象二郎がなった。

「え~!何でワシじゃ~!!」
「ええぃ、象二郎!うるさいぞ!!
ジャンケンで負けたんじゃき、
男らしく従え!!
 それにお主にその役はピッタリじゃろ?
口先三寸でお金を生み出す天才じゃき。
 まるで資金調達をするためだけ
生まれてきた男ぞ。」
「退ちゃん、それは酷か!
それじゃまるで
ワシャ詐欺師みたいじゃなかか!」
「当たらずとも遠からずじゃろ?
人は皆、大風呂敷の象二郎と呼んでおるぞ。

 しかもその大風呂敷の中から何でも出てくる。
魔法の大風呂敷じゃな。

 まあ、それでワシらの資金を調達したのだから
象二郎様々じゃが。

 ハハハ!」

 実際象二郎は、
政治資金を調達するための商社を設立。
 「蓬莱社」と命名する。
 旧知のジャーディン・マセソン商会から
約55万円を借り、その資金で
政府から高島炭鉱の払い下げを受ける。
それを岩崎弥太郎の三菱に約97万円で転売、
借りた55万円に利子をつけ
マセソン商会に返済、
転売差額と毎月1000円のマージンを
三菱から受け取る事とした。
つまり自己資金ゼロで
悪辣なわらしべ長者のような
からくり錬金術を発揮している。

(岩崎弥太郎も
土佐林塾の同窓生で仲の良い友である)

そう云う手法は、
どこか今の中国に似ているかも?


 退助が愛国社を再興した時、
(第二愛国社)
全国から有志が集まった。

 その中にあの三春城無血開城で
出逢った河野広中がいた。
(第24話参照)
(彼は後に、
第11代衆議院議長にまでなっている。)
 あの時から広中は退助に心酔していた。
同時に自由民権思想にも感化されている。

 ただ、広中が学んだ自由民権思想は、
西洋の啓蒙思想家たちのそれであり、
特にルソーの『人間不平等起源論』
の信奉者であった。

  広中が退助に問う。
「先生(退助の事)は
自由と平等を説いていますが、
その知識は一体
何処から仕入れられたのですか?」
「え!そなたも尊王思想の持主であろう?
なら、天賦人権の教えも存じておろうが?
天子様(明治天皇)から明示された
『五箇条の御誓文』にある通り、
君主が国を治め、民に幸福を与える。
そのために必要なのが人権の保障であり、
その道筋として
自由と平等の確立が必要なのじゃ。

 ワシはソチの聞き齧った
ルソーなるものの
教えに触れたことはない。
 でもおおよその概要は存じておるぞ。
西洋の云う自由とは何じゃ?
平等とは何じゃ?

 他人の国を侵略しておいて、
その国の民を奴隷や虫けら同様の
扱いをすることを基本的人権と申すか?
それを自由と申すか?
平等と申すか?

 お題目なら何とでも唱えられよう。

 ワシらが実現するべきは
国民の誰もが幸福を希求できる
自由で平等な世の中ぞ。

 だから間違ってもらっては困る。
また、一緒にされても困る。
無意味な西洋かぶれでも困る。
 ワシらが募るのは、
国の為、真剣に戦う志士ぞ。」

「それを聞いて安心し申した。
今後はどうぞ私に東北をお任せくだされ。
天賦人権の楽園を造って見せましょうぞ!」
「そうか!その言葉、頼もしく思う。
 お主は無血開城の時も
その目でしっかり見据えて約束してくれたきに。
 今度も全幅の信頼をおこう!
のう、象二郎?」

 大番頭の象二郎は言った。
「資金はワシがいくらでも都合するけん、
遠慮のう申せ。」

 そこにどこからともなく、
女将の菊が現れる。
「そうですか?
それならあの時の(出世払いの)ツケも
そろそろ耳をそろえて
お支払いいただけますね?」

 退助が弱弱しい声で
「それが・・・・、その、
象二郎はワシと同じ哀れな失業者で
只の大風呂敷野郎じゃき、
今はまだ無理じゃ。」

(1875年(明治8)、
一度復帰した参議の職を
僅か半年後再び対立、
10月に辞職、下野している)

「ここにいらっしゃるときは
いつも失業中・・・。
 ハァ、 (*´Д`)
やっぱり懲りないお方たち・・・。」

 あきれ顔のお菊だった。


     つづく