uparupapapa 日記

ようやく年金をいただける歳に。
でも完全年金生活に移行できるのはもう少し先。

シベリアの異邦人三部作を別ブログにもアップしてみました。

2020-01-14 15:58:13 | 日記
https://ameblo.jp/uparupapapa-2019/

このgooblogで先に発表していた『シベリアの異邦人』三部作を
順を追って辿れるよう、上記のURLの新規ブログに再度アップしてみました。

もし良かったら、暇なときに訪問してみてください。

シベリアの異邦人~ワルシャワ蜂起編~

2020-01-06 03:54:07 | 日記
1926年、8月27日、ポーランド軍テストパイロットである
ボレスワフ・オルリンスキ大佐は
メカニックのフィリプ・クビャク軍曹とともに
ワルシャワから東京間10,300kmを飛行するため、
晴天の中、一路東へと旅経った。

 これはヨーロッパ人の日本への初飛行であった。

 一行はモスクワ、ハルビン等を経由しながら
九月5日に日本の所沢飛行場に到着し、
多くの日本人から熱烈な歓迎を受けている。

当時のポーランド情勢は、1918年第一次世界大戦終結と共に
ロシア、ドイツ、オーストリア=ハガンガリー帝国支配から解放され、
1918年独立、主権を回復した。それからわずか8年足らず。
しかもその間、ポーランド・ソビエト戦争を経験している。
1919年2月から1921年3月まで
ボリシェビキ政府とのロシア革命干渉の戦争で、
祖国ポーランドが分割された1772年以前の領土を回復し、
1791年以後の国家の版図を復活させるため、
ロシア内戦の混乱に乗じてロシア革命、
第一次世界大戦からの戦線離脱・敗戦と
こちらも建国間もないソビエトに侵攻した。
この戦争でポーランド軍は一時劣勢に立ち、
ワルシャワが包囲されるという窮地まで経験している。
結果何とか勝利し、領土回復を果たしたが、その国力は一気に疲弊した。
およそ150年もの間亡国・分割支配に苦しみ、
独立後も失地回復、誇りと名誉と意地を取り戻すために
戦い続けたポーランド人。
 そんな苦難の中にあった中、
驚くべき技術の発展を見せた国でもあった。

それは航空技術。

 ズィグムント・プワフスキという一人の天才航空技術者により、
1928年直列エンジンを搭載した
全金属製高翼単葉機のP.1を設計している。
当時世界最高性能を誇る戦闘機である。

 その2年前の日本渡航。
当時のポーランドの航空技術の高さを証明する
画期的な出来事であり、
下地である技術の水準の高さを物語っていた。

 ここでひとつの疑問が残る。
それだけ高い技術と知識を持つ国が何故侵略されたのか?

近隣諸国の侵略を許し何度も分割・亡国を
経験しなければならない国や民族は、
果たして国力全体の比較では劣っていたのか?
否、そもそもポーランドという国は、
中世においてポーランド王国、ポーランド・リトアニア共和国として
中央・東欧州随一の栄華を誇っていた。
 ただ当時のローマカトリック教会の支配圏内の特徴として、
封建制度が中央集権の発達を阻害し、国力、
とりわけ軍事力の増大を封じ込める役割を果たしていた。
いったいどうやって?
その鍵はキリスト教という絶対的な権力にあった。
神は人の上にある存在であり、
神の使いとしての人間界の組織は教会である。
その頂点にあるのがローマ教会であり
そのまた頂点にあるのが教皇である。

人は神を信じ、その教えに従わなければならない。
それは一般の領民も国王・諸侯も変わらない。

封建社会に於いては、原始の万人の万人に対する闘争状態から
力による安全保障を領民それぞれの個人に約束、実行するのが
社会契約上の根拠となり得る国王・諸侯の権力の源泉である。
しかし国王にしても、諸侯にしても、お互いの領土争いや
権力争いには、戦争による力の屈伏か策略が付き物であり
自分の安全保障には自分の力以外頼れるものはない。
いつも闘争状態の不安の中暮らさなければならないのだ。
その不安を解消させてくれるもの。
それが宗教であり、教会である。
人間を超越した存在、絶対的な権力の下、
神の前では権力者たちも従う根拠であり、
神の名のもと、自分の権力も守られるのだ。
だから国王も諸侯も神の意思の代弁者である教皇の前では
従う必要がある。
歴史的なエピソードとして
『カノッサの屈辱』がある。
神聖ローマ帝国国王が領内の教会の収入を
我が物にしようとしたとき
収入を奪われた教皇は激怒、国王を破門した。
破門された国王はその瞬間、周囲の諸侯から
侵略の脅威に晒され、身の危険を覚えた。
それは国王と周囲の諸侯の力の差が少なく、
諸侯に団結して攻め込まれば
たちまち滅ぼされることを意味するから。
それに対し、早くから絶対王政を敷き、
中央集権化に成功したイギリスやフランスは
ローマ教会の言う事を聞かなくなった。
国内に於いて、自分に逆らう存在がなくなり、
教皇の安全保障がいらなくなったから。
逆に、ローマ教会の身になって考えると、
自らの権力・権威を保持するためには、
各国の国内政治に干渉し、国王・諸侯の分裂
分権状態を保持し続けなければならない。
つまり世俗権力の国王・諸侯の力の均衡があり、
その上に世俗を超越した宗教上の権力が
はじめて威力を揮うことができるのだ。



その中にあって、
ポーランドも主にカトリックが主流ではあったが、
他国とは少々事情が違った。

ポーランドは他民族連邦制的構成で成り立った国で、
宗教の強制は比較的ゆるい傾向があった。
貴族・聖職者の特権が非常に強いおかげで
王権が著しく制限され、地方分権的性格と多様性が強く、
近代国家移行の通過点でもある絶対王政、
中央集権を最も達成しにくい環境にあった。

ただしその政治の仕組みは共和制的近代民主主義の先駆けである。
と云っても、貴族・聖職者が構成する領主制議会に実権があり、
国民の大多数は農奴の身分の範疇で、何の権利も持たなかったが。


そう言う訳でローマ教会の支配力というより、
他民族、多宗教の集合体の地方分権であったが故の中央集権による
国力増強、国防力増強につながらなかった理由であり、
他国の侵略を許した原因となったのである。
 更に王位継承争いから分断・国力減退につながり、
他国の侵略を許してしまった。
しかも1775年以降イギリスで始まった
産業革命の波がヨーロッパに席巻したとき、
ポーランドは他国の分割支配により、自由に産業の近代化ができなかった。
だからハプスブルク家が統治するオーストリアにも負けない有力国家であり、
中央欧州文化の花咲く中心地だったポーランドが、
分断支配から解放され1918年に独立するまでの長期間、
たち遅れた産業国家からのスタートを余儀なくされたのだ。
 
 そうした不運から他国に支配された間にあっても
その血を脈々と受け継ぎ、
有名な名門ワルシャワ大学等、高等教育機関を通じ
文化や知識を継承してきたのは、
民族の持つ地力(ベース)の歴史的観点からみて不思議でも何でもない。



話が大きく逸れてしまったので、元に戻す。

さて先ほど登場したメカニックのフィリプ・クビャク軍曹。
彼は盟友でありパイロットのボレスワフ・オルリンスキは年上で
大佐である彼との階級差はあったにせよ、
動を共にする信頼おける仲間だった。
 そんな彼らが日本に滞在した一週間、どんな思いでいたのだろう?

それは見るもの聞くものが初めての体験で、
眩暈がするほどの刺激的なものであった。
 ヨーロッパ諸国とは正反対の国。地理的位置もそうだが、
価値観、行動様式、建築物に対する思想、料理の伝統など、
数え上げたらきりがないほどの違いに満ちた不思議の世界。

 そもそも何故日本を目指した?

 日本とポーランドにはそれ以前からの深い繋がりがあり、
互いが特別な国でもあったのだ。
彼らの関心は他のどの地域より興味と魅力に満ちていたので、
必然的に当時の空の大冒険の先に日本を選んだのは当然の選択であった。
 そして彼らが予想した通り、いや、
それ以上の期待を超えた経験をすることができたのだろう、
後の彼らの行動に色濃く日本滞在の影響がみられた。

 特にフィリプにとって、
彼が日本に対する強い関心を持つキッカケとなった
ポーランド孤児の日本での体験、日本という国の特殊性に着目し、
その後の彼の行動を大きく突き動かす事となった。

帰国後英雄の一員となった彼は少尉に昇進し、
ポーランド北部グダニスクからおよそ200km東に位置する
軍の施設に赴任した。
そうした地理的条件も関係し、
やがてポーランド孤児たちが帰国後過ごした
バルト海沿岸のヴェイローヴォ孤児院に足繁く通うようになる。
日本から帰還した同胞の孤児たち。
興味と親近感と祖国を愛する使命感から自然と足が向くのだろう。

しかし次第に彼の目的は変質していった。

それは一人の少女の存在にある。
初めて出会った時彼は20代前半、彼女はフィリプより一回り以上年下の
現在の日本でいう小学6年生くらいだったが、
その時すでにその夢見るような表情と、
会う人に目の前がパッと明るくなったような気持ちにさせる
快活さと美貌をもった人目につく少女だった。
 当初は単にませた少女に過ぎなかったが、
時が経ち訪問回数が増えるに従い、
彼女の成長とその魅力は比例するように増し、
そしていつしか彼は彼女を意識し、
当然のように恋をするようになっていた。

 彼女の名はヨアンナ。

時が経ち少女だったヨアンナも大人になり、
自分の居場所と成すべき仕事を見つけ、
孤児院の世話と孤児たちが構成する極東青年会のメンバーとなり、
活動に没頭するようになっていた。
彼らの活動を側面から支援し続けてきた日本大使館との交流でも、
フィリプは彼女と出会う機会が数多くあった。
 歳の差が一回り以上違う彼女に対し、
年上の気おくれから彼女に自然な会話などできる訳もなく、
ただぎこちなく、他愛のない挨拶をするのが関の山だった。
ただし彼女の方は彼の気持ちを知ってか知らずか、
時折ポーランドの青く澄んだ夏空のような
気持ちの良い笑顔で話しかけてくるのだった。
「まあクビャクさん、ごきげんよう。
いつも慈善パーティにご協力いただき、
ありがとうございます。
おかげさまで子供たちも皆喜んでいますのよ!
是非今宵もごゆっくりお楽しみください。」
夏に一斉に咲き誇る花々のような匂いが
伝わりそうな軽やかな声でそう言った。
「そう言っていただくと返って恐縮です。
私もあなた達と同じく、
日本を経験した同志だと思って参加させてもらっているのですよ。
だからそんなお気遣いは無用です。」
心の中では「クビャクさん」ではなく、
「フィリプ」と親しみを込めて呼んで欲しいと思っていたが、
そんな言葉を口に出す勇気はなかった。
彼は決してさえない風体の男ではない、
むしろ誰から見てもさわやかな好青年で、
街を歩くだけで、
道行く女性たちが密かに振り向くほどの好男子でもある。
ただ自分より若すぎる素敵な女性に気おくれしていた。
そういう慎ましさと誠実さが彼に備わった特徴でもあった。
「そうでしたわね!
私たちはこの地で数少ない日本体験をしてきた絆で結ばれた友。
クビャクさんは年上ですが大切な親友のような存在なのですね。」
「そうですとも!だから困ったことがあったら
遠慮なく申し出てください。
私にできることなら精一杯お手伝いさせていただきますよ。」
満面の笑みを添えて彼は言った。
「ありがとうございます。とても心強く思いますわ。
私たちの組織はいつも困難な状況の中にいて、
絶えずたくさんの支援者の皆様のお力添えを必要としています。
厚かましいとは思いますが、
必要な時には遠慮なく助けを求めることになると思いますが、
その時はどうぞよろしくお願いいたします。」
そう言って彼女は右手を差し出した。
「喜んで全力を尽くさせていただきます。」
ときめく心を必死で隠しながら、彼は握手した。
その時が初めて彼女に触れた瞬間だった。

 その日を期に、
彼と彼女は会う機会がある度に打ち解けた軽い挨拶の他、
ちょっとした季節の話などを織り交ぜた会話をするようになった。
 しかしふたりの距離はそれ以上進展することなく
時ばかりが過ぎていった。


それから数カ月の時が経ち、暗黒の年がやって来た。
1939年4月28日、ドイツは
ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄、
不安と現実の危機が目の前に迫り、同年9月1日早朝、
ドイツ機甲師団が雪崩を打って国境を越えてきた。

 瞬く間に占領された祖国。
 
再び他国の支配に甘んじなければならない辛い毎日の始まりだった。


 そんなある日の慈善パーティでのこと。
いつものように彼はヨアンナの姿を目で探しながら、
会場の隅で参加者たちの人間観察をしていた。
 しばらく経って彼は彼女の姿を見つけた。
いつものように挨拶に向かうと、
彼女は正面に立つある男性と親し気に話している。
 しかもそれは東洋人。会話内容が聞こえないほどの距離のため
いったい何を話しているのか聞き取ることはできない。
しかし、フィリプは片思いの異性に対する鋭い観察力と
一瞬にして発揮される直感により、
ただならぬ親密さを感じ取った。
そのふたりだけの空間には部外者の入り込めない
見えない壁と厚い扉の存在があるように思えた。
 「!!!」感嘆符付きの衝撃が背筋を貫く。
務めて冷静を装うつもりでいたが、掌と額の汗は隠し通せない。
 少し距離をおいた所で佇みながら、
ただただ汗をぬぐうしかなかった。
会場の同じ空間にいながら、すぐ近くに存在しながら、
天と地ほどの乖離した世界に迷い込んだ気がした。

 どれほどの間傍観していただろう。
気がつけば会話を終え、
自分の存在に気がついたヨアンナが私に歩み寄ってくる。
 いつもの私に向ける笑みをたたえながら。
「今日もいらしてくれたのですね。
お声をかけてくださればよかったのに。」

(今しがたまでお話されていたあの方はどなたですか?)
そう聞きたい!眩暈がするほど激しく揺れる心を必死で抑えながら、
「貴女が親し気に会話をされていたので、
つい声をかけそびれていました。」
声がひっくり返るのではないかと心配するほど、
高いトーンでうわずった口調になってしまった。
(ああ、情けない!恥ずかしい!大の大人が、
大の男が何というザマだ!!)
その様子に一瞬クスっと笑い、「失礼!」と彼女は言った。
 「あの方は日本人で、昔お世話になった事のある方でしたのよ。」
 「紙で折った鶴を私にプレゼントしてくれた方。
私の大切な思い出なの。」
少し伏し目がちに彼女は言った。
 (私の感情を見抜かれた?どう返したらいい?)
しどろもどろしながらフィリプは少し長い沈黙のあと、
「そうでしたか。大切な方なのですね。
貴女の眼差しを見ていてそう思いました。」
快活そうに応えた。
幾分不自然なフィリプの様子に気づかないのか、
いつもなら鋭いほどよく気がつく娘なのに、
先ほどの日本人の彼との会話の直後のためか、
その余韻から上気した表情のまま、夢見心地で構わず
「そう、あの方と日本は私のかけがえのない思い出。
国に戻ってパンジーや水仙やヒヤシンスを見ても、
穏やかで気持ちの良い夏の日の日差しに身を委ねてみても、
思い出すの。
まだ幼かった日本での生活を。」
 近くのテーブルに置かれたワイングラスを見つめながら、
何かを追いかけるような目で独り言のようにつぶやいた。
「私はいつも不安と共に暮らしてきました。それは今も同じです。
両親を亡くし、頼れる兄弟姉妹もなく、
何の力も後ろ盾も持たない孤児が生きてゆくのは、
月も星もない暗黒の夜道を歩くようなもの。
せめて少しの灯りと道標が無ければ生きてゆけません。
秋の風が吹くとき、どんなに暖かなコートを身にまとっても、
冷たさが身に沁み、寂しさが身に応えます。枯葉が風に舞い、
目の前を通り過ぎる時、
今まで生きてきた自分の人生と重なるんです。
木枯らしのような暮らしを、吹けば飛ぶような虚しい営みを。
だから暑かった日本の充実した夏の日を、
人々の温かい眼差しと
楽しかった日常をいつまでも忘れないでいたいのです。
いなくなった両親に成り代わって優しくしてくれた
あの時代に感謝と恩を忘れたくないのです。」


 フィリプはヨアンナを堅く抱き締めたい衝動に駆られた。

幾分落着きを取り戻した彼は、
愛おしさで心が満たされ、自らの嫉妬を恥じ、
「私は不用意に貴女の深い悲しみや孤独に立ち入ることはできません。
でも、これだけは気に留めておいてください。
私はいつでも、どんな時もあなたの力になれるような人間でありたい、
貴女の心に寄り添える人間でありたいと願っています。
そしてそう思っているのは私ひとりだけじゃなく、
神も身の回りのたくさんの人たちも貴女に対し願っていることです。
そしていつも見守っています。
それは貴女も感じている筈。そうでしょ?」
今度はまっすぐ彼女の目を見据えて力強く言った。

ふたりは暫く見つめ合っていた、無言で。


ふと我に返り、ヨアンナは伏し目がちになりながら
一言添えその場を辞した。

 やがて戦争はその激しさを増し、
戦乱の拡大は留まるところを知らなかった。

 1941年10月4日、
在ポーランド日本大使館の閉鎖が発表され、
12月8日午前1時(日本時間)には
日本がイギリスのマレー半島を攻撃し
ここに太平洋アジア戦争が勃発
次いで同12月8日ハワイ真珠湾奇襲、
12月11日ポーランドの日本への宣戦布告と、
怒涛の展開が全世界を覆った。
 

 その戦乱の拡大の少し前、
在ポーランド日本大使館閉鎖の発表の少し前、
ヨアンナの身の回りで悲劇が起きた。

 彼女が密かに心を寄せていた井上敏郎が
彼女を庇いドイツ軍の銃弾に倒れた事件が発生。

その日を境に彼女は悲嘆にくれ、
人が変わったように抜け殻生活が始まった。

来る日も来る日も無気力な生活。
もう、お世話しに通っていた孤児院どころではなかった。

そして迎えた閉鎖された日本大使館最後の係官が立ち去る日
彼女は何かにすがりつこうとするかのように、
ヴェイヘローヴォ孤児院を去り一路大使館にあったワルシャワに向かい、
その地に立っていた。
 彼女を心配し、
いつも見守っていた極東青年会のメンバーは、
その中心に拠点を置いていた
ワルシャワ市内の複数のアジトの一室を彼女に与え、
万全のサポート体制をとることにした。
 一方、ドイツ軍のポーランド侵攻後、
ポーランド政府が瓦解、
政府要人がロンドン亡命政府を組織し、
その指揮下ポーランド国内残存兵士たちにより
レジスタンス目的に組織された軍隊「国内軍」
に参加する事となったフィリプは
偶然にもワルシャワに移転していた、
ヨアンナもワルシャワに来たとの知らせを聞き、
すぐさま駆け付け、何かと面倒をみようとした。
 彼女の住むアパートを訪れる時、
独身女性宅への来訪との配慮からメンバーに同行してもらい、
当時ワルシャワ市内では食料が不足し入手困難だったので、
何とか手に入れたジャガイモや豆や、
パン、ワインなど差し入れを持参した。
 当の彼女は、影となり日向となり、
自分たち孤児院や青年会のメンバーの後ろ盾となり
庇護してくれた大使館を喪失することで、
心の中の最後の砦を失った
敗戦の残存戦士のような気持ちに陥っていた。
 またひとつ私の大切なものが消えてゆく・・・。

 見るも無残にやせ細り、生気のない彼女を見て、
フィリップは大そう心を痛めた。
「おお、ヨアンナ!今のあなたの姿を見ていられません!
どうか私にも貴女を守らせてください!
私は神様の次にあなたの事を深く思っています。
どうか、どうか、その闇から連れ出させてください!」

彼女はしかし、大きく何度も頭を振り、
「お心遣いありがとうございます。
でももう暫く放っておいてください!
私は今、無くしたものの弔いをしています。
幼い頃シベリアでの逃避行で両親を亡くし、
友を失い、
大切な日本の想い出の彼を私の身代わりの犠牲で失い、
大使館が去っていきました。
もう少しだけ私の心をあの方たちに添わせてください。」
 フィリプはヨアンナの一滴(ひとしずく)の涙を
見たような気がした。


フィリプはヨアンナにつかず離れず、
そっと見守る事にした。

 そんな状態が続き、我慢強く通っていたある日。
ヨアンナの視線が自室の窓の横にある壁の
数枚の写真から離れなかった。
フィリプはヨアンナがその写真たちと
会話しているように感じた。

 やがて彼女の表情に微かに赤身を帯びた生気が戻ってきた。

そして彼女はゆっくり向き直り、フィリプに言った。
「この写真は日本とお世話になった人たちの写真です。
幼い頃私が日本に滞在したころは、
もう両親はこの世に居ませんでした。
だから勿論この写真には写っていません。
私は父の写真も、母の写真も持っていないのです。
でもこの懐かしい写真たちを眺めていると、
何故か父と母を思い出します。
そしていつも私を励ましてくれるのです。
優しく包み込み、
悲しさや苦しさを和らげてくれるのです。
だから今までずっと写真を見て
父と母を思い出していました。

私の父と母が私に言うの。
もう泣くのはおよしなさい。
あなたに涙はふさわしくない。
あなたがこの世に生を受け神から授かった使命は
周りの人々を明るい陽の光のように照らす事なのだから。
だからいつまでもあなたが塞いでいたら、
皆が不幸になってゆくの。
だからそろそろ顔を上げ前を見て、
自分の目の前に見える道を信じて歩みなさい。
神様も、そしてまわりの皆も
そうする事をまっているのだから。
私は自分をそんな風に思った事はありません。
でもそれが父と母の願いなら、その期待に応えたい
だからもう嘆きという闇と霧をかき分けて歩き出します!
ご心配をおかけしました。」
 少しだけ笑顔を見せ約束してくれた。

「貴女にはご両親が見えていたのですね?
きっと優しく立派な方だったのでしょう。」
「ええ、そうですとも!父も母もシベリアでサヨナラしたけど、
いつも私を見守り、
応援してくれていると信じています。
父はある日食料を調達するために
母と私を置いて出たきり帰ってきませんでした。
それから何年も経ってから、
伝え聞きで父の最後の消息を知りました。
父は身に着けていた大切な腕時計と交換して、
やっと手に入れた食料を地元の暴漢に襲われ
奪い取られてしまいました。
そしてその時必死で抵抗し、命までも奪われたと。
最後まで私と母の名を呼びながら息を引き取ったそうです。
その様子を目撃した知人は
自分の保身から助ける事ができなかったと。
申し訳なくて、私たちに顔向けできなくて、
そのことを打ち明けられずにいたと。
いくら待っても父は帰らず、諦め先へ進みながらも、
お金もなく食料と交換できる物も尽き、
とうとう母は私の行く末を案じながら、
父の待つ天に召されていきました。
自分は何も食べず、極寒の中、
暖もとらず私を守り続けた最後でした。
 母の死をみとりながらも、
孤児になった私を同行していた隣人たちが私を守りながら
イルクーツクまで連れて行ってくれました。
今私がこの世に生きていられているのも、
たくさんの人たちが手を差し伸べてくれたおかげです。
だから私は父に恥じないよう、母に恥じないよう、
お世話をしてくださった皆さんの心に応えられるよう、
生きてゆかねばなりません。」

 フィリプはその時から彼女に
生涯を捧げる決心をしていた。
例え結ばれることが無くても。




    ワルシャワゲットー蜂起

 その頃のワルシャワはドイツ軍による支配の中、
混沌と劇的な変革の渦中にあった。
その一番の主人公はワルシャワ在住のユダヤ人の存在だった。
 ドイツ軍のポーランド侵攻直前当時、
ワルシャワにはユダヤ人が37万5000人いた。
実に市内人口の30%を占め、
アメリカニューヨークに次ぐ多さだった。
 ワルシャワ占領直後から、
ユダヤ人封じ込めの政策が検討されていたが、
1940年3月以降市内にチフスが蔓延し始めた。
特にユダヤ人居住地区に。
 同年10月2日正式にユダヤ人評議会に命じ、
ゲットー建設が始まり、11月には完成をみた。
その広さは従来の居住地区の3分の2、
ワルシャワ全面積の2.4%、
最大人口は44万5000人に及んだ。
 それはナチスドイツによる全ゲットー最大規模を誇った。
更に完成間もない11月16日、ゲットーは封鎖され、
特別に通行許可証が発行された時以外の通過は許されなかった。
 ゲットー内の運営はドイツ当局の監督のもと、
ユダヤ人評議会が行った。
その中にはユダヤ人ゲットー警察さえ存在した。
 その運営は自由主義的統治で、
ブント、社会主義シオニスト党、
青年運動などが活発に地下活動も行っていた。
しかし同じユダヤ人社会でありながら、
貧富の格差も顕著に出現し、
飢餓に苦しむ貧困層に対しては
ユダヤ人相互援助協会(ZTOS)が組織され救済にあたった。
 
 ゲットー内では
一般の市場原理に伴う生産活動も活発に行われたが、
仕事を持たないものは、強制労働に駆り出された。

 1942年7月22日、ラインハルト作戦決行に伴い、
ユダヤ人を東部に移送する旨通告された。
ゲットー解体と強制収容所移送に伴う
ホロコーストの始まりである。
 トレブリンカ絶滅収容所移送は、
決して戻ることのない片道切符の旅。
そのスピードは極めて迅速で、わずか10日足らずで6万人、
8月半ばまでに全体の半数、
第一次移送終了の時点で30万人が駆り出され、
死出の旅へと向かわされた。
 
 それまで無抵抗の姿勢を貫いていたユダヤ人社会にも、
ようやく抵抗への機運が高まり、秋頃から準備が始まった。
 共産党、シオニスト党、
社会主義者で構成されたブントが10月20日に合弁、
ユダヤ人戦闘組織(ZOB)結成、
戦闘団など22の部隊が組織された。

 総指揮官は
モルデハイ・アニエレヴィッツ(24)が任命された。
彼らがまず標的にしたのはゲットー警察、
その上部組織のユダヤ人評議会へのテロだった。
 それと平行し、
抵抗に必要な武器の調達が至上命題だった。
武器購入資金を得た組織は
ゲットー部外のポーランド人に密かに協力を要請、
武器入手を企図した。

 しかし頼みの綱のポーランド人達も
ドイツによる被支配階層であり、
そう簡単に準備できるわけではなかった。
しかも全てのポーランド人が
ユダヤ人に協力的というハズもなく、
むしろ反感・差別意識の強い者が多数を占めていた。
 そんな背景もあり、
多額の購入資金を託したにも関わらず、
僅かな武器しか入手できなかった。
指揮官モルデハイの目論見では、
少なくとも拳銃100丁、
小銃数丁を見込んでいたが、実際に渡されたのは、
たったの拳銃10丁のみであった。
 いくら抗議してもそれ以上は渡されず、
思わず天を見上げた。
ドイツ人による殺害の脅威に晒され、
隣人のポーランド人に見放され、
孤独で絶望的な戦いを強いられる現実を
改めて見せつけられた気がした。

 決起=鎮圧による死
 無抵抗=絶滅収容所行による死

生という選択肢も可能性もゼロの明日に
涙すら出てこなかった。

それでも決起を選ぶ理由は、
民族と各々の人生の誇りと意地を守るために
他ならなかった。

あらゆる手立てとネットワーク、
手段を駆使し、新たに数丁の機関銃、
ポーランド人レジスタンス組織「国内軍」などから拳銃50丁、
手りゅう弾50個、爆薬など最低限の支援を得た。


先ほどと、ここでも登場したフィリプも所属する国内軍。
説明が先と重複し、くどくなるが、

ポーランド政府残存要人がロンドン亡命政府を組織し、
その指揮下国内残存兵士及び有志たちにより
祖国の独立と自由を標榜し、
レジスタンス目的に組織された地下組織軍隊である。

しかし圧倒的な軍事力を誇るドイツ軍に対し
あまりに貧弱な武装しかできない義勇軍にすぎなかった。

話を戻す。

1943年4月19日750人の戦闘員が決起、
火炎瓶と少数の銃で
ドイツ武装親衛隊と警察の部隊に武力蜂起した。
初日こそドイツ軍を撃退したが、
翌日体制を立て直したドイツ側は徹底した焦土作戦を決行、
5月16日に完全鎮圧戦闘は終了した。
 結果残存市民5万6000人が連行され、
射殺・収容所において特殊処理(ガス室送り)された。
 その後ワルシャワゲットー跡地に強制収容所が建設され、
新たな悲劇の象徴に生まれ変わった。


 ゲットーの瓦礫の撤去作業に強制収容所の囚人と、
ポーランド人労働者が動員された。
また蜂起による戦闘中
ゲットーの外に逃亡したユダヤ人狩りが行われ、
ポーランド人市民による密告が横行、更にギャングが現出し
見つけ出してはユダヤ人からお金などの財産を奪い取っていた。

 その間、その様を目撃した
一般の善良なポーランド人市民たちはどう思っていたのだろう?

 たとえユダヤ人が嫌われていたとしても
その悲劇にはさぞ心を痛めていただろう。

そして明日は我が身の運命を悟ったのだった。

ゲットー近くに住まうヨアンナは
その一部終始を目撃していた。
 時に逃亡してきたユダヤ人を匿い、
食料を与え、できる限りの援助に務めた。
 しかしその行為を知るに至り、
支援していた青年会のメンバーから
ドイツ側への発覚を恐れ厳しく窘められた。
彼らとて決して平気で傍観していたわけではない。
 反抗の準備ができていなかったのだ。
火の粉を自ら掃えない現状では
関わることは自殺行為に他ならない。
涙を飲んで見過ごすしかなかった。


 被支配層同士が団結できない悲哀が彼らの心を寒くした。

 しかし何故ヨアンナは身に危険を顧みず
ユダヤ人に救いの手を伸べたのか?

そもそも何故ユダヤ人は絶滅を企図され、
ホロコーストの犠牲にならなければならなかったのか?

 ヒトラーや一般のドイツ人に嫌われただけならまだしも、
全ヨーロッパに蔓延した反ユダヤ主義は
どんな理由があっての事なのか?
 何故殺されなければならないほどにくまれ
殺りくを傍観されたのか?
何故どこからも救援が無かったのか?
世界で唯一当時新世界と呼ばれたアメリカが受け入れたが、
それもナチス台頭のユダヤ人弾圧初期の頃の話。
 大戦の動乱が進み難民が殺到すると、
さすがのアメリカも次第に入国条件のハードルを上げ、
受け入れ制限政策に舵をきり、
積極的な救済に動くことはなかった。
 来るものは条件付きで拒まず。
それがアメリカの態度だった。
 
 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に登場する
ユダヤ人悪徳商人シャイロックに代表される
悪人のイメージがユダヤ人全体の印象だったとしたら、
あまりに悲しすぎる。
 仮にそのような悪人が多数存在していたとしても、
それは民族全体にあてはまる訳ではあるまい。
 同じ数だけ善人が存在し、
大多数は普通に生活する庶民に過ぎなかったのではないのか?
ユダヤ民族が団結して
組織的な犯罪、殺人、弾圧・抑圧、搾取を長年繰り返してきたのなら
多少は納得もできるだろうが、そうではあるまい?
 ただユダヤ教に固執し、
社会に積極的に溶け込む努力が足りなかっただけで、
商才にたけた人物が他民族より多く、
金持ちが多かったというだけで、
そこまでの憎悪の対象になるのか?
ならなければならなかったのか?
 人類の歴史は終始あまりに人命の価値が軽かった。
第二次世界大戦終結後の
条約・法律・社会制度・人権の仕組みが
整えられた現在でも
紛争や差別や対立や難民が絶えないが、
それ以前はそれらが未整備の状態の中、
おびただしい悲劇が起きた。
 その中にあっても、
ユダヤ人ホロコーストは異彩を放つ突出した悲劇だった。

 ヨアンナは納得できないでいた。

 しかしただ彼女がきれいごとの世界、
お花畑の中の住人だったわけではない。
単なる軽佻浮薄なヒューマニズムから
気まぐれの衝動的な行動として手を差し伸べたのではない。

 彼女の生い立ちに思考の原点、行動の指針があった。

 故国を捨てシベリアに逃避した難民の子として、
途上両親を失い、
周囲の悲劇を多数目撃し、
それ以上の善意の救済を経験し、現在まで生かされてきた。

 善意は人を救う。
 
 無関心や憎悪は人を死にも追いやる。


自分はどちらの道を選択すべきか?

その答えが総てだった。

 彼女は瀕死の逃亡ユダヤ人にパンを施す度、
匿うため一夜の隠れ場所を提供する度、
自分の無力さを感じていた。
できる事の限界を感じていた。
 この人たちを遥か遠くの国、
日本に送ることができたら。
きっとたくさんの人を救えたのに・・・。

 自分たちの民族も武力で占領され、
支配されている苦しい状況に居ながら
ヨアンナはそんな事を考えていた。


こんな状況の中、
あるひとりの男の言葉が思い浮かばれる。


―マルティン・ニーメラー―

反ナチ運動家で、弾圧された経験から
後に記された詩からの言葉である。


ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき
私は声を上げなかった
私は共産主義者ではなかったから

ナチスがユダヤ人を連行して行ったとき
私は声を上げなかった
私はユダヤ人ではなかったから

そしてナチスが私を攻撃したとき
私のために声を上げる者は
誰一人残っていなかった





 ゲットー蜂起が鎮圧され終結すると、
明らかにヨアンナは沈んでいた。
フィリプはその気持ちが理解でき、心を痛めた。

 意を決し、すべての勇気をかき集め、
告白しようと思った。
今しか機会はない、この時を逃したら、
二度とチャンスは来ないだろう。

できるだけそばにいるよう努力し、
彼女の信頼と安心を勝ち得たかもしれない今、
打ちひしがれ、先行き不透明で不安に駆られる中、
愛する者として、庇護者として名乗り出よう!

 そしてある日とうとう告白の時は来た。
本当はビスワ川のほとりなどに連れだって
ロマンティックな環境の中で
誠意を示すべきだったのだが、
ナチスの兵士がいたるところに存在する状況では
とてもではないがふさわしくない。
 仕方ないが彼女の居住するアパートで
他の人が忙しく動き回る中、一瞬二人だけになった。

今だ!
「ヨアンナさん、少し良いですか?
大切なお話があります。」
まただ!声が上ずってしまった。畜生!!
しかし心の声を押し殺し、
平然を装い彼女の答えを待った。
 その改まった様子に何かを感じたのか、
彼女は少し緊張したような表情になった。
「はい、何でしょう?」
彼の正面に向き直り、彼女は聞いた。
緊張した面持ちでハンカチを握りしめながら口を開く。
「手短に言います。私と結婚していただけませんか?
この戦乱の非常時に、
貴女の置かれた今の環境で唐突にこんなこと言われても
困惑するのは分かっています。
歳の離れたこんなオジサンに
告白されるのは迷惑かもしれません。
それでも貴女に私の気持ちを伝えたい。
打ちひしがれた貴女の心を私の愛で満たしたい。
孤独と不安と危険から守りたいのです。
 この地は危険と不条理に満ちています。
貴女を理解し心から愛し続けたい私の気持ちを、
どうか受け取ってください。
全力で幸せにします!」
長い沈黙が続いた。
こわばる彼女の表情からは答えは見えてこない。
この不安と緊張は永遠に続くのか?
そう思った時、彼女の重苦しい口が開いた。
「おっしゃることは分かりました。
私が孤児だから同情して
おっしゃっているのではないのですね?
それでは少し時間をください、
考えさせていただきたく思います。」
「この場で断らないと云う事は、
少しは脈があるのですね?」
「もちろんです!真剣に考えさせてください。
でも突然だったし、今の私の状態を考えると、
すぐには答えを出せません。」
「良かった!この場で即座に断られるかと思っていましたので。
待ちます!いつまでも待ちます。ええ、待ちますとも!」

数日後再度訪れた時、
待望の返答を受けとることができた。
「こんな私ですが本当によろしいのですか?」
「私には何もございません、
身ひとつで嫁ぐ事になります。
一旦嫁いだら、何があっても他に帰る場所はありません。
そんな私でも・・・」
フィリプは言葉を遮るように、
「私の命に代えて一生あなたを守ります!愛し続けます!」
「ああ、神よ!心から感謝いたします!」



ここでもしヨアンナが現代の日本人だったなら、
間違いなく
「神様にではなく、私に感謝してよ!」
と思ってしまうだろう。絶対に!


ほどなくヨアンナは慎ましやかな式を挙げ、
フィリプの用意したワルシャワ市内の一角の
アパートの新居に移り、
暗い世相の中、精一杯の明るい新婚生活をおくった。

しかしそんな幸せな日々は長くはなかった。




   ワルシャワ市民蜂起





 1944年6月22日
ソビエト赤軍がバグラチオン作戦を決行、
ドイツ中央軍団が壊滅的敗北を期し、
敗走を始めた。 
7月30日赤軍がワルシャワまで
あと10km地点まで迫った。
8月1日ポーランド国内軍は赤軍に呼応するように、
ワルシャワに於ける武装決起を申し入れ打ち合わせた。

 しかしその前日の7月30日、
危機感を抱いたドイツ軍が反撃、
甚大な損害を赤軍は被っていた。
更に補給が行き詰まり、
結果赤軍は進撃をそこで停止した。

しかしポーランド国内軍に
赤軍の進撃停止の情報は伝えられず、
それどころか、
前日の7月29日にはモスクワの放送局から
決起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けていた。
 これを聴いていたワルシャワ国内軍は
赤軍の位置から進撃からワルシャワ到達には
時間はかからないと判断、
8月1日17時約5万人の国内軍が決起を開始した。
 そして重要官庁、駅、橋をいち早く確保、
ドイツ軍の拠点である兵舎、補給所を襲撃した。
その決起時間は後に『W』と呼ばれ
サイレンと共に黙とうを捧げる日となっている。
 決起開始後重要拠点確保の報を受け
決起指導者のタデウシュ・コモロフスキは
ワルシャワ市民に対し、ラジオ電波でこう呼びかけた。


 親愛なるワルシャワ市民よ!

 承知の通り再び抑圧からの解放のため、
多くの同志が立ち上がっている。
父が!兄が!弟が!友が!隣人が
あなたのため戦いの渦中へ身を投じている!
 私たちの手から無残に奪われてしまった、
愛する祖国と自由を再び取り返すため、
持てる力とありったけの勇気を振り絞り、
自らの生も死も厭わない苦難の道を突き進んでいる!
 誰のためか?何のためか?
生きてきた証を残すため、
砕かれた誇りを取り戻すため、
生まれ育ったこの地に咲く花々と営みを蘇えらすため、
そして何よりも大切な母、愛しい妻や恋人、
何としても守りぬかねばならぬ我が子たち!
 今まさに銃をとり、歯を食いしばり、
銃弾の飛び交う中、敵陣に向かって
突っ走ろうとしている!
全ては守るべきものがあるからだ!
 何故今立つか?
それは気の遠くなるほど長い苦難の道のりを歩み続け、
ようやく扉に辿り着いたからだ。
 その扉の向こうは自由なのか?明るい未来なのか?
誰もが望む希望なのか?
それは誰も分からない。
だが私は確信する!扉の向こうの世界は、
その先に続く道は、
自分で切り開いてゆくべきところだと。
 父祖が築いてきた脈々と流れる
栄光と、挫折と、喜びと、悲しみと、
つつましくも幸せな暮らしの昨日を、今日を、
誰もが望む輝ける明日へと変え、
後に続く者たちにその力と望みを託すために!

親愛なる市民よ!

我が同志は立ち上がっている!
後に続く者たちよ!
自らの成すべき役割を自覚し、
今できる事に全力を尽くしてほしい!
あなたひとりの力は決して微力なんかではない!
神が授けた尊い奇跡を起こす鐘を鳴らすのだ!
高らかに打ち鳴らせ!歓呼の声を聴け!
暗雲を吹き飛ばす嵐を巻き起こせ!
決して後悔してはいけない。
立つときは今なのだ!
希望の扉はすぐ目の前にある!

『神が我らと共にあるならば、
誰が我らに逆らうか!』

最後に諸君に問う!祖国は誰のものか?

 市民は奮起した。


ワルシャワ市内には、
治安部隊を中心とした12000名の
駐留ドイツ軍がいた。 
しかしそのうちの戦闘実働部隊は1000名のみだった。
しかし武器を持たない国内軍は数で圧倒しても
目標のうち兵舎と補給所のみしか占領できずにいた。

 しかしその占領地から武器と小火器と軍服を奪い、
国内軍に配られ多少の改善があった。
そして決起のメッセージに呼応し
多くの市民が国内軍に参加、
ドイツ軍の反撃に備え、バリケードを築き張り巡らした。
 その中には勿論国内軍のフィリプと、
青年会のメンバーのひとりであったヨアンナの姿があった。
当初フィリプはヨアンナの参加に猛烈に反対。
夫婦初?の険悪な夫婦喧嘩を展開した。
 しかしヨアンナは一歩も引かず、
強引に補給・伝達係として参加した。


 鎮圧軍司令官エーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は
ヒトラーの命を受け、
蜂起した国内軍の鎮圧及び徹底した
ワルシャワ市内の破壊を忠実に実行すべく作戦を決行した。
 8月3日
近隣に駐屯していた部隊をかき集め臨時戦闘団を編成、
西側から攻撃を開始した。
攻撃部隊の中には素行の悪いカミンスキー旅団や
ディルレヴァンガーSS特別連隊が含まれ、
戦闘には目もくれず、略奪、暴行、虐殺に励んだ。

 その様を目撃し、市民は怒りを新たに結束、
戦意高揚の効果が生まれた。

7日激しい市街戦が続き、
国内軍占領地が分断され、
包囲されていたドイツ部隊が解放された。
19日国内軍猛反撃。電話局占領。
120名のドイツ兵捕虜となる。
カミンスキー旅団やディルレヴァンガー部隊に対する報復として
捕虜のうち彼らを全員その場で処刑した。


一方赤軍に追従していた第一ポーランド軍は
国内軍支援のため、
ヴィスワ川の渡航を許された。
しかし輸送力に余裕があった赤軍は
動かず力も貸さず静観した。

 やむなく第一ポーランド軍は、
必死に国内軍レジスタンスへの支援をしたが、
全く不足していた。
彼らの目に燃え盛るワルシャワ市街が見え、
涙の中に口惜しさから
唇から血が滲むほど噛み締めたという。


ここで新たに登場した第一ポーランド軍とは何者?


第二次世界大戦のキッカケとなるドイツ軍のポーランド侵攻。
その破竹の勢いにたちまちポーランド全土が飲みこまれ
余勢をかってソビエト領内まで攻撃の手を伸ばした。
しかしやがて無敵だったドイツ軍の勢いにも陰りが見られ、
退却に退却を重ねついにソビエト領内から駆逐され、
更にポーランド領の東半分をソビエトが占領すると、
ソビエト政府によるルブリン傀儡政権が打ち立てられた。
そして直ぐさまソビエト赤軍にうち従う軍隊が組織された。
それが第一ポーランド軍である。

 憎むべき事に、
ソ連はアメリカ、イギリスが承認した
ポーランド亡命政府の息のかかる
国内軍の支援を申し出たが同意せず、
ドイツ軍のワルシャワ鎮圧に手を貸した。

やがてドイツ軍の物量に圧倒された国内軍は
次第に鎮圧され蜂起は終息に向かっていった。
8月31日国内軍は北側解放区放棄、
9月末ほぼ壊滅した。
 1944年10月2日
放棄指導者タデウシュ・コモロフスキの降伏を
鎮圧軍司令エーリヒ・フォン・デム・バッハが受け入れ
蜂起は終結した。
 結果蜂起参加者はテロリストとして処刑。
レジスタンス、市民合わせ22万人が戦死、
若しくは処刑された。
そしてワルシャワ市内は鎮圧軍により破壊を徹底、
ヒトラーの厳命は忠実に守られた。
 しかしその後、イギリス政府がラジオを通じ、
レジスタンスへの処刑は戦犯と見なすとの放送を流し、
警告したため、処刑は途中で中止された。

 間一髪で処刑から逃れたフィリプ。
ヨアンナと生還を神に感謝したが、
1945年1月12日ようやく進撃してきた赤軍は
レジスタンス幹部を逮捕。
ポーランド自由主義政権の可能性の芽を摘むため、
鎮圧傍観と弾圧の裏切りに終始した。

 何とか逃亡に成功したフィリプは森に逃げ込み
反共パルチザンとして
数年共産政府要人暗殺テロ活動などに参加、
1950年2月銃撃戦の末ソ連兵に射殺された。

 その5年前、
ワルシャワ近郊の避難先に居を定めていた
ヨアンナは元気な男子を生んでいた。

その子はアダムと命名された。

その一月後、
反体制パルチザンとして
射殺された夫フィリプの身元が割れ、
ソ連治安部隊がヨアンナの居宅を急襲、
付き添いの元青年会メンバーひとりが
抵抗の素振りを見せたため、
ヨアンナと共に射殺された。
 
ようやく5歳になったアダムだけが生き残り、
残りのメンバーに引き取られた。
ヨアンナ35歳。
最後までアダムの行く末を案じながら
息を引き取った。


              

     おわり










シベリアの異邦人 ~ ポーランド孤児と日本~

2019-08-18 15:13:04 | 日記
 


今からおよそ100年前、シベリアは地獄だった。

 その主人公たちはポーランド人。何故そんな極寒の地にポーランド人がいたのか?
列強侵略の犠牲者となり、亡国の憂き目に会い、凄惨で数奇の運命をたどった人々。
 独立を奪われ、周辺国の争いの舞台となった悲劇の祖国ポーランド。
人は迫りくる命の危機を避け、東へ東へと逃れ、行き着いた先がシベリアだった。


 着の身着のままとまでは言わないが、貯えも乏しく、
最小限の衣服と荷物で気の遠くなる絶望の道行に耐えなければならない。
飢えと寒さと病気と戦い、無謀と絶望と気の遠くなるいばらの旅路だった。


 ここにヨアンナという5歳になるひとりの少女がいた。父は逃避行の途中、
妻と娘を残し食料を求めどこかへ行ったきり、二度と帰ってこなかった。
残された妻と娘はそこに踏み留まり、いつまでも待っているわけにはいかない。
飢えによる死はすぐそこに迫っているのだ。
 その少し前に行動を共にしていた集団の中にひとつ年下の娘がいたが、乏しい食料を娘に与え、
自らは何も口にしていない母がとうとう力尽き、娘の明日を案じながら天に召された。
 残された娘は泣きながら母にすがりつき、決して離れようとしない。
そしてその娘も数日後母の下へ旅立った。
 そんな悲しく壮絶な光景を目の当たりにしても、周りの大人たちは何もしてあげることはできない。
自分たちも明日は我が身だから。せめて最後は人間らしく、
心を込めてできる限り手厚く埋葬することぐらいしか。
 ヨアンナは妹のように思っていたその娘の最後を瞼に焼き付けるように見ていたが、涙は流さなかった。
同様の光景を幾度となく見てきたから。ヨアンナにとって残酷すぎるこの現実は、空しいまぼろしのように
暗く心を蝕んでいた。
 そして悲しい運命の順番が自分に廻ってきた。
母マリアの死期が迫ってきたのだ。
 「ヨアンナ・・・、ヨアンナ・・・・、私の大事な娘、どうか生きて・・・。」
最後の言葉だった。
「神様。」
ヨアンナは心の中で呟いた。
心をそこに残しながらもヨアンナはそばにいた大人たちに引き離され、先へ先へと手を引かれ、
数日後シベリアの中心地バイカル湖のほとりイルクーツクにたどり着いた。
 そこは長く弾圧の続くポーランド人の流刑地だった。
ようやく同族の多く住む安息の地にたどり着いたと思ったら、
そこもたどり着くまでの行程と同様、苦難の連続だった。
 ロシア革命に続く内戦で食料の配給は滞りがち。重労働と飢えと寒さは変わらず
死にゆくものたちは後を絶たない。

 実際当時の建国間もないソビエト社会主義共和国連邦は、続く戦乱と無謀で無能な農業政策、
天候不順により極端な不作が続き、
餓死者2000万人とも云われるピンチを迎えていたが、
更に追い打ちを開けるように共産勢力への警戒と敵視から列強のシベリア出兵、
食料救援拒否を決め込み、国際的に孤立し何処からも救援を望めないロシア人自身が
極めて危機的状況にあった。
 そんな中、ロシア人から見て罪人であるポーランド独立運動の政治犯や
愛国者などの外国人に施しが行き届くわけがない。
とりわけヨアンナのような親と死別した孤児たちは更に悲惨で、空腹で身を寄せる場所もなく、
ただちに救済しなければならないほど切迫していた。

そんな状況をみかねてウラジオストクのポーランド人達が立ち上がった。
アンナ・ビルケヴィッチ女史が中心となって『児童救済会』が組織され、
せめて孤児たちだけでも助け出したいと行動をおこした。
 と云っても当人たちも流人として流されてきた者とその家族や子孫である身。
寄付を募っても孤児たちを救える額など集まるはずもない。
思い悩んで救済会が助けを求めた列強諸国は、誰も耳を貸さず手も貸さず、知らぬふりを決め込んだ。
 最後の望み、藁をも掴む想いですがったのが日本だった。
まず彼女らはウラジオストクの日本領事を訪ね、更に東京の外務省を訪れた。
アンナ・ビルケヴィッチ女史は涙ながらに必死で訴えた。
 勿論ポーランド人の孤児など遠く離れた日本に何の縁もゆかりもない。助ける義理などどこにもない。
けれども人として国家としてこの窮状を知り、見殺しにしても良いものか?
女史の訴えに深く同情し、「アジアの盟主を目指す国家」としてこうあるべきとの
指針と野心を持った日本は、この時どうすべきか決断と行動は早かった。
 1920年(大正9年)7月下旬以降第一回救済事業で375人が
陸軍輸送船「筑前丸」で東京へ、第2回1922年(大正11年)390名が
「明石丸」「台北丸」で大阪へと受け入れられた。
しかも言葉や習慣の違う孤児たちの世話と意思疎通の窓口に同じポーランド人が良いだろうと、
合計65人の大人のポーランド人を付添人として一緒に招いた。
 

 ポーランド人孤児たち一行を迎えるにあたり、日本は国家の威信をかけ、
驚くべき短期間に総力を挙げて迎える万全の準備をした。
 
 寄港先の敦賀港では日赤、敦賀町役場、警察署、陸軍運輸部敦賀出張所、
陸軍被服廠敦賀出張所、敦賀税関支署が全面協力、輸送は鉄道省の指示により
多大な便宜が図られ東京、大阪へと送られた。
 敦賀港に到着後すぐに長旅でボロボロになった着衣は煮沸消毒され、
代わりに浴衣を着させられ、袂(たもと)いっぱいに飴や菓子を入れてもらい、
更に玩具や絵葉書などが差し入れられ子供たちを慰めた。
休憩、宿泊所に滞在したのは数時間、長くて1日という短期間だったが、
心のこもったもてなしを受け、子供たちの心に強く印象を残した。

 ヨアンナは到着した敦賀港から宿泊休憩施設に向かう道すがら、
目を見張るような美しい花と浜辺ののどかな民家が見えた。
照りつく真夏の太陽、初めて聞くうるさいぐらいの蝉の鳴き声。
ヨアンナにはそれらの音が何なのか理解できず、異郷の地の異郷の音、光、様子だった。
 この地に降り立った瞬間、ここが今まで過ごした自分たちの世界とは異なる場所だと感じた。
でも何だか心地よい。ここの人々の優しい眼差し、
何やら話しかけてくるが理解できない言葉の意味。
 今まで口にしたことのない甘いお菓子!
「おとぎの国?」
そう、もしヨアンナが平和で幸せな家庭の中で何不自由なく暮らせていたら、
夜ベッドで優しい母が読んでくれる、グリム童話やアンデルセンの童話の絵本の中の
不思議なおとぎの国を思い出しただろう。
悲しいかなヨアンナにはそうした記憶はなく、当然「おとぎの国」なんて概念は浮かんで来ない。
しかし彼女の眼前の風景は懐かしい母のように、優しく包み込んでくれる不思議の世界だった。

「お母さん・・・、お母さん・・・、そこにいるのはお母さん?」
「お母さんは私より先にここに来て私を待っていてくれたの?」
「もうすぐお母さんに会えるの?」
「さっき知らない人がくれたお菓子少し残っているの。
会えたら一緒に食べましょ。ねえ、おかあさん。」
それまで閉ざされた心が少しずつ開かれてゆく思いがした。
そう思いながら流れる景色と咲き誇る草花を見てヨアンナは思った。
「まあ!なんてきれい!!きれい!!!きれい!!!!」
幼心に悲惨な戦火を逃れ、親と死に別れ、飢えと寒さの耐えがたい日々を潜り抜け、
すっかり凍り付いたヨアンナの心。
 たどり着いた日本の地方の気候と風習が作り上げた景色が、柔らかく、温かく、
心地よくほぐしてくれているのを無意識に感じた。
ヨアンナ一行はミカンや当時日本でも珍しかったバナナなど、
一度も目にしたことのない特別な果物を食べ、
地元の子供たちと遊び、地元の尋常高等小学校を訪れ、夢のような楽しい時間を過ごした。

ただそこに母はいなかった。

一抹の寂しさを背負いながら次の目的地に向かう旅に出た。
今度は何処に向かうのだろう?
また楽しい所?
今度こそお母さんに会えるの?
 
 ヨアンナは期待と不安の中、連れ出されるまま特別に手配された列車に乗り、
揺れる車内で長い長い夢を見ていた。
「お母さん!ああ、お父さんも!!」
大粒の涙が流れ、声にならない声を出し、両手を前に駆け寄った。
「おお!ヨアンナ!待っていたよ、よくここまで来ることができたね!偉かった、偉かった!」
「よく顔を見せてごらん。」
ヨアンナは父と母の間で顔を埋め、いつまでもいつまでも甘えながら泣いていた。


 朝になり、相変わらずの規則的なレールを走る音と揺れ。

「・・・・夢だった・・・。」

でもひとつ、これだけは現実だった。

ヨアンナの顔に残る涙の跡と腫れた目元は。

 列車の旅も終盤に差し掛かり、車窓の外は連なる家、家、家・・・。
そして大きな駅にたどり着き、「ここが目的地である、降りるように。」
と告げられた。
そして駅から歩くこと数分。着物を着た見たことのないほどのおびただしい人、人、人。
奇妙なアーチの先にぶら下がる幾列にも並んだガス灯と、時折目にする店先の日本提灯。
人力車や大八車がところ狭しと人と人の間を縫い行き交う表通り。
家の狭い庭先にささやかに植えられた草花。
船から降りたとことは全く異なる賑わいと活気と喧騒に包まれていた。

そしてとうとう東京渋谷の「福田会(ふくでんかい)育児所」の門の前まで来た。
福田会は日赤本社病院に隣接され、構内には運動場や庭園などの設備も整い、
子供たちに最適な環境の場所だった。
 福田会育児所に到着すると、受け入れ関係者や役人たちが待ち受け、
門の外には大々的な報道で知った
地元民たちが大勢歓迎の言葉と笑顔で出迎えた。
 すでに全国から援助物資やお菓子、義援金などが続々送り届けられている。
明治維新から数十年、日清・日露戦争での勝利以降、急速に列強の仲間入りを果たした日本ではあるが、
国民の実質的な生活レベルはまだまだ苦しく、第一次大戦の戦勝国になったといっても
国民ひとりひとりは貧しいのが現状だった。
 それでもこの支援の輪。災害や悲劇に対し、深く同情し最善の施しをしようとする国民性は
幾多の災害や度重なる戦(いくさ)の歴史・悲劇を経験してきた日本人の乗り越える知恵であり、
協調性の遺伝子の成せるワザだった。
 下は4歳から上は16歳まで様々な年齢層の孤児たちは、環境の整えられた部屋と食事、
優しく慈愛に満ちたいたわりの言葉と物腰、担当した保母や看護師、医師の献身的扱いから
ようやく安息の地にたどり着けた事を本能的に感じ取った。
それまで抱いていた不安や過去の苦難に基づく不信、親を失った寂しさ・孤独など入り混じった
心の氷と闇からようやく解放されようとしているのを、子供たちのその水色の笑顔が示していた。

「ここはお母さんの待っていてくれているところとは違う。」
ヨアンナは思った。
 
「でも、もういい。」
「だってあの夢を見た日からずっと、お母さんとお父さんは、
私のそばでずっと見ていてくれているのが分るの。」
「だからもう平気!お母さん、お父さん、これからも、
いつまでもずっとヨアンナの事見ていてね!きっとよ!!」

 到着し落ち着くと、まず健康診断が行われた。
長い苦難の放浪の結果、栄養失調や凍傷、様々な症状を抱える子。
 ひとりひとりが死線を潜り抜けてきたのだ。
担当した医師と看護師は、この幼い子供たちの健康状態とボロボロの着衣が示す過去の困難に、
大そう心を痛めながら診察した。
 ある少女が後に証言している。
あの時栄養不足で健康状態が良くなかった自分を心配して、特別にくれた栄養剤。
毎日1錠ずつ飲むようにと与えてくれたのに、とてもおいしかったのでその日の晩に
他の子たちに瞬く間に残りを全部取られ食べられてしまい、とても悔しかったこと。


 来日した孤児たちへの関心と同情は日ごとに高まり、個人で直接慰問品や義援金を持ち寄る人、
無料で歯の治療や理髪を申し出る人、学生音楽隊の慰問、婦人会や慈善協会の慰問会への招待など
善意の支援は後を絶たなかった。
 中には孤児たちの着ている衣服のみすぼらしさに驚き、
思わず自分の着ている一番きれいな服を脱ぎ、
渡そうとする者、髪のリボン、櫛、ひいては指輪まで与えようとした者も
ひとりやふたりではなかった。

 その中にヨアンナの記憶に強く残る少年がいた。
少年と云っても、ヨアンナにとっては兄のような年上の人。
彼の名は井上敏郎、尋常小学校6年生。孤児支援のため訪れた父についてきたのだった。
そして彼も咄嗟に服を脱いだ人のひとり。思わずとった行動もさることながら、
彼も持参した慰問品の他、持っている物は全て与えようと考えていた。
さすがに着ていた服は受け取ってもらえなかったが、
自分のカバンの中に入っていたノートや鉛筆まで差し出した。
それから数枚の千代紙。
彼はその千代紙で折り鶴を折り、孤児ひとりひとりに渡した。
 最後の1枚をヨアンナの手を取り「これは鶴という幸福を呼ぶ鳥だよ。君にあげる。
幸せになってね。」
とまっすぐな眩しい笑顔で手のひらに置いた。
 「キレイ!」ヨアンナは思わずつぶやき笑顔になった。
そして美しく不思議な紙でできた鶴を、いつまでも大切に持っておこうと心に決めた。
年上の優しく素敵な少年の記憶と共に。


 そんなある日、ひとりの孤児が腸チフスに罹り重体となった。
医師はもう助からないだろうとの診断を下す。その時担当の若い看護師だった
松沢フミが献身的に看病する。
 いつまでも重体の子に寄り添いながら彼女は言う。
「自分の子供や弟が重い病になったら、人は自分を犠牲にしても助けようとします。
この子には看てくれる父も母もいない。死んでも泣いて悲しんでくれる親はいない。
せめて自分が母の代わりとなって死にゆく子の最後を看取り、天国の父と母のもとに送り届けたい。」
と訴え、夜も抱いて寝た。その結果自らも腸チフスに感染し命を落とした。
感染の危険も顧みず、言葉通り本当に親のように接し看病した彼女。

 その甲斐あってか重体だったその子は奇跡的に回復、フミの真心の献身的看病が実り
チフスから生還することができた。

この若き看護師松沢フミの死は関係者と孤児たちに衝撃を与えた。
事情を理解できない幼子たちは目の前から姿を消した彼女、優しかった彼女の名前を呼び続け、
周りの大人たちの涙を誘ったという。

 そうした努力と尊い犠牲もあってか、来所時は青白くやせこけ貧相な孤児たちも
みるみる健康と元気を取り戻した。
そして来日から早くも一年が経過し、誰ひとり欠けることなく
故国ポーランドに帰国できるまでになった。
 
出発の日。

 孤児全員に全員に衣服が新調され、航海中の寒さも考え毛糸のチョッキも支給された。
しかし特別船の出航が大幅に遅れた。ヨアンナたちは横浜港から出港するときになって、
本当の母親のように親身にお世話をしてくれた保母たちとの別れを悲しみ、
乗船を泣きながら嫌がったから。

ヨアンナもその中のひとり。
彼女はこの不思議なおとぎの国日本に、優しく接してくれた保母さんと別れ、
大切な父と母を残してゆくような気がして、泣いて泣いて涸れるほど泣いた。

 いいだけ泣いた後ふと空を見上げると、父と母の気配がした。
優しい声が聞こえた気がした。
姿が見える気がした。
「きっとお父さんもお母さんもついてきてくれる。」
「きっとそうだ!」
別れの辛さも、寂しさも、不安も少しは和らいだ気がした。

 避ける事の出来ない辛い別れを悟った孤児たちだったが、
覚えたての「君が代」を斉唱し、
幼いながら精一杯の感謝の気持ちを込め「アリガトウ」と何度も繰り返した。
 大勢の見送りの人たちも涙を流しながら、孤児たちの幸せな将来を祈りつつ、
見えなくなるまで手を振り続けたという。

 船の中で船長は夜ごと孤児たちのベッドを見て廻り、毛布を首まで掛けなおし、
頭を撫で熱が出ていないか確かめていた。
 その手の温かさを覚えていると孤児のひとりは後になって述べている。
 
 不思議の国日本に来た時より遥かに長い日々を船上で過ごし
故郷の国ポーランドに戻ってきた。
幼いヨアンナにとってほぼ何も覚えていない未知の国だったが、
父の生まれ育った国、母の生まれ育った国、
そして自分が生まれた国。そう思ったら、何だかここも愛おしく感じる。

 ヨアンナは幼い心に誓った。

もう不安な心は捨てよう、天国の父のため、母のため、一所懸命、精一杯生きて、
自分が天国に行ったとき胸を張って会えるように。

孤児一行はバルト海沿岸のヴェイヘローヴォ孤児院に引き取られ保護された。

入所後、何と驚くべきことに、首相や大統領までが駆け付け歓迎してくれたという。
更に施設では毎日朝、庭に入所孤児が集まり「君が代」を斉唱する決まりがあった。

孤児院出身者の中には医者、教師、法律家など
国の復興の最前線で活躍する人材が数多く育った。



 ここにひとりの重要人物がいる。

彼の名はイエジ・ストシャウコフスキ。自ら孤児出身でありながら、
孤児院で働きワルシャワ大学を卒業。
孤児教育の道へと志した。そして17歳の時、シベリア孤児の組織を作ることを提唱。
ポーランドと日本の親睦を図ることを目的に「極東青年会」を結成し、自ら会長になった。
 最盛期には640名にも上ったという。
その後成長した孤児たちは日本との絆絶ち難く、日本公使館との交流を大切にした。
そして日本国政府もこの絆を大事にした。
 勿論人道的な結びつきによる、当然の好意の延長もあるが、実はそれだけに非ず。
日本は伝統的にロシアを仮想敵国とし、常に彼の国の動向と予測の分析・対策の構築が国是だった。
 
日露戦争当時ロシア支配下のポーランドには、二人の指導者がいた。
対ロシア武装蜂起派のユゼフ・ピウスツキと、武装蜂起反対派のロマン・ドモフスキ。
ふたりは日本の当時参謀本部長 児玉源太郎、福島安正第二部長に面会し提案した。

極東地域のロシア軍の三割はポーランド人。
戦闘の重大局面でのポーランド兵の離反、シベリア鉄道の破壊。
その対価として、ポーランド兵捕虜に対する特別な待遇を申し入れた。

 その申し入れを受け入れた証拠のように、四国松山に収容されたポーランド捕虜は、
ロシア捕虜と別の場所にて特別待遇を受け、
とても捕虜とは思えない厚遇と心温まるもてなしを受けた。

 更に対ポーランドの実質窓口となった明石元二郎大佐が中心となり、
ポーランド武装蜂起支援、武器購入資金提供を実行、
日露戦争勝利後はポーランド独立を助けている。


 そうした歴史的結びつきを背景にしながらも国際連盟脱退、
日中戦争勃発と孤立化した日本。

 その延長線上に日独伊三国軍事同盟がある。
日本にとってこの同盟はただ単に国際的孤立を避けるためだけではなく、
対ソ政策でもあったのだ。
 当時日本は前述したとおり、泥沼の日中戦争の真っ最中。
関東軍が作戦展開中、満州国境沿いに対ソ守備隊を多数配置していた。

 その後中国大陸に覇権を広げる日本に警戒し圧力を強めるアメリカ。
今後予想される対米戦のためにも、満州の守備隊の活用準備は絶対必要だった。
そのため、ドイツには対ソ戦略で頑張ってほしい。
ソ連軍の極東守備隊をヨーロッパ戦線に差し向けさせるためにも同盟は必要だった。
 ただそのためにドイツとソ連の中間に位置するポーランドは結果的に犠牲になる。
それは日本の望むところではないが、大国間の領土争いに口出しできるほどの
国力も影響力も日本にはない。
 ポーランドが武力で蹂躙されるのを阻止することはできないのだ。
それならせめてポーランドに対しできる限りの支援をすること。
日本はその道を選んだ。そう、日本はドイツと軍事同盟を結んでおきながら、
水面下でポーランド支援も行うという、二重政策を遂行していた。
 そしてポーランドに対し支援をする理由はもうひとつ。
ポーランド人を味方につけ、ドイツの動向、
ソ連の動向の情報収集の諜報活動家として活用する事も目的のひとつだった。
 そうした事情から、日本の大使館・領事館などの在外交機関は、
現地法人の保護・管理の他、日本の国策遂行・実行部隊としての側面も帯びていた。
大使館員は文官、武官が存在するが、多かれ少なかれ、
いずれも諜報・特務を使命のひとつとして活動していた。
 しかもそれは官僚にみに留まらず、民間にも特務機関からの要請を帯び、その対価として
事業の支援を受け現地でビジネスを展開する者、邦人・外国人を問わず
ビジネスの実態を伴わない実質諜報員的な民間人も存在した。

 そんな情勢の中、孤児たちの主催する行事は公使館の館員も大切にし、
できるだけ全員参加を原則にして応援した。

 しかし世相は暗く厳しく悲しい時代。
大きな戦(いくさ)が孤児たちの前に立ちはだかっていた。

1939年ナチスドイツが突然電撃作戦で、ポーランド国境を越え侵攻してきた。

 イエジ青年は極東青年会を臨時招集し、レジスタンス運動に参加することを決定した。
部隊の名を青年の名をとり、『イエジキ部隊』と呼ばれるようになった。

 さてヨアンナだが、彼女も成長し可憐な乙女時代を過ごし、
当然の流れの中「極東青年会」の一員として
自分の居場所を見つけていた。
 彼女はその聡明さと明るさ、そして人を引き付けるような美しい娘になっていた。
彼女自身は福祉事業家を目指す仲間の孤児に共鳴し、行動を共にしながら、
青年会の活動にも積極的に参加した。
 彼女が青年会に顔を出すようになったのは17~8歳の頃から。
20歳を過ぎた頃にはすっかり青年会の花となり、いつも彼女は人々の中心にいた。
 そして青年会の催しでも本来サポートの立場にいながらも、
いつの間にか重要な存在になっていた。
ちょうどその時、日本の公使館に出入りするようになったひとりの青年がいた。

 井上敏郎。覚えているだろうか?
福田会に孤児支援に来た当時尋常小学校6年生だった少年だ。
彼はどこで覚えたかポーランド語、ドイツ語、ロシア語を駆使し、
複数の公使館館員と深い交流のある民間人だった。
 彼は少年時代の面影を残しながら、長身の好青年になっていた。
彼は他の公使館員と共によく青年会の催しに参加していた。
 機知に富み、ユーモアで人を笑顔にし、それでいて隙の無い所作。
公使館に出入りしていても全く不自然さがなく、館員の誰よりも洗練されていた。

時々会話する青年会のメンバーも彼には一目置いていた。
 彼は一体何者?
日本人には珍しくポーランド語を話し
日本の商社の社員と云っていたけど、他の社員など見た事無い。
公使館員と深いつながりがありそうで、
訳ありで謎めいているが、何故だか分からないが好感が持てて憎めない男。
青年会のメンバーの彼に対する評価だった。

 そんな彼がヨアンナと接する機会は少なくなかった。

 彼女を最初に見たのは彼女が初めて顔を出した頃。
多分17~8だったのだろう。
 可憐な彼女を一目見た時、青年敏郎は
「なんて素敵な人だろう!」
感嘆符付き(!)で見とれてしまった。
そう、彼は自分が少女だった彼女に昔折り鶴を贈った事など、覚えていなかった。
そして彼女も自分に折り鶴をくれた年上の少年が今、
そばにいる彼だとは気づく筈もなかった。

 月日は流れ、すっかり大人になったヨアンナは変わらず極東青年会の太陽だった。
ある日の催しは暗く厳しい世相にもかかわらず、
慈善事業の寄付金を募る恒例のパーティーを決行、
つつましくも華やかな晩餐会とダンスが展開された。
 しかし、さすがに日本公使館がバックアップしているだけある。
この日もいつものように内外の有力者、著名人などが集まり、盛況だった。
 この日も敏郎の姿があった。

グラスを持ちながら、見かけないある人物と何やら熱心に立ち話をしていた。
難しい日本語だったので、いったい何を話しているのか分からない。
 ヨアンナはひときわ目立つ敏郎が気になったが、時々チラッと見るだけで、
近づいて話しかける勇気など持っていなかった。
 でもあの方の事は勿論そうだが、あの方が話されているのが
誰なのかも気になって仕方ない。
ヨアンナは心の中のチリのような小さな勇気を総てかき集め、
馴染みの公使館員に聞いてみた。
「今日はあの方もお見えなのですね。楽しんでいただけているかしら?
あの熱心にお話しされていらっしゃるのはどなたですか?」
 視線を敏郎に向けながら、公使館員に自然な調子で声をかけてみた。
まるで賓客を気遣うマダムのように。
彼女の心の中を知ってか知らずか、館員は、
「いつも貴女(あなた)は心遣いが細かいのですね。
ああ、敏郎が話している相手は、杉原さんです。
リトアニアに赴任した領事。きっとこれからもあなたたちと関りがあるかもしれないから、
覚えておいてもいいと思いますよ。」
「杉原さん?」
「そう、杉原千畝領事。」
彼女はじっとふたりを見つめているのだった。
 翌日会場の片付けと後始末の残りを終えたヨアンナは、
昨夜の宴の場から家路への帰途の歩みを早めていた。
 短い夏も終わり、秋を飛び越え一気に冬の風を感じ始める頃、
こちらに向かう見覚えのある
いや、このような偶然を心のどこかでいつも待ちわびていたある姿に焦点が合った。
「あの方だ!」
歩きながら全身がワナワナ小刻みに震えるのを感じながら歩き続けた。
 数秒後、向こうも私に気がついたようだ。
歩調が心なしか早まりながらも、「落ち着け!落ち着け!!」と念じ距離を縮めていった。
 ふたりの間に石でできた古い橋が一脚。向こうとこちらまで近づいた時、
彼の方から声をかけてきた。

「やあ、昨晩はどうも!」
「こちらこそ、いらしていただき、感謝しております。」

 普通の会話だった。

 本来そこで終わる筈だった。でもここで何か話さなければ!
お互いがそう思ったが、押し黙る沈黙が無限の長さに感じた。
「そうそう、昨晩の、」
「あの時のあの方、」
不意に同時に発した互いの不自然な雰囲気と少々浮ついた語調に可笑しさを感じ、
目が合ったふたりは笑いを押し殺していたが、こらえきれず思わず吹き出し、
声を出して笑い合った。
 同時にその時お互いが他の人達に対してとは違う、
特別な感情を抱いてくれているのを感じた。
「今なんて言おうとなさったの?」
 ヨアンナは少し時間をおいて改めて聞いた。
「えぇ、昨晩のパーティーはとても楽しかったです。そう言おうとしました。貴女は?」
「・・・昨夜は楽しそうにお話されていましたね。
いつもとはちょっと違う貴方を見たような気がしましたわ。」
「そうですか?私は貴女に見られていたのですね。」とはにかむような笑顔で応えた。
「昨夜は私にとって、もとても有意義な時間を過ごせました。
私の話していた相手は、人生の目標のような人で、
私の価値観に大きな影響を与えてくれた方なのです。」
「そうだったのですか。そんな大切な機会に関われて、とても嬉しく思います。」
「ところで私、いつも感心しているのですが、
井上さんはとてもポーランド語がお上手ですが、
どちらで学ばれたのですか?」
「上手だなんて、お恥ずかしい。私は父の仕事の関係でポーランドに居る期間が長く
その間に覚えたのです。」
「そうですか、日本の方がこちらでお仕事なさっているのは珍しいですね。
御父上様は外交とかのお役人様なのですか?」
「いえ、今の私と同じ、民間の商社の社員です。
父は仕事の関係で、様々な国を渡り歩く放浪者のような人でした。
私も今は拠点をこちらに於いていますが、実質的な特派員なので、
現地社員は私だけ、気軽なもんです。」
そう言ってまたハハハと笑った。
「ところでヨアンナさんは極東青年会の活動をされていますが、
日本に来られた事があるのですか?」
「はい、東京で一年お世話になっています。」
「そうでしたか、私も一度福田会の施設を訪れたことがあるのですよ。」
ヨアンナは驚き、改めて目を見張った。
「皆様にとても良くして頂いて、私にとって夢のような日々でした。
たくさんの方が色々な物をくださったのよ。
ほら、こうして今でもあの時から大切にしている物があるの。」
そう言って手にした小物バッグから何やら取り出した。
 それは長い年月の間にすっかりくたびれてしまった鶴の折り紙だった。
それを目にしたとき、敏郎はすっかり忘れ去っていた昔の記憶を呼び覚ました。
「その折り鶴、見覚えがある!そう、もしかして私が作った物?」
「ええ?私は年上の日本のお兄様からいただいたの!
もしかして貴方はあの時の日本の親切で優しかったお兄様?」
「そう言われると顔から火が出るほど恥ずかしいけど、
ああ、あの時のお人形さんのように可愛かった
幼い女の子のひとりだったのですね?」
「そうおっしゃられると、私こそ顔から火が出そうです!
こんな奇跡のような偶然って本当にあるのですね!とても嬉しいです。」
「私もそう思います!まさかあの時作った折り鶴を今でも
こんなに大切に持っていてくれた方がいたなんて!
しかもそれが貴女だったなんて!!何という、何という・・・」
 驚きと喜びで敏郎は言葉に詰まった。
しばし無言で橋の真ん中から川の流れに目をやりながら、
彼女の悲劇のドラマのような人生に思いをはせ、
「貴女は生まれてからずっと、茨のような苦難の道を歩まれてきたのですね。
貴女にとって日本に滞在した時間はほんの短いものだったと思うけど、
他に何か覚えていますか?」

 「短いい時間?とんでもない!私にとってとてもとても大切な思い出です。
日本の記憶?
そう、日本の記憶は私の宝。
 私が今生きているのも、希望を捨てないのも、日本で過ごせた記憶があるから。
 確かにポーランドと日本じゃ環境が全然違います。
帰国して辺りを見渡しても、日本を思いだせるものなんて何もない。
でも私にとってどんなに距離が離れていても、
変わらない大切なものがこの鶴の他ふたつあるの。」
「へえ、それは何ですか?」
「それはね、お月さまとお星さま。」
「『お』と『様』をつけて呼ぶのはお月さまとお星さまだけ。
それにお月さまを見ては想い、
お星さまを見ては願うようになったのは日本でお世話になってから。」
「日本では太陽のことをお日さまと呼びますけど、
こちらの太陽は低くて暗いの。
あまりお日さまと呼べるような実感が湧かない。
 私、日本でお世話になっているとき、
窓の外に映るお月さまを見ては父と母を思い出し、
お星さましか見えない夜は願うの。
『どうか父と母が夢に出てきてくれますように』って。
その習慣は、この地に帰ってきてからも変わらず続けているの。

 可笑しい?いい歳した娘が、月や星にそんな事思うの。
 日本とポーランドじゃ何もかも違うけど、変わらないのはこのふたつだけ。
だから私にとって、とても大切な思い出であり、習慣なの。」
橋の欄干から遠くを見据えるように彼女は言った。
敏郎には、すぐ隣にいる筈のヨアンナが愛おしく、愛おしく、
しかし、潜り抜けてきた苦難を理解も実感も想像もできない分、
もどかしい距離を感じた。
 暫く無言のまま時間が過ぎ、橋の向こうを見つめながら敏郎は言った。
「大切にしてくれてありがとう。うん、ありがとう・・・。
僕は今日、ここで、この橋の上で過ごした時間をいつまでも忘れない。
一生忘れない。
目の前の美しい風景を忘れない、
今感じているこの気持ちを決して忘れない。
いつまでも。」


 ヨアンナも敏郎にまっすぐ向き合い、
「私も。」
万感を込めた挑むような眼でそう一言そう言った。




 戦乱は激化し、イエジキ部隊も命がけの活動に日々を費やした。 
また日本の外交官たちもその身に危険が迫ってきた。
 まず、リトアニア領事がロシアから退去の最終勧告を受け
帰国の憂き目を見ることに。
リトアニアとバルト海沿岸に位置するヴェイヘローヴォ孤児院は
地理的に比較的近いとの好条件もあり、
敏郎との親交から、度々領事と情報交換をしていたが、
最終勧告を受けた日の晩偶然にも訪れていた敏郎と
二人だけのささやかな送別会が行われた。

 そして翌日から彼の退去の列車に乗り込むまで続いた
命のビザとの戦いが始まった。

 一方イエジキ部隊はシベリア孤児を中心に彼らが面倒をみてきた孤児たち、
今回の戦災で家族を失った新たな孤児たちも加わり、
一万数千人まで膨れ上がり一大組織に成長した。
 戦争による悪化に伴い地下レジスタンスも活動が激化し、
イエジキ部隊に対するナチス当局の監視と警戒の目が光り始めた。
 イエジキ部隊は隠れ蓑に孤児院を使っていたが、突然ナチスからの強制捜査があった。
急報を受けて駆け付けた日本大使館の書記官は、
「この孤児院は日本帝国が保護する施設である。
その庇護下の施設が日本と同盟する貴国を害するはずはない。
疑いを解き速やかに退去されたし!」
そう威厳をもって言い放ち、抗議した。
 しかしそう簡単に納得できないドイツ兵は
「しかし我々も確かな情報に基づき行動している。子供の遣いでもあるまいし、
はいそうですかとそう簡単に撤収するわけにはいかない。
とにかく納得するまで捜索させてもらう!」
と突っぱねる。
そこで書記官の後ろに控えていた敏郎が不安におびえる孤児院に向かい、
「大丈夫!君たちが怯えることは何もない!」
そして孤児院院長を兼ねたイエジキ部隊長に向かい、
「君たち!このドイツ人たちに日本の歌を聴かせてやってくれないか!」
と呼びかけた。
 イエジたちは意を決し、立ち上がると日本語で「君が代」や
「愛国行進曲」などを大合唱した。
その様子にあっけにとられ、圧倒されたドイツ人たちは立ち去った。
 その頃のドイツは先に述べたように日本との軍事同盟下にある。
日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない状況にあった。
そして日本大使館はその同盟を最大限活用し、
イエジキ部隊を幾度となく庇護した。

 しかし兵力で圧倒的に勝るナチスドイツ軍への抵抗は長くは続かず、
部隊の関係者は徹底的に弾圧された。
 そしてその日は来た。
ドイツ軍部隊がイエジキ部隊の拠点に踏み込み多数の死者と逮捕者が出た。

 報に接し、急いで拠点に駆け付けようとするヨアンナ。
ほぼ同時に報を耳にしてヨアンナの安否に危機感を持ち、ヨアンナのもとに向かう敏郎。
 ふたりはアジトの手前で遭遇した。
眼前の銃声と叫び声、破壊の轟音にヨアンナは取り乱し、
敏郎の静止を振り切り止めさせようと駆けだした。
その様子に気づいたドイツ兵が振り向きヨアンナに銃口を向けた。
 救出の仲間が現れたと勘違いし、相手が女性であろうと
お構いなしの冷静を欠いた行動だった。
咄嗟にヨアンナを庇い、前に出る敏郎。
 
 そして向けられた銃口が火を噴いた。

しかし銃弾に晒されても彼は倒れなかった。
 思わず悲鳴を上げるヨアンナに正気を取り戻したドイツ兵は、
引き金を戻したがもはや全ては遅かった。
誤って東洋人を撃ってしまった。その場に立ち尽くし、
ヨアンナとようやく立ち崩れる敏郎を見ていた。
 ヨアンナは半狂乱で敏郎にすがり、その名を呼び続けた。
ヨアンナの腕の中、敏郎は宙に目をやり、
最後に空の青さとヨアンナの顔を焼き付け静かに目を閉じた。


        おわり