梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

「福音を生きる」

2017年04月23日 | 日記
 説教題:福音を生きる
 聖書個所:ローマの信徒への手紙1章16節


起、情報媒体としての手紙
考えてみると古来、人間は伝えたいことがあると、顔と顔を突き合わせ、・・・言葉によって伝えてきました。そして文字を発見してからは、石や粘土に文字を彫り込み、あるいはパピルスという紙に文字を書き、伝えてきました。・・・・その紙と言うものから、手紙という情報手段が生まれてきました。
 
 その手紙ですが、紀元50年ごろ、パウロというイエス・キリストの使徒が、「伝道のため」、「教会を整え、成長させるため」、に教会宛ての手紙、という方法を編み出しました。・・それはキリスト教の歴史の中でも画期的な手法だとされています。なぜなら、それまでの「会って話す」という1対1の形での伝達が、手紙を回覧する形により、より多くの人に、ほぼ同時に、曲げられることなく主旨が、伝わるようになったからです。・・それはしてみれば、今日、情報が、インターネットにより、「ローカル」から「グローバル」へと拡散していく、いわば先駆者のようなものだったと言えるのかもしれません。

 さて今日、インターネットを始め、さまざまな情報伝達手段が生まれてきたのに、宗教界は活気がありません。例えば、仏教、・・・浄土真宗の門徒数は1000万人が800万人に、20%減だそうです。バプテスト福岡地方連合も42にある教会伝道所で、礼拝の出席者が、約13、比率にして30%が低落傾向なのです。・・・このまま行けば、おそらく10年後には、約70%の教会・伝道所が低落傾向になると思わされます。・・・そうなれば、ルーテル教会のように、それぞれの教会で牧師を雇う、ということが出来なくなり、牧師が幾つかの教会を掛け持ちする、・・そういう状況にならないとも限らないと思われます。・・・そういう訳で、今日、私たちの教会でも「伝道」が課題なのです。その伝道の中心、福音をどう伝えるのか、・・それが課題であります。・・・今日の総会の主題もこのことです!


承、聖書より
  その福音について、今日、示された16節には、「福音を恥とはしない」、とこうあります。この福音という言葉は、私たちの社会では、「グッドニュース」という意味で使われています。・・・でも決してしばしば使われている言葉ではないように思います。その理由は、この言葉がキリスト教に根があることが薄々知られており、キリスト教の土壌のない私たちの国では、何となく居場所のない言葉、になっているのでは、と思えます。・それは当時、同じようにキリスト教の土壌のなかったローマでも同じだったと思われます。・・・福音を恥とする空気があったのでしょう。

さてパウロは、ここで「福音を恥とはしない」、と否定形の形で表現しています。一般に、否定形は肯定形に比べ、強いインパクトを与えます。・・もしパウロが「福音を誇りにする」、と言ったならどうでしょう、・・・「ああ、そうなの」程度のインパクトしかなかったのかもしれません。

  しかし、これは「否定か肯定か」、という単なる表現上の問題ではありません。これにはパウロの強い思いが込められているからです。どういう思いなのか、・・・パウロはかって、イエスさまの説かれていた神の国の福音、・・・これを異端の思想だと考え、「この道を歩む人達」、を憎み、迫害していました。また、イエスさまに従う人々は、弟子の筆頭のペテロすら、無学な漁師上りであり、他には軽蔑すべき取税人、またその取り巻きには売春婦もいました。・・・普通の人からみても恥ずかしい人達でした。パウロもそう思っていたに違いありません。
・・・しかも、イエスさまは、もっとも恥ずかしい死刑の仕方、「木にかけて」・・これは十字架刑ことですが、・・そういう形で処刑されたもっとも軽蔑されるべき罪人でもありました。また、ローマ人にとっても、・・・属州のユダヤで、「ローマ帝国に逆らい、十字架刑で処刑された男がいたそうな」、・・・とそういう噂が立っていたに違いないような男、・・・・・そんな男の説く、「神の国の福音」が、ローマの人にとって何の誇りになったでしょうか、・・・・むしろ大多数の人は、「恥ずかしいこと」、と思っている、・・・・・パウロもそう思っていたに違いありません。そういうふうに認識していた男、パウロが、・・・・回心した後、・・・・挑戦的に、しかも強い思いを込めて、・・・・私は、・・「福音を恥としない」、とそう言い切ったのです。・・・・・何という、強い使命感から出た言葉でしょうか

 パウロには全く、比べようもありませんが、私もキリストと出会う前は、「キリスト教は女、子供の弱い人間行くところ」、といわばキリストの福音を侮っていました。そういう男が今では、「福音を語られて戴いています」
、神さまのなさることは、何と不思議で、時に適って美しいのでしょうか。

 話は戻りますが、そのパウロは、「福音」をどう理解していたでしょうか  パウロにとって、福音は、頭の中のことではなく、信じるものに、・・生きて働く、・・・・神の力だったのです。・・・・「神の力」と訳されているギリシャ語は、「ヂュナミス」という言葉であり、そこから英語のダイナマイト、ダイナミックス、・・・といった一連の「力」を表す言葉が生まれました。パウロはそのダイナマイトとも言うべき神の力を、自らにおいて実感していたのです。
 
話はまた戻りますが、実は、パウロが、・・・福音のなんたるかを全く知らなかった時、・・ 福音を信じていたキリスト教徒をひたすら憎んでいた時、・・・そのキリスト教徒を次々と捕まえようと奔走していた時、・・・・・・信仰的に言えば、罪びとの先頭に立っていた時、・・・・パウロは、突然、主の光を目に浴び、地上に倒れたのであります。・・・いわゆる、挫折をするのです。・・しかしこれはパウロにとって、「恵みの挫折」でありました。・・・そのパウロに・・・イエスさまが、「あなたのなすべきことが示される」、と声を掛けられました。これは異邦人伝道への使命のことですが・・・以来、パウロは自分の生き方を180度、方向転換するのです。・・それゆえ、パウロにとっては、イエスさまご自身が、・・・福音そのものとなったのです。

 福音を知ってパウロは、人間の救いは、「神との約束、すなわち律法、・・それを守るという行為によって成し遂げられる」、という従来の考えから解放されます。・・・そうではなくて、「救いは神の恵みによって、神の側から与えられる」、という考え方に思い至るのです。・・・実際、パウロ自身が救われたのも、「まだ罪びと」の時でした。彼が、何か良いことをしていたからではありません。
・・・・この気付きにより、パウロは自分自身の自我の縛りから解放され、彼の罪は、神の力により打ち砕かれて、・・・自由の身となったのです。・・・人が、バプテスマで水から引き揚げられ新生するように、パウロもそこで新しい自己を発見し、・・それにともない世界伝道というようなダイナミックな生き方をすることができるようになったのです。しかも、その福音は、パウロだけに及んだのではなく、ユダヤ人にもギリシャ人にも、・・つまりあらゆる民族と宗教の違いを越えて、イエスさまを信じるすべての者を救うことができると考えるようになったのです。・・・・その事が本当に、自分の腑に落ちたので、それを実感できたので、・・・・パウロは、「私は福音を恥とはしない」、と断言することが出来たのです。

 さて、パウロ同様、私たちも福音を知りました。では福音を知った私達は、何から解放されたでしょうか
尚も、私達は自我の縛りの中に生きているのでしょうか・・・・・この問いに対する答えは、最後に触れたいと
思います。


転、パウロの手紙の意味&今日の伝道の媒体
 ところで、私達は少し、脇道に入って見たいと思います。・・・・・実は、聖書は何時、誰が、どこで書いたのか、・・・その執筆の目的は何かなど・・・そういう研究が近世にはいりなされてきました。そういう研究をしているある神学者が、このパウロの書いたローマの信徒への手紙のことを、1)手紙の形をとった神学論文であるとか、 2)パウロ神学の円熟した総括である、とかと評しています。・・・そもそもこの手紙が、福音書に比べ何かとっつきにくい、という印象があるのも、神学論文であるなら、さもありなん、ということで納得できます。・・・ そういう前提の上で、このパウロの手紙がどういう特徴があるのか、そのことについて少しだけご紹介したいと思います。 紹介は、ゲルト・タイセンという聖書学者の『新約聖書』、という本に助けていただきます。

 それによると、1章の冒頭に、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――」・・・というのがありますが、当時、このような書き出しで始まる公開書簡と呼ばれるものは珍しくなかったようです。それらは、ローマ皇帝や地方総督が出す、「勅令」としてよく知られていました。そしてそれらはしばしば銘文としても刻まれていたので、ローマ帝国内の住民はだれでも読むことができました。・・・実は、パウロもこの形式を借用して、いわば目一杯の肩書を響かせて自己紹介をしています。・・・実はこのような自己紹介仕方を、・・・パウロは自分が書いた他の手紙ではしていません。・・・ローマの信徒への手紙で、そういうふうにした動機は、パウロ自身が全世界の支配者なる神から委託を受けて行動していること。自分のしている伝道はすべての民族に及ぶものであること、・・この二つを強調したかったからです。

 このように職務上の肩書を目一杯響かせて始まる手紙がローマから送られてくることには、属州、例えばユダヤなどに住む人間は慣れていました。ところが、何がすごいのか、・・・ローマの信徒への手紙のこの冒頭の部分は、・・・一属州の人間であるパウロが、ローマ宛てに書いているということです。・・いわば「上から下はあっても、下から上はなかった」、・・それをパウロはしたのです。しかも、パウロのような一介の「私人」が、自分の私信を、いわば全世界に向けて発信すると形というものは、当時はなかったのです。そういう中で、パウロは、政治的な勅令の形式をちゃっかり利用して、・・・全世界へ、と発信したのです。・・・このあたりの独創的な発想がパウロのすごいところで、そのパウロがいたからこそキリスト教が世界宗教になったのだと、改めて思わされました。そしてその恩恵を、私たちの誰もが受けている、と言って過言でしょう。



結、福音を生きる
  そのパウロが伝えたかったのは、イエス・キリストの十字架と復活です。・・・・パウロにおいて中心となる福音は、この二つにして一つのものです。パウロは、十字架について、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と言っています。また、復活についても、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と言っています。・・・・十字架において罪赦されたものは、復活において希望を戴く、・・・だから、これは福音の核心となるものです。

 しかし、わたしはこの大きなテーマを短い時間で語ることはとても出来ません。ここまで4606文字を使っています。残された文字数は多くて、約900文字、都合5500文字程度で説教を終えようと予定しているからです。従って、ここでテーマをグーツと絞りたいと思います。昨今の教会の周囲にある現状です。

 今日、心が弱っている人、生き生きと生きれていない人、自分に自信がない人、自分のことが嫌いな人、不安や心配にいつも包まれている人、・・・少なくありません。・・そういう人にとっての福音、「子よ、あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)、・・・「自分を愛するように」(マルコ12:31)、があります。・・・この福音は何を語ってくれるでしょうか

・・・・自分を責めなくていいんです!・・・自分を赦していいんです!、・・・自分が自分の最良の友人になっていいんです!・・・○○でなくてならない、という心の過剰な鎖をちぎっていいんです、・・・・・

神さまのスケールからみたら、人間がやり遂げたことなど、高々しれています。だから、他人を過大に評価することはありません。むしろ、神さまは小さなことを評価なさいます。だから、自分にできること、直ぐ出来ること、・・・・今日できること、・・・それをやれば、・・いいのです。・・・・

そして今はできないが、何時の日か、必ず何とかなる 「大丈夫」と自分を励ましていい、・・・また、大丈夫、何とかなるから、・・と友人を励ましていいんです、・・・・

このようにして、わたしたちが生き生きと生きるなら、私たちの日常が平安であるなら、私たちが自分にも人にも寛容であるなら、・・・・・・・神さまが、その生き方そのものを力としてくださり、その生き方を見た人を心動かして下さり、・・結果、それが私たちの伝道となっていくのだと思います。
・・・・・・ですから、伝道の中心である福音をどう伝えていくのか、という冒頭の問は、・・私達がどう福音を生きるのか、・・・そこに帰結するのだと言えましょう。・・・・さて、どう福音を生きるのか?


お祈りしましょう  
私たちの神、主、・・・あなたからの「良き知らせ」を隣人に伝えることは、私たちに託されており、私たちの責務でもあります。でもその前に、私たちの生き方を問われました。私達が、生き生きと楽しく、明るく生きることにおいて、世の人へのキリストの証人となっていくことです。どうぞ、そのような者へとこの年、私たちを一歩でも近づくよう導いてください。・・・・そのためにたゆまぬ歩みを重ねるよう導いてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン