2017年1月22日 福岡城西キリスト教会 礼拝説教原稿
説教題:「賜物を生かし、仕える」
説教箇所:ペテロの手紙 一 4:10-11
起、賜物とは、賜物は神の恵み
「クリスチャンとは、どういう人」、と定義づけるなら、「すべてのものは神からいただいたもの、ということを信じている人」、というのは一つの定義だろうと思います。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」、という旧約聖書の言葉はその拠り所になっていると思います。神なき世界では、「私のものは私のもの」、これが当たり前です。しかし、神が「天と地を造った」、と信じるわたしたちは、「すべてのものは神より戴いたもの」、ということも信じています。それ故、・・・神より戴いたものを「賜物」と言います。今日はその「賜物」についてご一緒に考えて行きたいと思います。
ところで、プロ野球、日本ハムの大谷翔平投手のことを知らない人はほぼいないだろうと思います。彼は165kmというとてつもない速球を投げれますし、コントロールも抜群で、昨年も2桁勝利をもしました。そして驚くことに、バッティングの方でも、22本のホームランを打っています。野球評論家が100年に一度とか出て来るどうかの天才だと言っています。世の中にはこう言った才能に恵まれた突然、変異のような選手がでてくるのです。
しかし今日、ここで取り上げる賜物は、大谷の天才肌の才能とは違います。・・・才能が、一般に、「信仰があるか、ないかとは関係なく」、つまり神さまの存在に関わりなく認識されているのに対し、・・賜物は、神さまの存在を通し、神さまから与えられている、・・そう認識することにおいて才能とは違うということができましょう。
ですから賜物とは、神さまの存在なしにはあり得ない言葉です。従ってその語源も、私たちが神さまから頂いている「恵み」と同じで、ギリシャ語ではカリスマという言葉が充てられています。・・ですから賜物とは、イクオール、・・・神の恵みだと言い換えることができましょう。
承、聖書より
賜物は神さまからの恵み、・・・・・その賜物は、特定の人だけにではなく、「それぞれ」の者に、しかも分けへだてなく与えられているのです。但し、すべての人に同じ賜物ではなく、異なった賜物が与えられているのです。・・・自分もあの人のような賜物が欲しいと願うことはあったにせよ。
しかも私たちはその賜物を無償で頂いています。今まで、神さまから請求書を送られた方はおいででしょう。誰もいないはずです!・・・・・・・言ってみれば何から何まで、神さまから丸抱えで面倒みて貰っています。ただ、残念ながら、・・・私たちの多くはそう思っていないと思いますが、、、、、、。
もし、私たちの周囲にここまでのことをしてくれる人がいれば、どんなに鈍い人でも、「ここまでしてくださりありがとうございます」、と感謝する気持ちになるでしょう。お礼もいうでしょう。・・・・・・
しかし、私たちの心の内には、人と比べて優れていると思うような能力があったとするなら、あるいは、「すごいね」などと褒められたりするなら、・・・どこかそれは自分の頑張りによって、あるいは親からもらった能力として、・・・当然の如く考えていることが多いのではないでしょうか。・・神さまからの賜物だとして、感謝することが少ないように思います。・・・・・皆さんどうでしょうか?・・・・ここまでは、今日の聖書個所の10節のいわば、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」という部分です。
ところで、新共同訳聖書も、口語訳聖書も、わが新共同訳聖書も、10節は、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とほぼ同じように記されています。ところが、岩波訳聖書では、ここがこのように訳されています。
「各自、神のさまざまな賜物の良い管理人として、自分が恵みを受けた通りに、それを互いのために役立てなさい」、・・・・この個所は、私には、この岩波訳聖書の方がわかり易いように思います。
つまり、わたしたちは賜物をいただいている。ここまではすべての聖書も同じです。ところが岩波訳は、次を、「恵みの善い管理者」ではなく、「賜物の善い管理者」と訳しています。こちらが具体的で分り易いように思います。
ところで私たちはこの時期を、「スチュワードシップ月間」として礼拝を献げています。それは今から5年前の2012年からそうなりました。すなわち、私たちは神さまから沢山の恵みをいただいている、神さまから限りなく愛されている、
・・・その神さまから頂いた恵みと愛に、どう応答して生きるのか、これが前提となることです。・・・恵みをいただいたままというのは、どう考えててもおかしい。愛されっぱなし、というのもどう考えてもおかしい。もちろんわたしたちの何らかの行為をしたとしても、それで神さまの恵みと愛に応えられることは無いにしても、
・・・しかし、例え、お返しできることが神さまの数億分の一で有ったにせよ、私たちは自分の出来る限りにおいて、それを神さまにお返ししていく、・・・そのことを特に、「1月には意識しましょう」、としてスチュワードシップの学びをしてきました。・・そういう訳で、今日の説教も実はその流れの中にあります。
先程、聞きなれないスチュワードシップという言葉を使いました。しかし、スチュワーデスという言葉なら知らない人はいらっしゃらないでしょう。スチュワーデス語源であるスチュワードという言葉が、実は「管理者」のことであります。管理者と言えば、・・・私はこの説教原稿を作りながら改めて気付いたのですが、その語源からすれば、飛行機の中でニコニコして愛想を振りまいているスチュワーデスは、実はその裏でしっかりと乗客と飛行機の運航を「管理」している人だと、・・いうことなのですね。
ついでのことですが、調べてみると、管理者と訳されているのは、聖書原文では、ギリシャ語の「オイコノモス」という言葉で、それが英語で、スチュワードという言葉に変化し、日本語で、「管理者」となりました。
元に戻りましょう。・・神さまは、「それぞれに、分けへだてなく」「しかも、無償で」、「賜物をくださった!」・・その神さまが、私達に付けられた条件が、だから、「あなたがたはその賜物をしっかり、活用しなさい」、ということなのです。・・それが管理者の務めだと。
そして、それは、新共同訳聖書では、「その賜物を生かして互いに仕えなさい」という形で示されています。一方、同じ個所が、岩波訳では「自分が恵みを受けた通りに、それを互いのために役立てなさい」、とあります。細かいことを言うようですが、ここも岩波訳の方が、・・わたしにはわかり易いように思われます。つまり、賜物をお互いのために、使いなさい、・・・と、隣人とのよい関係づくりが教えられているのです。
・・しかし、こう申し上げると、賜物は神さまのために使うものではないのですか?という疑問もお有りだと思います。それはその通りです。私たちは教会の誰かを喜ばせるために、あるいは自分自身の喜こびのために賜物を使うのではないのです。そうではなくて、イエスさまの、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉があるように、まずは神さまのために用います。それは当然です。
しかし、隣人のために役立てるなら、・・それはすなわち神さまが喜んでくださるということなのです。だから、「互いのために役に立つ」、あるいは「互いに仕える」、ということでいいのです。・・・これは今日引用した、聖書の10節、・・・「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」に該当することです。
転、賜物の使い方 誇るなら主を誇れ
では翻って、ここ城西教会にはどういう賜物があるでしょうか、・・・・・城西教会は、あたかも「スーパーのイオン」、といっていいくらい、・・まぁ、ここまでいうと少し言いすぎかな、と思いますが、それでもスーパーマルキョウと譬えていい位、豊かな品ぞろえ、・・・賜物をもった方々に恵まれている教会だと思います。・・・ある転入会をして来られた方が、「大きな声では言えませんが、私の出身教会に比べれば、・・・本当に豊かな賜物を持った方が沢山おられますね!」、と言われました。わたしも今まで2つの教会を経験していますが、・・・・その方の感想に同感です。城西教会は豊かな賜物をいただいています。
例えば、頂いた時間やお金という賜物を礼拝に献げてくださる方々、日頃、多くのことは言われません。あまり目立ったこともなさいません。しかし誠実に礼拝を守ってくださっている方々。特にご高齢の方々、・・遠い所から駆けつけてくださっている方々、見えないところで教会を整えてくださっている方々、こういう方々が教会の賜物です。ここに落ち着いた、静かな賜物を見る思いがします。
また、原発の危険性や水俣病などの社会的な問題に深い洞察を持ち、その運動の中心的な働きをなし、社会に対し世の光となってくださっている方々、・・そこにも人間愛やみ言葉の実践という賜物を見るのです。
また、礼拝のため、あるいはクリスマスなどの特別な集会のために、飾り付けしたり、料理を作ったり、
来会者を上手にもてなしたり、・・そこにも教会に仕え、来会者に仕え、キリストに仕える賜物を見るのです。
また、昨年は讃美集会を自分たちだけで行いました。讃美の賜物、音楽の賜物、・・・詳しくいうなら、聖歌隊讃美、ソロでの讃美、ギター、ピアノ、オルガン演奏など、・・・この分野で、特に城西教会には豊かな賜物が与えられています。
また、パウロは、「教える賜物」ということを言っていますが、この教会には小学校、中高、大学と教育に関わっておられる方が少なくありません。単に、教えるだけではなくキリストの香りを放ちつつ、これはクリスチャンならではこと。また特に、神学についての教える賜物は、この教会ならでの特別なものでありましょう。
また、昨今、鬱病や引きこもり、夫婦問題なで、様々な心の問題が社会を覆っています。自死する方々も全体として高いレベルにあります。その心の問題、家庭の問題などの相談に乗って、共に悩み、解決まで同伴するそうした働きの賜物もこの教会ならではの特別なものでありましょう。
また、あまり目立たないところで、障害を抱えた人の支援をし続けていること、これも弱者に寄り添うという愛の賜物です。
この他にもわたしが気付かない賜物もあると思います。それは神さまが知っていてくださいます。いずれにしても城西教会の賜物の品ぞろえは豊富です。・・・品ぞろえをしてくださっている神さまに感謝します。
結、賜物を主の為に用いる(生かす)・・・主が喜んでくださる
最後に、賜物の生かしかた、このことを考えてみましょう。神さまは先程、申し上げたように、すべての人に、教会を意識して申し上げれば、私たち信徒と来会者の方々に賜物を与えてくださっています。それも、無償で、・・・・・誰も神さまにお金を払った人はいないはずです。繰り返しになりますが、賜物は無償で戴いているのです。
賜物は使え!
それ故、・・・その賜物を使うように命じておられます。「タラントン」の例えがそれですね。・・ある金持ちのご主人が使用人にそれぞれに、今で言えば、5億円、2億円、1億円と預けて旅にでました。旅から帰ると、5億円預けた使用人は、それを倍に、すなわち10億円にしていました。ご主人は「良くやった」、と褒められました。しかし、1億円を預けた使用人は、1億円のままでした。ご主人は「怠け者!」、と一喝されました。ご主人とは神さまのことで、使用人とは私たちです。この例えは、私たちは「賜物の管理者」として戴いた賜物を最大源に有効に使う責任があることを教えてくれています。
賜物は神さまと隣人に使え! それも祈って!
イエスさまは、賜物を、神さまのため、そして自分自身と隣人のために使うように命じておられます。最も、大事な二つの教え、「あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」はその裏付けとなる言葉です。「主を愛する」、ということの具体的現れは、今、こうして献げている礼拝です。「この礼拝に貴方の賜物を使なさい!」、それが、神さまが命じられていることです。
だから賜物は自分の自己実現のためではなく、神さまの喜びのために使う、・・・その時、私たちには本当の満足が与えられるのではないでしょう。・・・・時として、私たちには自分の奉仕に目を留めて欲しい、自分の奉仕を褒めて欲しい、という誘惑はないでしょうか・・・・・ところが教会ではそう思っている奉仕が必ずしも褒められることはありません。・・むしろ多くの人は気付いてくれないことが多いように思いす。
しかし、それが、それこそが恵みです。なぜなら、その時、神さまが、「わたしが見ていたよ」「わたしが知っているよ」と言ってくださるからです。そのように神さまを近くに感じることができるからです。・・・・・「神さま、私の奉仕を喜んでくださいますか」、「神さまどのように奉仕をしたらいいですか」、とこの祈りのある時、この祈りによって賜物が用いられる時、・・・・・きっとその賜物は一番豊かに用いられるに違いありません。
祈りのあるところの奉仕、・・・実は佐賀教会に赴任された余 信鏑先生が、佐賀教会で、最初に強調されたのが、「教会に来たら、まず会堂で祈りましょう」。「それから奉仕しましょう」、ということだったそうです。・・・・余先生によると、それから佐賀教会は、どんどんいい雰囲気の教会になってきたと言われていました。・・・多分、祈った瞬間に神さまが、・・・私たちの才能を賜物へ、私たちの仕事を奉仕へ替えてくださったんだろうと私は思います。祈りの大事さは、言うまでもありません。なぜなら祈りのないところでは、・・・教会でもしばしば、この世と同じで、才能が、仕事が、幅を利かせるということになるからです。
・・・いずれにしても私たちは賜物をくださった神さまの為に使う、そして自分自身と隣人のために使うということを覚えておく必要がありましょう。なぜなら、それは賜物をくださった神さまが一番喜んでくださるからです。
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」 (ペテロの手紙一 4:10)
お祈りしましょう
「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」、という人間社会では考えられないことを
信じることを恵みに思います。なぜなら、必要なものはすべて主が備えてくださると約束してくださっているからです。それ故、信仰に立って、戴いた賜物をもっと、もっと主の為に、隣人のために用いることができるように助けてください。
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。 アーメン
説教題:「賜物を生かし、仕える」
説教箇所:ペテロの手紙 一 4:10-11
起、賜物とは、賜物は神の恵み
「クリスチャンとは、どういう人」、と定義づけるなら、「すべてのものは神からいただいたもの、ということを信じている人」、というのは一つの定義だろうと思います。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」、という旧約聖書の言葉はその拠り所になっていると思います。神なき世界では、「私のものは私のもの」、これが当たり前です。しかし、神が「天と地を造った」、と信じるわたしたちは、「すべてのものは神より戴いたもの」、ということも信じています。それ故、・・・神より戴いたものを「賜物」と言います。今日はその「賜物」についてご一緒に考えて行きたいと思います。
ところで、プロ野球、日本ハムの大谷翔平投手のことを知らない人はほぼいないだろうと思います。彼は165kmというとてつもない速球を投げれますし、コントロールも抜群で、昨年も2桁勝利をもしました。そして驚くことに、バッティングの方でも、22本のホームランを打っています。野球評論家が100年に一度とか出て来るどうかの天才だと言っています。世の中にはこう言った才能に恵まれた突然、変異のような選手がでてくるのです。
しかし今日、ここで取り上げる賜物は、大谷の天才肌の才能とは違います。・・・才能が、一般に、「信仰があるか、ないかとは関係なく」、つまり神さまの存在に関わりなく認識されているのに対し、・・賜物は、神さまの存在を通し、神さまから与えられている、・・そう認識することにおいて才能とは違うということができましょう。
ですから賜物とは、神さまの存在なしにはあり得ない言葉です。従ってその語源も、私たちが神さまから頂いている「恵み」と同じで、ギリシャ語ではカリスマという言葉が充てられています。・・ですから賜物とは、イクオール、・・・神の恵みだと言い換えることができましょう。
承、聖書より
賜物は神さまからの恵み、・・・・・その賜物は、特定の人だけにではなく、「それぞれ」の者に、しかも分けへだてなく与えられているのです。但し、すべての人に同じ賜物ではなく、異なった賜物が与えられているのです。・・・自分もあの人のような賜物が欲しいと願うことはあったにせよ。
しかも私たちはその賜物を無償で頂いています。今まで、神さまから請求書を送られた方はおいででしょう。誰もいないはずです!・・・・・・・言ってみれば何から何まで、神さまから丸抱えで面倒みて貰っています。ただ、残念ながら、・・・私たちの多くはそう思っていないと思いますが、、、、、、。
もし、私たちの周囲にここまでのことをしてくれる人がいれば、どんなに鈍い人でも、「ここまでしてくださりありがとうございます」、と感謝する気持ちになるでしょう。お礼もいうでしょう。・・・・・・
しかし、私たちの心の内には、人と比べて優れていると思うような能力があったとするなら、あるいは、「すごいね」などと褒められたりするなら、・・・どこかそれは自分の頑張りによって、あるいは親からもらった能力として、・・・当然の如く考えていることが多いのではないでしょうか。・・神さまからの賜物だとして、感謝することが少ないように思います。・・・・・皆さんどうでしょうか?・・・・ここまでは、今日の聖書個所の10節のいわば、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」という部分です。
ところで、新共同訳聖書も、口語訳聖書も、わが新共同訳聖書も、10節は、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とほぼ同じように記されています。ところが、岩波訳聖書では、ここがこのように訳されています。
「各自、神のさまざまな賜物の良い管理人として、自分が恵みを受けた通りに、それを互いのために役立てなさい」、・・・・この個所は、私には、この岩波訳聖書の方がわかり易いように思います。
つまり、わたしたちは賜物をいただいている。ここまではすべての聖書も同じです。ところが岩波訳は、次を、「恵みの善い管理者」ではなく、「賜物の善い管理者」と訳しています。こちらが具体的で分り易いように思います。
ところで私たちはこの時期を、「スチュワードシップ月間」として礼拝を献げています。それは今から5年前の2012年からそうなりました。すなわち、私たちは神さまから沢山の恵みをいただいている、神さまから限りなく愛されている、
・・・その神さまから頂いた恵みと愛に、どう応答して生きるのか、これが前提となることです。・・・恵みをいただいたままというのは、どう考えててもおかしい。愛されっぱなし、というのもどう考えてもおかしい。もちろんわたしたちの何らかの行為をしたとしても、それで神さまの恵みと愛に応えられることは無いにしても、
・・・しかし、例え、お返しできることが神さまの数億分の一で有ったにせよ、私たちは自分の出来る限りにおいて、それを神さまにお返ししていく、・・・そのことを特に、「1月には意識しましょう」、としてスチュワードシップの学びをしてきました。・・そういう訳で、今日の説教も実はその流れの中にあります。
先程、聞きなれないスチュワードシップという言葉を使いました。しかし、スチュワーデスという言葉なら知らない人はいらっしゃらないでしょう。スチュワーデス語源であるスチュワードという言葉が、実は「管理者」のことであります。管理者と言えば、・・・私はこの説教原稿を作りながら改めて気付いたのですが、その語源からすれば、飛行機の中でニコニコして愛想を振りまいているスチュワーデスは、実はその裏でしっかりと乗客と飛行機の運航を「管理」している人だと、・・いうことなのですね。
ついでのことですが、調べてみると、管理者と訳されているのは、聖書原文では、ギリシャ語の「オイコノモス」という言葉で、それが英語で、スチュワードという言葉に変化し、日本語で、「管理者」となりました。
元に戻りましょう。・・神さまは、「それぞれに、分けへだてなく」「しかも、無償で」、「賜物をくださった!」・・その神さまが、私達に付けられた条件が、だから、「あなたがたはその賜物をしっかり、活用しなさい」、ということなのです。・・それが管理者の務めだと。
そして、それは、新共同訳聖書では、「その賜物を生かして互いに仕えなさい」という形で示されています。一方、同じ個所が、岩波訳では「自分が恵みを受けた通りに、それを互いのために役立てなさい」、とあります。細かいことを言うようですが、ここも岩波訳の方が、・・わたしにはわかり易いように思われます。つまり、賜物をお互いのために、使いなさい、・・・と、隣人とのよい関係づくりが教えられているのです。
・・しかし、こう申し上げると、賜物は神さまのために使うものではないのですか?という疑問もお有りだと思います。それはその通りです。私たちは教会の誰かを喜ばせるために、あるいは自分自身の喜こびのために賜物を使うのではないのです。そうではなくて、イエスさまの、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉があるように、まずは神さまのために用います。それは当然です。
しかし、隣人のために役立てるなら、・・それはすなわち神さまが喜んでくださるということなのです。だから、「互いのために役に立つ」、あるいは「互いに仕える」、ということでいいのです。・・・これは今日引用した、聖書の10節、・・・「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」に該当することです。
転、賜物の使い方 誇るなら主を誇れ
では翻って、ここ城西教会にはどういう賜物があるでしょうか、・・・・・城西教会は、あたかも「スーパーのイオン」、といっていいくらい、・・まぁ、ここまでいうと少し言いすぎかな、と思いますが、それでもスーパーマルキョウと譬えていい位、豊かな品ぞろえ、・・・賜物をもった方々に恵まれている教会だと思います。・・・ある転入会をして来られた方が、「大きな声では言えませんが、私の出身教会に比べれば、・・・本当に豊かな賜物を持った方が沢山おられますね!」、と言われました。わたしも今まで2つの教会を経験していますが、・・・・その方の感想に同感です。城西教会は豊かな賜物をいただいています。
例えば、頂いた時間やお金という賜物を礼拝に献げてくださる方々、日頃、多くのことは言われません。あまり目立ったこともなさいません。しかし誠実に礼拝を守ってくださっている方々。特にご高齢の方々、・・遠い所から駆けつけてくださっている方々、見えないところで教会を整えてくださっている方々、こういう方々が教会の賜物です。ここに落ち着いた、静かな賜物を見る思いがします。
また、原発の危険性や水俣病などの社会的な問題に深い洞察を持ち、その運動の中心的な働きをなし、社会に対し世の光となってくださっている方々、・・そこにも人間愛やみ言葉の実践という賜物を見るのです。
また、礼拝のため、あるいはクリスマスなどの特別な集会のために、飾り付けしたり、料理を作ったり、
来会者を上手にもてなしたり、・・そこにも教会に仕え、来会者に仕え、キリストに仕える賜物を見るのです。
また、昨年は讃美集会を自分たちだけで行いました。讃美の賜物、音楽の賜物、・・・詳しくいうなら、聖歌隊讃美、ソロでの讃美、ギター、ピアノ、オルガン演奏など、・・・この分野で、特に城西教会には豊かな賜物が与えられています。
また、パウロは、「教える賜物」ということを言っていますが、この教会には小学校、中高、大学と教育に関わっておられる方が少なくありません。単に、教えるだけではなくキリストの香りを放ちつつ、これはクリスチャンならではこと。また特に、神学についての教える賜物は、この教会ならでの特別なものでありましょう。
また、昨今、鬱病や引きこもり、夫婦問題なで、様々な心の問題が社会を覆っています。自死する方々も全体として高いレベルにあります。その心の問題、家庭の問題などの相談に乗って、共に悩み、解決まで同伴するそうした働きの賜物もこの教会ならではの特別なものでありましょう。
また、あまり目立たないところで、障害を抱えた人の支援をし続けていること、これも弱者に寄り添うという愛の賜物です。
この他にもわたしが気付かない賜物もあると思います。それは神さまが知っていてくださいます。いずれにしても城西教会の賜物の品ぞろえは豊富です。・・・品ぞろえをしてくださっている神さまに感謝します。
結、賜物を主の為に用いる(生かす)・・・主が喜んでくださる
最後に、賜物の生かしかた、このことを考えてみましょう。神さまは先程、申し上げたように、すべての人に、教会を意識して申し上げれば、私たち信徒と来会者の方々に賜物を与えてくださっています。それも、無償で、・・・・・誰も神さまにお金を払った人はいないはずです。繰り返しになりますが、賜物は無償で戴いているのです。
賜物は使え!
それ故、・・・その賜物を使うように命じておられます。「タラントン」の例えがそれですね。・・ある金持ちのご主人が使用人にそれぞれに、今で言えば、5億円、2億円、1億円と預けて旅にでました。旅から帰ると、5億円預けた使用人は、それを倍に、すなわち10億円にしていました。ご主人は「良くやった」、と褒められました。しかし、1億円を預けた使用人は、1億円のままでした。ご主人は「怠け者!」、と一喝されました。ご主人とは神さまのことで、使用人とは私たちです。この例えは、私たちは「賜物の管理者」として戴いた賜物を最大源に有効に使う責任があることを教えてくれています。
賜物は神さまと隣人に使え! それも祈って!
イエスさまは、賜物を、神さまのため、そして自分自身と隣人のために使うように命じておられます。最も、大事な二つの教え、「あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」はその裏付けとなる言葉です。「主を愛する」、ということの具体的現れは、今、こうして献げている礼拝です。「この礼拝に貴方の賜物を使なさい!」、それが、神さまが命じられていることです。
だから賜物は自分の自己実現のためではなく、神さまの喜びのために使う、・・・その時、私たちには本当の満足が与えられるのではないでしょう。・・・・時として、私たちには自分の奉仕に目を留めて欲しい、自分の奉仕を褒めて欲しい、という誘惑はないでしょうか・・・・・ところが教会ではそう思っている奉仕が必ずしも褒められることはありません。・・むしろ多くの人は気付いてくれないことが多いように思いす。
しかし、それが、それこそが恵みです。なぜなら、その時、神さまが、「わたしが見ていたよ」「わたしが知っているよ」と言ってくださるからです。そのように神さまを近くに感じることができるからです。・・・・・「神さま、私の奉仕を喜んでくださいますか」、「神さまどのように奉仕をしたらいいですか」、とこの祈りのある時、この祈りによって賜物が用いられる時、・・・・・きっとその賜物は一番豊かに用いられるに違いありません。
祈りのあるところの奉仕、・・・実は佐賀教会に赴任された余 信鏑先生が、佐賀教会で、最初に強調されたのが、「教会に来たら、まず会堂で祈りましょう」。「それから奉仕しましょう」、ということだったそうです。・・・・余先生によると、それから佐賀教会は、どんどんいい雰囲気の教会になってきたと言われていました。・・・多分、祈った瞬間に神さまが、・・・私たちの才能を賜物へ、私たちの仕事を奉仕へ替えてくださったんだろうと私は思います。祈りの大事さは、言うまでもありません。なぜなら祈りのないところでは、・・・教会でもしばしば、この世と同じで、才能が、仕事が、幅を利かせるということになるからです。
・・・いずれにしても私たちは賜物をくださった神さまの為に使う、そして自分自身と隣人のために使うということを覚えておく必要がありましょう。なぜなら、それは賜物をくださった神さまが一番喜んでくださるからです。
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」 (ペテロの手紙一 4:10)
お祈りしましょう
「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」、という人間社会では考えられないことを
信じることを恵みに思います。なぜなら、必要なものはすべて主が備えてくださると約束してくださっているからです。それ故、信仰に立って、戴いた賜物をもっと、もっと主の為に、隣人のために用いることができるように助けてください。
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。 アーメン