梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

「賜物を生かし、仕える」

2017年01月22日 | 日記
2017年1月22日 福岡城西キリスト教会 礼拝説教原稿
説教題:「賜物を生かし、仕える」
説教箇所:ペテロの手紙 一 4:10-11

起、賜物とは、賜物は神の恵み
 「クリスチャンとは、どういう人」、と定義づけるなら、「すべてのものは神からいただいたもの、ということを信じている人」、というのは一つの定義だろうと思います。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」、という旧約聖書の言葉はその拠り所になっていると思います。神なき世界では、「私のものは私のもの」、これが当たり前です。しかし、神が「天と地を造った」、と信じるわたしたちは、「すべてのものは神より戴いたもの」、ということも信じています。それ故、・・・神より戴いたものを「賜物」と言います。今日はその「賜物」についてご一緒に考えて行きたいと思います。

 ところで、プロ野球、日本ハムの大谷翔平投手のことを知らない人はほぼいないだろうと思います。彼は165kmというとてつもない速球を投げれますし、コントロールも抜群で、昨年も2桁勝利をもしました。そして驚くことに、バッティングの方でも、22本のホームランを打っています。野球評論家が100年に一度とか出て来るどうかの天才だと言っています。世の中にはこう言った才能に恵まれた突然、変異のような選手がでてくるのです。

しかし今日、ここで取り上げる賜物は、大谷の天才肌の才能とは違います。・・・才能が、一般に、「信仰があるか、ないかとは関係なく」、つまり神さまの存在に関わりなく認識されているのに対し、・・賜物は、神さまの存在を通し、神さまから与えられている、・・そう認識することにおいて才能とは違うということができましょう。

ですから賜物とは、神さまの存在なしにはあり得ない言葉です。従ってその語源も、私たちが神さまから頂いている「恵み」と同じで、ギリシャ語ではカリスマという言葉が充てられています。・・ですから賜物とは、イクオール、・・・神の恵みだと言い換えることができましょう。


承、聖書より
 賜物は神さまからの恵み、・・・・・その賜物は、特定の人だけにではなく、「それぞれ」の者に、しかも分けへだてなく与えられているのです。但し、すべての人に同じ賜物ではなく、異なった賜物が与えられているのです。・・・自分もあの人のような賜物が欲しいと願うことはあったにせよ。

しかも私たちはその賜物を無償で頂いています。今まで、神さまから請求書を送られた方はおいででしょう。誰もいないはずです!・・・・・・・言ってみれば何から何まで、神さまから丸抱えで面倒みて貰っています。ただ、残念ながら、・・・私たちの多くはそう思っていないと思いますが、、、、、、。
もし、私たちの周囲にここまでのことをしてくれる人がいれば、どんなに鈍い人でも、「ここまでしてくださりありがとうございます」、と感謝する気持ちになるでしょう。お礼もいうでしょう。・・・・・・

しかし、私たちの心の内には、人と比べて優れていると思うような能力があったとするなら、あるいは、「すごいね」などと褒められたりするなら、・・・どこかそれは自分の頑張りによって、あるいは親からもらった能力として、・・・当然の如く考えていることが多いのではないでしょうか。・・神さまからの賜物だとして、感謝することが少ないように思います。・・・・・皆さんどうでしょうか?・・・・ここまでは、今日の聖書個所の10節のいわば、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」という部分です。

ところで、新共同訳聖書も、口語訳聖書も、わが新共同訳聖書も、10節は、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とほぼ同じように記されています。ところが、岩波訳聖書では、ここがこのように訳されています。
「各自、神のさまざまな賜物の良い管理人として、自分が恵みを受けた通りに、それを互いのために役立てなさい」、・・・・この個所は、私には、この岩波訳聖書の方がわかり易いように思います。

 つまり、わたしたちは賜物をいただいている。ここまではすべての聖書も同じです。ところが岩波訳は、次を、「恵みの善い管理者」ではなく、「賜物の善い管理者」と訳しています。こちらが具体的で分り易いように思います。

ところで私たちはこの時期を、「スチュワードシップ月間」として礼拝を献げています。それは今から5年前の2012年からそうなりました。すなわち、私たちは神さまから沢山の恵みをいただいている、神さまから限りなく愛されている、

・・・その神さまから頂いた恵みと愛に、どう応答して生きるのか、これが前提となることです。・・・恵みをいただいたままというのは、どう考えててもおかしい。愛されっぱなし、というのもどう考えてもおかしい。もちろんわたしたちの何らかの行為をしたとしても、それで神さまの恵みと愛に応えられることは無いにしても、
・・・しかし、例え、お返しできることが神さまの数億分の一で有ったにせよ、私たちは自分の出来る限りにおいて、それを神さまにお返ししていく、・・・そのことを特に、「1月には意識しましょう」、としてスチュワードシップの学びをしてきました。・・そういう訳で、今日の説教も実はその流れの中にあります。

先程、聞きなれないスチュワードシップという言葉を使いました。しかし、スチュワーデスという言葉なら知らない人はいらっしゃらないでしょう。スチュワーデス語源であるスチュワードという言葉が、実は「管理者」のことであります。管理者と言えば、・・・私はこの説教原稿を作りながら改めて気付いたのですが、その語源からすれば、飛行機の中でニコニコして愛想を振りまいているスチュワーデスは、実はその裏でしっかりと乗客と飛行機の運航を「管理」している人だと、・・いうことなのですね。
ついでのことですが、調べてみると、管理者と訳されているのは、聖書原文では、ギリシャ語の「オイコノモス」という言葉で、それが英語で、スチュワードという言葉に変化し、日本語で、「管理者」となりました。

元に戻りましょう。・・神さまは、「それぞれに、分けへだてなく」「しかも、無償で」、「賜物をくださった!」・・その神さまが、私達に付けられた条件が、だから、「あなたがたはその賜物をしっかり、活用しなさい」、ということなのです。・・それが管理者の務めだと。

そして、それは、新共同訳聖書では、「その賜物を生かして互いに仕えなさい」という形で示されています。一方、同じ個所が、岩波訳では「自分が恵みを受けた通りに、それを互いのために役立てなさい」、とあります。細かいことを言うようですが、ここも岩波訳の方が、・・わたしにはわかり易いように思われます。つまり、賜物をお互いのために、使いなさい、・・・と、隣人とのよい関係づくりが教えられているのです。

・・しかし、こう申し上げると、賜物は神さまのために使うものではないのですか?という疑問もお有りだと思います。それはその通りです。私たちは教会の誰かを喜ばせるために、あるいは自分自身の喜こびのために賜物を使うのではないのです。そうではなくて、イエスさまの、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉があるように、まずは神さまのために用います。それは当然です。
しかし、隣人のために役立てるなら、・・それはすなわち神さまが喜んでくださるということなのです。だから、「互いのために役に立つ」、あるいは「互いに仕える」、ということでいいのです。・・・これは今日引用した、聖書の10節、・・・「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」に該当することです。


転、賜物の使い方 誇るなら主を誇れ
では翻って、ここ城西教会にはどういう賜物があるでしょうか、・・・・・城西教会は、あたかも「スーパーのイオン」、といっていいくらい、・・まぁ、ここまでいうと少し言いすぎかな、と思いますが、それでもスーパーマルキョウと譬えていい位、豊かな品ぞろえ、・・・賜物をもった方々に恵まれている教会だと思います。・・・ある転入会をして来られた方が、「大きな声では言えませんが、私の出身教会に比べれば、・・・本当に豊かな賜物を持った方が沢山おられますね!」、と言われました。わたしも今まで2つの教会を経験していますが、・・・・その方の感想に同感です。城西教会は豊かな賜物をいただいています。

例えば、頂いた時間やお金という賜物を礼拝に献げてくださる方々、日頃、多くのことは言われません。あまり目立ったこともなさいません。しかし誠実に礼拝を守ってくださっている方々。特にご高齢の方々、・・遠い所から駆けつけてくださっている方々、見えないところで教会を整えてくださっている方々、こういう方々が教会の賜物です。ここに落ち着いた、静かな賜物を見る思いがします。

また、原発の危険性や水俣病などの社会的な問題に深い洞察を持ち、その運動の中心的な働きをなし、社会に対し世の光となってくださっている方々、・・そこにも人間愛やみ言葉の実践という賜物を見るのです。

また、礼拝のため、あるいはクリスマスなどの特別な集会のために、飾り付けしたり、料理を作ったり、
来会者を上手にもてなしたり、・・そこにも教会に仕え、来会者に仕え、キリストに仕える賜物を見るのです。

 また、昨年は讃美集会を自分たちだけで行いました。讃美の賜物、音楽の賜物、・・・詳しくいうなら、聖歌隊讃美、ソロでの讃美、ギター、ピアノ、オルガン演奏など、・・・この分野で、特に城西教会には豊かな賜物が与えられています。

また、パウロは、「教える賜物」ということを言っていますが、この教会には小学校、中高、大学と教育に関わっておられる方が少なくありません。単に、教えるだけではなくキリストの香りを放ちつつ、これはクリスチャンならではこと。また特に、神学についての教える賜物は、この教会ならでの特別なものでありましょう。
また、昨今、鬱病や引きこもり、夫婦問題なで、様々な心の問題が社会を覆っています。自死する方々も全体として高いレベルにあります。その心の問題、家庭の問題などの相談に乗って、共に悩み、解決まで同伴するそうした働きの賜物もこの教会ならではの特別なものでありましょう。

また、あまり目立たないところで、障害を抱えた人の支援をし続けていること、これも弱者に寄り添うという愛の賜物です。

この他にもわたしが気付かない賜物もあると思います。それは神さまが知っていてくださいます。いずれにしても城西教会の賜物の品ぞろえは豊富です。・・・品ぞろえをしてくださっている神さまに感謝します。


結、賜物を主の為に用いる(生かす)・・・主が喜んでくださる
  最後に、賜物の生かしかた、このことを考えてみましょう。神さまは先程、申し上げたように、すべての人に、教会を意識して申し上げれば、私たち信徒と来会者の方々に賜物を与えてくださっています。それも、無償で、・・・・・誰も神さまにお金を払った人はいないはずです。繰り返しになりますが、賜物は無償で戴いているのです。

賜物は使え!
それ故、・・・その賜物を使うように命じておられます。「タラントン」の例えがそれですね。・・ある金持ちのご主人が使用人にそれぞれに、今で言えば、5億円、2億円、1億円と預けて旅にでました。旅から帰ると、5億円預けた使用人は、それを倍に、すなわち10億円にしていました。ご主人は「良くやった」、と褒められました。しかし、1億円を預けた使用人は、1億円のままでした。ご主人は「怠け者!」、と一喝されました。ご主人とは神さまのことで、使用人とは私たちです。この例えは、私たちは「賜物の管理者」として戴いた賜物を最大源に有効に使う責任があることを教えてくれています。


賜物は神さまと隣人に使え!  それも祈って!
 イエスさまは、賜物を、神さまのため、そして自分自身と隣人のために使うように命じておられます。最も、大事な二つの教え、「あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」はその裏付けとなる言葉です。「主を愛する」、ということの具体的現れは、今、こうして献げている礼拝です。「この礼拝に貴方の賜物を使なさい!」、それが、神さまが命じられていることです。

だから賜物は自分の自己実現のためではなく、神さまの喜びのために使う、・・・その時、私たちには本当の満足が与えられるのではないでしょう。・・・・時として、私たちには自分の奉仕に目を留めて欲しい、自分の奉仕を褒めて欲しい、という誘惑はないでしょうか・・・・・ところが教会ではそう思っている奉仕が必ずしも褒められることはありません。・・むしろ多くの人は気付いてくれないことが多いように思いす。
しかし、それが、それこそが恵みです。なぜなら、その時、神さまが、「わたしが見ていたよ」「わたしが知っているよ」と言ってくださるからです。そのように神さまを近くに感じることができるからです。・・・・・「神さま、私の奉仕を喜んでくださいますか」、「神さまどのように奉仕をしたらいいですか」、とこの祈りのある時、この祈りによって賜物が用いられる時、・・・・・きっとその賜物は一番豊かに用いられるに違いありません。
祈りのあるところの奉仕、・・・実は佐賀教会に赴任された余 信鏑先生が、佐賀教会で、最初に強調されたのが、「教会に来たら、まず会堂で祈りましょう」。「それから奉仕しましょう」、ということだったそうです。・・・・余先生によると、それから佐賀教会は、どんどんいい雰囲気の教会になってきたと言われていました。・・・多分、祈った瞬間に神さまが、・・・私たちの才能を賜物へ、私たちの仕事を奉仕へ替えてくださったんだろうと私は思います。祈りの大事さは、言うまでもありません。なぜなら祈りのないところでは、・・・教会でもしばしば、この世と同じで、才能が、仕事が、幅を利かせるということになるからです。


・・・いずれにしても私たちは賜物をくださった神さまの為に使う、そして自分自身と隣人のために使うということを覚えておく必要がありましょう。なぜなら、それは賜物をくださった神さまが一番喜んでくださるからです。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」   (ペテロの手紙一 4:10)


お祈りしましょう
 「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」、という人間社会では考えられないことを
信じることを恵みに思います。なぜなら、必要なものはすべて主が備えてくださると約束してくださっているからです。それ故、信仰に立って、戴いた賜物をもっと、もっと主の為に、隣人のために用いることができるように助けてください。
                   この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。   アーメン



「混沌」、今をどう生きるか?

2017年01月08日 | 日記
 2017年 1月8日 福岡城西キリスト教会 礼拝説教
 説教題:「混沌」、今をどう生きる?
 聖書個所:創世記1章1節-5節

起、2016年の世相
新年、おめでとうございます! 元旦礼拝は好天にも恵まれ40名を超える方々とご一緒できました。そこで一応、新年の挨拶を済ませていますが、それぞれの所用で、今日が初めてという方も少なくありません。改めまして、今日、ここで新年のお喜びを共にしたいと思います。

 さて、新年に当たり、「この年をどう生きるか」、それが新年礼拝のテーマです。しかし、取りあえずは、まず昨年の十大ニュースを振り返ってみたいと思います。と言うのはそこに今日のテーマとの関連があると思われるからです。

2016年の十大ニュース、それも「世界の」、言った場合、1位に選ばれたニュースは何だと思われますか、・・・読売新聞によると、・・アメリカの大統領選で、トランプ候補が選ばれたことです。2位は、イギリスのEUからの離脱です。・・以下、続きますがこれは割愛します。次に、日本の重大ニュースです。1位は、4月に起きた熊本地震で死者が50人余りでたことです。2位は、東京都知事に小池さんが選ばれたことですが、ここでも2位以下は割愛します。

さて、これらのニュースを皆さん、どう思われますか?・・・私たちはどう受け取ったらいいでしょうか、これからの時代がどう動いていくか、あるいはここから何かを見通すことはできるでしょうか
実はアメリカ大統領選の開票が行われていた11月8日の午後、リディア・ハンキンス先生から、「深刻な事態が起きている、今、真剣に祈っている」、とのメールが届きました。トランプ候補が次々と選挙人を勝ち取っていて、勝利に向かって進んでいたからです。また、リディア先生は「反トランプ」で、ヒラリー候補を応援しておられたからです。

リディア先生がメールに「深刻」と書かれていたことは、余程の事だと想像します。「深刻」の中身は、いろいろでありましょう。私が想像するに、例えば、言われているように、アメリカが世界協調を捨てて自国中心になるのでは。アメリカが、排外主義に陥るのでは。アメリカと自由主義国の同盟関係が揺らぐのでは。・・・あるいは、トランプ氏の人間性の問題なのかもしれません、・・この他にももっとあるかもしれません。
・・・・その結果、世界がどうなるか、・・・英国のEU離脱を含めて、・・・世界は、・・・混沌としてくる、・・・わたしはそう思いますし、リディア先生もそれを危惧されたのかもしれません。・・・・皆さんはどう思われますか?


承、聖書から
  世界は混沌してくるのでは、とそう申しあげました。実は、混沌であった時代が今から2600年位前にも有ったと聖書にも記されています。その個所は、旧約聖書冒頭の創造物語と呼ばれている個所です。1章1節には、「初めに、神は天と地を創造された」、と記されています。格調高く、すばらしいみ言葉だと思います。そして2節には、「地は混沌であって」、というみ言葉が置かれています。これが今日の・・鍵となる言葉です。
 実は、この「混沌」というみ言葉の背後には、時代状況がありました。どういう時代状況か、・・・・それは旧約聖書の民、イスラエルの民が、バビロン帝国に敗れ、「捕囚」、つまり捕虜として連れていかれたということです。・・・戦いに敗れた民が何を失ったか、・・・・独立と、国土と、王様と、神殿を失いました!・・・これらはイスラエルの民が、「自分たちは、」、と自分自身を他人へ説明する時の拠り所、・・今日の言葉でいえば、アイデンティーの基盤となるものです。それを失ったのです。イザヤ書はそれを「草は枯れ、花はしぼむ」と表現しています。

 その具体的な一例をご紹介します。バビロン帝国は、異邦人が足を踏み入れることのできなかったエルサレム神殿を徹底的に破壊しました。わたしたちにしてみれば、後ろのこの会堂と後ろの十字架が粉々にされたようなものでしょう。・・・それは深い傷となったはずです。そして神殿の破壊は、実は自らの神、ヤハウェーへの疑念となりました。すなわち、バビロン帝国の神、マルドークの神が、・・・実はヤハウェーの神よりも強く、ヤハウェーの神より優れているのではないか、・・・また、ヤハウェーの神が、何らかの理由で、イスラエルの民とその国土を見捨ててしまったのではないか、という疑念でした。・・・人々は疑心暗鬼、不透明、、・・・いわば「混沌」の中にあったと言えるでしょう!

また、バビロンという国に連れて来られると、この国がいかに巨大なのか、その繁栄はいつまでも続くのではないか、とそう思ったに違いありません。そう思ったなら、おそらく生きて故郷に帰れるとはとても思えなかったでしょう。しかし、その一方で、何らかの希望の手掛かりを捻りだしひょっとして帰れるのでは、との思いもあったのかもしれません。何しろ、この当時のことは文献も少なくよくわからないので、想像するしかありません。

 であるなら、捕囚の民にとって確かなものは何もなく、彼等にとっての今という時代は、不透明、混沌、暗闇でしかなったに違いありません。・・こうした背景のなかで、聖霊の導きを受けて、創世記1章2節が、「混沌であって」と記されたのだと思われます。
 

転、内向きの危険さ
  さて、今日のテーマとの直接性はありませんが、ここで二つの危険を申し上げたいと思います。しかし、申し上げることは極めて概念的です。お許しください。
一つ目は、自己中心性についてです。人間は一般に、まず自分のことを考える、まず自分のことを一番とする、おそらくこれは自衛防衛本能からくるもので自然なことだろう、と私は考えます。しかし、人間は、生きていく経験の中で、それでは他者との軋轢が強くなって、却って生きることが大変になってくる、ということを学んだに違いありません。そこで、まず自分のことを考えるが、しかし他人のことも考える、・・・その方が却って自分のためにもなる、ということを学んできたと思うのです。・・しかるに、今、その学んできたことに反する、動きが、つまり自己中心の動きが一層強くなってきています。・・・・それは冒頭にあげた、トランプ次期大統領の発言の数々であり、英国のEU離脱であり、身近なところでいえば、「生産性のない命はいらない」、というそういう思想の高まりです。・・・これは危険です。
  
 二つ目は、独裁者による危険性です。独裁者は基本的に国民の声を聞きません。シリアの内戦は複雑な様相を呈していますが、現政権のアサド大統領は独裁政権として、アメリカ、フランス、ドイツなどから非難を浴びています。何が正しいのかよくわかりません。ただ、チュニジアに始まった「アラブの春」はここシリアではまったく冬のまま、民主主義は凍結したままです。・・・・結果、弾圧、迫害、内戦により「400万人」の人達が難民となって国外に逃れているのです。400万と言ってもピーンと来ませんが、これは鹿児島、大分、宮崎の3県を合わせた人口に匹敵します。その3県の人達が、一斉に福岡に押し寄せてきた、・・そういう状況が生まれているのです。極端に言えばそういうことです。これも危険です。

 でも、実は独裁政権と言われるアサド政権の50分の1位の位の独裁なら、実はわたしたちの身の廻りにもあります。全く、聞く耳をもたない夫。全く聞く耳を持たない妻。・・・「家庭内独裁」・・・・そういう家庭もなくはありません。そうなるとどうなるか、・・・家庭内難民が生まれ、・・・子どもたちはコンビニに避難し、妻は子どもの世話に逃げ、夫は仕事人間化し、・・・・・家庭が崩壊してしまう、・・・・・無くはありません。・・・これも危険です。

  「混沌」も困るが、・・・・強烈すぎる自己中心性・・・も困ります。


結、神に立ちかえる
 さて、強烈過ぎる自己中心性、この問題は脇に置いておくとして、「混沌」、こういう状況の中ではどうしたらいいか、分らなくなることがあります。山道で、あるいは知らない町で、こっちかな、あっちかな、と迷ってしまう。そしてここまで苦労して歩いてきたのでそれを無駄にしたくない、として別の道を歩き、更に迷い、却って遠回りしてしまう。こういうことは人生で少なくないと思います。そういう時、よく言われるのが、「最初の出発点に戻りなさい!」、ということです。

 かって、前の会社で仕事をしていた時の話です。東京にプリンスホテルというところがあります。プリンスホテルは東京では、大変大きなホテルで、しかも10個所近くありました。開拓客先として大変、魅力がありました。私は、そこを開拓のターゲットとしてよく通いました。しかし、ほとんど相手をしては貰えませんでした。ところが、何がしかの手づるを得てからは、・・・それまで時間とお金をかけたんですが、・・・少しずつ話を聞いて貰えるようになりました。そこで、定年をまじかにした現場の次長と仲良くなりました。その次長はホテルの建物や設備全般を担当している人で裏方の実質責任者で、大げさに言えば、華やかなホテルといえどもその人がいなければやっていけない、という位置にいた人です。というのは、その人が責任もっている冷暖房設備が故障すれば、ホテルに人を泊めれることはできません。これはほんの一例です。

そして、その人が私に仕事をくれてからのことだと思いますが、わたしに「言い置き」みたいな感じでこういいました。「現場で問題があり、どうしたらいいかわからない、そういう時がある。」、「その時は原点に戻りなさい」、とそう社員でもない私に言ったのです。その人との関係が切れて、もう30年余りにもなりますが、今も、妙に心に残っています。

山登りも仕事も迷ったら原点に戻る、これは徹則でしょう。・・・教会創立以来、ある意味、城西教会も迷っていたのかもしれません。・・・そういう訳で、2014年、創立記念40周年で、私たちはミッションステートメントを造りました。・・・いわば私たちも、・・・教会がどう歩むかという原点に戻ったのです。
さて、イスラエルの民は、混沌の中、・・原点に戻ったのです。ヤハウェーの神より、バビロンのマルドークの力があり優れているのでは、という疑心暗鬼の中、その他、混沌ともいえる事柄が一杯ある中、・・・・・やはり、自分たちには、ヤハウェーの神だ! 何と言っても、「ヤハウェーの神が天地を創造されたんだ!」、とそう宣言したのです。・・神は死んでおられない、神は我々を見捨てたのではない、ヤハウェーの神は今も生きておられる!、とそう改めて確信したのです。

 そして何があったとしても、やはり、自分たちの神、・・ヤハウェーの神と向き合って生きよう、とそう決意したのです。・・そこから、・・・聖霊に導かれて、・・・創世記1章が書かれたに違いありません。

 この新しい年も、不透明、混沌、暗闇、の中をスタートします。私たちが望むような出来事ばかりが起きるわけではありません。「神はおられるのか」、と思えるような出来事も起きるかもしれません。

しかし、私たちもイスラエルの民がそうであったように、・・・自らが導かれた信仰の原点に立ち返り、神さまと向き合いつつ生きる。・・・これが実は一番現実的で、目標に対して一番近道なのかもしれません。


お祈りしましょう  
天地を創造された主なる神さま  み名を崇めて心から讃美します!
新年礼拝の今日、今、・・・あなたはここにご臨在くださり、私たちと礼拝を共にしてくださいました。どうぞこの年も、信仰の原点に立ち返り歩むことができるよう導いてください。イエスさまの言われたもっとも大事な二つの戒め、・・・主なる神さまを愛し、自分を愛するよう隣人を愛して生きることができますように、・・この年もどうぞ私たちを支え、導いてください。
                         愛するイエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。