説教箇所:マルコによる福音書12章28節-34節
ご承知の通り、来週、私達は教会組織43週年記念礼拝を迎えることになっています。実は、区切りのいい40周年には祈念式典を行いました。・・・その時、わたしたちは城西教会の歴史にとってとても大きな選択をしました。というのは、教会の信仰告白と教会の使命を決めたことです。・・・これは私達、教会にとって大変意味のあることでした。
それはどういう意味だったのでしょうか、・・・実は、そのことにより、・・・私達が、・・・改めて城西教会の存在理由を改めて確認したからです。そもそも今から43年前の1974年、4月3日、福岡城西キリスト教会は、・・・どこの何人にも隷属しない、ただ神のみに隷属する、・・・自主独立の教会として誕生したのです。・・・実はその時、神さまは私たちの教会へ誕生の祝福と同時に使命をもお与えになられました。
しかし、神さまから与えられ使命は、しばしば神さまが隠されているように、隠されてしまうということはよくあるのです。そうすると、しばしば人間の思いが露わになりがちです。・・・教会だけに限らず、人間が集まるところによくあるように、「あれはおかしい」とか、「あれは間違っている」とかという人間的な呟きが始まります。城西教会でも、そうした呟きの「渦」ができ、教会の雰囲気が悪くなるということがありました。それはいつの時代でも、どこにもあることです。人間の集団には、感じ方、考え方が違うということが普通にあるからです。・・・
しかし、私達はそういう中で、神さまから与えられたミッション、使命を見つめて、そこに一致していこう、という改めて選択をしたのです。・・・そこで生まれたのが、ミッションステートメント、・・・今日、取り上げる使命なのです。そしてそれは3年前の2014年のことでした。・・・繰り返しになりますが、もし使命が隠れてしまうと、・・人間的な業が表にでてきて、何かすることに、何かする人に注目が集まるようになります。・・・しかし、教会はそうであってはなりません。・・・・あくまでも神さまが中心、イエスさまが中心でなくてはなりません。イエスさまから託された使命が中心でなくてはなりません。・・そうでないと、やること、することが、実は成果に結びつかないのです。ただ自己満足と「あれは何だったろう」、と疲れだけが残ってしまうということに、よくなるのです。
まず第一に、使命は神より、上より与えられる
ところで、今日は使命というテーマを取り上げています。この言葉にはどこか重々しさがつきまとうように思われます。しかし、この漢字を単純に逆から読めば、「命の使い方」、と読むことができます。その「命の使い方は、命の主である神から指し示される」、・・・これが今日のテーマの意味する第一のことです。つまり使命というものは神からくるものだ、ということを申し上げたいと思います。マルコによる福音書を読むと、冒頭にペテロの召命の場面がでてきます。・・・・・つまりそれは、イエスさまが、ペテロに使命を与えられる場面ですが、それによると、ペテロがイエスさまに「何をしたらいいでしょうか」、と聞いた訳ではありません。・・・・ただイエスさまが一方的に、「人間をとる漁師にしよう」、と宣告されています。この例にあるように、・・・使命というものはキリストから、上からくるものなのです。
その上からという例を、別の聖書の箇所からも証拠だてたいと思います。それは、復活のイエスさまにであったこれまたペテロですが、実はそのペテロがイエスさまのことを証して、・・・命の言葉を多くの会衆に告げる場面です。ペテロは言います。・・・「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」・・・・漁師上りとは思えない、堂々としたペテロの説教です。これに対して議員、長老、律法学者、大祭司などが、「お前たちは何の権威でこういうことをしているのか」、と厳しく咎めだてします。ところがペテロは「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」、とこう言って一歩も引きさがりません。・・そこで「それでもまだ言い張るのか」、とばかり長老たちは怒りくるい、ペテロたちを殺そうとさえします。その時です。聖書の記述によると、「ガマリエルという人が」、・・・・「ほっておくがよい。・・・あの計画や行動が人間からでたものなら、自滅するだろうし、神からでたものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」・・・とこういうのです。・・・・ここで言う、「神からでたもの」・・・それが使命であります。・・・・・だから私たちは使命を、神から、聖書から聴くしかありません。
次に第2に意味されていることは、教会には使命が与えられている、ということです。
重ねて申し上げますが、教会には使命が与えられています。それは聖書を読んでいくといくつも記されています。例えば、ペテロと共に初代教会のリーダーであったパウロの回心の記事を通してみることができます。パウロは、イエスさまに従うもの達を捕まえるためにダマスコに息せき切って向かっていました。しかしその時、突然、天の光を浴び、そのためパウロは、目が見なくなりました。それはイエスさまがパウロを回心させるためになされたことでした。イエスさまは、そのパウロに、「異邦人や王達、あるいはイエスラエル人々、・・・その人たちに「イエスは神の子」、との宣教をするように」、との使命を与えられました。それ以後、パウロは、「この人こそ神の子」だ、と言いながら、・・・・そういうことがパウロの与えられた使命でしたが、そういいながらコリント教会、エフェソ教会、フィリピ教会などの多くの教会を造っていきました。そしてそれらの教会は使命に立ち、パウロに倣い、「イエスこそ神の子」だ、と宣教をし続けたのです。
また先ほどご紹介しましたが、マルコによる福音書の冒頭の1章では、イエスさまが、・・・・シモン、・・・後のペテロのことですが、その彼に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われるところがあります。・・・この言葉もそうです。・・・・・この言葉は、イエスさまが、ペテロの人生に踏み込んでこられ、・・そして先程申し上げたように、上よりの使命をお与えになったということを意味しています。・・・
「人間を取る」、すなわち伝道者としての使命がここでペテロに与えられたということです。同時に、ペテロの兄弟アンデレやゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも弟子とされました。それもペテロの召命と同じで、それぞれに伝道の使命が与えられたことを意味します。
聖書には、「2人、または3人いるところには私もいる」、・・・すなわちそれが教会と言われます。それ故、ペテロ達、同様、教会には紛れもなく、わたしたちの城西教会にも紛れもなく、・・・使命が与えられている、と言う事が出来ましょう。
第3に意味されていることは、教会には礼拝という使命が与えられているということです。
さぁ、そこで今日の聖書個所です。今日の御言葉は何回も取り上げていますが、この御言葉は教会の使命を考える上では、殊更大事なみ言葉であります。先ほど、司式者に読んでいただいた聖書の箇所、・・・イエスさまはエルサレムに入られて、あちこちで教えをされていました。そのあるところで、ある一人の律法学者が進み出て、尋ねました。彼はこう問うた訳です。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」・・・と。
その問いに対し、イエスさまは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。』」、とお答えになりました。実はイエスさまのこの答えは、申命記の6章4節-5節からの引用であります。申命記からの引用と申し上げましたが、敬虔なユダヤ人はこの聖句を毎日、毎日唱えていたそうです。ですからイエスさまも当然、それはご存じだったことでしょう。
神は唯一の主、・・・・・イスラエルの民は、バビロン帝国に滅ぼされたという経験を忘れてはいませんでした。当時、戦いはそれぞれの国と国の戦いであると同時に、自分たちの信じる神同士の戦いだとも、信じられていました。ですから、・・一般的には、・・・バビロン帝国に敗れたということは、すなわち自分たちの信じていた、ヤハゥエーの神の敗北でもあったことを意味したのです。しかし、にもかかわらず、・・・・イスラエルの民は、・・・自分たちのヤハウェーの神こそが唯一の神だ、という信仰を捨てませんでした。これが今日まで続く彼らの信仰です。彼らはこのことを、・・・歯を磨くように、・・・・毎日、毎日、唱えていたということです。
イスラエルの民が唯一の主と崇めた神は、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュ記1:5)、という神でもあります。・・・・偉大なリーダーであったモーセの後継者に指名され、・・・「この民を率いていけるだろか」、と恐れと不安の中にいたヨシュアに対し、神は「共にいる」・・・「見放すこと」も「見捨てること」もしない!とそう宣言されたのでした。・・・・・ヨシュアはこの言葉にどんなに力をいただいたことでしょうか!・・・・
また唯一の主は、「神は愛である」、という神でもあります。・・・・初代教会の使徒はこう証言しました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(一ヨハネ4:10)・・と。
私たちは人間的に言えば、そこそこいい人間なのかもしれません。しかし、神の眼から見れば、・・私達は、本質的に自己中心な存在です。神に逆らい、神に従わず、神を悲しませることのみが多い、と言わなくてはなりません。・・・・にもかかわらず、神さまがそういう私たちのために、キリストを十字架に架けられ、私たちの罪を贖ってくださいました。ここに神の本質である愛が顕されています。・・・そればかりか、神はキリストを死者の中から復活させられました。・・・復活は希望です。・・・すなわち私たちの人生に行き詰まりということはない、ということを明らかにしてくれます。
また、唯一の主は、私たちを無条件の肯定の中に置いてくださる方です。・・・・・「神様ってすごい方ね!」、と私たちがそう知った遥か前から、・・・神様は私たちを知ってくださっていました!・・・・何という驚き!・・・・・・・・実は、私たちは何かができて、何かを持っている、・・そのことを通してでしか、なかなか自分の存在を認めることは難しいです。しかし、神様は、「できようが」「できまいが」、「持っていようが、いまいが」・・・・「あなたは高価で尊い」、と言われています。私たちの存在は、ずっと昔から、神の無条件の肯定の中にあったのです。今日、この言葉を必要とする人がどれだけ多いことでしょうか。
・・・・このようなお方が、「今も」「共に」・・・いてくださっています。・・もし、私達が、私たちを闇の中より見出し、無償の愛で愛してくださっている神を、愛するとするなら・・・具体的にはどうすればいいでしょうか。・・・・30節にはその答えがあります。「心を尽くし」「精神を尽くし」「思いを尽くして」・・・・あなたの主である神を愛しなさい、と。私達は神を愛すればいいのです。ここで、「心」、「精神」、「思い」というのはそれぞれが別々の何か、というより、全人格をもって・・・・神を愛するという意味です。
全人格をもって神を愛する!・・・・その具体的顕れが、今、こうして献げている私たちの礼拝です。・・・・神の愛と恵みへの応答として私たちは礼拝を献げるのです。この礼拝を誠実に献げることこそが、教会の使命であります。それが教会は、「人によってなったものではなく」、「神によってなっている」と告白するわたしたちの教会の、神への応答であります。そして礼拝を誠実に献げることこそが、もっとも大事な戒めとしてイエスさまが語れたことへの応答であります。そしてそれは教会の使命であります。私達はこの使命に、忠実に従っていく信仰の民でありつづけたいと思います。
お祈りしましょう。 憐れみ深い天の神さま。み名を心から讃美します。あなたにより見出され、愛され、神の子とされたことに心から感謝いたします。それ故、私たちはあなたに応答として霊と真実をもってこれからも礼拝を献げていきます。この働きを教会の使命と受け止め、これからも誠実に続けていくことをここに誓います。
主イエス・キリストの名を通して祈ります。 アーメン。