梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

教会は礼拝をするところ

2017年08月27日 | 日記

説教箇所:マルコによる福音書12章28節-34節

ご承知の通り、来週、私達は教会組織43週年記念礼拝を迎えることになっています。実は、区切りのいい40周年には祈念式典を行いました。・・・その時、わたしたちは城西教会の歴史にとってとても大きな選択をしました。というのは、教会の信仰告白と教会の使命を決めたことです。・・・これは私達、教会にとって大変意味のあることでした。

それはどういう意味だったのでしょうか、・・・実は、そのことにより、・・・私達が、・・・改めて城西教会の存在理由を改めて確認したからです。そもそも今から43年前の1974年、4月3日、福岡城西キリスト教会は、・・・どこの何人にも隷属しない、ただ神のみに隷属する、・・・自主独立の教会として誕生したのです。・・・実はその時、神さまは私たちの教会へ誕生の祝福と同時に使命をもお与えになられました。

しかし、神さまから与えられ使命は、しばしば神さまが隠されているように、隠されてしまうということはよくあるのです。そうすると、しばしば人間の思いが露わになりがちです。・・・教会だけに限らず、人間が集まるところによくあるように、「あれはおかしい」とか、「あれは間違っている」とかという人間的な呟きが始まります。城西教会でも、そうした呟きの「渦」ができ、教会の雰囲気が悪くなるということがありました。それはいつの時代でも、どこにもあることです。人間の集団には、感じ方、考え方が違うということが普通にあるからです。・・・

しかし、私達はそういう中で、神さまから与えられたミッション、使命を見つめて、そこに一致していこう、という改めて選択をしたのです。・・・そこで生まれたのが、ミッションステートメント、・・・今日、取り上げる使命なのです。そしてそれは3年前の2014年のことでした。・・・繰り返しになりますが、もし使命が隠れてしまうと、・・人間的な業が表にでてきて、何かすることに、何かする人に注目が集まるようになります。・・・しかし、教会はそうであってはなりません。・・・・あくまでも神さまが中心、イエスさまが中心でなくてはなりません。イエスさまから託された使命が中心でなくてはなりません。・・そうでないと、やること、することが、実は成果に結びつかないのです。ただ自己満足と「あれは何だったろう」、と疲れだけが残ってしまうということに、よくなるのです。


まず第一に、使命は神より、上より与えられる
ところで、今日は使命というテーマを取り上げています。この言葉にはどこか重々しさがつきまとうように思われます。しかし、この漢字を単純に逆から読めば、「命の使い方」、と読むことができます。その「命の使い方は、命の主である神から指し示される」、・・・これが今日のテーマの意味する第一のことです。つまり使命というものは神からくるものだ、ということを申し上げたいと思います。マルコによる福音書を読むと、冒頭にペテロの召命の場面がでてきます。・・・・・つまりそれは、イエスさまが、ペテロに使命を与えられる場面ですが、それによると、ペテロがイエスさまに「何をしたらいいでしょうか」、と聞いた訳ではありません。・・・・ただイエスさまが一方的に、「人間をとる漁師にしよう」、と宣告されています。この例にあるように、・・・使命というものはキリストから、上からくるものなのです。
その上からという例を、別の聖書の箇所からも証拠だてたいと思います。それは、復活のイエスさまにであったこれまたペテロですが、実はそのペテロがイエスさまのことを証して、・・・命の言葉を多くの会衆に告げる場面です。ペテロは言います。・・・「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」・・・・漁師上りとは思えない、堂々としたペテロの説教です。これに対して議員、長老、律法学者、大祭司などが、「お前たちは何の権威でこういうことをしているのか」、と厳しく咎めだてします。ところがペテロは「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」、とこう言って一歩も引きさがりません。・・そこで「それでもまだ言い張るのか」、とばかり長老たちは怒りくるい、ペテロたちを殺そうとさえします。その時です。聖書の記述によると、「ガマリエルという人が」、・・・・「ほっておくがよい。・・・あの計画や行動が人間からでたものなら、自滅するだろうし、神からでたものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」・・・とこういうのです。・・・・ここで言う、「神からでたもの」・・・それが使命であります。・・・・・だから私たちは使命を、神から、聖書から聴くしかありません。

次に第2に意味されていることは、教会には使命が与えられている、ということです。
重ねて申し上げますが、教会には使命が与えられています。それは聖書を読んでいくといくつも記されています。例えば、ペテロと共に初代教会のリーダーであったパウロの回心の記事を通してみることができます。パウロは、イエスさまに従うもの達を捕まえるためにダマスコに息せき切って向かっていました。しかしその時、突然、天の光を浴び、そのためパウロは、目が見なくなりました。それはイエスさまがパウロを回心させるためになされたことでした。イエスさまは、そのパウロに、「異邦人や王達、あるいはイエスラエル人々、・・・その人たちに「イエスは神の子」、との宣教をするように」、との使命を与えられました。それ以後、パウロは、「この人こそ神の子」だ、と言いながら、・・・・そういうことがパウロの与えられた使命でしたが、そういいながらコリント教会、エフェソ教会、フィリピ教会などの多くの教会を造っていきました。そしてそれらの教会は使命に立ち、パウロに倣い、「イエスこそ神の子」だ、と宣教をし続けたのです。

また先ほどご紹介しましたが、マルコによる福音書の冒頭の1章では、イエスさまが、・・・・シモン、・・・後のペテロのことですが、その彼に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われるところがあります。・・・この言葉もそうです。・・・・・この言葉は、イエスさまが、ペテロの人生に踏み込んでこられ、・・そして先程申し上げたように、上よりの使命をお与えになったということを意味しています。・・・

「人間を取る」、すなわち伝道者としての使命がここでペテロに与えられたということです。同時に、ペテロの兄弟アンデレやゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも弟子とされました。それもペテロの召命と同じで、それぞれに伝道の使命が与えられたことを意味します。

聖書には、「2人、または3人いるところには私もいる」、・・・すなわちそれが教会と言われます。それ故、ペテロ達、同様、教会には紛れもなく、わたしたちの城西教会にも紛れもなく、・・・使命が与えられている、と言う事が出来ましょう。


第3に意味されていることは、教会には礼拝という使命が与えられているということです。
さぁ、そこで今日の聖書個所です。今日の御言葉は何回も取り上げていますが、この御言葉は教会の使命を考える上では、殊更大事なみ言葉であります。先ほど、司式者に読んでいただいた聖書の箇所、・・・イエスさまはエルサレムに入られて、あちこちで教えをされていました。そのあるところで、ある一人の律法学者が進み出て、尋ねました。彼はこう問うた訳です。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」・・・と。
その問いに対し、イエスさまは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。』」、とお答えになりました。実はイエスさまのこの答えは、申命記の6章4節-5節からの引用であります。申命記からの引用と申し上げましたが、敬虔なユダヤ人はこの聖句を毎日、毎日唱えていたそうです。ですからイエスさまも当然、それはご存じだったことでしょう。
神は唯一の主、・・・・・イスラエルの民は、バビロン帝国に滅ぼされたという経験を忘れてはいませんでした。当時、戦いはそれぞれの国と国の戦いであると同時に、自分たちの信じる神同士の戦いだとも、信じられていました。ですから、・・一般的には、・・・バビロン帝国に敗れたということは、すなわち自分たちの信じていた、ヤハゥエーの神の敗北でもあったことを意味したのです。しかし、にもかかわらず、・・・・イスラエルの民は、・・・自分たちのヤハウェーの神こそが唯一の神だ、という信仰を捨てませんでした。これが今日まで続く彼らの信仰です。彼らはこのことを、・・・歯を磨くように、・・・・毎日、毎日、唱えていたということです。
イスラエルの民が唯一の主と崇めた神は、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュ記1:5)、という神でもあります。・・・・偉大なリーダーであったモーセの後継者に指名され、・・・「この民を率いていけるだろか」、と恐れと不安の中にいたヨシュアに対し、神は「共にいる」・・・「見放すこと」も「見捨てること」もしない!とそう宣言されたのでした。・・・・・ヨシュアはこの言葉にどんなに力をいただいたことでしょうか!・・・・
また唯一の主は、「神は愛である」、という神でもあります。・・・・初代教会の使徒はこう証言しました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(一ヨハネ4:10)・・と。
私たちは人間的に言えば、そこそこいい人間なのかもしれません。しかし、神の眼から見れば、・・私達は、本質的に自己中心な存在です。神に逆らい、神に従わず、神を悲しませることのみが多い、と言わなくてはなりません。・・・・にもかかわらず、神さまがそういう私たちのために、キリストを十字架に架けられ、私たちの罪を贖ってくださいました。ここに神の本質である愛が顕されています。・・・そればかりか、神はキリストを死者の中から復活させられました。・・・復活は希望です。・・・すなわち私たちの人生に行き詰まりということはない、ということを明らかにしてくれます。
また、唯一の主は、私たちを無条件の肯定の中に置いてくださる方です。・・・・・「神様ってすごい方ね!」、と私たちがそう知った遥か前から、・・・神様は私たちを知ってくださっていました!・・・・何という驚き!・・・・・・・・実は、私たちは何かができて、何かを持っている、・・そのことを通してでしか、なかなか自分の存在を認めることは難しいです。しかし、神様は、「できようが」「できまいが」、「持っていようが、いまいが」・・・・「あなたは高価で尊い」、と言われています。私たちの存在は、ずっと昔から、神の無条件の肯定の中にあったのです。今日、この言葉を必要とする人がどれだけ多いことでしょうか。
・・・・このようなお方が、「今も」「共に」・・・いてくださっています。・・もし、私達が、私たちを闇の中より見出し、無償の愛で愛してくださっている神を、愛するとするなら・・・具体的にはどうすればいいでしょうか。・・・・30節にはその答えがあります。「心を尽くし」「精神を尽くし」「思いを尽くして」・・・・あなたの主である神を愛しなさい、と。私達は神を愛すればいいのです。ここで、「心」、「精神」、「思い」というのはそれぞれが別々の何か、というより、全人格をもって・・・・神を愛するという意味です。
全人格をもって神を愛する!・・・・その具体的顕れが、今、こうして献げている私たちの礼拝です。・・・・神の愛と恵みへの応答として私たちは礼拝を献げるのです。この礼拝を誠実に献げることこそが、教会の使命であります。それが教会は、「人によってなったものではなく」、「神によってなっている」と告白するわたしたちの教会の、神への応答であります。そして礼拝を誠実に献げることこそが、もっとも大事な戒めとしてイエスさまが語れたことへの応答であります。そしてそれは教会の使命であります。私達はこの使命に、忠実に従っていく信仰の民でありつづけたいと思います。

お祈りしましょう。 憐れみ深い天の神さま。み名を心から讃美します。あなたにより見出され、愛され、神の子とされたことに心から感謝いたします。それ故、私たちはあなたに応答として霊と真実をもってこれからも礼拝を献げていきます。この働きを教会の使命と受け止め、これからも誠実に続けていくことをここに誓います。
主イエス・キリストの名を通して祈ります。  アーメン。


一市民として生きる

2017年08月20日 | 日記
聖書個所―ヨハネ1章9節~14節
9 その光は真の光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10 ことばは世にあった。世はことばによって成ったが、世はことばを認めなかった。
11 ことばは自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、ことばは自分を受け入れた人、その名を信じる人びとには、神の子となる資格を与えた

13 この人びとは血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によ
って生まれたのである。
14 言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の一人子として
栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
説教題「一市民として生きる」
私たちは現在、様々な問題に囲まれて生活しています。日本に暮らす私たちは、今、愚かな戦争
の危機に、もてあそばれています。
この20年で、日本の社会は、貧困化が進みました。孫正義ソフトバンク社長は世界で何番目かの
大金持ちですが、そのソフトバンクの社員は大多数がパートですので、年収が低く結婚も大変で
す。会社は十分利益を出していますが、従業員には、生活できる賃金は払いません。そのため、
それぞれの家族の生活は大きな困難に見舞われています。結婚も遅れて、高齢出産が多くなって
います。男性は仕事によって、家族を支えることに誇りが持てなくなり、女性は家事と育児と仕
事、どれも中途半端になる状況に苦しんでいます。すべては個人の能力の差という指標で説明さ
れています。
だから、社会の風潮として、お気楽な、何事も深く考えない生活態度がよいとされているよう
です。お笑い芸人の全盛期で、政治問題の解説も、彼らの領分になってしまいました。すべて深
刻に考えることなく、軽く笑い飛ばしてしまう感覚が現代風だと思うのでしょう。
そのリズムに、自分の生活を載せて生活していますが、実際の生活は苦しいわけですから、見
えないところで家族の愛や地域のつながりが切れて、幼児虐待・いじめ・家庭内暴力が頻発し、
簡単に命が損なわれています。家族でさえバラバラの個人の競争にさらされています。
このような世にあって、私たちはキリストに従う者としてどのように生きるのか、ヨハネ福音
書の一章から学びたいと思います。
まず、ヨハネ福音書を開きますと
「 1 始めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。
2 このことばは、初めに神と共にあった。
3 万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかっ
た。
4 ことばのうちに命があった。いのちは人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
ヨハネ福音書の1章1節から18節はある神学者によると、これはもともと洗礼者ヨハネの支持者
の間で広まっていた宗教的なロゴス賛歌で、リズムのよい散文詩のようなものと説明してありま
す。ロゴスとは、古典ギリシア語で、 言葉という意味と理性という意味があると言わています。
しかし2節からはロゴスとはイエス・キリストを顕す言葉であることはわかります。実はこの1章
1節~18節までの短い文章で、世は神の子イエス・キリストによって作られたこととイエス・キ
リストこそ神の御子であって、神を啓示されるものであることが書かれているのです。
今日は、このロゴスという言葉を用いて、見えざる神の真の愛をはっきり示そうとしたヨハネ福
音書を見てみたいと思います。丁寧にみてみますと、

9 その光は真の光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ギリシャの思想はロゴスの中に、宇宙の創造者、宇宙を保持する支配者・神の力を見ています
。ヨハネ福音書の記者も「イエスこそ、地上に降りてこられたそのロゴスである」と言ってい
ます。主なるイエスは、まことに一人の人間として、生き、苦しまれました。さらに人びとの
弱さを愛し、ご自分を十字架につけた人々をも憐れんだ神ご自身であります。
「目がまだ見ず、耳が聞こえず、人の心にまだ思い浮かばず、神がご自分を愛する人々のため
に準備された」と旧約聖書の神の救いの奥義が私たちに啓示されたとコリント1,2章 9節に
書かれているとおりです。
10 ことばは世にあった。世はことばによって成ったが、世はことばを認めなかった。
福音書の筆者はここで、恩知らずとして人びとを非難していると神学者カルヴァンはいってい
ます。イエス・キリストは、天地創造の初めにおられた神です。これを先に存在された、先在の
キリストと表します。先在のキリストはヨハネ福音書では、ロゴスと表現し、箴言8章では智慧と
表現されています。明確にそのものズバリに表現されたのはコロサイの信徒への手紙1章です。
15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 16 天にあるも
のも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子
において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 17 御子
はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
11 ことばは自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
ここに人間の意地悪さ・悪意を見ます。神ご自身が被造物を助けるために急いで来られて、真
の神が真の人となられました。それなのに、ベツレヘムでの誕生から、十字架に至るまで、神の
子は見捨てられ、迫害され、十字架につけられました。正しいことしかされなかった神ご自身に
対する人間の攻撃そのものです。神の恵みに対してイスラエルの民は憎しみに満ちて反逆してい
ます。今日の私たちも同じです。20世紀の第一次、第二次大戦に何千万もの無辜の民を殺し、十
分な反省もしないまま、戦争の危機をもてあそんでいます。
12 しかし、ことばは自分を受け入れた人、その名を信じる人びとには、神の子となる資格を与えた

私たちは自らの罪にもかかわらず神によって信仰が与えられ、罪の許しを受けて、キリストの
復活に与り、体の蘇りと永遠の命に与っているのです。
13 この人びとは血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によ
って生まれたのである。
バプテスマを受けて、罪に死に、神によって生まれた者は、この世と価値観を共有しません。
この世の価値観とは、血筋や財力、能力と社会的地位、などを誇り、これらの点で人を評価する
ものです。私たち自身は誇るべきものを持たない、神の赦しがなければ、希望もなく、生きられ
ないものです。
14 言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の一人子として
栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

キリストはご自分の務めを全部成就してしまうまで、人びとの間に留まりました。何と大きな
事でしょう。イエス・キリストに顕される神がおられ、その口からでる御言葉と行動で、具体的
に恵みと真を表されたのです。驚くべきことです。そして更に、十字架によって顕される神の救
いと神の義があります。それはイエスを十字架にかけた人びとをも救おうとする神の愛です。恵
みは、慈しみであり恩恵であり、感謝であります。さらに神は、小さな私たち自身を超えて新た

な賜物を与えてくださり、隣人を助ける働きをなす事ができるようにしてくださる恵みもありま
す。「父の独り子としての栄光」とは、まさに主なるイエスの苦難のことです。私どもには恵み
と共に真理を、それも神の真理を与えられます。それは神の義ともいえるものです。神のことば
を荷う者には、この不正義の世にあって、その賜物に応じて主の苦難も分かち与えられるもので
しょう。十字架と復活において、私たちは神との和解を信じています。私たちの福岡城西キリス
ト教会の信仰告白において第6条に人間の罪と神との和解が記されています。
このような聖書の言葉から、私たちの生きざまが導き出されます。
世が神の義さを受けなかったことは、冒頭、お話したように今日も同じでありましょう。そう
いう中で、私達が知るべきことは、私たちの人生の目的は真の神を知ることだということであり
ます。そして神を信頼し、神の御心を尋ね、その真理の道を歩み、困難の時には神にすべてを訴
えて、救いを求めることです。このようなことが、私たちがさいわいを得る道であるといえるの
でしょう。
日常生活においては、まず教会につながり、教会の働きの進む方向でそれぞれ神への奉仕を覚
え、教会員同士が互いに尊重し合うことが大切です。教会はできるだけ「神の国」を写す方向へ
いきたいものです。生活の中で、いかに神の御言葉が貫かれるのかということが大切なことであ
りましょう。本当の意味での私たちの豊かな生活もそこから生み出されましょう。町内など生活
の場においても弱い人、高齢者、幼児などを大切にすることです。そのお一人お一人に、イエス
様が住み給いますので、大切にすることは主なるイエス様を大切するという私たちの訓練にもな
ります。教会歴の長い人ほど、教会員をそのように導かなければなりません。「神を愛すること
」はそのまま、隣人を愛することにあることは聖書の示す通りであります。教会は教会員のため
ばかりでなく、教会がまだ未信者である隣人のためにあるとき、はじめて教会であります。教会
はまだ来ていない隣人のためにもあるのです。イエス様の御言葉で、「私にはこの囲いに入って
いないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」とあります。教会は将来、イエス
・キリストに出会うであろう人々の教会でもあります。
この世においては、私たちは一市民として、今を生きる者の責任を果たしたいものです。「平
和を実現する人はさいわいである」ことを生きていきましょう。 また、今の政治的な危機の時
代にあって、すべての真実は隠され、ゴマかされています。平和の実現のためには、「蛇のよう
にさとく、ハトのように柔和に」私たちは社会の出来事に関心を持ち、複雑になっている社会の
仕組みをよく考え、また学び、世の真実は何処にあるのか、知る知識が必要です。聖書は生きる
知性を大切にしてあります。
弱い者が社会の中で生きていけるよう、また、生活と戦う力をつけるように、神の愛の働きに
私たちも加わりたいです。私たちは世に在って苦しむ人たちとその苦しみを共有し、またさらに
、その喜びを共にして生きる元気にあふれる者でありたいです。恵みと真理に満ちて私たちのと
ころに来られた主に従って生きていきたいと願っています。

不安時代を生きる

2017年08月06日 | 日記
説教題:不安時代を生きる
説教箇所:創世記4章1節-16節


起、不安時代
 今日を一つの言葉で言い表すことは、・・・少なくとも私には困難です。ただ、牧師の仕事という窓を通して、見える景色があります。それは、「不安」というラベルを背中に貼って生きている人の多さです。たまたま、当教会員の浅海道子さんが代表をしておられるNPO法人に関わりを持つことになり、そこで就職活動を支援するセミナーをすることになりました。先日は「面接の受け方」というものをしました。終わってからアンケートを出して貰うのですが、そこに、「今後の就職活動への気持ちに近いものはどれですか?」というものがあります。答えが、・・・・・1)不安 2)やや不安 3)どちらともいえない・4)心配ない・・などです。・・・まず、全員と言っていいくらい 不安とやや不安にチェックが入ります。・・・・このアンケート結果は、今日が、・・・不安時代であることを示す小さな象徴であるように私には思えます。

 ところでこの話も不安といえば不安になる話です。みなさんは、「2025年問題」というのをお聞きになられたことはお有りでしょうか? あと僅か8年で、戦後の世代としてもっともボリュームの厚い団塊の世代が全員75歳以上となります。これによって日本は、5人に一人が75歳以上、そして3人に一人が65歳以上というかって経験したことのない、超高齢化社会に突入します。国の形が変わるといっても過言ではありません。・・そうなった時、最も対応が迫られる分野の一つが、・・・医療と介護の問題だと言われています。

・・一言でいえば、後期高齢者が1500万人から、2200万人と約1.5倍増えるのに対し、医者も介護士の数も足りず、・・・十分な治療、十分な介護が受けれなくなる、という問題です。・・・問題を挙げれば限がありませんが、東京では、死者が増え、・・・既に、・・・火葬は1週間待ちだと聞きました。・・・・佐賀にいる私の兄が腫瘍で入院することになりましたが、「約1カ月の順番待ち」だそうです。・・・これからの時代のキーワードは間違いなく、・・「順番待ち」でしょう。何をするにも「順番待ち」だと思われます。・・そういう中で・・果たして病院に入院できるのか、果たして病院で死ねるのか、・・・・私自身は、今、具体的に考えていないのでピーンときませんが、・・・・うっすらと不安ではあります。
・・・・こういう時代をどう生きるのか、・・・それが今日のテーマです。


承、
 聖書は天地創造の始まりを記しました。すべてには始まりがあることを教えてくれています。ならば、今日取り上げている不安にもその始まりがあるはずです。その通りで、・・聖書は既に2500年前、それについても記しています。

今日の個所を要約してみたいと思います。まず、カインとアベルという兄弟がいました。兄のカインは、農業を、・・・弟アベルは、牧畜を、とそれぞれは別々の仕事に付きます。・・そしてある時、二人は、・・・献げものをしました。・・・ところがこの「献げもの」が、禍いの元となったのです。人生にはしばしば良いことが災いになることがよくあります。・・そしてそれはなぜか、神さまは弟、アベルの献げものには目を留められたが、・・兄カインの献げるものには目を留め留められなかったからです。聖書にはその理由は書かれていません。ただ手掛かりになる言葉が書かれています。それは、「アベルは肥えた初子の羊を持ってきた」、という「肥えた」、「初子」が、という表現がそれです。わかり易くいえば、ベストの物を、ということでありましょう。一方、カインの献げものにはそれがありません!・・・神さまはベストの物をお喜びになった、とそう受け取らなくてはならないでしょう。

 そして、神さまが目を留められなかったのをみて、「カインは激しく怒って顔を伏せた」、のです。とそこで神さまはその態度を窘められます。・・・しかし、カインはその言葉に耳を貸しませんでした。

そればかりか、・・・・カインは弟を襲って殺したのです。人類、最初の殺人。それも最初の親族殺人が起きたのです。・・罪の力は強く、癌細胞が新しい臓器を見つけ、そこへ転移するかの如く、アダムとエバの罪は、直ぐに、わが子に転移したのです。

その後、どこでかはわかりませんが、カインは再び、神さまと出会いました。・・・・おそらく、カインは、神さまとは顔を会わせたくなかったでしょう。・・日々、「神さまに会ったらどうしようと」、・・・不安と恐れに捉われていたに違いありません。私も小さい頃、母親の財布から小銭を盗み取って、母親の顔を見るのが怖かった、という記憶があります。・・・カインの場合は、神さまの財布からお金を抜き取った類のことではなく、殺人です。・・・であるなら、不安と恐れで毎日を戦々恐々として過ごしていたというに違いありません。
 
 先週、私達は神さまが、エバに、「何ということをしたのか」と強い口調で問い糺されたところ読みました。ところが今回も同じように神さまは、カインに、「何ということをしたのか」と問い糺されました。その口調はエバにそうであったように、カインにも厳しいです。

 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 ・・・・・ここにあるのは、神の厳しい態度、・・・神の怒りともいうべきものです!

・・・・・・カインはいわばこの判決文とも言うべき神の言葉に、・・・・たじろぎ、開き直りの言葉も、弁解の言葉も失いました。・・・・そしてカインは、・・・エデンの園を追放されるかもしれないという、・・・不安と恐れに一瞬にして捉われたと思います。・・・・なぜなら、カインの心には、・・・追放され、神さまの庇護のもとから離れるなら、・・・・必ず、自分は殺されるだろう、という恐れがあったからです。

 聖書はこのように善きものとして造られた人間に、その創造の早い段階から罪が入り、・・それとほぼ同時に、・・・罪の果実である、・・・恐れと不安が入ってきたことを記しているのです。


転、認知の問題
 さて、ここまで不安や恐れというものを考えてきました。わたしにも小さな不安なら数えきれない程あります。例えば、小さな例ですが、「今度の礼拝を休みます」という連絡を幾つか戴くと、・・「今日こそは、30名を切ってしまうかもしれない」、という恐れ、・・不安が生じたりするのです。
 しかし、不安時代と申し上げた今日の不安は、私が、土曜日夜、明日の礼拝出席者が30名を切るかもしれないと言うような、つまり、主日が終わり、結局40名近くの人が見えた日曜日の夜には消えているような、いわば、一時的な不安ではありません。・・・今日の不安の何が問題かといえば、慢性的に続くところにあります。・・またそれが多くの人に広がっているところにもあります。そのような状況ですから、今日、・・・睡眠薬無しには、寝つけないと言う方が少なくないのです。
 先程、不安は昔昔、聖書の時代にもあったということを申し上げました。実はこの慢性不安というものも早い時期からあったのです。クリスマス物語にでてくる、王様、・・・ヘロデ王の時代、ヘロデ王自身がその人でした。ヘロデ王は死ぬまで、「自分の王位を奪いにくるものがいる」、いるという慢性不安に捉われた人でした。この慢性不安は、押さえ切れなくてなると、暴発してしまう性質があります。実際、ヘロデ王はわが子さえも殺したのです。それは彼の慢性不安が、「わが子から王位を奪われる」という妄想にまでになったからです。またヘロデ王は、自分に変わる救い主が顕れるという預言に捉われ、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を殺すと暴挙にもでたのです。・・・・また、数年前の秋葉原交差点での殺人などはあの青年の背後にこの慢性不安があってのことだと思われます。

しかし例え、人は幾ら慢性不安があったとしても、人を殺すまでのことはなかなかできません。何度かここでもお話をさせていただいたかとも思いますが、私が小さい頃、わたしの母親はいつも病気で伏せっていました。今で言うなら、おそらく自律神経失調症だと思われます。私の姉達は、「かあちゃんは、父ちゃんが作った借金取りに怯えていたっよ」、と言うのです。・・それは慢性不安を越えて慢性的怯え、となっていたのだと思われます。・・・実はそれが母の身体を蝕んでいたのです。その証拠に、借金がなくなり、慢性不安がなくなったら、母は起き上がり、どこへも出かけるようになり、心身の健康を取り戻したのです。このように、慢性不安は私たちの身体を蝕んでいき、それが無くなったら解放へと働くのです。

また、慢性的な不安について、ついでに申し上げるなら、一時的不安が、具体的な何かに対して起きるのと比べ、・・・慢性不安は、「自分が想像した、想像上の恐れ」に対しておきる、と言われています。これは覚えておいた方がいいと思います。・・現実に実際ある恐れよりも、・・・自分が想定した恐れ、・・そこから慢性不安は生じると言われているからです。・・・・だから、自分が、何に不安を感じているか、その正体を知っておくことは、自分の身体と心を守る上で、極めて大事なことだと言えましょう。



結、不安の時代をどう生きる・・・見捨てない
 さぁ、今日のテーマは不安時代を生きるということでした。もし、人生の目的が、「幸せに生きる」、ということなら、この不安というものは、私達を真逆の「不幸せ」にしてしまう元凶の一つでありましょう。しかし、これからも、おそらく人間が生きている間は、天敵ともいえるこの不安も人間と共に生き続けることでありましょう。ですから、「厭な奴」ですが、現実には付き合っていくしかありません。

 さて、もう一度、聖書の話です。・・・カインは、やっと正直になり、もし、神さまから見放されれば、・・・自分は殺されてしまうだろうと、・・・・・心にある怖れを告白しました。その恐れが不安になっていったのです。・・・・弟、アベルを殺して、神さまから鋭く、厳しく言われ、・・・カインは、おそらく毎晩、毎晩、・・不安で寝れなかったと思います。・・・・・しかし、神さまは、そのカインにしるしを付けられたのです。・・それは「お前を、誰にも殺させない」という神さまの決意の徴だったのです。
・・・・神さまはカインを見捨てることなく、赦しの中に於いてくださったのです。それは、アダムとエバへの態度と同じです。・・・・カインは、その言葉を聞いてやっと夜、・・少しは眠れるようになったのではないでしょうか。

・・・・しかし、改めてここには人間の罪深さが見事に描かれています。つまり、カインは「私の罪は重すぎて負いきれません」と言いました。その言葉のうちに、弟を殺した後悔らしきものは読み取れます。・・しかし、カインは、・・圧倒的に自分の身の安全について語っています。・・・これが人間ですね!

・・そういう人間の弱さを知りつつも、神さまは、カインをお赦しになりました。・・・・その神さまの根っこにあるのは、「神は愛」、と言われる愛なのです。・・・・これが良い知らせ、福音なのです。

 私たちも殺人こそはできませんが、神さまの目からみれば、カインとほぼ等しい罪びとであります。その罪故に、・・・私たちは恐れ、・・・不安を持つようになっています。神さまは、カインを赦されたように私たちをも赦してくださるに違いありません。・・・同じ、神の子ですから。・・これも良い知らせ、福音なのです。

 この不安時代、・・・・その良い知らせを聞いた、私達が心から応答すべきことは、・・・「神さまはこんな私でも、・・・見捨てられない」、と信じきることです。

  ・・そして、祈り、・・・・・神さまの約束への確信を高めていく。・・・そして、自分を支えてくれる暗唱聖句を、・・例えば、「万事は益となる」とか、「求めなさい、そうすれば与えられる」とか、「思い患いは止めなさい」とか、「試練と共に逃れる道が与えられている」、とかを、・・・声を出して読む、・・・・そして、自分の抱いている不安が本当に現実的かどうか、冷静に吟味して見る。・・・・仮想不安に踊らされていないかを、・・・冷静に考える。・・・・・そして、気分転換を図る。・・・誰かとおいしい食事をする、一人旅をするなど、・・・幾つかの人間的知恵、工夫も必要です。

・・・・そして時間の中での、人生を楽しみ、・・・感謝を持って生きる、・・・・・


お祈りしましょう。   
神の似姿に造られた私たちですが、生き生きと喜びをもって生きれていないという現実があるように思います。主よ、・・・どうぞ、わたしたちがあなたからの良い知らせに耳を傾け、それを信じて、・・そして祈りを重ね、・・・人間的には、より現実的になり、冷静になり、自分の心を見つめることができるように、

そしてあなたから与えられたこの人生が、・・すばらしいものであること感謝できるよう、助け導いてください。この祈りをイエス・キリストの名を通して祈ります。   アーメン。

 


不安時代を生きる

2017年08月06日 | 日記
説教題:不安時代を生きる
説教箇所:創世記4章1節-16節


起、不安時代
 今日を一つの言葉で言い表すことは、・・・少なくとも私には困難です。ただ、牧師の仕事という窓を通して、見える景色があります。それは、「不安」というラベルを背中に貼って生きている人の多さです。たまたま、当教会員の浅海道子さんが代表をしておられるNPO法人に関わりを持つことになり、そこで就職活動を支援するセミナーをすることになりました。先日は「面接の受け方」というものをしました。終わってからアンケートを出して貰うのですが、そこに、「今後の就職活動への気持ちに近いものはどれですか?」というものがあります。答えが、・・・・・1)不安 2)やや不安 3)どちらともいえない・4)心配ない・・などです。・・・まず、全員と言っていいくらい 不安とやや不安にチェックが入ります。・・・・このアンケート結果は、今日が、・・・不安時代であることを示す小さな象徴であるように私には思えます。

 ところでこの話も不安といえば不安になる話です。みなさんは、「2025年問題」というのをお聞きになられたことはお有りでしょうか? あと僅か8年で、戦後の世代としてもっともボリュームの厚い団塊の世代が全員75歳以上となります。これによって日本は、5人に一人が75歳以上、そして3人に一人が65歳以上というかって経験したことのない、超高齢化社会に突入します。国の形が変わるといっても過言ではありません。・・そうなった時、最も対応が迫られる分野の一つが、・・・医療と介護の問題だと言われています。

・・一言でいえば、後期高齢者が1500万人から、2200万人と約1.5倍増えるのに対し、医者も介護士の数も足りず、・・・十分な治療、十分な介護が受けれなくなる、という問題です。・・・問題を挙げれば限がありませんが、東京では、死者が増え、・・・既に、・・・火葬は1週間待ちだと聞きました。・・・・佐賀にいる私の兄が腫瘍で入院することになりましたが、「約1カ月の順番待ち」だそうです。・・・これからの時代のキーワードは間違いなく、・・「順番待ち」でしょう。何をするにも「順番待ち」だと思われます。・・そういう中で・・果たして病院に入院できるのか、果たして病院で死ねるのか、・・・・私自身は、今、具体的に考えていないのでピーンときませんが、・・・・うっすらと不安ではあります。
・・・・こういう時代をどう生きるのか、・・・それが今日のテーマです。


承、
 聖書は天地創造の始まりを記しました。すべてには始まりがあることを教えてくれています。ならば、今日取り上げている不安にもその始まりがあるはずです。その通りで、・・聖書は既に2500年前、それについても記しています。

今日の個所を要約してみたいと思います。まず、カインとアベルという兄弟がいました。兄のカインは、農業を、・・・弟アベルは、牧畜を、とそれぞれは別々の仕事に付きます。・・そしてある時、二人は、・・・献げものをしました。・・・ところがこの「献げもの」が、禍いの元となったのです。人生にはしばしば良いことが災いになることがよくあります。・・そしてそれはなぜか、神さまは弟、アベルの献げものには目を留められたが、・・兄カインの献げるものには目を留め留められなかったからです。聖書にはその理由は書かれていません。ただ手掛かりになる言葉が書かれています。それは、「アベルは肥えた初子の羊を持ってきた」、という「肥えた」、「初子」が、という表現がそれです。わかり易くいえば、ベストの物を、ということでありましょう。一方、カインの献げものにはそれがありません!・・・神さまはベストの物をお喜びになった、とそう受け取らなくてはならないでしょう。

 そして、神さまが目を留められなかったのをみて、「カインは激しく怒って顔を伏せた」、のです。とそこで神さまはその態度を窘められます。・・・しかし、カインはその言葉に耳を貸しませんでした。

そればかりか、・・・・カインは弟を襲って殺したのです。人類、最初の殺人。それも最初の親族殺人が起きたのです。・・罪の力は強く、癌細胞が新しい臓器を見つけ、そこへ転移するかの如く、アダムとエバの罪は、直ぐに、わが子に転移したのです。

その後、どこでかはわかりませんが、カインは再び、神さまと出会いました。・・・・おそらく、カインは、神さまとは顔を会わせたくなかったでしょう。・・日々、「神さまに会ったらどうしようと」、・・・不安と恐れに捉われていたに違いありません。私も小さい頃、母親の財布から小銭を盗み取って、母親の顔を見るのが怖かった、という記憶があります。・・・カインの場合は、神さまの財布からお金を抜き取った類のことではなく、殺人です。・・・であるなら、不安と恐れで毎日を戦々恐々として過ごしていたというに違いありません。
 
 先週、私達は神さまが、エバに、「何ということをしたのか」と強い口調で問い糺されたところ読みました。ところが今回も同じように神さまは、カインに、「何ということをしたのか」と問い糺されました。その口調はエバにそうであったように、カインにも厳しいです。

 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 ・・・・・ここにあるのは、神の厳しい態度、・・・神の怒りともいうべきものです!

・・・・・・カインはいわばこの判決文とも言うべき神の言葉に、・・・・たじろぎ、開き直りの言葉も、弁解の言葉も失いました。・・・・そしてカインは、・・・エデンの園を追放されるかもしれないという、・・・不安と恐れに一瞬にして捉われたと思います。・・・・なぜなら、カインの心には、・・・追放され、神さまの庇護のもとから離れるなら、・・・・必ず、自分は殺されるだろう、という恐れがあったからです。

 聖書はこのように善きものとして造られた人間に、その創造の早い段階から罪が入り、・・それとほぼ同時に、・・・罪の果実である、・・・恐れと不安が入ってきたことを記しているのです。


転、認知の問題
 さて、ここまで不安や恐れというものを考えてきました。わたしにも小さな不安なら数えきれない程あります。例えば、小さな例ですが、「今度の礼拝を休みます」という連絡を幾つか戴くと、・・「今日こそは、30名を切ってしまうかもしれない」、という恐れ、・・不安が生じたりするのです。
 しかし、不安時代と申し上げた今日の不安は、私が、土曜日夜、明日の礼拝出席者が30名を切るかもしれないと言うような、つまり、主日が終わり、結局40名近くの人が見えた日曜日の夜には消えているような、いわば、一時的な不安ではありません。・・・今日の不安の何が問題かといえば、慢性的に続くところにあります。・・またそれが多くの人に広がっているところにもあります。そのような状況ですから、今日、・・・睡眠薬無しには、寝つけないと言う方が少なくないのです。
 先程、不安は昔昔、聖書の時代にもあったということを申し上げました。実はこの慢性不安というものも早い時期からあったのです。クリスマス物語にでてくる、王様、・・・ヘロデ王の時代、ヘロデ王自身がその人でした。ヘロデ王は死ぬまで、「自分の王位を奪いにくるものがいる」、いるという慢性不安に捉われた人でした。この慢性不安は、押さえ切れなくてなると、暴発してしまう性質があります。実際、ヘロデ王はわが子さえも殺したのです。それは彼の慢性不安が、「わが子から王位を奪われる」という妄想にまでになったからです。またヘロデ王は、自分に変わる救い主が顕れるという預言に捉われ、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を殺すと暴挙にもでたのです。・・・・また、数年前の秋葉原交差点での殺人などはあの青年の背後にこの慢性不安があってのことだと思われます。

しかし例え、人は幾ら慢性不安があったとしても、人を殺すまでのことはなかなかできません。何度かここでもお話をさせていただいたかとも思いますが、私が小さい頃、わたしの母親はいつも病気で伏せっていました。今で言うなら、おそらく自律神経失調症だと思われます。私の姉達は、「かあちゃんは、父ちゃんが作った借金取りに怯えていたっよ」、と言うのです。・・それは慢性不安を越えて慢性的怯え、となっていたのだと思われます。・・・実はそれが母の身体を蝕んでいたのです。その証拠に、借金がなくなり、慢性不安がなくなったら、母は起き上がり、どこへも出かけるようになり、心身の健康を取り戻したのです。このように、慢性不安は私たちの身体を蝕んでいき、それが無くなったら解放へと働くのです。

また、慢性的な不安について、ついでに申し上げるなら、一時的不安が、具体的な何かに対して起きるのと比べ、・・・慢性不安は、「自分が想像した、想像上の恐れ」に対しておきる、と言われています。これは覚えておいた方がいいと思います。・・現実に実際ある恐れよりも、・・・自分が想定した恐れ、・・そこから慢性不安は生じると言われているからです。・・・・だから、自分が、何に不安を感じているか、その正体を知っておくことは、自分の身体と心を守る上で、極めて大事なことだと言えましょう。



結、不安の時代をどう生きる・・・見捨てない
 さぁ、今日のテーマは不安時代を生きるということでした。もし、人生の目的が、「幸せに生きる」、ということなら、この不安というものは、私達を真逆の「不幸せ」にしてしまう元凶の一つでありましょう。しかし、これからも、おそらく人間が生きている間は、天敵ともいえるこの不安も人間と共に生き続けることでありましょう。ですから、「厭な奴」ですが、現実には付き合っていくしかありません。

 さて、もう一度、聖書の話です。・・・カインは、やっと正直になり、もし、神さまから見放されれば、・・・自分は殺されてしまうだろうと、・・・・・心にある怖れを告白しました。その恐れが不安になっていったのです。・・・・弟、アベルを殺して、神さまから鋭く、厳しく言われ、・・・カインは、おそらく毎晩、毎晩、・・不安で寝れなかったと思います。・・・・・しかし、神さまは、そのカインにしるしを付けられたのです。・・それは「お前を、誰にも殺させない」という神さまの決意の徴だったのです。
・・・・神さまはカインを見捨てることなく、赦しの中に於いてくださったのです。それは、アダムとエバへの態度と同じです。・・・・カインは、その言葉を聞いてやっと夜、・・少しは眠れるようになったのではないでしょうか。

・・・・しかし、改めてここには人間の罪深さが見事に描かれています。つまり、カインは「私の罪は重すぎて負いきれません」と言いました。その言葉のうちに、弟を殺した後悔らしきものは読み取れます。・・しかし、カインは、・・圧倒的に自分の身の安全について語っています。・・・これが人間ですね!

・・そういう人間の弱さを知りつつも、神さまは、カインをお赦しになりました。・・・・その神さまの根っこにあるのは、「神は愛」、と言われる愛なのです。・・・・これが良い知らせ、福音なのです。

 私たちも殺人こそはできませんが、神さまの目からみれば、カインとほぼ等しい罪びとであります。その罪故に、・・・私たちは恐れ、・・・不安を持つようになっています。神さまは、カインを赦されたように私たちをも赦してくださるに違いありません。・・・同じ、神の子ですから。・・これも良い知らせ、福音なのです。

 この不安時代、・・・・その良い知らせを聞いた、私達が心から応答すべきことは、・・・「神さまはこんな私でも、・・・見捨てられない」、と信じきることです。

  ・・そして、祈り、・・・・・神さまの約束への確信を高めていく。・・・そして、自分を支えてくれる暗唱聖句を、・・例えば、「万事は益となる」とか、「求めなさい、そうすれば与えられる」とか、「思い患いは止めなさい」とか、「試練と共に逃れる道が与えられている」、とかを、・・・声を出して読む、・・・・そして、自分の抱いている不安が本当に現実的かどうか、冷静に吟味して見る。・・・・仮想不安に踊らされていないかを、・・・冷静に考える。・・・・・そして、気分転換を図る。・・・誰かとおいしい食事をする、一人旅をするなど、・・・幾つかの人間的知恵、工夫も必要です。

・・・・そして時間の中での、人生を楽しみ、・・・感謝を持って生きる、・・・・・


お祈りしましょう。   
神の似姿に造られた私たちですが、生き生きと喜びをもって生きれていないという現実があるように思います。主よ、・・・どうぞ、わたしたちがあなたからの良い知らせに耳を傾け、それを信じて、・・そして祈りを重ね、・・・人間的には、より現実的になり、冷静になり、自分の心を見つめることができるように、

そしてあなたから与えられたこの人生が、・・すばらしいものであること感謝できるよう、助け導いてください。この祈りをイエス・キリストの名を通して祈ります。   アーメン。