説教題:今日は救いの日、
説教箇所:ルカによる福音書2章8節‐20節
クリスマス、おめでとうございます。・・・・今年もこのように大勢と方々とご一緒に、クリスマス礼拝を献げることができて大変、うれしく思います。
今日は、クリスマスの最も中心的な、救いについて、
ともすれば、クリスマス、正月と歳時記のように流れていくようにも思えるクリスマスを、立ち止まって「クリスマスの本当の意味」、「クリスマスは誰のところに」、というこの2つのことを通して、考えて見ることは有意義なことだとた思います。
と言っても、まず証から始まることをお許しください。実は今年の11月末で私は招聘いただき満10年になりました。ところが「証をします」と言って証をしたことは、この10年間、一度もありません。
と言っても、今日はクリスマス体験についての小さな証です。私のクリスマス体験と言えるようなものは、近隣に教会が全くなかったこととキリスト教への無関心さから小学校、高校、大学、そして社会人になって16年間というもの全くありませんでした。
しかし、クリスマスの思いでというなら、ない訳ではありません。その思いでは高校生の頃ですから、ざっくり55年位前のことです。私の田舎では長いあいだ、畳表となるゴザの材料であるイ草を作っていました。丁度、12月のこの寒い時期が、そのイ草植えの最盛期でした。イ草を植える前、実は密集して育てたイ草をクワで掘り起こし、根っこに着いた泥を堀の水で落し、株分けできるように準備することが私の仕事でした。もちろん、ゴム手袋をしていましたが、あの堀の水の冷たかったこと!それは忘れられません!
その作業中、・・・・実は、退屈凌ぎに傍に置いていた携帯ラジオから、クリスマスソングが流れてきたのです。・・・・当時の私にとっては、「なにやら甘い調べ」、「温かな」、そして「ロマンチック」な感じがしました。・・・クリスマスの香りの欠片を、ラジオを通して感じた、というのがその思い出です。真に小さな思い出です。
・・・しかし、それから50数年後に本当のクリスマスを知ることになるとは、無論その時は全く思いもよりませんでした。・・・・・今、思うとその時が私の最初のクリスマスだったのかもしれません。
1. クリスマスの本当の意味?‐
(一言で言えば)、・・・私たちの罪の救いのため、神が人となって来られた、という事です!
◆神が人となれたこと、
クリスマスの物語は、これはルカによる福音書による証言ですが、・・・天使がマリヤに、「あなたは身ごもって、男の子を産む」、というその言葉により、現実化します。「私は男の人を知りませんのに」とそうマリアが反論すると、天使は、「聖霊の力によってあなたは子供を産む。神にはできないことは何一つない」、とそう答えるのです。このことは、神が人となってこの世に来られた、ということを意味しています。・・・この答えを聞き、マリアは、「お言葉通りこの身になりますように」と答えます。・・・これが受胎告知の物語です。多くの画家はこの場面に触発されて絵を描いています。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知の絵は有名であります。
ところで、
・・・「聖霊により身籠る」、・・・・・ 近代文明に育った現代人の私たちには、このことは大変不可解なことに写ります。・・・・多くの現代人は、「そんなバカな」、と拒否するか、一歩譲って、「それはおとぎ話・神話でしょう」、と片づけるのではないでしょうか?・・・もしも、そうであるならクリスマスはクリスマスではありません。・・・では私達はこの受胎告知の物語をどう受け取ったらいいでしょうか。
・・・・ここで何回もお話をしていますが、私たちの教会の協力牧師の寺園喜基先生は、ある本に、こう書かれています。・・「ここにあるのは不可解さと恐れです。マリアが聖霊によりメシア、救い主を産む。(救い主のことですね)・・これは彼女にとってものみならず、クリスマスの音信(おとずれ)を聞く、わたしたちにとっても同様です。しかし、この不可解さと恐れは取り除いてはなりません・・・・もし、そうしてしまったら、クリスマスはクリスマスでは無くなってしまいます」と。
・・・・・そのことは、クリスマスが神の秘儀による出来事だ、ということを意味しています。神の秘儀ですから、わたしたち人間には、・・・わかりようもないことです。・・・わかりようもないことを、・・・・わからないとしてそのまま受け取ること。これが受胎告知物語の意味することです。・・・おそらくこの受胎告知の場面を切り取って絵を書いた、レオナルド・ダ・ヴィンチもこれを神の秘儀として書いたに違いありません。なぜなら、信じてもいないことを長い時間、精魂込めて描くなど、それは拷問にも等しいからです。
・・・・私たちの人生でも、「なぜ、どうして私に、」「どうしてあの人に」、などと、・・・分からない、不可解な出来事はあります。例えば、直近のことで言えば、北部九州豪雨、・・・なぜあそこだけが豪雨になったのか、その災害によって新築したばかりの店を失った方にとって、自然災害とはいえ、・・・まさに、「どうして」「なぜ」でありましょう。・・・・それを精一杯、考えることは大事なことです。しかし、・・・・わからないことがあっても、最後は、わからないまま、・・・・「分からない」として受け取ることが大事だと思います。・・・・・・なんでもわかろうとするということは、・・実は、自分が神になることと等しいことと言えるからです。
◆なぜ、何のために来られたのか?
「すべてのことには目的があります」、とこう一般化してもいいでしょう。神が人となってこの世にきてくださった、というクリスマスの出来事にも深い目的があるのです。これは、言うまでもないことですが、サンタクロースがプレゼントを持ってくることではありません。
聖書には、「民を罪から救う」。・・・つまり救世主、として来られた、ということが書かれています。それが、クリスマスが、クリスマスであるという目的です。一般には、この「救う」、という言葉だけが、取り出されて「救世主」、という言葉が広まりました。
しかし、聖書は、・・何から救うかを、問題にします。イエス・キリストは、多くの病人を癒されました。生まれつき歩けなかった人や、目の見えなかった人や、ライ病(今で言うハンセン病)を患った人など、・・・ありとあらゆる病人を救われたのです。つまり一つは病気からの救いです。
また、当時は、多くの虐げられた人々がいました。一日中羊の番をしている羊飼いや生まれつき身体に障害を抱えた者たちがそうでした。彼らは当時の社会から、神さまとの約束事である、律法を守らない罪人として差別されていたのでした。しかし、イエス・キリストはこの社会の最下層の側に立たれ、・・・彼らに人間としての尊厳を取り戻させ、・・・その彼らに再び生きる力を授けられたのです。つまり、社会の差別、偏見からの救いです。これがもう一つの救いの形です。・・・以来、キリスト者は、これまでもこの精神に立ち、様々な社会的差別にあっている方々へ救いの手を差し伸べてきました。
しかしながら、聖書が、「罪から救う」、と言っていっているのは、もっと根源的なことです。私たちは、他人に「踏まれた足の痛み」はよく分かります。しかし、「自分が踏みつけている」相手の痛みはよく分かりません。わからない、気付かない自分がいます。この自己中心性が誰にもあります。
また、「こうした方がいい」、とよくわかっていながらできない自分がいます。「こんなことはしてはいけない」、とよくわかっていながら、する自分がいます。・・・・相手を許した方が自分も楽になるとわかっていながら、赦せない自分がいます。「互に愛しなさい」、という聖書の戒めを、よく知っていながら、一番の隣人である、夫や妻を愛することができない自分がいます。・・「わかっていながらどうすることもできない」、これらのことを、私たちの社会は、「人間の業」、という言葉で表わしてきました。・・・そしてそれを神仏の世界では、修行によって乗り越えようとしました。ある人は修験者となって険しい山を踏破したり、冷たい滝にうたれて、・・そこからの悟りを得ようとしました。悟りの結果、これを救いと言ってきました。
・・・・しかし、聖書は、この「業」との言われるものを、・・・・・これを「罪」と言います。・・・そしてすべからく人間は罪人だ、と言うのです。そしてまた、この罪は自分の力、自分の努力で取り除くことはできない、・・これも聖書の教えることです。
・・・それゆえ、この罪から人間を救うために、というのが、・・・クリスマスの中心的なことです。・・・・この罪からの救いが中心であるということは、まったくもって小さなことではありません。なぜなら、罪は私たちに霊的な死をもたらすからです。霊的な死のもたらす結果は、・・・敵意、争い、利己心、不和、仲間争い、妬み、嫉妬、不安、恐れ、などなどです。人はこの罪のもたらす果実ゆえに、将来を必要以上に恐れ、・・・・自分自身との関係に苦しみ、多くの人間関係に苦しんでいるのです。
・・・そしてこの罪についてつけ加えるなら、・・・それも大変、大事なことを付け加えなくてはなりません。・・・聖書は、「イエス・キリストが、私達の罪の為に十字架で死んでくださった」、と書いています。・・そしてこのキリストの十字架のみ業を信じる者のみが、・・・救われる、というのです。・・・・従って、救いは、・・人間の側の頑張りではなく・・・・・・、ただ神の救いを信じる信仰からくる、・・・これが聖書の語る福音なのです。
クリスマスの主であるイエス・キリストは、・・・水戸のご隠居さん、水戸黄門のように、大向うをうならせるような仕方ではなく、・・・真逆の、・・・もっとも惨めな十字架刑に架かる仕方で、・・・民を罪から救われたのです。これは神の本質である愛が、行為として示されたことを意味しています。・・・クリスマスの目的とは、私たちを救うために、・・・十字架に架かるまでしてくださった方が、この地上に来てくださった、ということです。
3.クリスマスは「誰の」のところに?
聖書は、クリスマスのよき音信は、すべての人へ届いた、とそう書いています。それも真っ先に羊飼いのところに来た、とあります。よき音信が、真っ先に羊飼いのところに来た、というのは、・・・・人となれた神が、人間社会のもっとも底辺のところに来られたことを意味します。それはまた、今日、最も生きる辛さを味わっている人々のところに来られたと、いうことを意味しているのです。
今年のこのクリスマス、・・・・神がイエス・キリストとなってこの地上にきてくださったのは、今から2000年前の1回きりのことではありません。・・・・神は今も生きて働いておられます。なぜなら、今も、この社会に、私たちの心に、・・暗闇とも言えるような現実があり、・・・・ここにも「クリスマスのよき音信」を必要としている方々が沢山おられるからです。
・・・・・クリスマスの良き音信は、・・・・今日、・・・今、ここにいる
病気を抱え、・・・恐れと不安を抱きながら生きている人に、
人と人との関係が行き詰まり、・・・日々、緊張と行き詰りを抱えながら生きている人に、
一人暮らしで、・・・・襲ってくる孤独感を抱えながら生きている人に、
さまざまな、・・・・不安、心配を抱えている人に、
世の矛盾、不正義と戦って、打ち敗れ、挫折感を覚えている人に、
自分の人生は何だったろう、と・・・・人生の意味を問うている人に、
大事な人を失い、・・嘆きと悲しみ、失意の中にある人に、
人の温もりが欲しい、自分の存在を忘れないで欲しい、と・・愛を求めている人に、
戦乱の中で、平和を求めている人に、
不条理を押し付けられている人々に、
これら、一人とも神の目からこぼれる人はいません。なぜなら神は愛なる方で、「あなたを見放すことも、見捨てることもしない!」とそう語られているからです。もちろん、マッチ売りの少女も神の目からこぼれてはいません。
・・・そして今日、ここにおられる全ての方々へ、クリスマスの良き音信、・・・神の独り子が、来てくださったことを改めてお伝えします。
そして講壇に灯された蝋燭の4本の光は、教会の窓を通し、・・・この地域に、全世界に、クリスマスによる、「平和」、「希望」、「喜び」、「救い」、を伝える明かりです。
どうぞ、一人でも多くの方がこの光に気づかれますように!
MERRY CHRISTMAS !
お祈りしましょう。(どうぞ、目を閉じて心を合わせてください)
慰め、平和、希望、喜び、救い、愛の源である神さま、・・・あなたご自身が人間となって来てくださったという不思議な知らせを私たちは聞きました。キリストの誕生を祝う私たちのあいだに、あなたが永遠の真理の光を灯してください。どうぞ、この時代と世界において、私たちをあなたの器として用いてください。
この祈りを真の人にして真の神、主イエス・キリストの名によって祈ります。 アーメン。
説教箇所:ルカによる福音書2章8節‐20節
クリスマス、おめでとうございます。・・・・今年もこのように大勢と方々とご一緒に、クリスマス礼拝を献げることができて大変、うれしく思います。
今日は、クリスマスの最も中心的な、救いについて、
ともすれば、クリスマス、正月と歳時記のように流れていくようにも思えるクリスマスを、立ち止まって「クリスマスの本当の意味」、「クリスマスは誰のところに」、というこの2つのことを通して、考えて見ることは有意義なことだとた思います。
と言っても、まず証から始まることをお許しください。実は今年の11月末で私は招聘いただき満10年になりました。ところが「証をします」と言って証をしたことは、この10年間、一度もありません。
と言っても、今日はクリスマス体験についての小さな証です。私のクリスマス体験と言えるようなものは、近隣に教会が全くなかったこととキリスト教への無関心さから小学校、高校、大学、そして社会人になって16年間というもの全くありませんでした。
しかし、クリスマスの思いでというなら、ない訳ではありません。その思いでは高校生の頃ですから、ざっくり55年位前のことです。私の田舎では長いあいだ、畳表となるゴザの材料であるイ草を作っていました。丁度、12月のこの寒い時期が、そのイ草植えの最盛期でした。イ草を植える前、実は密集して育てたイ草をクワで掘り起こし、根っこに着いた泥を堀の水で落し、株分けできるように準備することが私の仕事でした。もちろん、ゴム手袋をしていましたが、あの堀の水の冷たかったこと!それは忘れられません!
その作業中、・・・・実は、退屈凌ぎに傍に置いていた携帯ラジオから、クリスマスソングが流れてきたのです。・・・・当時の私にとっては、「なにやら甘い調べ」、「温かな」、そして「ロマンチック」な感じがしました。・・・クリスマスの香りの欠片を、ラジオを通して感じた、というのがその思い出です。真に小さな思い出です。
・・・しかし、それから50数年後に本当のクリスマスを知ることになるとは、無論その時は全く思いもよりませんでした。・・・・・今、思うとその時が私の最初のクリスマスだったのかもしれません。
1. クリスマスの本当の意味?‐
(一言で言えば)、・・・私たちの罪の救いのため、神が人となって来られた、という事です!
◆神が人となれたこと、
クリスマスの物語は、これはルカによる福音書による証言ですが、・・・天使がマリヤに、「あなたは身ごもって、男の子を産む」、というその言葉により、現実化します。「私は男の人を知りませんのに」とそうマリアが反論すると、天使は、「聖霊の力によってあなたは子供を産む。神にはできないことは何一つない」、とそう答えるのです。このことは、神が人となってこの世に来られた、ということを意味しています。・・・この答えを聞き、マリアは、「お言葉通りこの身になりますように」と答えます。・・・これが受胎告知の物語です。多くの画家はこの場面に触発されて絵を描いています。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知の絵は有名であります。
ところで、
・・・「聖霊により身籠る」、・・・・・ 近代文明に育った現代人の私たちには、このことは大変不可解なことに写ります。・・・・多くの現代人は、「そんなバカな」、と拒否するか、一歩譲って、「それはおとぎ話・神話でしょう」、と片づけるのではないでしょうか?・・・もしも、そうであるならクリスマスはクリスマスではありません。・・・では私達はこの受胎告知の物語をどう受け取ったらいいでしょうか。
・・・・ここで何回もお話をしていますが、私たちの教会の協力牧師の寺園喜基先生は、ある本に、こう書かれています。・・「ここにあるのは不可解さと恐れです。マリアが聖霊によりメシア、救い主を産む。(救い主のことですね)・・これは彼女にとってものみならず、クリスマスの音信(おとずれ)を聞く、わたしたちにとっても同様です。しかし、この不可解さと恐れは取り除いてはなりません・・・・もし、そうしてしまったら、クリスマスはクリスマスでは無くなってしまいます」と。
・・・・・そのことは、クリスマスが神の秘儀による出来事だ、ということを意味しています。神の秘儀ですから、わたしたち人間には、・・・わかりようもないことです。・・・わかりようもないことを、・・・・わからないとしてそのまま受け取ること。これが受胎告知物語の意味することです。・・・おそらくこの受胎告知の場面を切り取って絵を書いた、レオナルド・ダ・ヴィンチもこれを神の秘儀として書いたに違いありません。なぜなら、信じてもいないことを長い時間、精魂込めて描くなど、それは拷問にも等しいからです。
・・・・私たちの人生でも、「なぜ、どうして私に、」「どうしてあの人に」、などと、・・・分からない、不可解な出来事はあります。例えば、直近のことで言えば、北部九州豪雨、・・・なぜあそこだけが豪雨になったのか、その災害によって新築したばかりの店を失った方にとって、自然災害とはいえ、・・・まさに、「どうして」「なぜ」でありましょう。・・・・それを精一杯、考えることは大事なことです。しかし、・・・・わからないことがあっても、最後は、わからないまま、・・・・「分からない」として受け取ることが大事だと思います。・・・・・・なんでもわかろうとするということは、・・実は、自分が神になることと等しいことと言えるからです。
◆なぜ、何のために来られたのか?
「すべてのことには目的があります」、とこう一般化してもいいでしょう。神が人となってこの世にきてくださった、というクリスマスの出来事にも深い目的があるのです。これは、言うまでもないことですが、サンタクロースがプレゼントを持ってくることではありません。
聖書には、「民を罪から救う」。・・・つまり救世主、として来られた、ということが書かれています。それが、クリスマスが、クリスマスであるという目的です。一般には、この「救う」、という言葉だけが、取り出されて「救世主」、という言葉が広まりました。
しかし、聖書は、・・何から救うかを、問題にします。イエス・キリストは、多くの病人を癒されました。生まれつき歩けなかった人や、目の見えなかった人や、ライ病(今で言うハンセン病)を患った人など、・・・ありとあらゆる病人を救われたのです。つまり一つは病気からの救いです。
また、当時は、多くの虐げられた人々がいました。一日中羊の番をしている羊飼いや生まれつき身体に障害を抱えた者たちがそうでした。彼らは当時の社会から、神さまとの約束事である、律法を守らない罪人として差別されていたのでした。しかし、イエス・キリストはこの社会の最下層の側に立たれ、・・・彼らに人間としての尊厳を取り戻させ、・・・その彼らに再び生きる力を授けられたのです。つまり、社会の差別、偏見からの救いです。これがもう一つの救いの形です。・・・以来、キリスト者は、これまでもこの精神に立ち、様々な社会的差別にあっている方々へ救いの手を差し伸べてきました。
しかしながら、聖書が、「罪から救う」、と言っていっているのは、もっと根源的なことです。私たちは、他人に「踏まれた足の痛み」はよく分かります。しかし、「自分が踏みつけている」相手の痛みはよく分かりません。わからない、気付かない自分がいます。この自己中心性が誰にもあります。
また、「こうした方がいい」、とよくわかっていながらできない自分がいます。「こんなことはしてはいけない」、とよくわかっていながら、する自分がいます。・・・・相手を許した方が自分も楽になるとわかっていながら、赦せない自分がいます。「互に愛しなさい」、という聖書の戒めを、よく知っていながら、一番の隣人である、夫や妻を愛することができない自分がいます。・・「わかっていながらどうすることもできない」、これらのことを、私たちの社会は、「人間の業」、という言葉で表わしてきました。・・・そしてそれを神仏の世界では、修行によって乗り越えようとしました。ある人は修験者となって険しい山を踏破したり、冷たい滝にうたれて、・・そこからの悟りを得ようとしました。悟りの結果、これを救いと言ってきました。
・・・・しかし、聖書は、この「業」との言われるものを、・・・・・これを「罪」と言います。・・・そしてすべからく人間は罪人だ、と言うのです。そしてまた、この罪は自分の力、自分の努力で取り除くことはできない、・・これも聖書の教えることです。
・・・それゆえ、この罪から人間を救うために、というのが、・・・クリスマスの中心的なことです。・・・・この罪からの救いが中心であるということは、まったくもって小さなことではありません。なぜなら、罪は私たちに霊的な死をもたらすからです。霊的な死のもたらす結果は、・・・敵意、争い、利己心、不和、仲間争い、妬み、嫉妬、不安、恐れ、などなどです。人はこの罪のもたらす果実ゆえに、将来を必要以上に恐れ、・・・・自分自身との関係に苦しみ、多くの人間関係に苦しんでいるのです。
・・・そしてこの罪についてつけ加えるなら、・・・それも大変、大事なことを付け加えなくてはなりません。・・・聖書は、「イエス・キリストが、私達の罪の為に十字架で死んでくださった」、と書いています。・・そしてこのキリストの十字架のみ業を信じる者のみが、・・・救われる、というのです。・・・・従って、救いは、・・人間の側の頑張りではなく・・・・・・、ただ神の救いを信じる信仰からくる、・・・これが聖書の語る福音なのです。
クリスマスの主であるイエス・キリストは、・・・水戸のご隠居さん、水戸黄門のように、大向うをうならせるような仕方ではなく、・・・真逆の、・・・もっとも惨めな十字架刑に架かる仕方で、・・・民を罪から救われたのです。これは神の本質である愛が、行為として示されたことを意味しています。・・・クリスマスの目的とは、私たちを救うために、・・・十字架に架かるまでしてくださった方が、この地上に来てくださった、ということです。
3.クリスマスは「誰の」のところに?
聖書は、クリスマスのよき音信は、すべての人へ届いた、とそう書いています。それも真っ先に羊飼いのところに来た、とあります。よき音信が、真っ先に羊飼いのところに来た、というのは、・・・・人となれた神が、人間社会のもっとも底辺のところに来られたことを意味します。それはまた、今日、最も生きる辛さを味わっている人々のところに来られたと、いうことを意味しているのです。
今年のこのクリスマス、・・・・神がイエス・キリストとなってこの地上にきてくださったのは、今から2000年前の1回きりのことではありません。・・・・神は今も生きて働いておられます。なぜなら、今も、この社会に、私たちの心に、・・暗闇とも言えるような現実があり、・・・・ここにも「クリスマスのよき音信」を必要としている方々が沢山おられるからです。
・・・・・クリスマスの良き音信は、・・・・今日、・・・今、ここにいる
病気を抱え、・・・恐れと不安を抱きながら生きている人に、
人と人との関係が行き詰まり、・・・日々、緊張と行き詰りを抱えながら生きている人に、
一人暮らしで、・・・・襲ってくる孤独感を抱えながら生きている人に、
さまざまな、・・・・不安、心配を抱えている人に、
世の矛盾、不正義と戦って、打ち敗れ、挫折感を覚えている人に、
自分の人生は何だったろう、と・・・・人生の意味を問うている人に、
大事な人を失い、・・嘆きと悲しみ、失意の中にある人に、
人の温もりが欲しい、自分の存在を忘れないで欲しい、と・・愛を求めている人に、
戦乱の中で、平和を求めている人に、
不条理を押し付けられている人々に、
これら、一人とも神の目からこぼれる人はいません。なぜなら神は愛なる方で、「あなたを見放すことも、見捨てることもしない!」とそう語られているからです。もちろん、マッチ売りの少女も神の目からこぼれてはいません。
・・・そして今日、ここにおられる全ての方々へ、クリスマスの良き音信、・・・神の独り子が、来てくださったことを改めてお伝えします。
そして講壇に灯された蝋燭の4本の光は、教会の窓を通し、・・・この地域に、全世界に、クリスマスによる、「平和」、「希望」、「喜び」、「救い」、を伝える明かりです。
どうぞ、一人でも多くの方がこの光に気づかれますように!
MERRY CHRISTMAS !
お祈りしましょう。(どうぞ、目を閉じて心を合わせてください)
慰め、平和、希望、喜び、救い、愛の源である神さま、・・・あなたご自身が人間となって来てくださったという不思議な知らせを私たちは聞きました。キリストの誕生を祝う私たちのあいだに、あなたが永遠の真理の光を灯してください。どうぞ、この時代と世界において、私たちをあなたの器として用いてください。
この祈りを真の人にして真の神、主イエス・キリストの名によって祈ります。 アーメン。