梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

ヨハネの黙示録より概説

2014年02月23日 | 日記

 本日の説教が「聖書教育」に準拠してヨハネの黙示録からなされるので、巻頭言は「ヨハネ黙示録概説」(渡辺善太著)をそのまま引用したものとする。
以下、引用・・・
・・黙示録の目的は「ヨハネ」が「見しことと、今あること、後に成らんとする事」とを記すべく命じられて書いたところにある(1:19)
しかし、この過去、現在、未来にわたることの記録において、特に重要なことは、「かならず速やかに起こるべきこと」であり、本書の未来というのは「速やかに」起こると言う意味の未来のことであるという点である。

 本来書簡の多くのものは使徒によって書かれたとはいえ、その使徒と特定の教会との関係を反映する、いわば私的性格をもっていたものであり、そうではなくてもロマ書の如き半ば公的のものと言えるものはあっても、最初から全面的に公的性格をもったものはほとんど見られない。ところがこのヨハネ黙示録は「この預言の言を読む者と、之を聞きてその中に録されたることを守る者等とは幸福なり、時近ければなり」と記されているところによっても知られるように、本書は最初から公的に朗読され、かつ会衆に
聞かれるために認められたものである。(1:3)
 
 本書の主題は「屠られた子羊キリスト」による宇宙的終末の開示である。本書は聖書聖典の最後に置かれた聖書全体の結論であり、「創世記」に対しては、これに対応する「終末記」をなす。さらに新約聖書の区分から言えば、第三区分をなし、第一区分が全体として「神の国」を主題とし、第二区分が「教会」を主題とするのに対し、第三区分なる黙示録は、神の国と教会の終末的結びつきを指し示す、ということができる。これはその意味において、前著したごとく、ヨハネ伝福音書が語った「神の国と教会の始源的結びつき」に対応するものとして見られる。
 その文学的形式からみると本書は前述せし如く異象的預言としての性格を備え、その構造は七という完全数を用いた系統ある一つの神劇である・・・・

                                                               以上

よく寝れて、おいしく食べれて

2014年02月16日 | 日記
起、寝れない、食べれない
  口数が多い子だったのに、このところ何も話してくれない! どうも夜、眠れていないようだ、全然、しゃきっとした顔をしていない、・・・大好きだったトンカツも1切れ食べただけで手をつけない、・・・・皆さんの友人が、「家の子がそうなのよ!」、と言れたらどう対応しますか? これは今やどこでも聞く話です。そしてこれからもますます多くなっていく話だと思われます。
  
  ある会社があって、その会社(サイダス)は約3万人のサラーリマンの勤務データーを集めてうつで休んだ人の性格の特徴や、病気にかかる前の勤務状況を分析し、ストレスに弱い人がうつで休職する場合に一定のパターンがあることを見つけた、というのです。・・・それによると、「週2回遅刻し、月2回欠勤」「月曜日と火曜日の欠勤が多い」「夜10時以降の残業が続く」、といった勤務パターンは危険な兆候だというのです。

 確かにそうかもしれません。私の娘も、初めに小さな会社に就職しました。その後、その会社での働きが評価され、少し大きい企業に引き抜かれた形で、実はそこは首都圏生協という会社ですが、・・そこで惣菜を年間、2億取扱という部署に付きました。その時、娘はそのことを私に自慢気に話していました。・・ところがある時から、娘は仕事からくるストレスで出勤できなくなり、ついには月曜日に休み、・・それが週2回休むようになり、3回、4回休むようになり、・・・その後、病院に行ってうつ病と診断されました。・・・幸い、娘は今、鬱から解放されて元気になっています。

 冒頭に申し上げた事例は、まさにうつの典型的な症状です。私の印象からいえば、中程度以上のうつのような気がします。今日、うつ病とまではいかないにしても、日常生活で、そこそこの、・・・怒りや、・・不安、心配、自責の念、絶望感、焦り、疲労感、かなしい、がっかり、孤独感、恐怖、後悔、空しさ、不満、見捨てられ感、落ち込み、悔しさ、などの「いゃな気分に数日捉われている」、という経験をされた方は少なくないように思います。・・・・今日はどうしたらこういう気分から解放されて、日常を気分よく送くることができるか、そのことについてご一緒に考えてみたいと思います。


承、聖書にはすべての答えが!
 古来、聖書には先程あげた問題も含め、人生の問題についてすべての答えがある、と言われています。今日、示された聖書にも既にその答えが記されています。・・・ところで今日示されたのは旧約聖書、箴言というものですが、・・・・この箴言という聞きなれない言葉の意味は何でしょうか?・・・そもそも箴言の「箴」とは「針でチクリと刺す」、という意味があります。従って箴言とは、「針でチクリと刺したような知恵の言葉」、だということです。
そしてその箴言を代表する言葉が、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)、という言葉だといえましょう。もし、あなたが知恵が欲しい、とそう思うなら、全知全能である神に向き合いなさい、・・・そのことに気づくことがまず最初のことだよ、・・・・とそういうのでありましょう。またそのことを箴言の別の個所では、「どのような知恵も、どのような英知も、勧めも、(主である)神の御前には無に等しい」、と記しているのです。つまり、神の言葉こそ、真の知恵だと。(箴言21:30)

 そのことを枕に起きつつ、箴言にはいわゆる上から下へ、それも4章のみ出しにあるように「父の諭し」、という親から子へ、というリアルな形で多く語られています。例えば、20節、「わが子よ、私の言葉に耳を傾けよ」。23節、「何を守るよりも、自分の心を守れ」。27節、「右にも左にも偏ってならない」、とあるのがそうです。

20節、「わが子よ、私の言葉に耳を傾けよ」は、神の言葉を、・・・・傾聴しなさい!ということです。ご承知のように、「きく」という言葉には、門構えの「聞く」、と耳編の「聴く」と二つあります。・・ちなみにここでは耳編の聴くが使われています。
・・では門構えの聞く、とではどう違うのでしょうか・・・・一般に門構えの聞くは、医者が病状を聞く、・・どんな症状ですか?・・いつから熱がでましたか・・・咳は出ますか?・・痰はでてますか?という具合にある事柄を聞く、・・・その場合がこれです。
一方、耳編の聴くは、聴診器の「聴」が充てられているように、聴診器を充てるように、ただじっーと心の具合を聴く、というようなイメージの聴くです。どちらかと言えば、前者が聞く側のこちらに主導権があるのに対し、後者は、話す相手側に主導権があります。ですから、耳編で聴く時は、大抵、「じーっとして」時々、「うん、うん、と頷く」、というような形をとります。そういう訳でこの箇所は、・・・神の言葉を、つまり父の諭しとして、ただじっーと聴け、ということです。

 23節、「何を守るよりも、自分の心を守れ」は、・・・一番大事なことは、「自分の心を守ることだ」、と言っています。今日の箇所、20節から27節には、人間の全身、部分の言葉がいくつも記されています。いわく、耳、心、口、唇、目、足、等々、・・・・これらの部分は人間の体としてどの部分も大事ですが、しかし強調点は心を守ることにあります。
・・・今日、体と心が密接に繋がっていることはよく知られています。心に不安や恐れがあり、・・それがある限度を超えると、体は悲鳴をあげます。例えば、そうなった内ある人は、どんな食事を食べても「同じ味がする」と言われます。またある人は毎夜、寝汗をかき、強い圧迫感に襲われると言われます。またある人は、人からじろじろ見られていると思うと、心臓の鼓動が早まり、過呼吸になり、ついには電車の釣り輪を掴めなくなり立っていることができなくなり、途中下車し、トイレでしゃがみこんでしまわないといけなくなる、と言われます。・・・とこれらの例からも、心を守ること=健康を守ることだ、ということが頷けると思います。

・・・とこの二つの聖書のみ言葉は、さまざまな人生の問題に対してどのような態度で聴くか、あるいは健康を守る、と言う時、・・・心の健康を守ることだよ、ということを教えてくれています。聖書はこのように人生の指南書であります。


転、さて、・・・スケーリングクエッション
 しかし、「自分の心を守れ!」、・・それは良くわかる!・・・では「心を守る」、とはどういうことで、どうすればいいのか、・・・・それを聞きたい、という質問もあるでしょう。おそらく、箴言が書かれた言われた今から2500年前も、今日の私たちと同じように心の問題があり、同じような質問があったに違いありません!・・箴言の作者はそれにどう答えていたのでしょうか。

 さて、「心がどこにあるか」、・・昔の人は、・・・「胸に手を当てる」、と言うように、心は心臓にあると考えていました。心臓、・・すなわち心の臓器と書くくらいですから。・・・しかし、今日、その考えは医学の進歩も相まって揺らいでいるように思います。今日、心臓に替わって人間の脳に心がある、という考えが、それに取って替わったようです。

医学の進歩によって私たちの見る、聞く、触る、あるいは痛い、熱いなどの感覚系、手足の筋肉を動かす運動系、考えたり、判断したり、創造したりする中枢系、・・・ものごとを認知したり、意識したりする中枢系も、・・実は脳、それも大脳、それも大脳皮質にあるということが解ってきました。・・・・・大脳皮質とは頭蓋骨の真下に広がっていて脳の大部分を占めている場所です。

 そして「心を守る」、という時の、不安や恐れ、心配などなど、・・それはどこで起きているのか、それは大脳皮質の下に沿ってある、大脳辺縁系と呼ばれるところが、そこです。その大脳辺縁系がそれらの感情を請け負っているのです。ですから、今日、不安になった人に処方される抗不安薬は、この大脳辺縁系に作用する薬なのです。

 ともあれ今日、心は脳にある、という考えかたが医学という切り口から言われるようになりました。その事についてここで議論するつもりはありません。また議論できる力もわたしにはありませせん。ただ、申し上げたいのは、・・・・心の問題を持って相談に来られた方が、・・・・出来事に対する、自分の考え方や受け止め方、あるいは解釈の仕方を、つまり脳の働きを・・・・・修正、調整されるだけで心が軽くなる。・・・そういう事例を沢山みて来たということです。多くの方は、考え方が狭いことと、考え方が堅い、・・この両面で苦しまれています。

 心の問題を抱えて面談に来られた方のお話を、ほとんど黙って聞きます。時々、頷いたり、少し質問したりはします。そしてその人が大凡、悩みや不安を話し切られたな、と思ったところで、実は「気分や感情は、出来事ではなく、・・・その出来事をどう考えたか、・・・その考え方によるんですよ」、ということをここで初めてレクチャーします。・・そして考え方の癖にはどのようなものがあるか、それをご紹介し、・・・チェックシートに基づき、自分の考え方の癖を見つけることをしていただきます。・・・そして自分を苦しめているのは、その考え方の癖であり、・・あなたが悪いのではない、いうことを申し上げるのです。・・・(これは今日の午後のセミナーで行う予定です)・・・この段階までくると大概、表情も柔らかくなっています。
 つまり、今日、・・・「心を守るとは」、考え方を守ることであり、「どうすればいいか」、とはその考え方を調整、修正することなのです。

 そして「終わりましょう」、といって立ち上がろうとする時、刑事、コロンボではありませんが、「ああ、ここでちょっと質問があります」、と言って・・・・このような質問をします。「あなたが今さっきこの牧師室に入られた時、その時の嫌な気分を仮に100%として、0%は全く嫌な気分はないということとして、・・・仮にそうした時、・・・・今、あなたの気分はどれ位ですか?・・・・・今までの経験でいうと大抵、30%-40%という数値が多いです。つまり、高々、1時間半位の間に、60%~70%ほど気持ちが楽になった、ということです。
・・・・・大抵、苦しみにある人は、この気持ちはずーっと続くと思っていることです。・・・ですから大事なことは、「自分の気持ちは変化するんだ」、ということを知っていただくことです。・・・・・それはその人が心に希望の火を灯したことになります。・・聖書が、「いつまでも残るのは、・・・信仰、希望、愛」、というように希望って強いな、と思わされる瞬間です。


結、・・・偏らない考えを! 全身を健康にする!
 27節には、「右にも左にも偏ってならない」、とあります。・・・「偏ってならない」、と言うのは26節からの流れとして歩む道のことで、「それが偏ってならない」、ということが言われています。・・・そしてその「道」はここではある一つの象徴言語として理解することができます。従って具体的には、あなたの「考えが右にも左にも偏ってならない」、という意味として読みかえることができるのです。
 
 先程、申し上げたように心の問題を抱えてくる人は、私の印象では、考え方の幅が狭いこと、そして自分の考えに固執する特徴を持っています。・・・・私はある問題を持った方にさりげなくそのことを示唆しました。後ほど解ったことですが、・・その方は、それまでの自分の考えを変えることは、それまでの生き方が否定されているようで、辛い、と言われたのです。・・・・・その事からも言えることですが、・・・多くの日本人は、・・もちろんそう言う時、わたしも含めて、・・・・自分の考えが否定されることは、自分の人格や、自分の存在が否定された、とそう取りがちではないでしょうか!・・・・・一般になぜ、変わることが怖いのか、・・そのことを観察すると、・・・変わることが、自己存在の否定と深く繋がってから、だと思えます。

 多くのクリスチャンを苦しめているのに、「こうすべき」「こうしてはならない」、という考え方があります。確かに、聖書は、「こうすべき」、「こうしてはならない」に満ち溢れています。・・だからクリスチャンはこの言葉を抱え、世の規範となって、世の過ちを糺し、・・世の光、地の塩として輝いてきたのでした。だからこれは大事な考えです。
 しかし、一方、だから文字通り、・・・・そこだけに体重をかけて読むなら、私たちは、そうできない自分を責め続けることになるでしょう。責めるだけで済めば、まだ、いい・・・・その延長線上にあるのは、「自分はダメ」、という自己否定、自分の存在を否定する思いになることです。・・・・一体、「あなたは自分を24時間責めなさい!」・・私たちの愛なる神さまはそれを望まれているでしょうか!・・・・・確かに神の裁きは聖書の大事なな概念ですが、・・・それ以上に神の愛は聖書の中心的な概念です。・・・・裁きか、愛か・・・・つまり、あれかこれかではありません。・・・・・天気が雨もあり晴れもあって天気のように、聖書は裁きもあり、愛もあって聖書なのです。・・・・しかし聖書の強調点は愛にあります。・・・・聖書の中の聖書、と言われる「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」、というこのヨハネによるみ言葉がその徴であります。・・・・「すべきことができない」、・・そういう私たちをも神は肯定してくださっているのです。・・・・・「出来る限り、そうする」、・・それでいいのです。

 ともあれ、私は自分が目標にしている説教原稿の文字数、5000字をこの段階で、506文字オーバーしています。・・・・だからもう、まとめに入らなくてはなりません。

 私たちは日常生活で、自分の考えを変える必要はないのです。何年もかけて身に付け、ここまで自分を守ってくれたからです。しかし、スピードの出しすぎが事故の元であるように、考えすぎること、・・・偏った考え・・・これらを、箴言の作者が、「右にも左にも偏ってならない」、というように、・・・調整、修正することが大事です。なぜなら、現実に、実際、・・・それが自分を楽にしてくれるからです。もっと言うと、調整、修正したほうが、今いる自分の現実にあっているからです。・・・・・・考えすぎや偏った考えは、・・・多くの場合、自分は気付いていませんが、・・・・音響機器のチューナーの周波数が合わず、・・・・・・キィーという音をだしている状況です。・・・・もし、それに気付いたなら、その時、私たちはチューナを調整して合わせるでしょう。・・・・同様にわたしたちも自分の考え方を、・・・調整、修正する、ということです。・・・・それだけでわたしたちは心が健康になり、・・「よく寝れて」、「美味しく食べれるようになり」、・・・箴言の作者がいうように、「全身を健康にする」(箴言4:22)のです。

 これで説教は終わります。・・・「あぁ、忘れていました。ここで皆さまにちょっとした質問があります」・・・仮にこの説教を聴く前の自分の気持ち、・・・・ここではそれを元気度としましょう。仮にその元気度を0%から100%とします。0%は聴く前です。100%は元気度満点です。今日の説教で、いくつくらい元気をもらったか、・・・・・それが「0%だよ」、とか「10%だよ」、なら、説教者は選手交代です。・・・これは(笑い)ですが、・・・・元気という抽象的概念もこのように数値化すると、あいまいさが取れて、イメージがつかみやすくなります。簡単ですから、日常生活でも使ってみてください。

  お祈りしましょう。
天の神さま、・・・今日、多くの悩みで満ちています。しかし、実際、多くの喜ばしいことがあるのも事実です。事実は隠れています。だから私たちは目に見える嫌なことに動揺されがちです。しばしば嫌な気分になり、面白くない、辛い日々を送ることもあります。しかし、「聖書は右にも左にも偏るな」、と私たちが考えに於いて、行き過ぎないように、と教えてくれています。それが健康をつくるよ、と。
 どうぞ、今日、今から、・・・自分の考えの癖に気づき、調整、修正することを教えてください。
神からの平安が今週、ありますように、
この祈りを主イエス・キリストの名で祈ります。
                               アーメン。

「たといそうではなくとも」

2014年02月09日 | 日記
たといそうでなくても
2014年2月9日(日)宮崎宗親説教
■初めての人にはわかりにくい聖書
 今日、歓迎の時間で声をかけ合っていたら初めて教会にいらっしゃった人が二人もおられました。とても嬉しいです。
 私も初めて教会に来たときのことを思い出します。キリスト教を批判するために教会に来て、ミイラ取りがミイラになりました。そして初めて読んだ聖書が取っつきにくかったことを思い出します。話のテンポが小説とは違い、物語が始まるかなと思って読んでいたらすぐ次の物語に写ったりするし、登場人物の名前が長かったりするし。特に旧約聖書はとっつきにくいですね。
 でも、クリスチャンになって40年近くなりますが、実は旧約聖書はとてもドラマチックだと今は感じています。
 今日読んでいただいたダニエル書も、実は非常にドラマチックです。

■ネブカドネツァルの命令
 ユダヤの国はダビデ王の時代に最高に栄えましたが、その後次第に国力が衰え、ついにバビロニアに滅ぼされます。そして多くのユダヤ民族が殺され、利用できそうな知識階級や女性はバビロニアに捕虜として連れ去られました。
 そのバビロニアの王がネブカドネツァル王でした。
 この王が金の像を建てます。神の像として建てた偶像でした。そしてこの金の像の除幕式のときに、伝令が次のように宣言します。3章4節。
 伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」
 皆、ひれ伏して拝んだと7節には書いてあります。緊張した状態が伝わってきます。
 しかし、ユダヤ人であるシャデラク、メシャク、アベデネゴは拝みませんでした。天地創造の神を信じていたからです。
 戦時中の日本でもそうでしたが、こういう社会では上からの指令に従わない人は周りから浮きます。必ず告げ口が行われます。8節。何人かのカルデア人が王に12節「金の像を彼らは拝もうともしません」と伝えます。
 この3人は裁判にかけられます。
 そして先ほど読んでいただいた聖書の箇所に入るのです。
 王が言います。15節。
「あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
 もしこの場に私がいたならばと考えたら、本当に恐ろしい場面です。

■宗教は支配の道具
 さて、ここでじっくり考えたいことがあります。なぜ王はそこまで金の像にひれ伏すことを要求するのでしょうか。王自身の像であればなんとなくわからないでもないですが、ここでは神の像となっています。王が信じさせようとしている神です。
 国というものは、自分の支配を広げようとします。昔の国はそれが露骨で、周りの国をどんどん攻めていって、支配地域を増やしました。
 支配を完ぺきにするためには戦争に勝っただけではダメで国民の心まで支配しないと、完全に支配したことになりません。ここに宗教の意味があります。
 宗教を支配することは国民の心を支配する決め手となるのです。
 それだけではありません。宗教で国民を支配すれば生きている間だけでなく、死んでからも国民を支配できる。そう信じていたのではないでしょうか。
 宗教を支配することは、王の支配を完全にするための切り札だったのです。
 実はここに今問題になっている靖国神社問題の焦点が浮かび上がってきます。

■靖国神社首相参拝の問題点
 戦争中、青年が兵隊に出征するときに、親は万歳をして送り出しました。なぜ「万歳」なのでしょうか。それは国のために命を捧げることを喜べという、そういう雰囲気があったのです。学校教育でそう教えられ、それ以外は許されない雰囲気でした。
 その背景にあるのが、「国のために死んだら靖国神社に祀られ、天皇陛下が頭を下げてくださる。それこそが最高の死に方である」との強烈な価値観でした。これが教育で徹底的にたたき込まれ、その中心になったのが靖国神社でした。
 なぜ靖国神社にあれほどこだわるのか。これによって、国のために命をかけて戦わせることが可能だとわかっているからです。
 国のために死ぬことを国民に説得する最大の方法となります。
 靖国神社への首相参拝の問題は、中国や韓国の反発が最大の問題ではありません。国が人の心の中心部分にずかずかと入ってきてコントロールしようとする。それを許すかどうかの問題です。
 これができたから戦争中の日本をあれほどコントロールできました。靖国神社を首相が参拝することの視線の先には国のために命を捧げる国民をつくる。それがあります。だから国は宗教を手放さない。だから靖国神社参拝は安倍首相にとって外せない課題なのです。
 では首相の行く先が教会ならいいのか。国の力で国民をクリスチャンにする。でも、もしそれが最善の解決策なら、神様は人間を初めからクリスチャンにしているでしょう。なぜ神様が人間を初めからクリスチャンにしていないのか。神様は人間が自分の意志でキリストの道を歩むのを待たれています。ロボットのようにではなく人間が、自由な心で神を受け入れること。それを待っておられるのではないでしょうか。だから何を信じるかは、一人一人が決めるもっとも大事な事であって、そこにほかの誰の強制も入ってはならないのです。ましてや国家が絶対に介入してはならない領域です。

■そうでなかったら
 聖書に戻ります。この3人は、次のように答えます。17節。
「もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。」
 と固く信じていました。だからこんな姿勢も取れたのかなとも一瞬思わされるのですが、その後の文章でそうでないことがわかります。18節。
 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
 もしそうでなかったら、私はかすかに「それって神様がいないことじゃないか」と思います。
異教の神を強制的に信じさせようとし、「いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」とまで言う王の前で救い出されなかったら、それはすなわち神がいないことではないか。
 聖書はその後、実際にこの3人が燃える炎の中から救い出されたと記しています。
しかし私がここでこだわるのはこの3人の「たといそうでなくても」なのです。

■神のスケール
 私はFacebookというネット上で友だちと近況をやりとりするシステムに入っています。そこには北九州でホームレスを支援し続ける奥田知志牧師も入っており、近況を知らせてくれています。その奥田牧師の書きこみの中で、神のスケールについて書いてある文章があって、それにとても励まされました。
 私たちのスケールは小さい。何かあれば、すぐ結果を求めようとします。特に気持ちが追いつめられているときには心のスケールはさらに小さくなり、すぐにわかったような気持ちになり、また結論を出そうとします。
 しかし神のスケールは桁違いに大きいのです。だから、私たちのスケールでたとえ思うようにならなくても、神のスケールでは結果が違います。
 たとえば十字架のことについてもです。イエスの十字架は私には呪いとしか写りませんでした。しかし、神のスケール、すなわち宇宙のスケールではやはり祝福につながるのです。人間のスケールで見れば、イエス様が十字架にかかられても、相変わらずローマの圧政は続き、人々は苦しめられていました。弟子たちも逃げることしかできなかった。現実は何も変わっていません。そう見えた。良いことを言っても現実を何も変えられなかった。人間のスケールではそうとしか見えません。
 でも、何千年も経ったときに、人間の歴史がイエスの十字架から変わってきているのが、人間の目から見ても確かになってきます。まぁ人間の目からはまだまだ全然見えてないんでしょうけど。
 私たちには何が幸で何が不幸か、何が神のみ旨で、何が神のみ旨ではないのか判断することは残念ながらできません。
 しかし私たちはイエス様の愛の言葉に触れることができます。イエス様の行いに聖書の言葉を通して触れることができます。

 国家は「自分のために死ね」と要求しました。それを「ヤスクニで会おう」と表現しました。
 しかし私たちは国家よりもさらに大きいスケールの神に従います。国家は私たちの信仰の領域に立ち入ることは許されないと主張します。
 それが現実として実現するかどうかはそれは神のみ旨なのです。
でも、「たといそうでなくても私たちは神に従います」
 この言葉は当時のバビロンの圧政を動かすことはありませんでした。でもそれは神の歴史で重要な位置を示すのです。人間の見方で小さくとも、神の世界で大きいのです。
 私たちの声が届こうと届くまいと、私たちのこの存在の小さな声の発信が、神の世界で、神のスケールで大きい出来事になるのだと、人間の価値観では理解できませんが、聖書はそう語るのです。

十分の一を献げる

2014年02月02日 | 日記
価値観
  今の時代、「私たちの欲しいもの」、というのは、・・・本当に人によってまちまちで、・・多様化してきているように思います。ところが私たちの若い頃はそうではなかったように思います。3種の神器、という言葉がはやり、それは、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫、を言いました。・・・そしてその後、新3種の神器、というものもがでて、それはカラーテレビ、クーラー、カー(車)でした。・・・・これらの言葉に代表されるように、昔は人々の欲しいものはある程度似通っていたように思います。また、家庭についての考え方も、夫は外で働き、妻は家庭を守る者、と・・そういう価値観がほぼ共通していたように思います。

  しかし新新3種の神器、といわれた時代を経て、今のように価値観が多様化してきたのは私の記憶では、今から30年前の1980年代だと思います。その頃になると、「みんなと一緒のものは、いゃ」、ということをいう人が増えてきました。・・物が豊かになり、企業で働く人の意識も、「家族を養うために働く」、ということから多様化しました。この頃、言われたのが「自己実現」、という言葉です。自分のもっている能力を仕事、社会で十分発揮したい、こういう人が増えました。企業もこうした社員の価値観の多様化を踏まえ、新しい人事教育を始めました。私が昔、いた会社でも、年功序列で管理職を選ぶやり方を改め、管理能力を持った人を管理職に選ぶ、ということを始めました。

  そういう訳で、私のいた会社でも、管理職を選ぶための研修を始めました。その研修の席上です。人事部の講師がこう言いました。「皆さん、価値観が多様化した、とそう言われますが、それを皆さんの言葉で言ってください」・・・・・・講師は何人かに聞きましたが、どの答えも今、一つのようでした。そこで講師が、そのまとめをしました。講師は、「価値観は、測ることができます」、というのです。・・・・「つまり、あなたが一番多くの時間を使う、『それが貴方の価値観ですよ』、・・・・あなたが、何に一番お金を使うか、『それが貴方の価値観ですよ』。・・・・・・以来、私は価値観と聞くとすぐ、その講師が言ったこの言葉を思い出すのです。・・・聖書も、「あなたの冨(お金)のあるところに、あなたの心もある」、(マタイ6:21)と言っています。

偶像礼拝
 聖書、「あなたの冨(お金)のあるところに、あなたの心もある」、を続けましょう。これはイエスさまが、山上において弟子たちへ語られた説教のひとコマです。山上の説教は弟子たちへ語れた、「キリスト者としてこうあるべき」、という方向性が示されています。そこでイエスさまは、「貴方のお金の使い方に、あなたの最大の関心事があるんだ」、と人間心理の本質を明快に言い現わしておられます。

さて、教会では偶像礼拝ということを言います。これは神さまを礼拝することと反対の意味で言われます。では偶像礼拝とは何か、旧約聖書、出エジプト記の中には、代表的な形で偶像礼拝がでてきます。・・・イスラエルの民は、モーセが神の山からなかなか帰って来ないことから、不安を覚え、・・・・金を鋳造して若い雄牛の像を造り、それを拝んでいました。・・・その光景を見られた神さまは、・・「私以外のものを神にしている」、と烈火のごとく怒られました。・・「神ならぬものを神とし、それに仕える」、・・それが文字通りの偶像礼拝です。しかし、偶像礼拝とはそれに限っていません。
 今日、偶像礼拝の理解はもっと広く考えられています。先ほど申し上げた、自分の時間を何に使っているか!・・・時間を使う対象もしばしば偶像になります。もし、私が神さまのご用にかまけて、主の日をさぼり、口実をつけ、・・主の日にテニスの試合ばかり出かけていたら、それは立派な偶像礼拝でありましょう。

また、自分のお金を何に使っているか!・・・お金を使う対象もしばしば偶像になります。もし、私が好きなテニスのために、月約献金をケチるなら、それも立派な偶像礼拝でありましょう。もし、節約というなら、テニスに係る費用を節約して主のために献金するということこれが順番だと思うのです。

 そしてお金はしばしば偶像礼拝になりやすい!、イエスさまは山上の説教で、「神とお金に同時に仕えることとは出来ないんだ」、と明言しておられます。また、「金持ちの青年」、という例えの中でも、この青年が「どうしたら永遠の命を受け継げるか?」、と訪ねと場面で、「持っているものをみな売り払い、貧しい人々に施しなさい!」、と言われました。・・・とこの例話が示すように、良くも悪くも、お金はどれだけ人間を縛っているか、その証拠だと思います。・・・・・私たちは文字通りイエスさまのようにはできないと思います。しかし、ここで教えられている大事なことはお金から自由になるということでしょう。

すべてのものは神のもの
  さて、キリスト者が信仰生活を送る上で前提にしておくことがあるとすれば、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。」、という詩編24編の言葉でしょう。・・・・この言葉は、「すべてのものの所有権は神さまにある」、ということを明示しています。・・・では、私たちが現に持っているものはどう理解すればいいでしょうか?・・・・・・・実は私たちには、・・戴いたものをどう使うか、・・・使う権利、使用権、それが委ねられているのです。

 先程の金持ちの青年は、所有権を捨てることができず、イエスさまが「このように使ったら」、と言われた使用権にも耳を塞ぎました。・・・・でも私たちはこの青年を笑うことはできません。以前、「自分の献金の使われ方に問題がある」、という指摘があったことがありました。私たちの教会は、バプテスト教会です。バプテスト教会はその特徴として民主的運営をしていきます。その民主的という限りにおいては、教会員の望む形に献金が使われることはその意味で当然で。しかし、お金は聖書によれば、元々、神さまのもの。それを献金の形でお返ししたなら、もうそこからは再び、本来の所有者である神さまのものです。ですから、そこで私たちはそこで既に使用権をも手放したことになるのです。

そして続けて、そもそも私たちのものでなかったにも拘わらず、所有している意識を絶対と言っていいくらい手放せない、という例話をご紹介します。ある夫婦に、やっと念願の子どもができました!大事に、大事に育てました!わが子ですから。しかし、聖書に立てば、聖書を前提にすれば、・・・どんなにかわいい、どんなに大事な、「わが子」さえも所有権は神にあります。だから私たちが、月に1度読んでいる「教会の約束」では、「神より預かった子どもを神のみ旨に沿うように」、と唱和しているのです。

ですから、「子どもは教会の子」、なのです。わたしはクリスチャンに成り立ての頃、「この子は、教会の子」、と真顔で言った人に新鮮な驚きを感じたことを昨日のように思い出します。そうです!  わが子さえも神さまのもので、授かった子どもは、神さまから預かっている子、・・・・・・文字通りではないにせよ、このことを知っていて、このことをいくらかでも受け入れたなら、・・・・子どもを亡くした、お母さんは、どれだけ楽になれるのか、と思うのです。

献金は神の恵みの応答
 すべてのものの造り主にして所有者である神は、また、私たちに数えきれないほどの、そして豊かな恵みをくださっている方でもあります。以下、その証を聖書からみてみましょう。旧約聖書、詩編の作者は、「主は憐れみ深く、恵みに富み」、と言いました。そしてその恵みは、「いつも私を追いかける」、と言いました。また、イザヤ書では、「主がイスラエルの家に賜った多くの恵み」、といいました。同じくヨナは、「あなたは恵みと憐れみの神であり」、と言いました。そして詩編40編6節からは、「望みも消えゆくまでに」という讃美歌が生まれ、その歌詞は、「数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み」とあります。

 新約聖書でも、神さまが私たちに数えきれないほどの恵みをくださっている証を見つけることに何の苦労もありません。しかし、恵みは何も数だけのことではありません。恵みには「高価な恵み」と呼ばれる恵みがあります。・・・・「恵みにより、信仰によって救われた」。・・・これは罪びとである私たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われた、ということです。そしてそのことこそ、恵みのいわば「質」が安物でなく、「高価な恵み」であることを意味しています。
また、使徒パウロも「わたしの恵みはあなたに十分」、と神の恵みを告白しました。言うまでもなく、「わたし」、とは神さまのことです。・・・・・このみ言葉は時々、わたしにも響いてきます。私は約50年、テニスをやっています。自分の弱点は、フォアーハンドという「こうやって打つストロークです」、いろいろ研究して今度は大丈夫だろう、とそう思ってコートに立ちます。しかし、実際打ってみて、やっぱり何の変化もない、みじめなボールしか打てていない、という現実にがっくりきます。・・・・がっくり来てることはおそらく誰も知りません。私の心の中のもう一人が知っているだけです。・・その時、声が聞こえてくるのです。「わが恵み、汝に足れり」・・・「お前は健康で、その年になってもテニスができているじゃないか、それ以上何を望むか!」・・・・・

パウロに言わせれば神様は私たちに十分すぎるほどの恵みをくださっているのです。・・・・今日のような曇りの天気も、午後から降るであろう雨の天気もそして金曜日の晴れの天気も、・・良いこと悪いこと含めてすべては神の恵みなのです。

 今日の説教題は、旧約聖書、マラキ書の10節の冒頭の句で、「十分の一の献げ物をすべて倉に運び」
から取りました。・・・「十分の一」は神さまへの応答の徴です。・・その前提となるのは、「神さまが私にたくさんの、豊かな、恵みをくださっている」、という信仰による認識です。その認識が無ければ、十分の一の献げものは、単なるプレッシャー、単なる教え、単なる義務的なこと、・・・・それに過ぎなくなることでしょう。

 日常生活で、聖書を読み、祈りをする中で、「神は今も生きて働いておられる」。「神さまは、私の祈りを聴きあげてくださった・・・・アーメン」。「いいことも悪いこともあるが、最後的には神さまはきっと良くしてくださる・・アーメン」・・・・日常生活で、そのような生きた、リアルな体験をすれば、・・・今も生きて働いてくださる神さまの恵みを知ることになるでしょう。・・そしてそれは日常生活で私たちが、誰かに、「お世話になりました」、と感じてお礼をするように、・・・神さまへの自然な感謝となって献げられるに違いないと思うのです。・・・だから神さまの恵みを感じることなしに、真の献金、・・神様への応答は献金の形をとることが多いのですが・・・そうなるのではないでしょうか。・・・・・・そして神さまの恵みに応えるものを、必ず、神さまは報いてくださる! 
だから、・・・・・神さまは「わたしを試してみよ」と。


お祈りしましょう
十分の一の献金をもって私をためしてみよ!と語らえる天の神さま、あなたがいつも恵みをくださっていることを改めて覚えました。その恵み応答し、喜んで献金いたします。どうぞ私たちのこの思いを受け取ってくださり、あなたのご栄光がますます豊かにされますように!
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります   アーメン。