聖書:マラキ書4:10
起、価値観とは、・・・時間とお金で表せる
私ごとでも教会の事でもありますが、・・・昨年の11月30日で、ここ城西教会に招聘していただき満8年になりました。「正直、早いな、と思います」。・・・当時、城西教会への就任を前にして、寺園先生といろいろの打ち合わせをさせていただいていました。その時、寺園先生に、「3年契約にしてください」、とお願いしたところ、寺園先生から「3年で何ができる!」、一蹴されてしまいました。・・・・「では、・・・・ぐにゅ、ぐにゅ、ぐにゅ・・・」、となり今日に至っています。・・・・・・たった8年、されど8年、・・その中でもいいこと、いやなこと、・・・いろいろのことがありました。でも神さまの恵みにより、憐れみにより何とか乗り越えることができたこと、・・これは感謝ですね!
城西教会で満8年、そして飛永孝さんのバプテスマ記念日の4月22日、私は68歳になります。これは完全に私ごとですが、この間、様々な試練、挫折というものを経験しました。最初の妻を亡くしたこと。息子を亡くしたことは、・・・それぞれ私の人生で最大の挫折体験となりました。それに比べると、でも、私の中で大きかった挫折体験は、前務めていた会社の人事研修で、それも管理職研修で受けた体験です。どういう体験かと言えば、私がそう思ったのですが、・・・一言でいえば「お前はダメな人間」、と評価された体験だったのです。それまで、わたしは、同級生や同期に負けない!負けていない!、という自負心をもって生きていました。しかし、・・・その人事研修で落とされて、私は人生で初めてといっていいくらい、私自身が敗者となったのです。
・・・・・その人事研修での評価の項目は4分野あって、それらはすべて5点満点ですが、指導力2点、リーダーシップ2点、実行力2.5点、コミュニケーション能力2.5点・・・・・この評価シートをもらい私の手は震えました。「管理職として失格!」・・・・・多分、評価シートを渡す時、トレーナは私の落ち込みようを直観して、・・・幾つかのアドヴァイスをしてくれました。それをメモしていました。・・・「考え、関心の片寄りを治すこと」、「自分を堀下げること」、「実際的な技術ではなく、・・・人間性を深めること」・・・・ ・・・・わたしは深く傷つきましたが、・・・しかし、今のわたしに、いくらかのものがあるとするなら、・・「自分を知る」、というこの時がスタートとなったと思います。ですから、今は、この挫折体験を心から感謝しています。余談ですが、この時はわたしは36歳で、教会に行くようになる2年前のことです。ですから例え、管理職としての能力に欠けても自分の存在まで否定しなくていい、ということに気づいてはいませんでした。・・まだ、イザヤ書の「あなたは高価で尊い」、という神さまの無条件の存在承認の言葉を知りませんでした。
さて、その人事研修で、「あなたは何に価値を置いていますか」、というテーマがありました。これは昨年もここでお話していますが、人事部の講師がこう言いました。「皆さん、今日、・・価値観が多様化した、とそう言われますが、その価値観というものを、皆さんのご自身の言葉で言ってみてください」・・・「皆さんならどういわれますか?」・・・講師は何人かに聞きましたが、どの答えも今、一つのように思ったのでしょうね。おもむろにそのまとめをしました。講師は、「価値観は、2つのメジャーで測ることができます」、と言ったのです。・・・・「つまり、あなたが一番時間を使うもの、『それが貴方の価値観ですよ』、と。そして・・・・あなたが、一番お金を使うもの、『それが貴方の価値観ですよ』、と。・・・・・改めて考えてみれば、確かに私たちは時間を使う価値があると思うものに時間を使いますし、お金を使う価値があると思うものにお金を使っているのです。
・・・聖書も、「あなたの冨(お金)のあるところに、あなたの心もある」、(マタイ6:21)と言っています。
承、偶像礼拝
そこで、聖書、「あなたの冨(お金)のあるところに、あなたの心もある」、を続けましょう。これはイエスさまが、山上において弟子たちへ語られた説教のひとコマです。山上の説教には、「キリスト者としてこうあるべき」、という方向性が示されています。そこでイエスさまは、「貴方が何にお金を使い方か、そこにあなたの最大の関心事があるんだよ」、と人間の心理の本質を明快に言い現わしておられます。
さて、教会では偶像礼拝ということを言います。これは神さま以外の者を礼拝するという意味で使うわれます。では偶像礼拝とは何か、旧約聖書、出エジプト記の中には、代表的な形で偶像礼拝がでてきます。・・・イスラエルの民は、モーセが神の山からなかなか帰って来ないことから、不安を覚え、・・・・金を鋳造して若い雄牛の像を造り、それを拝んでいました。・・・その光景を見られた神さまは、・・「私以外のものを神にしている」、と烈火のごとく怒られました。・・「神ならぬものを神とし、それに仕える」、・・神ならぬ像を造り、拝む・・・それが文字通りの偶像礼拝です。・・・しかし、偶像礼拝とは、「神さまに似せたものを拝む」、それに限ったことではありません。
そして偶像礼拝の理解はもっと広く考えられています。先ほど申し上げた、自分の時間を何に使っているか!・・・時間を使う対象もしばしば偶像になります。もし、旅行が大好きな人がいて、その人が神さまのご用を放って、主の日をさぼり、・・主の日に旅行にばかり行っていたら、それは立派な偶像礼拝でありましょう。
先程お金の話しがでましたが、自分のお金を何に使っているか!・・・お金を使う対象もしばしば偶像になります。もし、私が好きなテニスのために、月約献金をケチるなら、それも立派な偶像礼拝でありましょう。もし、節約というなら、テニスに係る費用を節約して神さまのために献金するということこれが順番だと思うのです。
昔からお金はしばしば、昔から偶像礼拝になりやすい!ものでした。だからイエスさまは山上の説教で、「神とお金に同時に仕えることとは出来ないんだ」、と明言しておられます。また、「金持ちの青年」、という例えの中でも、この青年が「どうしたら永遠の命を受け継げるか?」、と訪ねと場面で、「持っているものをみな売り払い、貧しい人々に施しなさい!」、と言われました。・・・彼はそうできませんでした。・・この例話が示しているのは、良くも悪くも、人はどれだけお金に縛られているか、ということだと思います。・・・・・私たちは、イエスさまを真似ようと思っても、文字通りイエスさまのようにはできません。しかし、ここで教えられている大事なことは、その方向性、・・・・お金から出来るだけ、・・・自由になるという意識です。
転、すべてのものは神のもの
さて、キリスト者が信仰生活を送る上で前提にしておくことがあるとすれば、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。」、という詩編24編の言葉でしょう。・・・・この言葉は、「すべてのものの所有権は神さまにある」、ということを明示しています。・・・先日、ある集会で、その集会はクリスチャンでない方ばかりでしたが、教会のメンバーの方が、「聖書では、全てのものは神さまのものと言っているのよ」、と言われました。・・・わたしは「み言葉が心に入っているんだ」、と思い、大変嬉しかったですね。
さて、では、私たちが現に持っているものはどう理解すればいいでしょうか?・・・・・・・実は私たちには、・・戴いたもの、・・・貸し与えられたもの、・・・それをどう使うか、・・・使う権利、使用権、それが委ねられているのです。
先程の金持ちの青年は、所有権を捨てることができず、イエスさまが「このように使ったら」、と言われた使用権にも耳を塞ぎました。・・・・でも私たちはこの青年を笑うことはできません。以前、「自分の献金の使われ方に問題がある」、という指摘があったことがありました。私たちの教会は、バプテスト教会です。バプテスト教会はその特徴として民主的運営をしていきます。その民主的という限りにおいては、教会員の望む形に献金が使われることはその意味で当然です。しかし、お金も聖書によれば、元々、神さまのもの。それを、「み国を創るためにお使いください」、と献金の形でお返ししたなら、もうそこからは再び、本来の所有者である神さまのものです。どう使っていくか、・・・・それは神さまが決められるのです。
そして続けて、そもそも私たちのものでなかったにも拘わらず、所有している意識を絶対と言っていいくらい手放せない、という例話をご紹介します。ある夫婦は、中々子どもができませんでした。しかし、養子の形ですが、やっと子どもを得ることができました!たいそうかわいがりました!まさに、目に入れても痛くない程に、・・・しかし、聖書に立てば、聖書を前提にすれば、・・・どんなにかわいい、どんなに大事な、「わが子」さえも所有権は神にあります。だから私たちが、月に1度読んでいる「教会の約束」では、「神より預かった子どもを神のみ旨に沿うように」、と唱和しているのです。
ですから、「子どもは教会の子」、なのです。わたしはクリスチャンに成り立ての頃、「この子は、教会の子」、と真顔で言った人にカルチャーショックを受けたことを昨日のように思い出します。そうです! わが子さえも神さまのもので、授かった子どもは、神さまから預かっている子、・・・・・・文字通りそのまま受け入れることはできないにせよ、このことを知っていて、このことをいくらかでも受け入れたなら、・・・・子どもを亡くした、お母さんは、どれだけ楽になれるのか、と思うことがあります。
結、献金は神の恵みの応答
すべてのものの造り主にして所有者である神は、また、私たちに数えきれないほどの、そして豊かな恵みをくださっている方でもあります。以下、その証言を聖書からみてみましょう。旧約聖書、詩編の作者は、「主は憐れみ深く、恵みに富み」、と言いました。そしてその恵みは、「いつも私を追いかける」、と言いました。また、イザヤ書では、「主がイスラエルの家に賜った多くの恵み」、といいました。同じくヨナは、「あなたは恵みと憐れみの神であり」、と言いました。そして詩編40編6節からは、「望みも消えゆくまでに」という讃美歌が生まれ、その歌詞は、「数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み」とあります。
新約聖書でも、神さまが私たちに数えきれないほどの恵みをくださっている聖書証言を見つけることに何の苦労もありません。しかし、恵みは何も数だけのことではありません。恵みには「高価な恵み」と呼ばれる質的な恵みがあります。・・・・「恵みにより、信仰によって救われた」。・・・これは罪びとである私たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われた、ということです。そしてそのことこそ、恵みのいわば「質」が安物でなく、「高価な恵み」であることを意味しています。
そのパウロに言わせれば神様は私たちに十分すぎるほどの恵みをくださっているのです。・・・・今日のような雪空の天気も、春先ののどかな天気も、・・良いこと悪いことも、・・私の人事研修の挫折のようなもの含めて・・・・すべては神の恵みなのです。
今日の説教題は、旧約聖書、マラキ書の10節の冒頭の句で、「十分の一の献げ物をすべて倉に運び」
から取りました。・・・「十分の一」は神さまへの恵みの応答の徴です。・・その前提となるのは、「神さまが私にたくさんの、豊かな、恵みをくださっている」、という信仰による認識です。その認識が無ければ、十分の一の献げものは、単なるプレッシャー、単なる教え、単なる義務的なこと、・・・・それに過ぎなくなることでしょう。
日常生活で、聖書を読み、祈りをする中で、・・それなしには得られないことですが、・・・「神は今も生きて働いておられる」。「神さまは、私の祈りを聴きあげてくださった・・・・アーメン」。「いいことも悪いこともあるが、最後的には神さまはきっと良くしてくださる・・アーメン」・・・・日常生活で、そのような生きた、リアルな体験をすれば、・・・今も生きて働いてくださる神さまの恵みを知ることになるでしょう。・・そしてそれは日常生活で私たちが、誰かに、「お世話になりました」、と感じてお礼をするように、・・・神さまへの自然な感謝となって献げられるに違いないと思うのです。・・・だから神さまの恵みを感じるなら、・・十分の一の献金は心からの喜びをもった献金となるのではないでしょうか、・・・・そして神さまの恵みに応えるものを、必ず、神さまは報いてくださる!
だから、・・・・・神さまは「わたしを試してみよ」と。
最後に、招きをします。神さまの恵みに応答し、「十分の一」にチャレンジしようと思われた方、あるいは、
聖書を読み、祈る、というクリスチャン生活を、・・・精一杯守ろうと決意された方、その場で、小さく手を挙げてください。・・・・・ありがとうございます。
お祈りしましょう
十分の一の献金をもって私をためしてみよ!と語らえる天の神さま、あなたがいつも恵みをくださっていることを改めて覚えました。その恵み応答し、喜んで献金いたします。どうぞ私たちのこの思いを受け取ってくださり、あなたのご栄光がますます豊かにされますように!
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります アーメン。
起、価値観とは、・・・時間とお金で表せる
私ごとでも教会の事でもありますが、・・・昨年の11月30日で、ここ城西教会に招聘していただき満8年になりました。「正直、早いな、と思います」。・・・当時、城西教会への就任を前にして、寺園先生といろいろの打ち合わせをさせていただいていました。その時、寺園先生に、「3年契約にしてください」、とお願いしたところ、寺園先生から「3年で何ができる!」、一蹴されてしまいました。・・・・「では、・・・・ぐにゅ、ぐにゅ、ぐにゅ・・・」、となり今日に至っています。・・・・・・たった8年、されど8年、・・その中でもいいこと、いやなこと、・・・いろいろのことがありました。でも神さまの恵みにより、憐れみにより何とか乗り越えることができたこと、・・これは感謝ですね!
城西教会で満8年、そして飛永孝さんのバプテスマ記念日の4月22日、私は68歳になります。これは完全に私ごとですが、この間、様々な試練、挫折というものを経験しました。最初の妻を亡くしたこと。息子を亡くしたことは、・・・それぞれ私の人生で最大の挫折体験となりました。それに比べると、でも、私の中で大きかった挫折体験は、前務めていた会社の人事研修で、それも管理職研修で受けた体験です。どういう体験かと言えば、私がそう思ったのですが、・・・一言でいえば「お前はダメな人間」、と評価された体験だったのです。それまで、わたしは、同級生や同期に負けない!負けていない!、という自負心をもって生きていました。しかし、・・・その人事研修で落とされて、私は人生で初めてといっていいくらい、私自身が敗者となったのです。
・・・・・その人事研修での評価の項目は4分野あって、それらはすべて5点満点ですが、指導力2点、リーダーシップ2点、実行力2.5点、コミュニケーション能力2.5点・・・・・この評価シートをもらい私の手は震えました。「管理職として失格!」・・・・・多分、評価シートを渡す時、トレーナは私の落ち込みようを直観して、・・・幾つかのアドヴァイスをしてくれました。それをメモしていました。・・・「考え、関心の片寄りを治すこと」、「自分を堀下げること」、「実際的な技術ではなく、・・・人間性を深めること」・・・・ ・・・・わたしは深く傷つきましたが、・・・しかし、今のわたしに、いくらかのものがあるとするなら、・・「自分を知る」、というこの時がスタートとなったと思います。ですから、今は、この挫折体験を心から感謝しています。余談ですが、この時はわたしは36歳で、教会に行くようになる2年前のことです。ですから例え、管理職としての能力に欠けても自分の存在まで否定しなくていい、ということに気づいてはいませんでした。・・まだ、イザヤ書の「あなたは高価で尊い」、という神さまの無条件の存在承認の言葉を知りませんでした。
さて、その人事研修で、「あなたは何に価値を置いていますか」、というテーマがありました。これは昨年もここでお話していますが、人事部の講師がこう言いました。「皆さん、今日、・・価値観が多様化した、とそう言われますが、その価値観というものを、皆さんのご自身の言葉で言ってみてください」・・・「皆さんならどういわれますか?」・・・講師は何人かに聞きましたが、どの答えも今、一つのように思ったのでしょうね。おもむろにそのまとめをしました。講師は、「価値観は、2つのメジャーで測ることができます」、と言ったのです。・・・・「つまり、あなたが一番時間を使うもの、『それが貴方の価値観ですよ』、と。そして・・・・あなたが、一番お金を使うもの、『それが貴方の価値観ですよ』、と。・・・・・改めて考えてみれば、確かに私たちは時間を使う価値があると思うものに時間を使いますし、お金を使う価値があると思うものにお金を使っているのです。
・・・聖書も、「あなたの冨(お金)のあるところに、あなたの心もある」、(マタイ6:21)と言っています。
承、偶像礼拝
そこで、聖書、「あなたの冨(お金)のあるところに、あなたの心もある」、を続けましょう。これはイエスさまが、山上において弟子たちへ語られた説教のひとコマです。山上の説教には、「キリスト者としてこうあるべき」、という方向性が示されています。そこでイエスさまは、「貴方が何にお金を使い方か、そこにあなたの最大の関心事があるんだよ」、と人間の心理の本質を明快に言い現わしておられます。
さて、教会では偶像礼拝ということを言います。これは神さま以外の者を礼拝するという意味で使うわれます。では偶像礼拝とは何か、旧約聖書、出エジプト記の中には、代表的な形で偶像礼拝がでてきます。・・・イスラエルの民は、モーセが神の山からなかなか帰って来ないことから、不安を覚え、・・・・金を鋳造して若い雄牛の像を造り、それを拝んでいました。・・・その光景を見られた神さまは、・・「私以外のものを神にしている」、と烈火のごとく怒られました。・・「神ならぬものを神とし、それに仕える」、・・神ならぬ像を造り、拝む・・・それが文字通りの偶像礼拝です。・・・しかし、偶像礼拝とは、「神さまに似せたものを拝む」、それに限ったことではありません。
そして偶像礼拝の理解はもっと広く考えられています。先ほど申し上げた、自分の時間を何に使っているか!・・・時間を使う対象もしばしば偶像になります。もし、旅行が大好きな人がいて、その人が神さまのご用を放って、主の日をさぼり、・・主の日に旅行にばかり行っていたら、それは立派な偶像礼拝でありましょう。
先程お金の話しがでましたが、自分のお金を何に使っているか!・・・お金を使う対象もしばしば偶像になります。もし、私が好きなテニスのために、月約献金をケチるなら、それも立派な偶像礼拝でありましょう。もし、節約というなら、テニスに係る費用を節約して神さまのために献金するということこれが順番だと思うのです。
昔からお金はしばしば、昔から偶像礼拝になりやすい!ものでした。だからイエスさまは山上の説教で、「神とお金に同時に仕えることとは出来ないんだ」、と明言しておられます。また、「金持ちの青年」、という例えの中でも、この青年が「どうしたら永遠の命を受け継げるか?」、と訪ねと場面で、「持っているものをみな売り払い、貧しい人々に施しなさい!」、と言われました。・・・彼はそうできませんでした。・・この例話が示しているのは、良くも悪くも、人はどれだけお金に縛られているか、ということだと思います。・・・・・私たちは、イエスさまを真似ようと思っても、文字通りイエスさまのようにはできません。しかし、ここで教えられている大事なことは、その方向性、・・・・お金から出来るだけ、・・・自由になるという意識です。
転、すべてのものは神のもの
さて、キリスト者が信仰生活を送る上で前提にしておくことがあるとすれば、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。」、という詩編24編の言葉でしょう。・・・・この言葉は、「すべてのものの所有権は神さまにある」、ということを明示しています。・・・先日、ある集会で、その集会はクリスチャンでない方ばかりでしたが、教会のメンバーの方が、「聖書では、全てのものは神さまのものと言っているのよ」、と言われました。・・・わたしは「み言葉が心に入っているんだ」、と思い、大変嬉しかったですね。
さて、では、私たちが現に持っているものはどう理解すればいいでしょうか?・・・・・・・実は私たちには、・・戴いたもの、・・・貸し与えられたもの、・・・それをどう使うか、・・・使う権利、使用権、それが委ねられているのです。
先程の金持ちの青年は、所有権を捨てることができず、イエスさまが「このように使ったら」、と言われた使用権にも耳を塞ぎました。・・・・でも私たちはこの青年を笑うことはできません。以前、「自分の献金の使われ方に問題がある」、という指摘があったことがありました。私たちの教会は、バプテスト教会です。バプテスト教会はその特徴として民主的運営をしていきます。その民主的という限りにおいては、教会員の望む形に献金が使われることはその意味で当然です。しかし、お金も聖書によれば、元々、神さまのもの。それを、「み国を創るためにお使いください」、と献金の形でお返ししたなら、もうそこからは再び、本来の所有者である神さまのものです。どう使っていくか、・・・・それは神さまが決められるのです。
そして続けて、そもそも私たちのものでなかったにも拘わらず、所有している意識を絶対と言っていいくらい手放せない、という例話をご紹介します。ある夫婦は、中々子どもができませんでした。しかし、養子の形ですが、やっと子どもを得ることができました!たいそうかわいがりました!まさに、目に入れても痛くない程に、・・・しかし、聖書に立てば、聖書を前提にすれば、・・・どんなにかわいい、どんなに大事な、「わが子」さえも所有権は神にあります。だから私たちが、月に1度読んでいる「教会の約束」では、「神より預かった子どもを神のみ旨に沿うように」、と唱和しているのです。
ですから、「子どもは教会の子」、なのです。わたしはクリスチャンに成り立ての頃、「この子は、教会の子」、と真顔で言った人にカルチャーショックを受けたことを昨日のように思い出します。そうです! わが子さえも神さまのもので、授かった子どもは、神さまから預かっている子、・・・・・・文字通りそのまま受け入れることはできないにせよ、このことを知っていて、このことをいくらかでも受け入れたなら、・・・・子どもを亡くした、お母さんは、どれだけ楽になれるのか、と思うことがあります。
結、献金は神の恵みの応答
すべてのものの造り主にして所有者である神は、また、私たちに数えきれないほどの、そして豊かな恵みをくださっている方でもあります。以下、その証言を聖書からみてみましょう。旧約聖書、詩編の作者は、「主は憐れみ深く、恵みに富み」、と言いました。そしてその恵みは、「いつも私を追いかける」、と言いました。また、イザヤ書では、「主がイスラエルの家に賜った多くの恵み」、といいました。同じくヨナは、「あなたは恵みと憐れみの神であり」、と言いました。そして詩編40編6節からは、「望みも消えゆくまでに」という讃美歌が生まれ、その歌詞は、「数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み」とあります。
新約聖書でも、神さまが私たちに数えきれないほどの恵みをくださっている聖書証言を見つけることに何の苦労もありません。しかし、恵みは何も数だけのことではありません。恵みには「高価な恵み」と呼ばれる質的な恵みがあります。・・・・「恵みにより、信仰によって救われた」。・・・これは罪びとである私たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われた、ということです。そしてそのことこそ、恵みのいわば「質」が安物でなく、「高価な恵み」であることを意味しています。
そのパウロに言わせれば神様は私たちに十分すぎるほどの恵みをくださっているのです。・・・・今日のような雪空の天気も、春先ののどかな天気も、・・良いこと悪いことも、・・私の人事研修の挫折のようなもの含めて・・・・すべては神の恵みなのです。
今日の説教題は、旧約聖書、マラキ書の10節の冒頭の句で、「十分の一の献げ物をすべて倉に運び」
から取りました。・・・「十分の一」は神さまへの恵みの応答の徴です。・・その前提となるのは、「神さまが私にたくさんの、豊かな、恵みをくださっている」、という信仰による認識です。その認識が無ければ、十分の一の献げものは、単なるプレッシャー、単なる教え、単なる義務的なこと、・・・・それに過ぎなくなることでしょう。
日常生活で、聖書を読み、祈りをする中で、・・それなしには得られないことですが、・・・「神は今も生きて働いておられる」。「神さまは、私の祈りを聴きあげてくださった・・・・アーメン」。「いいことも悪いこともあるが、最後的には神さまはきっと良くしてくださる・・アーメン」・・・・日常生活で、そのような生きた、リアルな体験をすれば、・・・今も生きて働いてくださる神さまの恵みを知ることになるでしょう。・・そしてそれは日常生活で私たちが、誰かに、「お世話になりました」、と感じてお礼をするように、・・・神さまへの自然な感謝となって献げられるに違いないと思うのです。・・・だから神さまの恵みを感じるなら、・・十分の一の献金は心からの喜びをもった献金となるのではないでしょうか、・・・・そして神さまの恵みに応えるものを、必ず、神さまは報いてくださる!
だから、・・・・・神さまは「わたしを試してみよ」と。
最後に、招きをします。神さまの恵みに応答し、「十分の一」にチャレンジしようと思われた方、あるいは、
聖書を読み、祈る、というクリスチャン生活を、・・・精一杯守ろうと決意された方、その場で、小さく手を挙げてください。・・・・・ありがとうございます。
お祈りしましょう
十分の一の献金をもって私をためしてみよ!と語らえる天の神さま、あなたがいつも恵みをくださっていることを改めて覚えました。その恵み応答し、喜んで献金いたします。どうぞ私たちのこの思いを受け取ってくださり、あなたのご栄光がますます豊かにされますように!
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります アーメン。