説教題:母への祝福と痛み
説教箇所:ルカによる福音書2章33節-35節
起、母の日
本日は「母の日」です。私たちはその「母の日」を礼拝に結び付け、母の日ファミリー礼拝として献げています。さて、その「母の日」、ですが・・・今日、母の日は国民的な行事になっています。しかし、その歴史はそんなに古くはありません。そしてご承知の通り、母の日を祝うという行事は教会からスタートしたものです。
その発端は、アンナ・ジャーウィスという一人の女性にありました。アンナは1864年5月1日生まれといいますから、日本だと江戸時代の終り頃に生まれた女性です。そのアンナのお母さんは、アメリカのウェスト・ヴァージニア州、ウェブスター市のメソジスト教会員でした。26年間、日曜学校の教師を務め、多くの子供たちを育てた女性だったそうです。このお母さんが亡くなられ、その葬儀の時、娘アンナが母への感謝の思いからカーネーションの花束を飾り、・・・それを参列者にも配ったことから、母の日は始まったと言われています。
・・・後に、アメリカの百貨店王のJ・ワナメーカが1908年5月、第2日曜日を母の日として守ることを提唱しました。これに合衆国議会も賛同し、それからアメリカ全体に広まった、というのです。日本には大正時代に紹介されたそうです。今ではなくてはならない国民的な行事となりました。母の日のお馴染のカーネーションは、花言葉でいえば、「母の愛情」、だそうです。今日は母の日にちなみ、母への祝福と痛みという主題についてご一緒に考えてみましょう。
承、聖書から
さて、そのために示された今日の聖書個所は、先程、司式者が読んでくださったルカによる福音書の「イエスさまが神殿に献げられる」、という一場面です。イエスさまの両親は故郷ナザレから約200km以上離れたエルサレム神殿に、わが子、イエスを献げるためにやって来られたのです。イスラエルでは律法に基づくこういう習慣があったのですね。
そこで彼らは思ってみなかった人物と出会うのです。それはシメオンという人物でした。彼について聖書が書き記したことは、「正しい人で、信仰が篤く、イスラエルが慰められることを待ちのぞんでいた」、ということだけです。私はこれ以外はよくわかりません。ただ、「信仰が篤く」、とあるように、とにかく信仰に生きた人だったと思われます。そして年もとっていたことから老シメオンと呼ばれています。
この老人が、マリアに言ったんでしょう。「お子様を、わしに抱かせてくださらぬか」・・・そして彼は独りごとのように、「これで、わしも安心して死ねる」・・・「神さまが救い主を今、こうして見せてくださったから・・・」、とまぁ、こんな感じで言ったんでしょうね。そして続けて、「このお子様は、・・・異邦人達に、私たちの神さまを示す光となるでしょう!」、と言ったのです。・・・全く知らない人からこう言われたヨセフとマリアは「驚いた」、とあります。・・・それはそうでしょう!・・・・初めて会った人に、・・ここまでのことを言われたのですから、、。
確かにマリアは受胎告知の場面でも、天使に、(あなたに宿った子は)、・・・「偉大な人になり、ダビデの王座をくださる」、ということを言われて驚いた経験をしています。マリアはここでも、その時言われたことを重ね合わせたかもしれません。・・・・・しかし、ともあれ、マリアは、シメオンという老人から、・・・「恵まれた方」、という祝福を受けました。・・・・しかし、シメオンの一連のこの言葉はこの夫婦にとっては、「恵まれた方」、と言われた喜びよりは、・・・ひょっとしたら重荷になったのかもしれません。・・・・というのはわが子が救い主と言われて悪い気はしないとしても、言われた内容はあまりにも重たいことですから。・・・こうまで言われて心が穏やかでいれるでしょうか。・・・親はどこか、子どもの成功を願いつつも、あまりにもドラステックな運命ではなく、・・どこか平凡で、平安な人生であってくれることを望んでいるように思うからです。
・・そしてシメオンの言葉はただの祝福に留まりませんでした。この夫婦が震え上がるような2つの預言をしたのです。シメオンは言います。「このお子様は、イスラエルの救い主として、・・・多くの人を裁き、或いは多くに人に力を与えます。しかしそのことの故に、・・・また、多くの人の反対を受ける受難の僕として定められているのです」、
・・・おそらくこの老シメオンにも、ヨセフ・マリアの夫婦にも、イザヤ書の苦難の僕の、・・あの預言がよぎったのかもしれません。
・・・・・捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ53章8節)
2つ目は、マリアに向けられます。「ご婦人、・・あなた自身も剣で心を刺し貫かれますよ・・・・・それは救い主の到来に反対する人達の思いが露わになるためです」、・・・・・ルカ福音書の書き出しが始まったばかりというのに、もうイエスさまの十字架が予告されているのです。・・・・・・母、マリアはおそらく自分の人生が人並みのようではないということは、薄々、感じていたかもしれません。・・・・しかしそれでも、・・・どうしてこうならなくてはいけないのか、・・・・おそらく、マリアは、・・・「そんなこと言わないでください!」、と耳を塞ぎたくなったのではないでしょうか。・・・なぜならマリアは、まだ若いお母さんなんです!
転、今日の母
さて、今日、・・・・いわゆる発達障害と呼ばれる子どもが少なくないように思われます。わたしにも孫が一人、それは男の子で、亮太と言う子がいます。実はその子も発達障害なのです。少し彼が成長し、わかったことですが、・・・新しい環境になじみにくい、運動能力が低い、会話を繋ぐことが不得手、という特徴があります。これらが発達障害と言われている理由であるように思われます。
孫が5歳くらいになった頃、「九州へお出で」、と娘に声を掛けていました。しかし娘は、「旦那が休みを取れないから」、といつも断ってきました。私は内心、それなら「親子、二人でもくればいいじゃないか」と思っていました。しかし、その後、娘が断わってきた本音がわかりました。・・「旦那が、休みが・・取れない」、というのは口実で、本音のところは、・・・息子が九州という新しい環境になじめず、楽しい思いをするというよりも、むしろプレッシャーを感じる、と考えての「断り」でした。
・・・娘は40歳になるのでもう若い母親ではありません。これからもおそらく、障害の息子と付き合ながら生きていくことになるでしょう。息子が、急によくなることは期待できませんから。
ところで娘の置かれている環境ですが、娘には、発達障害の専門家や発達障害を抱えたお母さんのネットワークはあるようです。ところが、娘の夫の両親はすでに数年前、立て続けになくなり、・・・孫の面倒をみてくれる人は身近に全くいません。また、娘の友人・知人のネッワークは広くはないようです。ですから、何かがあれば、すべて自分でやらなくてはならない環境にあります。・・・
こういう娘が、これから、将来をどうやって生きていくのか、私は親として案じない訳にはいきません。そして同時に、今日、私の娘のような母、・・・それはそう多くはないと思いますが、少なくもないように思われます。・・・そういうお母さんが、 下手すると孤立化していく、・・・そういう現状を知らされました。
そういう中で、私の場合、実は娘に必ず、言っていることがあります。・・・それは、「母を早くに失くし、お母さんという見本がいない中で、・・・お前は、よく亮太を育てているよね」、という励ましの言葉です。・・・・経験上、何らかのアドバイスより、「励ましの言葉」の方が、はるかに力になると思わされています。・・・・ともあれ、今日、若いお母さんが孤立化し、悩みを抱えながら生きているのが現実の姿でありましょう。
さて今日、「イクメン」という言葉あるものの、子どもを育てる役割は一手にこれまでのあげた例話のようにお母さんに託されているようです。戦後、日本社会の構造が製造業主体となり、それに伴い大家族制度が崩壊しました。そして核家族へと変化しました。またそれに伴い、父は会社に、母は家庭に、と家庭の仕事が分担システムとなりました。その結果、母は子どもの教育を一手に担うことになりました。
しかし、子どもが育つ、ということは、父性も母性も含めて、「全人格的」に育だつ、ということだと思うのです。長い間、家庭の中で、父親不在ということが言われてきました。その事は、・・・子どもが「育つ」という観点からすれば、大きな問題だと思われます。これからの私たちが目指すべき社会は、家庭に父親がいて、父親の役割を発揮する社会ではないでしょうか。・・・・何かを捨てても、家庭に父親を取り戻すべきです。「日本を取り戻す」というなら、家庭に父親こそ取り戻すべきでしょう。長時間労働の問題がここにあるのだと思います。
結、母への祝福と痛み
今日の聖書個所で、老シメオンはマリアに、わが子、イエスさまの将来を預言しました。そして老シメオンの預言は2つとも、そのまま的中しました。・・・一つは、イエスさまが、敵対するものの手によって十字架に架けられたことです。2つめは、マリアが、そのシーンを一部始終見せつけられたことです。・・・・想像してみてください。当時に引き戻されて、・・もし、わが子が、十字架を担がされ、引きづりまわされ、・・・そして十字架に架けられ、・・・・それこそこれ以上はないと言われた残酷な刑に遇わされのを見せつけられたとしたら、・・・・実際、マリアはそうなったのです。聖書にはそう書いてあります。・・・・・老シメオンが、あなた自身も剣で心を刺し貫かれますよ-というその通りになったのです。
マリアは、受胎告知の時も、老シメオンからも、「恵まれた人よ」、とそう言われました。マリアのこの人生を顧みるならば、・・・何をもって恵まれた方、というのでしょうか。・・・・・・・・人間的に言えば敗北の人生としか言いようがありません。十字架、すなわち木に架けられて殺されることは、ユダヤ人にとって最も忌み嫌われたことでした。ユダヤ人の伝統習慣の中で生きて来たマリアにとって、それは自分の人生の全否定ともいえることではなかったでしょうか!・・・・
しかし、十字架で架けられ、殺されたイエスさは、・・・・復活されたのです。・・・・・・復活は、「死よ、お前の勝利はどこにある!」、と死に打ち勝った出来事です。もし、マリアの恵みを言うとするなら、「死んだらそれでお終い、という悪魔の世界から、・・・・・死んでも、死で終わらない、という永遠の命への導き手」、・・・・すなわち、世を救う、・・・救い主の母になった事実でありましょう。
今日、母には多くの労苦があります。しかし、神さまが私たちの人生を支配しておられるなら、多くのキリスト者そう信じていますが、それは私たちも信じていることですが・・・・神さまは、私たちを労苦のままの人生にはされません。なぜなら、試練と共に、・・・共にいてくださるキリストが、必ず逃れる道をも、・・・用意してくださるからです。
死が死で終わらない、という復活の意味は、同時に労苦に喘ぎ、苦悩の只中にいるお母さんたちにも、・・・・その状態がその状態のまま続かない、・・・・・という明確なメッセージを発信しています。・・「いつの日にか」、「いつの日にか」、・・・・・例え抱えていた問題は解決していなくても、・・・心には平安が与えられる時が来るよ、と。
お母さんにとっては、子ども存在は喜びの対象であると同時に、一生背負わなくてはならない心配事でもありまする。私たちの母もそうでしたし、今、お母さんである方もそうでありましょう。それは人間の営みが続く限り、・・続く事でしょう。・・・・そしてその母の喜びと苦労はいつも背中合わせのようにも思われます。・・・・苦しいことばかりではない! 楽しいこともあるよ!という事を確信しつつ、
今日、改めてお母さんに神さまの祝福があるように、と祈ります。
お祈りしましょう。
母の日を覚えてのファミリー礼拝に感謝します。私達それぞれに、母が与えられたことに感謝します。労苦を抱えてながら生きてこられた母の人生をどうぞ顧みてください。また、これから母になっていく若いの女性の人生をも祝福してください。同時に何らかの事情故に、母とはならなかった人の人生をも顧みてください。
・・母の日の今日、・・・すべての母の上に恵みと祝福がありますように
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。 アーメン。
説教箇所:ルカによる福音書2章33節-35節
起、母の日
本日は「母の日」です。私たちはその「母の日」を礼拝に結び付け、母の日ファミリー礼拝として献げています。さて、その「母の日」、ですが・・・今日、母の日は国民的な行事になっています。しかし、その歴史はそんなに古くはありません。そしてご承知の通り、母の日を祝うという行事は教会からスタートしたものです。
その発端は、アンナ・ジャーウィスという一人の女性にありました。アンナは1864年5月1日生まれといいますから、日本だと江戸時代の終り頃に生まれた女性です。そのアンナのお母さんは、アメリカのウェスト・ヴァージニア州、ウェブスター市のメソジスト教会員でした。26年間、日曜学校の教師を務め、多くの子供たちを育てた女性だったそうです。このお母さんが亡くなられ、その葬儀の時、娘アンナが母への感謝の思いからカーネーションの花束を飾り、・・・それを参列者にも配ったことから、母の日は始まったと言われています。
・・・後に、アメリカの百貨店王のJ・ワナメーカが1908年5月、第2日曜日を母の日として守ることを提唱しました。これに合衆国議会も賛同し、それからアメリカ全体に広まった、というのです。日本には大正時代に紹介されたそうです。今ではなくてはならない国民的な行事となりました。母の日のお馴染のカーネーションは、花言葉でいえば、「母の愛情」、だそうです。今日は母の日にちなみ、母への祝福と痛みという主題についてご一緒に考えてみましょう。
承、聖書から
さて、そのために示された今日の聖書個所は、先程、司式者が読んでくださったルカによる福音書の「イエスさまが神殿に献げられる」、という一場面です。イエスさまの両親は故郷ナザレから約200km以上離れたエルサレム神殿に、わが子、イエスを献げるためにやって来られたのです。イスラエルでは律法に基づくこういう習慣があったのですね。
そこで彼らは思ってみなかった人物と出会うのです。それはシメオンという人物でした。彼について聖書が書き記したことは、「正しい人で、信仰が篤く、イスラエルが慰められることを待ちのぞんでいた」、ということだけです。私はこれ以外はよくわかりません。ただ、「信仰が篤く」、とあるように、とにかく信仰に生きた人だったと思われます。そして年もとっていたことから老シメオンと呼ばれています。
この老人が、マリアに言ったんでしょう。「お子様を、わしに抱かせてくださらぬか」・・・そして彼は独りごとのように、「これで、わしも安心して死ねる」・・・「神さまが救い主を今、こうして見せてくださったから・・・」、とまぁ、こんな感じで言ったんでしょうね。そして続けて、「このお子様は、・・・異邦人達に、私たちの神さまを示す光となるでしょう!」、と言ったのです。・・・全く知らない人からこう言われたヨセフとマリアは「驚いた」、とあります。・・・それはそうでしょう!・・・・初めて会った人に、・・ここまでのことを言われたのですから、、。
確かにマリアは受胎告知の場面でも、天使に、(あなたに宿った子は)、・・・「偉大な人になり、ダビデの王座をくださる」、ということを言われて驚いた経験をしています。マリアはここでも、その時言われたことを重ね合わせたかもしれません。・・・・・しかし、ともあれ、マリアは、シメオンという老人から、・・・「恵まれた方」、という祝福を受けました。・・・・しかし、シメオンの一連のこの言葉はこの夫婦にとっては、「恵まれた方」、と言われた喜びよりは、・・・ひょっとしたら重荷になったのかもしれません。・・・・というのはわが子が救い主と言われて悪い気はしないとしても、言われた内容はあまりにも重たいことですから。・・・こうまで言われて心が穏やかでいれるでしょうか。・・・親はどこか、子どもの成功を願いつつも、あまりにもドラステックな運命ではなく、・・どこか平凡で、平安な人生であってくれることを望んでいるように思うからです。
・・そしてシメオンの言葉はただの祝福に留まりませんでした。この夫婦が震え上がるような2つの預言をしたのです。シメオンは言います。「このお子様は、イスラエルの救い主として、・・・多くの人を裁き、或いは多くに人に力を与えます。しかしそのことの故に、・・・また、多くの人の反対を受ける受難の僕として定められているのです」、
・・・おそらくこの老シメオンにも、ヨセフ・マリアの夫婦にも、イザヤ書の苦難の僕の、・・あの預言がよぎったのかもしれません。
・・・・・捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ53章8節)
2つ目は、マリアに向けられます。「ご婦人、・・あなた自身も剣で心を刺し貫かれますよ・・・・・それは救い主の到来に反対する人達の思いが露わになるためです」、・・・・・ルカ福音書の書き出しが始まったばかりというのに、もうイエスさまの十字架が予告されているのです。・・・・・・母、マリアはおそらく自分の人生が人並みのようではないということは、薄々、感じていたかもしれません。・・・・しかしそれでも、・・・どうしてこうならなくてはいけないのか、・・・・おそらく、マリアは、・・・「そんなこと言わないでください!」、と耳を塞ぎたくなったのではないでしょうか。・・・なぜならマリアは、まだ若いお母さんなんです!
転、今日の母
さて、今日、・・・・いわゆる発達障害と呼ばれる子どもが少なくないように思われます。わたしにも孫が一人、それは男の子で、亮太と言う子がいます。実はその子も発達障害なのです。少し彼が成長し、わかったことですが、・・・新しい環境になじみにくい、運動能力が低い、会話を繋ぐことが不得手、という特徴があります。これらが発達障害と言われている理由であるように思われます。
孫が5歳くらいになった頃、「九州へお出で」、と娘に声を掛けていました。しかし娘は、「旦那が休みを取れないから」、といつも断ってきました。私は内心、それなら「親子、二人でもくればいいじゃないか」と思っていました。しかし、その後、娘が断わってきた本音がわかりました。・・「旦那が、休みが・・取れない」、というのは口実で、本音のところは、・・・息子が九州という新しい環境になじめず、楽しい思いをするというよりも、むしろプレッシャーを感じる、と考えての「断り」でした。
・・・娘は40歳になるのでもう若い母親ではありません。これからもおそらく、障害の息子と付き合ながら生きていくことになるでしょう。息子が、急によくなることは期待できませんから。
ところで娘の置かれている環境ですが、娘には、発達障害の専門家や発達障害を抱えたお母さんのネットワークはあるようです。ところが、娘の夫の両親はすでに数年前、立て続けになくなり、・・・孫の面倒をみてくれる人は身近に全くいません。また、娘の友人・知人のネッワークは広くはないようです。ですから、何かがあれば、すべて自分でやらなくてはならない環境にあります。・・・
こういう娘が、これから、将来をどうやって生きていくのか、私は親として案じない訳にはいきません。そして同時に、今日、私の娘のような母、・・・それはそう多くはないと思いますが、少なくもないように思われます。・・・そういうお母さんが、 下手すると孤立化していく、・・・そういう現状を知らされました。
そういう中で、私の場合、実は娘に必ず、言っていることがあります。・・・それは、「母を早くに失くし、お母さんという見本がいない中で、・・・お前は、よく亮太を育てているよね」、という励ましの言葉です。・・・・経験上、何らかのアドバイスより、「励ましの言葉」の方が、はるかに力になると思わされています。・・・・ともあれ、今日、若いお母さんが孤立化し、悩みを抱えながら生きているのが現実の姿でありましょう。
さて今日、「イクメン」という言葉あるものの、子どもを育てる役割は一手にこれまでのあげた例話のようにお母さんに託されているようです。戦後、日本社会の構造が製造業主体となり、それに伴い大家族制度が崩壊しました。そして核家族へと変化しました。またそれに伴い、父は会社に、母は家庭に、と家庭の仕事が分担システムとなりました。その結果、母は子どもの教育を一手に担うことになりました。
しかし、子どもが育つ、ということは、父性も母性も含めて、「全人格的」に育だつ、ということだと思うのです。長い間、家庭の中で、父親不在ということが言われてきました。その事は、・・・子どもが「育つ」という観点からすれば、大きな問題だと思われます。これからの私たちが目指すべき社会は、家庭に父親がいて、父親の役割を発揮する社会ではないでしょうか。・・・・何かを捨てても、家庭に父親を取り戻すべきです。「日本を取り戻す」というなら、家庭に父親こそ取り戻すべきでしょう。長時間労働の問題がここにあるのだと思います。
結、母への祝福と痛み
今日の聖書個所で、老シメオンはマリアに、わが子、イエスさまの将来を預言しました。そして老シメオンの預言は2つとも、そのまま的中しました。・・・一つは、イエスさまが、敵対するものの手によって十字架に架けられたことです。2つめは、マリアが、そのシーンを一部始終見せつけられたことです。・・・・想像してみてください。当時に引き戻されて、・・もし、わが子が、十字架を担がされ、引きづりまわされ、・・・そして十字架に架けられ、・・・・それこそこれ以上はないと言われた残酷な刑に遇わされのを見せつけられたとしたら、・・・・実際、マリアはそうなったのです。聖書にはそう書いてあります。・・・・・老シメオンが、あなた自身も剣で心を刺し貫かれますよ-というその通りになったのです。
マリアは、受胎告知の時も、老シメオンからも、「恵まれた人よ」、とそう言われました。マリアのこの人生を顧みるならば、・・・何をもって恵まれた方、というのでしょうか。・・・・・・・・人間的に言えば敗北の人生としか言いようがありません。十字架、すなわち木に架けられて殺されることは、ユダヤ人にとって最も忌み嫌われたことでした。ユダヤ人の伝統習慣の中で生きて来たマリアにとって、それは自分の人生の全否定ともいえることではなかったでしょうか!・・・・
しかし、十字架で架けられ、殺されたイエスさは、・・・・復活されたのです。・・・・・・復活は、「死よ、お前の勝利はどこにある!」、と死に打ち勝った出来事です。もし、マリアの恵みを言うとするなら、「死んだらそれでお終い、という悪魔の世界から、・・・・・死んでも、死で終わらない、という永遠の命への導き手」、・・・・すなわち、世を救う、・・・救い主の母になった事実でありましょう。
今日、母には多くの労苦があります。しかし、神さまが私たちの人生を支配しておられるなら、多くのキリスト者そう信じていますが、それは私たちも信じていることですが・・・・神さまは、私たちを労苦のままの人生にはされません。なぜなら、試練と共に、・・・共にいてくださるキリストが、必ず逃れる道をも、・・・用意してくださるからです。
死が死で終わらない、という復活の意味は、同時に労苦に喘ぎ、苦悩の只中にいるお母さんたちにも、・・・・その状態がその状態のまま続かない、・・・・・という明確なメッセージを発信しています。・・「いつの日にか」、「いつの日にか」、・・・・・例え抱えていた問題は解決していなくても、・・・心には平安が与えられる時が来るよ、と。
お母さんにとっては、子ども存在は喜びの対象であると同時に、一生背負わなくてはならない心配事でもありまする。私たちの母もそうでしたし、今、お母さんである方もそうでありましょう。それは人間の営みが続く限り、・・続く事でしょう。・・・・そしてその母の喜びと苦労はいつも背中合わせのようにも思われます。・・・・苦しいことばかりではない! 楽しいこともあるよ!という事を確信しつつ、
今日、改めてお母さんに神さまの祝福があるように、と祈ります。
お祈りしましょう。
母の日を覚えてのファミリー礼拝に感謝します。私達それぞれに、母が与えられたことに感謝します。労苦を抱えてながら生きてこられた母の人生をどうぞ顧みてください。また、これから母になっていく若いの女性の人生をも祝福してください。同時に何らかの事情故に、母とはならなかった人の人生をも顧みてください。
・・母の日の今日、・・・すべての母の上に恵みと祝福がありますように
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。 アーメン。