梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

母への祝福と痛み

2017年05月14日 | 日記
説教題:母への祝福と痛み
説教箇所:ルカによる福音書2章33節-35節

起、母の日
本日は「母の日」です。私たちはその「母の日」を礼拝に結び付け、母の日ファミリー礼拝として献げています。さて、その「母の日」、ですが・・・今日、母の日は国民的な行事になっています。しかし、その歴史はそんなに古くはありません。そしてご承知の通り、母の日を祝うという行事は教会からスタートしたものです。

その発端は、アンナ・ジャーウィスという一人の女性にありました。アンナは1864年5月1日生まれといいますから、日本だと江戸時代の終り頃に生まれた女性です。そのアンナのお母さんは、アメリカのウェスト・ヴァージニア州、ウェブスター市のメソジスト教会員でした。26年間、日曜学校の教師を務め、多くの子供たちを育てた女性だったそうです。このお母さんが亡くなられ、その葬儀の時、娘アンナが母への感謝の思いからカーネーションの花束を飾り、・・・それを参列者にも配ったことから、母の日は始まったと言われています。

・・・後に、アメリカの百貨店王のJ・ワナメーカが1908年5月、第2日曜日を母の日として守ることを提唱しました。これに合衆国議会も賛同し、それからアメリカ全体に広まった、というのです。日本には大正時代に紹介されたそうです。今ではなくてはならない国民的な行事となりました。母の日のお馴染のカーネーションは、花言葉でいえば、「母の愛情」、だそうです。今日は母の日にちなみ、母への祝福と痛みという主題についてご一緒に考えてみましょう。


承、聖書から
 さて、そのために示された今日の聖書個所は、先程、司式者が読んでくださったルカによる福音書の「イエスさまが神殿に献げられる」、という一場面です。イエスさまの両親は故郷ナザレから約200km以上離れたエルサレム神殿に、わが子、イエスを献げるためにやって来られたのです。イスラエルでは律法に基づくこういう習慣があったのですね。

そこで彼らは思ってみなかった人物と出会うのです。それはシメオンという人物でした。彼について聖書が書き記したことは、「正しい人で、信仰が篤く、イスラエルが慰められることを待ちのぞんでいた」、ということだけです。私はこれ以外はよくわかりません。ただ、「信仰が篤く」、とあるように、とにかく信仰に生きた人だったと思われます。そして年もとっていたことから老シメオンと呼ばれています。

この老人が、マリアに言ったんでしょう。「お子様を、わしに抱かせてくださらぬか」・・・そして彼は独りごとのように、「これで、わしも安心して死ねる」・・・「神さまが救い主を今、こうして見せてくださったから・・・」、とまぁ、こんな感じで言ったんでしょうね。そして続けて、「このお子様は、・・・異邦人達に、私たちの神さまを示す光となるでしょう!」、と言ったのです。・・・全く知らない人からこう言われたヨセフとマリアは「驚いた」、とあります。・・・それはそうでしょう!・・・・初めて会った人に、・・ここまでのことを言われたのですから、、。

確かにマリアは受胎告知の場面でも、天使に、(あなたに宿った子は)、・・・「偉大な人になり、ダビデの王座をくださる」、ということを言われて驚いた経験をしています。マリアはここでも、その時言われたことを重ね合わせたかもしれません。・・・・・しかし、ともあれ、マリアは、シメオンという老人から、・・・「恵まれた方」、という祝福を受けました。・・・・しかし、シメオンの一連のこの言葉はこの夫婦にとっては、「恵まれた方」、と言われた喜びよりは、・・・ひょっとしたら重荷になったのかもしれません。・・・・というのはわが子が救い主と言われて悪い気はしないとしても、言われた内容はあまりにも重たいことですから。・・・こうまで言われて心が穏やかでいれるでしょうか。・・・親はどこか、子どもの成功を願いつつも、あまりにもドラステックな運命ではなく、・・どこか平凡で、平安な人生であってくれることを望んでいるように思うからです。

・・そしてシメオンの言葉はただの祝福に留まりませんでした。この夫婦が震え上がるような2つの預言をしたのです。シメオンは言います。「このお子様は、イスラエルの救い主として、・・・多くの人を裁き、或いは多くに人に力を与えます。しかしそのことの故に、・・・また、多くの人の反対を受ける受難の僕として定められているのです」、

・・・おそらくこの老シメオンにも、ヨセフ・マリアの夫婦にも、イザヤ書の苦難の僕の、・・あの預言がよぎったのかもしれません。
・・・・・捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ53章8節)

2つ目は、マリアに向けられます。「ご婦人、・・あなた自身も剣で心を刺し貫かれますよ・・・・・それは救い主の到来に反対する人達の思いが露わになるためです」、・・・・・ルカ福音書の書き出しが始まったばかりというのに、もうイエスさまの十字架が予告されているのです。・・・・・・母、マリアはおそらく自分の人生が人並みのようではないということは、薄々、感じていたかもしれません。・・・・しかしそれでも、・・・どうしてこうならなくてはいけないのか、・・・・おそらく、マリアは、・・・「そんなこと言わないでください!」、と耳を塞ぎたくなったのではないでしょうか。・・・なぜならマリアは、まだ若いお母さんなんです! 


転、今日の母
 さて、今日、・・・・いわゆる発達障害と呼ばれる子どもが少なくないように思われます。わたしにも孫が一人、それは男の子で、亮太と言う子がいます。実はその子も発達障害なのです。少し彼が成長し、わかったことですが、・・・新しい環境になじみにくい、運動能力が低い、会話を繋ぐことが不得手、という特徴があります。これらが発達障害と言われている理由であるように思われます。
孫が5歳くらいになった頃、「九州へお出で」、と娘に声を掛けていました。しかし娘は、「旦那が休みを取れないから」、といつも断ってきました。私は内心、それなら「親子、二人でもくればいいじゃないか」と思っていました。しかし、その後、娘が断わってきた本音がわかりました。・・「旦那が、休みが・・取れない」、というのは口実で、本音のところは、・・・息子が九州という新しい環境になじめず、楽しい思いをするというよりも、むしろプレッシャーを感じる、と考えての「断り」でした。

・・・娘は40歳になるのでもう若い母親ではありません。これからもおそらく、障害の息子と付き合ながら生きていくことになるでしょう。息子が、急によくなることは期待できませんから。
ところで娘の置かれている環境ですが、娘には、発達障害の専門家や発達障害を抱えたお母さんのネットワークはあるようです。ところが、娘の夫の両親はすでに数年前、立て続けになくなり、・・・孫の面倒をみてくれる人は身近に全くいません。また、娘の友人・知人のネッワークは広くはないようです。ですから、何かがあれば、すべて自分でやらなくてはならない環境にあります。・・・

こういう娘が、これから、将来をどうやって生きていくのか、私は親として案じない訳にはいきません。そして同時に、今日、私の娘のような母、・・・それはそう多くはないと思いますが、少なくもないように思われます。・・・そういうお母さんが、 下手すると孤立化していく、・・・そういう現状を知らされました。
そういう中で、私の場合、実は娘に必ず、言っていることがあります。・・・それは、「母を早くに失くし、お母さんという見本がいない中で、・・・お前は、よく亮太を育てているよね」、という励ましの言葉です。・・・・経験上、何らかのアドバイスより、「励ましの言葉」の方が、はるかに力になると思わされています。・・・・ともあれ、今日、若いお母さんが孤立化し、悩みを抱えながら生きているのが現実の姿でありましょう。

さて今日、「イクメン」という言葉あるものの、子どもを育てる役割は一手にこれまでのあげた例話のようにお母さんに託されているようです。戦後、日本社会の構造が製造業主体となり、それに伴い大家族制度が崩壊しました。そして核家族へと変化しました。またそれに伴い、父は会社に、母は家庭に、と家庭の仕事が分担システムとなりました。その結果、母は子どもの教育を一手に担うことになりました。
しかし、子どもが育つ、ということは、父性も母性も含めて、「全人格的」に育だつ、ということだと思うのです。長い間、家庭の中で、父親不在ということが言われてきました。その事は、・・・子どもが「育つ」という観点からすれば、大きな問題だと思われます。これからの私たちが目指すべき社会は、家庭に父親がいて、父親の役割を発揮する社会ではないでしょうか。・・・・何かを捨てても、家庭に父親を取り戻すべきです。「日本を取り戻す」というなら、家庭に父親こそ取り戻すべきでしょう。長時間労働の問題がここにあるのだと思います。


結、母への祝福と痛み
今日の聖書個所で、老シメオンはマリアに、わが子、イエスさまの将来を預言しました。そして老シメオンの預言は2つとも、そのまま的中しました。・・・一つは、イエスさまが、敵対するものの手によって十字架に架けられたことです。2つめは、マリアが、そのシーンを一部始終見せつけられたことです。・・・・想像してみてください。当時に引き戻されて、・・もし、わが子が、十字架を担がされ、引きづりまわされ、・・・そして十字架に架けられ、・・・・それこそこれ以上はないと言われた残酷な刑に遇わされのを見せつけられたとしたら、・・・・実際、マリアはそうなったのです。聖書にはそう書いてあります。・・・・・老シメオンが、あなた自身も剣で心を刺し貫かれますよ-というその通りになったのです。

マリアは、受胎告知の時も、老シメオンからも、「恵まれた人よ」、とそう言われました。マリアのこの人生を顧みるならば、・・・何をもって恵まれた方、というのでしょうか。・・・・・・・・人間的に言えば敗北の人生としか言いようがありません。十字架、すなわち木に架けられて殺されることは、ユダヤ人にとって最も忌み嫌われたことでした。ユダヤ人の伝統習慣の中で生きて来たマリアにとって、それは自分の人生の全否定ともいえることではなかったでしょうか!・・・・

しかし、十字架で架けられ、殺されたイエスさは、・・・・復活されたのです。・・・・・・復活は、「死よ、お前の勝利はどこにある!」、と死に打ち勝った出来事です。もし、マリアの恵みを言うとするなら、「死んだらそれでお終い、という悪魔の世界から、・・・・・死んでも、死で終わらない、という永遠の命への導き手」、・・・・すなわち、世を救う、・・・救い主の母になった事実でありましょう。

今日、母には多くの労苦があります。しかし、神さまが私たちの人生を支配しておられるなら、多くのキリスト者そう信じていますが、それは私たちも信じていることですが・・・・神さまは、私たちを労苦のままの人生にはされません。なぜなら、試練と共に、・・・共にいてくださるキリストが、必ず逃れる道をも、・・・用意してくださるからです。

死が死で終わらない、という復活の意味は、同時に労苦に喘ぎ、苦悩の只中にいるお母さんたちにも、・・・・その状態がその状態のまま続かない、・・・・・という明確なメッセージを発信しています。・・「いつの日にか」、「いつの日にか」、・・・・・例え抱えていた問題は解決していなくても、・・・心には平安が与えられる時が来るよ、と。

お母さんにとっては、子ども存在は喜びの対象であると同時に、一生背負わなくてはならない心配事でもありまする。私たちの母もそうでしたし、今、お母さんである方もそうでありましょう。それは人間の営みが続く限り、・・続く事でしょう。・・・・そしてその母の喜びと苦労はいつも背中合わせのようにも思われます。・・・・苦しいことばかりではない! 楽しいこともあるよ!という事を確信しつつ、

今日、改めてお母さんに神さまの祝福があるように、と祈ります。




お祈りしましょう。

母の日を覚えてのファミリー礼拝に感謝します。私達それぞれに、母が与えられたことに感謝します。労苦を抱えてながら生きてこられた母の人生をどうぞ顧みてください。また、これから母になっていく若いの女性の人生をも祝福してください。同時に何らかの事情故に、母とはならなかった人の人生をも顧みてください。
・・母の日の今日、・・・すべての母の上に恵みと祝福がありますように

この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。    アーメン。


苦しみに倍する祝福

2017年05月07日 | 日記
説教題:苦しみより、祝福が!
聖書個所:ローマの信徒への手紙5章12節-21節

起、罪という概念
 キリスト教に出会って本当に良かったと思います。例え、明日死んだとしても、いい人生だったと言えるように思っているからです。 だから今日も礼拝を献げています。
しかし、キリスト教に関わったばかりに悩まなくてはならなくなったことがあります。それは、「罪」という言葉に出会ったことです。もちろん牧師ですから聖書に出て来る罪という言葉の説明はできます。牧師の仕事にバプテスマの準備教育がありますが、未だにこの罪ということを教える難解さを感じています。それは、私たちの社会ではこの「罪」という言葉の持つ響きが、圧倒的に「法律的」、「道徳的」な意味に偏り、私が、聖書がいう罪の本来性と異なる社会に育ったからだと思うのです。

 しかし、英語圏の人達には、聖書に記された罪という言葉は何の苦労もなく受け取られる概念だと言われます。なぜなら英語圏では、そもそも罪は、SINと呼ばれ、その言葉は最初から宗教的、道徳的な罪を指しているからです。一方、法律的な罪に対しては、CRIME,GUILTという言葉が当てられ、・・・このように最初から区別されているのです。その英語圏の罪という概念に対して、・・・私たちの社会ではそのどちらをも、「罪」、と表現しています。つまり一つの言語で両方の意味を賄っているのです。・・・・ここに、私たちの社会にとっての罪という言葉の難解さがあるのです。

 しかし、キリスト教に於いては、この罪という概念は非常に大事であり、この概念なしにはキリスト教は成り立たないのではと言えましょう。マタイによる福音書1章のクリスマス物語、その21節に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うためである。」とあるように、イエスさまが人となられてこの世に来られた目的が、罪の救いであったということからもわかります。つまり、「救世主」と称された方の働きの中心が、罪からの救い、ということからして、・・・罪という概念の持つ位置づけがわかろうと言えるところです。
 だから、私達はこの罪というものに、正面から向き合っていく必要があるのです。


承、
  そこで、聖書を見て見ましょう。今日はます12節を取り上げます。12節で、パウロは、「どうして罪が世に入って来たのか?」、と・・・その問題に触れます。それは創世記の3章、「蛇の誘惑」の物語、・・・そこでアダムが、「禁断のこの実を食べたからだ」、というのです。・・そして続けて「どうして死がこの世に入ったのか?」、と・・その問題にも触れます。パウロは、「罪によって、罪の結果として、・・死がこの世に入った」、と言うのです。・・・つまり、罪=死、・・・・これが聖書の語るところであります。・・・・聖書は死についてこう語りますが、聖書の他に死についてこのように根源的に語っている書物はあるでしょうか?・・・・これが今日の聖書から、第一点のことです。

 そしてその罪が、・・・死、であるなら、・・・・これは大変、重大な問題だと言わなくてはなりません。ところで一般に、問題というものは、それがどうして問題となるかは、・・・その問題がどういうつながりで発生したのかという「発生した過程」と、・・・その問題の持つ「深刻性」の二点から説明することができます。

例えば、「駐車違反」をしたとします。駐車違反は、車に乗り、エンジンを掛け、道路を運転し、法令で留めて行けないところに留めてしまった、という過程を踏んで初めて、「駐車違反」となるのです。このプロセスのどれかが欠けたとしたなら、譬えば、車に乗ってもエンジンを掛けなければ駐車違反は発生しないのです。

 同様に、罪がどうして発生したのか、それは創世記の「蛇の誘惑の物語」によりますが、1)まず、蛇が「その野どの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」、と疑心暗鬼になる言葉を投げかけることから始まります。2)次に女が、「その中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない。死んではいけないからと神さまはおっしゃいました」、と神の禁止の言葉を取りつぐのが第2ステップです。それに対して、3)蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものになることを神はご存じなのだ」、と欲望どおり動いても大丈夫、とけしかけるのです。これが第3ステップなのです。 そして最終的に第4ステップで、 4)女が実を取って食べ、男に渡し、二人共食べてしまう。・・・・ここにおいて人は罪に落ちてしまったという訳です。

・・確かに女と男の目に、この木の実がおいしく見えたのは事実でしょう。しかし、蛇の唆しというプロセス・過程が無かったなら、二人が食べなかった可能性は大であります。・・このように、このような過程を踏んで、罪が人の中に入り込んだ、ということが聖書の語るところです。

 しかし、そうして罪が人間に入ったとしても、それの支払う罰が、・・・もし、仮に「1日の食事抜き」、であれば、それは全然大したことではありません。同様に、「地下鉄サリン事件」で13名の死者、6300名の負傷者を出したに関わらず、その支払う彼らの罰が、仮に、「3日間の拘留」程度にあれば、事件に見合う、罰とは全くなりません。

 ところが、聖書は、・・・・罪に見合う罰は、死だというのです。これは相当に重たく、厳しいですね。それ故、・・・これは人間にとっては、深刻性の極みだと言えましょう。・・・・・

・・・・小さなまとめをしますが、人間の究極の敵である死は、一人の人によって、「罪によって、罪の結果として、・・この世に入った」、と言うのです。


転、罪の本質と具体的罪について
 そして、その罪についてですが、・・・聖書で言われている罪は、一つ二つと数えられるようなものではなく、もちろんそれらも包含されますが、もっと本質的なもの、・・・・神を神としない! 神なしで生きること あるいは 真の神以外を神とする、更に自分自身を神とする  自己中心的考え、生き方・・・・・それらいわゆる「的外れ」と呼ばれるものもの、・・それらを包含するものが罪という概念なのです。であるなら、それらは、色の濃さの違いはあるものの、私たちの誰もが該当することではないでしょうか・・だから、パウロは、すべて人は「罪びと」だと言いきったのでした。

例えば、罪の一つ、・・・・人を裁く罪というものの源流は、「自分自身を神とする」、あるいは「自己中心的な考え」にあります。そしてその人を裁く罪というものはその中流に、「濃淡を持ち」、その下流には、「誰にもある」、という性格をもっているのです。しかるに、人はしばしばそれらすべてが自分にもあることを忘れてしまいます。
・・・・そのことをマタイによる福音書7章のイエスさまの譬え話は、滑稽に語っているのです。皆さん、よくご存じの個所です。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」・・・つまり、これは人の欠点は見えるのに、自分の欠点が見えないという揶揄なのです。

クリスチャンの成長段階で、必ずと言って陥る罠があります。バプテスマを受けると、多くの人は希望・期待と不安の中でスタートします。しかし、1年もすれば、教会が分かってきます。人が見えてきます。そうすると、バプテスマを受けた当初は立派に見えていた人が、「何だ、只の人じゃないか」。「聖書が言っている罪びとじゃないか」、「愛のない教会だ」、・・・といって不信に捉われるようになってきます。・・・この段階から立ち直れないと教会を離れていく人が多いのです。
・・・・もし、そう思ったなら、その時の助けは、「同じこと」を自分に対して思うことです。・・・「ああ、自分も只の人」、「ああ、自分こそが罪びとだと」、「ああ、自分が愛のない一員」、と。・・・人を見てはいけません!見るのは、イエス・キリスト。・・・思いだすのは聖書の言葉。・・・・これしか信仰生活を続けていく鍵はないのです。
だから、普段から聖書を読み、祈っていないと、ここでプッと糸が切れてしまい、・・・・どこに飛んで行ったかわからない、「凧」になってしまう、ということはよくあるのです。・・・ですから、皆さん週報の聖書日課を読んでくださいね!

ところで「自分に合う教会」というものがあるかもしれません。ご高齢になり、近くの教会はそうかもしれません。また、同じ年代、境遇の人がいる、・・それがそうかもしれません。しかし、そうではなく、「青い鳥」を探しに行く時、・・・「どこを探しても青い鳥はいない」。「青い鳥は自分の心にいる」、とそう考えるタイプです。自分が今いる教会が、「青い鳥のいるところ」、だと思っています。・・・ですから、自分が籠となるのではなく、この教会を籠として飛びまわって欲しいな、と思います。


結、恵みは罪を上回る、・・・・苦しみより、祝福が多い
  もう、一度、聖書の言葉を取り上げます。それは今日の説教題の基となった個所で16節です。「 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」

 先程、罪の深刻性を申し上げました。・・・「罪に見合う罰は、死だと」、・・・・しかし、もう一度、聖書に、それも創世記の蛇の誘惑物語の個所に戻って行きましょう。・・・・皆さん、「食べたら死ぬ」という園の中央の木の実を食べた女と男は、・・死んだのでしょうか   実は、生きています。しかし、死んでいるのです。・・・そのことを私たちの信仰告白、第6条ではこう告白しています。・・「罪を犯し、神に死に、・・・その結果、隣人や被造物、さらに自分自身との関係を壊してしまいました。」・・・・つまり、女と男は、・・・生きながら死んでいるものとなったのです。・・・そしてそれは実は、・・・私たちのことです。
  
・・・そのことに心痛められた神さまは、この罪を取り除こうと、様々な預言者を地上に送ら続けて来られました。しかし、人間達は、その預言者たちを無視したり、ないがしろして来ました。・・そこで神は、とうとう御自らが人となり、地上に降りてこられました。これがクリスマスの物語です。

そして、キリストとなられ、私達が、人間が負うべき罪をご自分が背中に負ってくださり、私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。・・・・罪の深刻性は、神が人となり地上にこなくてはならない程の、キリストが十字架にかかって死ななくてはならない程の、大きなものだったのです。・・・・

  しかし、・・・私たちのこの罪の深刻さにもかかわらず、・・・これも先程申し上げたことの繰り返しになりますが、・・・・そしてそれは私たちの信仰告白6条で告白していることですが、「愛の神はイエスキリストの十字架と復活において、私たち罪を神ご自身のもととされ、神ご自身の命を私達に与え、私たち罪びとを神ご自身と和解させてくださいました。私達はキリストにおける和解を受け、罪に死に、恵みに生きる新生者となり、隣人や被造物また自分自身との和解を生きるものとなります。」・・・

  大きなまとめをします。このように神の恵みは、・・裁きである罪をはるかに上回ります。・・・・そして、キリストの復活により、・・・・絶望より希望が上回ります。またキリストの復活により、・・・苦しみより、祝福が上回ります。

・・・・・そしてそれを知らせてくれるのは、信じた人の心に今、感じられるであろう「愛」「喜び」「平和」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」の気持ちです。・・・こうなっていく気持ちを、・・・人は、誰も留めることはできません!

・・・・皆さんは、この基となった、「苦しみに倍する、祝福」、という神の力を信じられますか



お祈りしましょう

 恵み深い主、・・・・見捨てられても当然、というような私達の罪を、御自らが引き受けてくださりありがとうございます。そのことにより、罪赦されて感謝します。そしてそればかりか、罪に倍する恵みと祝福を与えてくださっていることも信じてこころより感謝します。・・・恵みと祝福に相応しく生きることができるよう信仰の応答をお与えください。
 唯一なるあなたを愛し、自分を愛し、隣人を愛し、・・・・今日も、明日も生きることができますように、
この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。・・・アーメン。