説教題:「大いなる救い」
説教箇所:ヨハネ3:16-17
起、真の神が、真の人、となって来られた
今日、4本目の蝋燭に火が灯りました。今日はクリスマス家族礼拝です。子どもも大人もこぞってイエス・キリストの誕生を祝う礼拝の日です。
「暗闇の中に光があった」、としてクリスマスを象徴するこの蝋燭の光は、「平和」、「喜び」、「希望」そして今日、灯された光が、「救い」を意味しています。・・・時代がどうあろうと、例え戦争の只中であっても、キリスト者は、・・・・クリスマスの中に、「平和」、「喜び」、「希望」、「救い」、を見てきました。
その根拠は何でありましょうか。・・・・それは、「真の神が、真の人になって、この地上に来てくださった」、という神のなされた秘儀、・・・によります。
神のなされた秘儀、・・「真の神が、真の人となった」ということは、「時間をかければ、後で、わかるようになる」、ということではありません。・・・・秘儀ということは、有限な人間の頭では「わからない」、ということなのです。・・・・ところが、実際、事柄は間違いなく起きている、・・・・だから、クリスマスは、「わからないそのことを」、乙女マリアがそうであったように、・・・「お言葉どおりなりますように」、と言って信じることです。
しかし、ここでこう申し上げる私は、かって、・・・このクリスマスの秘儀を、・・おそらく世の人が、「荒唐無稽だ」、「バカバカしい」、「神話だと」、そう言うであろうことを、・・いゃ、それにさえも無関心でした。
ところが今や、・・・わたしはそれを信じるものに変えられました。「真の神が、真の人となった」、ということを信じる私は、この世の現実に対し無知ではありません。・・・「馬鹿でもありません!」・・・わたしは現実を客観的にみる力も、現実の本質をみる力も決して劣っているとは思いません。むしろキリストを知る以前の私より何倍も、・・・現実をみる目は、・・・確かになった、と思っています。
承、聖書(罪からの救い)
では、何故、「神は人となって来られたのか」、・・なぜ、「神は人となって来なくてはいけなかったのか」、そのことについては、・・どう考えればいいでしょうか。
クリスマス物語が描かれているマタイによる福音書には、天使がマリアの夫であるヨセフに、・・こういう風に語る場面があります。「マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。・・・・・(次のこの言葉です)・・この子は自分の民を、・・罪から救うからである」・・・・私たちの社会になじみのない、「罪から救う」、この言葉が、この問いへのキーワードです。・・・・・よく「救世主」、という言葉が自明にように私たちの社会でも使われますが、・・・・救世主の本来の意味は、・・急場を凌いでくれて救ってくれる誰か、例えばプロ野球楽天の田中、・・・「田中は楽天の救世主だ」、というような意味ではありません。そうではなくて、救世主とは、すべての苦しみや悪の根源とされる「罪」から救ってくれる方だと、・・これが本来の意味なのです。
クリスマス、それは「神が人となられた」、ということですが、・・・・その目的は「罪からの救い」、という「ここに」あります。
それ故、ここでは罪について語らねばなりません。キリスト教の教えでも、重要な概念である罪は、・・・日本社会で使われる概念とは、本質的なところで、・・かなり違っています。・・・罪と訳された言葉はギリシャ語では、そもそも、「的外れ」を意味しています。ですから、「神などいない!」、というなら、それは、・・・的外れで、最大の罪です。また、英語では罪のことを、SIN、と書きます。この言葉からよく説明されるのが、「I」、という言葉が、つまり「わたしが」、真ん中にいること、つまり、「わたしが」「わたしが」、というこの自己中心性が、罪だ、ということなのです。また、これは聞いた話ですが、罪と言う漢字の上の造りは、「四」、・・これは本来は網を、ネットを意味するそうです。下の造りの、「非」は、・・これは本来は羽を意味するのだそうです。・・・だから罪とは、鳥が網に引っ掛かかった状態、・・・・もがけばもがくほど、・・深くからまっていく、・・・・そのからまりの行き先は死、・・・だから使徒パウロは、「罪の支払う報酬は死だ」、と言ったのでありましょう。・・・・ともあれ、罪、というものの行くつくところは死です。・・・でも罪ということを日本社会ではこのようには言いません。
だから何かピンート来ない、と言う方もおいででしょう。そこで、「罪の行くつくところは死だ」、と現実の例を一つ、出してみましょう。
私がよくみる端的な例は、「自分のことしかみえなくて」、「どんどん視野狭窄」に堕ちいて、・・・・挙句の果てには、「自己否定」、となっていく構図です。・・ある人は言います。「どうしてわたしが、こんな目に会わなくてはいけないのか、・・・・どんな悪いことをしたのか!」・・・確かにこの方に起きたことは同情すべきことです。しかし、「こんな目にあっているのはこの方だけではありません」・・・この方は、明らかに自分の苦しみしか見えていません。(ここに罪があります。しかし、こういう状況なら誰もが自分のことしか見えません。それは当たり前のことです。ですから、誰もが罪びとなのです。)・・そして時として生きる希望を失い、場合によれば自ら死を選ぶ、・・・・この方は、「どうしてわたしが」から解放される必要がありました。ともかく、罪はこのように死へと人を誘うのです。
話を戻しましょう。そういう訳で、私たちの多くは「神など知らん」。また本質的には「自己中心」、な存在。そして例え、人の陰口など一切言わなかったとしても、100%善人だと言われても、・・神の目からすれば、例外なしに、本質的に、・・・私たちは罪びと。・・・だからこれまた使徒パウロがいうように、神の前には、「正しいひとなど一人もいない」、のです。・・・・だから、罪びとである私たちには、・・・木を切り倒す樵が、・・・切り倒す木に、印をつけるのと同じように、わたしたちの背中には、・・・神の裁きの印が貼られているのです。 人間は裁かれるべき運命にあった。 しかし、神はそれを望まれませんでした。
ですからなぜ、神が人となって来なくてはいけなかったのか、・・・その理由は、罪ある人間を裁きに遭わせず、・・・罪より救いだすためだったのです。
転、十字架による救い
さて、クリスマス物語には、すなわち「救世主としてキリストが来られた」、というところまでしか、記されていません。キリストがどういう仕方で、私たちの罪を救われるのか、・・・・それについて知るにはもう少し聖書を読み進めなくてはなりません。
私たちはすべてが罪びと、それ故、・・・わたしたちの背中には、・・・神の裁きの印が貼られています。しかし、神は私たちの誰ひとりが、樵の斧で切り倒されるのを望んでおられません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」・・・聖書の中の聖書と言われる短いこの言葉は、・・なによりその証拠となる言葉です。
そしてこのことはクリスマス物語のもっとも深いところにあるものを語っています。すなわち、神が人なってこの地上に来てくださり、私たちを救ってくださる、・・・・それはどうしてなのか、・・・・それは神が愛なる方だ、ということだからです。神は、私たちが自からの罪のため、滅びていくことを全く望まれていません。神は愛なる方、・・神は愛、というのが・・・・これがクリスマス物語の最も深いところにある真実です。クリスマス物語のすべては神の愛にその源があります。
それ故、裁きの徴が貼られた私たちのために、罪の故、滅ぼされる運命にある私たちのために、神がなされたのは、その御一人子を十字架に付けるという形で、・・・キリストが私たちの罪の身代わりとなり十字架にて死なれた形で、・・・・・だからキリスト教の十字架は単なるシンボルではありません!・・・・それは私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流されるまでなされた神の愛の象徴なのです。このキリストの十字架によって罪が取り去られたのです。だからキリスト教の教会はその一番高いところに十字架を建てているのです。十字架は神の愛の象徴なのです。・・・だからどういう形で私たちの罪が取り除かれるかがわかるにはイエス・キリストの十字架の死まで待たねばなりませんでした。・・・ここに真の救いがありました。
結、今日におけるクリスマスの意義、(今も生きて働かれるキリスト)
そして今日の説教のタイトル「大いなる救い」は、今から約2000年前に、神がキリストとなって、世の救いのために来られた、という過去の出来事とその意味をご紹介するだけが目的ではありません。
それよりもキリストとなって来られた神が、今も生きて働いてい給う、という現実を伝えるためにあるのです。それ故、私たちはその神から力をいただき、この苦難に満ちた人生を乗り切っていける、ということを知らせるためです。では今日、私たちは神の救いをどういう形でみることができるでしょうか。
一つの例話を語らせてください。身内の例話で恐縮ですが、・・・・私には3人の兄と3人の姉がいます。一番上の姉は今日も唐津から駆け付けてくれています。例年クリスマス祝会のために、「しめ鯖」を造ってくれています。身内を褒めるようですが、これは大変おいしいです。ここで褒めておけば来年まで元気でいてくれ、また造ってきてくれるでしょう。
しかし、今日の例話はしめ鯖の話ではありません。私の2番目の姉がうつ病で苦しみ、ついには死を願うほどになり、そこから救われた話です。わたしはここにも神の救いを見たのです。神は私を通して働いてくださったのです。
実は、姉は乳がんになり片一方のおっぱいの全摘出をしていました。姉は、嫁いだ娘とも相談し、もう76歳という年だから人目を気にすることもあるまい、心配がなくなるのが一番!、という理由で全摘出したのでした。実に現実的な判断だと思えました。
しかし、このことが姉の苦しみの始まりでした。「どうして全部とってしまったんだろうか、・・・・家族とも村の人とも温泉に行けない!」、そのうえ「99.9%大丈夫だが、100%大丈夫と言われたな訳ではない!、きっと転移するんだ、」・・・・・「私は、何と馬鹿なことをしたのか」。・・・・姉は手術をしたことを後悔し、自分を責めました。・・その結果、気分はどんどん落ち込んでいきました。そして、それまでのライフワークだった家庭菜園をしても、何をしても気分が晴れない、・・・ついには、「こんなだったら死んだほうがましだ!」。
・・・・これは姉が気分を回復してから私に教えてくれたことですが、「わたしは本気で死のうと思うとったよ」、・・外からは見えませんでしたが、姉には自殺企図があったのです。・・実に紙一重でもあったのです。・・・今日、日本社会での自殺者はやっと3万人を切りましたが、それでも潜在的な自殺者はこの10倍以上と言われます。姉もその内の一人だったのです。
じゃ、この姉がどうして救われたのか、・・・わたしは姉の話に「うんうん」と頷きながら、「姉しゃん、手帳にその日あったいい事、それを1行でよかけん、書いてみんね」、と頼みました。半月くらいたって訪ねた時、「書いたね」、「いゃ、書いとらん。いっちょん、書く気にならんもん」・・・・その日は「そうね、」で終わりました。(・・・・これは筑後地方、・・大川弁ですが、皆さん大丈夫、ついてこれていますよね・・・・)
数週間してまた訪ねた時、「書いたね」、と聞くと今度は、「書いた」、と言うのです。「どうして書けるごとなった」、と聞いたら、「孫が、私のことを心配して、『上を向いて泣こう』、と本を買うてくれたつよ」。「孫が買うてくれたけん、読まんと悪かね、と思うて読んだら、よかこつの書いてあったつよ」、「こりゃ、書いとかんと忘るるばい、と思いて書いたら、あんたに言われとった、・・・良かこつも書かれるごとなった」・・・・そしてずーと書いとったら、ある日、「よかこつも一杯あることに気づかされたつよ」・・・・・・不思議なことにその日あったいい事、・・・ここで大事なことは、・・・いい事だけですが、それをたった1行書き続けたことで、・・・・姉は救われたのです。
・・・・この例から言えることは、人間は現実にはいい事が沢山あるのに、サタンにより、目が曇らされて、見えなくなっているということです。新生讃美歌1番の3節の歌詞、「罪ある目には見えねども」と記されている通りです。・・そしてその代わりに、サタンにそっと手渡されたプレゼント、それは目の前の悪いことに焦点を当て続けるというプレゼントですが、・・・それをしっかり抱きしめて、・・・人はどんどん奈落の底に落ちていくのです。
実際姉は、客観的にみれば、・・息子家族に囲まれ、いいお嫁さん、かわいい孫、経済的にも何の心配もない、大好きな畑仕事ができる、・・・そういう恵まれた環境にありながら、・・・それが見えていませんでした。・・・それが罪ですが、・・・・・・・・しかし、ひょんなきっかけで、正に神はそこに働かれる訳ですが、・・・現実が客観的に見えるようになり、・・・・それが救いですが、・・・そして苦しみから一気に解放されたのです。
・・・・・・・・・
後日談があって、姉は私に「あんたが弟で良かった!」、と言いました。わたしは末っ子でそれまで姉には、お世話になりっぱなしだったのでいくらか恩返しができたかな、と嬉しくなりました。そして姉は「献金する」といいました。私は献金とは「私へのお礼かな」、と一瞬思いました。何しろ50kmもかけて福岡から大川へ通いましたから・・・しかし、姉は渡す時、「教会に」、と言ったのです。実は私も貰ったのですが・・・。わたしは本当に嬉しくなりました。・・・・姉はクリスチャンでもクリスチャンになった訳ではありません。しかし、私は、こうした些細なことの中にも、「全ての人」にといわれる、・・・神が今も生きて働いておられる、とそう思わされたのです。
神は愛、・・・その根底にあるのは一人の人も滅びることを望まれない、という神による、・・・人間存在の承認です。・・・クリスマスの物語は、「神は愛なる方、・・・その愛の故に、神自らが人となってこの世にきてくださった。・・・人となられたキリストは、「十字架の死をもって世の救いを完結してくださった」、という物語です。
そのキリストは、私たちに何の条件なしに、無条件に、・・「生きていていい」、という宣言をしてくださっているです。
だからこそ、私たちはこのクリスマス物語に、「では何をもって、答えればいいか」、と思わされるのではないでしょうか。・・・・「主イエスを信じなさい!そうすればあなたも家族も救われる」(使徒16:31)これはキリストがもっとも喜ばれる応答でありましょう。
説教箇所:ヨハネ3:16-17
起、真の神が、真の人、となって来られた
今日、4本目の蝋燭に火が灯りました。今日はクリスマス家族礼拝です。子どもも大人もこぞってイエス・キリストの誕生を祝う礼拝の日です。
「暗闇の中に光があった」、としてクリスマスを象徴するこの蝋燭の光は、「平和」、「喜び」、「希望」そして今日、灯された光が、「救い」を意味しています。・・・時代がどうあろうと、例え戦争の只中であっても、キリスト者は、・・・・クリスマスの中に、「平和」、「喜び」、「希望」、「救い」、を見てきました。
その根拠は何でありましょうか。・・・・それは、「真の神が、真の人になって、この地上に来てくださった」、という神のなされた秘儀、・・・によります。
神のなされた秘儀、・・「真の神が、真の人となった」ということは、「時間をかければ、後で、わかるようになる」、ということではありません。・・・・秘儀ということは、有限な人間の頭では「わからない」、ということなのです。・・・・ところが、実際、事柄は間違いなく起きている、・・・・だから、クリスマスは、「わからないそのことを」、乙女マリアがそうであったように、・・・「お言葉どおりなりますように」、と言って信じることです。
しかし、ここでこう申し上げる私は、かって、・・・このクリスマスの秘儀を、・・おそらく世の人が、「荒唐無稽だ」、「バカバカしい」、「神話だと」、そう言うであろうことを、・・いゃ、それにさえも無関心でした。
ところが今や、・・・わたしはそれを信じるものに変えられました。「真の神が、真の人となった」、ということを信じる私は、この世の現実に対し無知ではありません。・・・「馬鹿でもありません!」・・・わたしは現実を客観的にみる力も、現実の本質をみる力も決して劣っているとは思いません。むしろキリストを知る以前の私より何倍も、・・・現実をみる目は、・・・確かになった、と思っています。
承、聖書(罪からの救い)
では、何故、「神は人となって来られたのか」、・・なぜ、「神は人となって来なくてはいけなかったのか」、そのことについては、・・どう考えればいいでしょうか。
クリスマス物語が描かれているマタイによる福音書には、天使がマリアの夫であるヨセフに、・・こういう風に語る場面があります。「マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。・・・・・(次のこの言葉です)・・この子は自分の民を、・・罪から救うからである」・・・・私たちの社会になじみのない、「罪から救う」、この言葉が、この問いへのキーワードです。・・・・・よく「救世主」、という言葉が自明にように私たちの社会でも使われますが、・・・・救世主の本来の意味は、・・急場を凌いでくれて救ってくれる誰か、例えばプロ野球楽天の田中、・・・「田中は楽天の救世主だ」、というような意味ではありません。そうではなくて、救世主とは、すべての苦しみや悪の根源とされる「罪」から救ってくれる方だと、・・これが本来の意味なのです。
クリスマス、それは「神が人となられた」、ということですが、・・・・その目的は「罪からの救い」、という「ここに」あります。
それ故、ここでは罪について語らねばなりません。キリスト教の教えでも、重要な概念である罪は、・・・日本社会で使われる概念とは、本質的なところで、・・かなり違っています。・・・罪と訳された言葉はギリシャ語では、そもそも、「的外れ」を意味しています。ですから、「神などいない!」、というなら、それは、・・・的外れで、最大の罪です。また、英語では罪のことを、SIN、と書きます。この言葉からよく説明されるのが、「I」、という言葉が、つまり「わたしが」、真ん中にいること、つまり、「わたしが」「わたしが」、というこの自己中心性が、罪だ、ということなのです。また、これは聞いた話ですが、罪と言う漢字の上の造りは、「四」、・・これは本来は網を、ネットを意味するそうです。下の造りの、「非」は、・・これは本来は羽を意味するのだそうです。・・・だから罪とは、鳥が網に引っ掛かかった状態、・・・・もがけばもがくほど、・・深くからまっていく、・・・・そのからまりの行き先は死、・・・だから使徒パウロは、「罪の支払う報酬は死だ」、と言ったのでありましょう。・・・・ともあれ、罪、というものの行くつくところは死です。・・・でも罪ということを日本社会ではこのようには言いません。
だから何かピンート来ない、と言う方もおいででしょう。そこで、「罪の行くつくところは死だ」、と現実の例を一つ、出してみましょう。
私がよくみる端的な例は、「自分のことしかみえなくて」、「どんどん視野狭窄」に堕ちいて、・・・・挙句の果てには、「自己否定」、となっていく構図です。・・ある人は言います。「どうしてわたしが、こんな目に会わなくてはいけないのか、・・・・どんな悪いことをしたのか!」・・・確かにこの方に起きたことは同情すべきことです。しかし、「こんな目にあっているのはこの方だけではありません」・・・この方は、明らかに自分の苦しみしか見えていません。(ここに罪があります。しかし、こういう状況なら誰もが自分のことしか見えません。それは当たり前のことです。ですから、誰もが罪びとなのです。)・・そして時として生きる希望を失い、場合によれば自ら死を選ぶ、・・・・この方は、「どうしてわたしが」から解放される必要がありました。ともかく、罪はこのように死へと人を誘うのです。
話を戻しましょう。そういう訳で、私たちの多くは「神など知らん」。また本質的には「自己中心」、な存在。そして例え、人の陰口など一切言わなかったとしても、100%善人だと言われても、・・神の目からすれば、例外なしに、本質的に、・・・私たちは罪びと。・・・だからこれまた使徒パウロがいうように、神の前には、「正しいひとなど一人もいない」、のです。・・・・だから、罪びとである私たちには、・・・木を切り倒す樵が、・・・切り倒す木に、印をつけるのと同じように、わたしたちの背中には、・・・神の裁きの印が貼られているのです。 人間は裁かれるべき運命にあった。 しかし、神はそれを望まれませんでした。
ですからなぜ、神が人となって来なくてはいけなかったのか、・・・その理由は、罪ある人間を裁きに遭わせず、・・・罪より救いだすためだったのです。
転、十字架による救い
さて、クリスマス物語には、すなわち「救世主としてキリストが来られた」、というところまでしか、記されていません。キリストがどういう仕方で、私たちの罪を救われるのか、・・・・それについて知るにはもう少し聖書を読み進めなくてはなりません。
私たちはすべてが罪びと、それ故、・・・わたしたちの背中には、・・・神の裁きの印が貼られています。しかし、神は私たちの誰ひとりが、樵の斧で切り倒されるのを望んでおられません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」・・・聖書の中の聖書と言われる短いこの言葉は、・・なによりその証拠となる言葉です。
そしてこのことはクリスマス物語のもっとも深いところにあるものを語っています。すなわち、神が人なってこの地上に来てくださり、私たちを救ってくださる、・・・・それはどうしてなのか、・・・・それは神が愛なる方だ、ということだからです。神は、私たちが自からの罪のため、滅びていくことを全く望まれていません。神は愛なる方、・・神は愛、というのが・・・・これがクリスマス物語の最も深いところにある真実です。クリスマス物語のすべては神の愛にその源があります。
それ故、裁きの徴が貼られた私たちのために、罪の故、滅ぼされる運命にある私たちのために、神がなされたのは、その御一人子を十字架に付けるという形で、・・・キリストが私たちの罪の身代わりとなり十字架にて死なれた形で、・・・・・だからキリスト教の十字架は単なるシンボルではありません!・・・・それは私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流されるまでなされた神の愛の象徴なのです。このキリストの十字架によって罪が取り去られたのです。だからキリスト教の教会はその一番高いところに十字架を建てているのです。十字架は神の愛の象徴なのです。・・・だからどういう形で私たちの罪が取り除かれるかがわかるにはイエス・キリストの十字架の死まで待たねばなりませんでした。・・・ここに真の救いがありました。
結、今日におけるクリスマスの意義、(今も生きて働かれるキリスト)
そして今日の説教のタイトル「大いなる救い」は、今から約2000年前に、神がキリストとなって、世の救いのために来られた、という過去の出来事とその意味をご紹介するだけが目的ではありません。
それよりもキリストとなって来られた神が、今も生きて働いてい給う、という現実を伝えるためにあるのです。それ故、私たちはその神から力をいただき、この苦難に満ちた人生を乗り切っていける、ということを知らせるためです。では今日、私たちは神の救いをどういう形でみることができるでしょうか。
一つの例話を語らせてください。身内の例話で恐縮ですが、・・・・私には3人の兄と3人の姉がいます。一番上の姉は今日も唐津から駆け付けてくれています。例年クリスマス祝会のために、「しめ鯖」を造ってくれています。身内を褒めるようですが、これは大変おいしいです。ここで褒めておけば来年まで元気でいてくれ、また造ってきてくれるでしょう。
しかし、今日の例話はしめ鯖の話ではありません。私の2番目の姉がうつ病で苦しみ、ついには死を願うほどになり、そこから救われた話です。わたしはここにも神の救いを見たのです。神は私を通して働いてくださったのです。
実は、姉は乳がんになり片一方のおっぱいの全摘出をしていました。姉は、嫁いだ娘とも相談し、もう76歳という年だから人目を気にすることもあるまい、心配がなくなるのが一番!、という理由で全摘出したのでした。実に現実的な判断だと思えました。
しかし、このことが姉の苦しみの始まりでした。「どうして全部とってしまったんだろうか、・・・・家族とも村の人とも温泉に行けない!」、そのうえ「99.9%大丈夫だが、100%大丈夫と言われたな訳ではない!、きっと転移するんだ、」・・・・・「私は、何と馬鹿なことをしたのか」。・・・・姉は手術をしたことを後悔し、自分を責めました。・・その結果、気分はどんどん落ち込んでいきました。そして、それまでのライフワークだった家庭菜園をしても、何をしても気分が晴れない、・・・ついには、「こんなだったら死んだほうがましだ!」。
・・・・これは姉が気分を回復してから私に教えてくれたことですが、「わたしは本気で死のうと思うとったよ」、・・外からは見えませんでしたが、姉には自殺企図があったのです。・・実に紙一重でもあったのです。・・・今日、日本社会での自殺者はやっと3万人を切りましたが、それでも潜在的な自殺者はこの10倍以上と言われます。姉もその内の一人だったのです。
じゃ、この姉がどうして救われたのか、・・・わたしは姉の話に「うんうん」と頷きながら、「姉しゃん、手帳にその日あったいい事、それを1行でよかけん、書いてみんね」、と頼みました。半月くらいたって訪ねた時、「書いたね」、「いゃ、書いとらん。いっちょん、書く気にならんもん」・・・・その日は「そうね、」で終わりました。(・・・・これは筑後地方、・・大川弁ですが、皆さん大丈夫、ついてこれていますよね・・・・)
数週間してまた訪ねた時、「書いたね」、と聞くと今度は、「書いた」、と言うのです。「どうして書けるごとなった」、と聞いたら、「孫が、私のことを心配して、『上を向いて泣こう』、と本を買うてくれたつよ」。「孫が買うてくれたけん、読まんと悪かね、と思うて読んだら、よかこつの書いてあったつよ」、「こりゃ、書いとかんと忘るるばい、と思いて書いたら、あんたに言われとった、・・・良かこつも書かれるごとなった」・・・・そしてずーと書いとったら、ある日、「よかこつも一杯あることに気づかされたつよ」・・・・・・不思議なことにその日あったいい事、・・・ここで大事なことは、・・・いい事だけですが、それをたった1行書き続けたことで、・・・・姉は救われたのです。
・・・・この例から言えることは、人間は現実にはいい事が沢山あるのに、サタンにより、目が曇らされて、見えなくなっているということです。新生讃美歌1番の3節の歌詞、「罪ある目には見えねども」と記されている通りです。・・そしてその代わりに、サタンにそっと手渡されたプレゼント、それは目の前の悪いことに焦点を当て続けるというプレゼントですが、・・・それをしっかり抱きしめて、・・・人はどんどん奈落の底に落ちていくのです。
実際姉は、客観的にみれば、・・息子家族に囲まれ、いいお嫁さん、かわいい孫、経済的にも何の心配もない、大好きな畑仕事ができる、・・・そういう恵まれた環境にありながら、・・・それが見えていませんでした。・・・それが罪ですが、・・・・・・・・しかし、ひょんなきっかけで、正に神はそこに働かれる訳ですが、・・・現実が客観的に見えるようになり、・・・・それが救いですが、・・・そして苦しみから一気に解放されたのです。
・・・・・・・・・
後日談があって、姉は私に「あんたが弟で良かった!」、と言いました。わたしは末っ子でそれまで姉には、お世話になりっぱなしだったのでいくらか恩返しができたかな、と嬉しくなりました。そして姉は「献金する」といいました。私は献金とは「私へのお礼かな」、と一瞬思いました。何しろ50kmもかけて福岡から大川へ通いましたから・・・しかし、姉は渡す時、「教会に」、と言ったのです。実は私も貰ったのですが・・・。わたしは本当に嬉しくなりました。・・・・姉はクリスチャンでもクリスチャンになった訳ではありません。しかし、私は、こうした些細なことの中にも、「全ての人」にといわれる、・・・神が今も生きて働いておられる、とそう思わされたのです。
神は愛、・・・その根底にあるのは一人の人も滅びることを望まれない、という神による、・・・人間存在の承認です。・・・クリスマスの物語は、「神は愛なる方、・・・その愛の故に、神自らが人となってこの世にきてくださった。・・・人となられたキリストは、「十字架の死をもって世の救いを完結してくださった」、という物語です。
そのキリストは、私たちに何の条件なしに、無条件に、・・「生きていていい」、という宣言をしてくださっているです。
だからこそ、私たちはこのクリスマス物語に、「では何をもって、答えればいいか」、と思わされるのではないでしょうか。・・・・「主イエスを信じなさい!そうすればあなたも家族も救われる」(使徒16:31)これはキリストがもっとも喜ばれる応答でありましょう。