梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

クリスマスー大いなる救い-

2013年12月22日 | 日記
説教題:「大いなる救い」
説教箇所:ヨハネ3:16-17

起、真の神が、真の人、となって来られた
 今日、4本目の蝋燭に火が灯りました。今日はクリスマス家族礼拝です。子どもも大人もこぞってイエス・キリストの誕生を祝う礼拝の日です。

 「暗闇の中に光があった」、としてクリスマスを象徴するこの蝋燭の光は、「平和」、「喜び」、「希望」そして今日、灯された光が、「救い」を意味しています。・・・時代がどうあろうと、例え戦争の只中であっても、キリスト者は、・・・・クリスマスの中に、「平和」、「喜び」、「希望」、「救い」、を見てきました。

 その根拠は何でありましょうか。・・・・それは、「真の神が、真の人になって、この地上に来てくださった」、という神のなされた秘儀、・・・によります。

 神のなされた秘儀、・・「真の神が、真の人となった」ということは、「時間をかければ、後で、わかるようになる」、ということではありません。・・・・秘儀ということは、有限な人間の頭では「わからない」、ということなのです。・・・・ところが、実際、事柄は間違いなく起きている、・・・・だから、クリスマスは、「わからないそのことを」、乙女マリアがそうであったように、・・・「お言葉どおりなりますように」、と言って信じることです。

しかし、ここでこう申し上げる私は、かって、・・・このクリスマスの秘儀を、・・おそらく世の人が、「荒唐無稽だ」、「バカバカしい」、「神話だと」、そう言うであろうことを、・・いゃ、それにさえも無関心でした。

ところが今や、・・・わたしはそれを信じるものに変えられました。「真の神が、真の人となった」、ということを信じる私は、この世の現実に対し無知ではありません。・・・「馬鹿でもありません!」・・・わたしは現実を客観的にみる力も、現実の本質をみる力も決して劣っているとは思いません。むしろキリストを知る以前の私より何倍も、・・・現実をみる目は、・・・確かになった、と思っています。


承、聖書(罪からの救い)
では、何故、「神は人となって来られたのか」、・・なぜ、「神は人となって来なくてはいけなかったのか」、そのことについては、・・どう考えればいいでしょうか。

クリスマス物語が描かれているマタイによる福音書には、天使がマリアの夫であるヨセフに、・・こういう風に語る場面があります。「マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。・・・・・(次のこの言葉です)・・この子は自分の民を、・・罪から救うからである」・・・・私たちの社会になじみのない、「罪から救う」、この言葉が、この問いへのキーワードです。・・・・・よく「救世主」、という言葉が自明にように私たちの社会でも使われますが、・・・・救世主の本来の意味は、・・急場を凌いでくれて救ってくれる誰か、例えばプロ野球楽天の田中、・・・「田中は楽天の救世主だ」、というような意味ではありません。そうではなくて、救世主とは、すべての苦しみや悪の根源とされる「罪」から救ってくれる方だと、・・これが本来の意味なのです。
クリスマス、それは「神が人となられた」、ということですが、・・・・その目的は「罪からの救い」、という「ここに」あります。

それ故、ここでは罪について語らねばなりません。キリスト教の教えでも、重要な概念である罪は、・・・日本社会で使われる概念とは、本質的なところで、・・かなり違っています。・・・罪と訳された言葉はギリシャ語では、そもそも、「的外れ」を意味しています。ですから、「神などいない!」、というなら、それは、・・・的外れで、最大の罪です。また、英語では罪のことを、SIN、と書きます。この言葉からよく説明されるのが、「I」、という言葉が、つまり「わたしが」、真ん中にいること、つまり、「わたしが」「わたしが」、というこの自己中心性が、罪だ、ということなのです。また、これは聞いた話ですが、罪と言う漢字の上の造りは、「四」、・・これは本来は網を、ネットを意味するそうです。下の造りの、「非」は、・・これは本来は羽を意味するのだそうです。・・・だから罪とは、鳥が網に引っ掛かかった状態、・・・・もがけばもがくほど、・・深くからまっていく、・・・・そのからまりの行き先は死、・・・だから使徒パウロは、「罪の支払う報酬は死だ」、と言ったのでありましょう。・・・・ともあれ、罪、というものの行くつくところは死です。・・・でも罪ということを日本社会ではこのようには言いません。

だから何かピンート来ない、と言う方もおいででしょう。そこで、「罪の行くつくところは死だ」、と現実の例を一つ、出してみましょう。

私がよくみる端的な例は、「自分のことしかみえなくて」、「どんどん視野狭窄」に堕ちいて、・・・・挙句の果てには、「自己否定」、となっていく構図です。・・ある人は言います。「どうしてわたしが、こんな目に会わなくてはいけないのか、・・・・どんな悪いことをしたのか!」・・・確かにこの方に起きたことは同情すべきことです。しかし、「こんな目にあっているのはこの方だけではありません」・・・この方は、明らかに自分の苦しみしか見えていません。(ここに罪があります。しかし、こういう状況なら誰もが自分のことしか見えません。それは当たり前のことです。ですから、誰もが罪びとなのです。)・・そして時として生きる希望を失い、場合によれば自ら死を選ぶ、・・・・この方は、「どうしてわたしが」から解放される必要がありました。ともかく、罪はこのように死へと人を誘うのです。

 話を戻しましょう。そういう訳で、私たちの多くは「神など知らん」。また本質的には「自己中心」、な存在。そして例え、人の陰口など一切言わなかったとしても、100%善人だと言われても、・・神の目からすれば、例外なしに、本質的に、・・・私たちは罪びと。・・・だからこれまた使徒パウロがいうように、神の前には、「正しいひとなど一人もいない」、のです。・・・・だから、罪びとである私たちには、・・・木を切り倒す樵が、・・・切り倒す木に、印をつけるのと同じように、わたしたちの背中には、・・・神の裁きの印が貼られているのです。 人間は裁かれるべき運命にあった。 しかし、神はそれを望まれませんでした。

ですからなぜ、神が人となって来なくてはいけなかったのか、・・・その理由は、罪ある人間を裁きに遭わせず、・・・罪より救いだすためだったのです。


転、十字架による救い
 さて、クリスマス物語には、すなわち「救世主としてキリストが来られた」、というところまでしか、記されていません。キリストがどういう仕方で、私たちの罪を救われるのか、・・・・それについて知るにはもう少し聖書を読み進めなくてはなりません。

 私たちはすべてが罪びと、それ故、・・・わたしたちの背中には、・・・神の裁きの印が貼られています。しかし、神は私たちの誰ひとりが、樵の斧で切り倒されるのを望んでおられません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」・・・聖書の中の聖書と言われる短いこの言葉は、・・なによりその証拠となる言葉です。

 そしてこのことはクリスマス物語のもっとも深いところにあるものを語っています。すなわち、神が人なってこの地上に来てくださり、私たちを救ってくださる、・・・・それはどうしてなのか、・・・・それは神が愛なる方だ、ということだからです。神は、私たちが自からの罪のため、滅びていくことを全く望まれていません。神は愛なる方、・・神は愛、というのが・・・・これがクリスマス物語の最も深いところにある真実です。クリスマス物語のすべては神の愛にその源があります。

 それ故、裁きの徴が貼られた私たちのために、罪の故、滅ぼされる運命にある私たちのために、神がなされたのは、その御一人子を十字架に付けるという形で、・・・キリストが私たちの罪の身代わりとなり十字架にて死なれた形で、・・・・・だからキリスト教の十字架は単なるシンボルではありません!・・・・それは私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流されるまでなされた神の愛の象徴なのです。このキリストの十字架によって罪が取り去られたのです。だからキリスト教の教会はその一番高いところに十字架を建てているのです。十字架は神の愛の象徴なのです。・・・だからどういう形で私たちの罪が取り除かれるかがわかるにはイエス・キリストの十字架の死まで待たねばなりませんでした。・・・ここに真の救いがありました。
 

結、今日におけるクリスマスの意義、(今も生きて働かれるキリスト)
 そして今日の説教のタイトル「大いなる救い」は、今から約2000年前に、神がキリストとなって、世の救いのために来られた、という過去の出来事とその意味をご紹介するだけが目的ではありません。

 それよりもキリストとなって来られた神が、今も生きて働いてい給う、という現実を伝えるためにあるのです。それ故、私たちはその神から力をいただき、この苦難に満ちた人生を乗り切っていける、ということを知らせるためです。では今日、私たちは神の救いをどういう形でみることができるでしょうか。
 
 一つの例話を語らせてください。身内の例話で恐縮ですが、・・・・私には3人の兄と3人の姉がいます。一番上の姉は今日も唐津から駆け付けてくれています。例年クリスマス祝会のために、「しめ鯖」を造ってくれています。身内を褒めるようですが、これは大変おいしいです。ここで褒めておけば来年まで元気でいてくれ、また造ってきてくれるでしょう。
しかし、今日の例話はしめ鯖の話ではありません。私の2番目の姉がうつ病で苦しみ、ついには死を願うほどになり、そこから救われた話です。わたしはここにも神の救いを見たのです。神は私を通して働いてくださったのです。

 実は、姉は乳がんになり片一方のおっぱいの全摘出をしていました。姉は、嫁いだ娘とも相談し、もう76歳という年だから人目を気にすることもあるまい、心配がなくなるのが一番!、という理由で全摘出したのでした。実に現実的な判断だと思えました。
しかし、このことが姉の苦しみの始まりでした。「どうして全部とってしまったんだろうか、・・・・家族とも村の人とも温泉に行けない!」、そのうえ「99.9%大丈夫だが、100%大丈夫と言われたな訳ではない!、きっと転移するんだ、」・・・・・「私は、何と馬鹿なことをしたのか」。・・・・姉は手術をしたことを後悔し、自分を責めました。・・その結果、気分はどんどん落ち込んでいきました。そして、それまでのライフワークだった家庭菜園をしても、何をしても気分が晴れない、・・・ついには、「こんなだったら死んだほうがましだ!」。
・・・・これは姉が気分を回復してから私に教えてくれたことですが、「わたしは本気で死のうと思うとったよ」、・・外からは見えませんでしたが、姉には自殺企図があったのです。・・実に紙一重でもあったのです。・・・今日、日本社会での自殺者はやっと3万人を切りましたが、それでも潜在的な自殺者はこの10倍以上と言われます。姉もその内の一人だったのです。

 じゃ、この姉がどうして救われたのか、・・・わたしは姉の話に「うんうん」と頷きながら、「姉しゃん、手帳にその日あったいい事、それを1行でよかけん、書いてみんね」、と頼みました。半月くらいたって訪ねた時、「書いたね」、「いゃ、書いとらん。いっちょん、書く気にならんもん」・・・・その日は「そうね、」で終わりました。(・・・・これは筑後地方、・・大川弁ですが、皆さん大丈夫、ついてこれていますよね・・・・)

数週間してまた訪ねた時、「書いたね」、と聞くと今度は、「書いた」、と言うのです。「どうして書けるごとなった」、と聞いたら、「孫が、私のことを心配して、『上を向いて泣こう』、と本を買うてくれたつよ」。「孫が買うてくれたけん、読まんと悪かね、と思うて読んだら、よかこつの書いてあったつよ」、「こりゃ、書いとかんと忘るるばい、と思いて書いたら、あんたに言われとった、・・・良かこつも書かれるごとなった」・・・・そしてずーと書いとったら、ある日、「よかこつも一杯あることに気づかされたつよ」・・・・・・不思議なことにその日あったいい事、・・・ここで大事なことは、・・・いい事だけですが、それをたった1行書き続けたことで、・・・・姉は救われたのです。

・・・・この例から言えることは、人間は現実にはいい事が沢山あるのに、サタンにより、目が曇らされて、見えなくなっているということです。新生讃美歌1番の3節の歌詞、「罪ある目には見えねども」と記されている通りです。・・そしてその代わりに、サタンにそっと手渡されたプレゼント、それは目の前の悪いことに焦点を当て続けるというプレゼントですが、・・・それをしっかり抱きしめて、・・・人はどんどん奈落の底に落ちていくのです。

 実際姉は、客観的にみれば、・・息子家族に囲まれ、いいお嫁さん、かわいい孫、経済的にも何の心配もない、大好きな畑仕事ができる、・・・そういう恵まれた環境にありながら、・・・それが見えていませんでした。・・・それが罪ですが、・・・・・・・・しかし、ひょんなきっかけで、正に神はそこに働かれる訳ですが、・・・現実が客観的に見えるようになり、・・・・それが救いですが、・・・そして苦しみから一気に解放されたのです。
・・・・・・・・・
 後日談があって、姉は私に「あんたが弟で良かった!」、と言いました。わたしは末っ子でそれまで姉には、お世話になりっぱなしだったのでいくらか恩返しができたかな、と嬉しくなりました。そして姉は「献金する」といいました。私は献金とは「私へのお礼かな」、と一瞬思いました。何しろ50kmもかけて福岡から大川へ通いましたから・・・しかし、姉は渡す時、「教会に」、と言ったのです。実は私も貰ったのですが・・・。わたしは本当に嬉しくなりました。・・・・姉はクリスチャンでもクリスチャンになった訳ではありません。しかし、私は、こうした些細なことの中にも、「全ての人」にといわれる、・・・神が今も生きて働いておられる、とそう思わされたのです。

神は愛、・・・その根底にあるのは一人の人も滅びることを望まれない、という神による、・・・人間存在の承認です。・・・クリスマスの物語は、「神は愛なる方、・・・その愛の故に、神自らが人となってこの世にきてくださった。・・・人となられたキリストは、「十字架の死をもって世の救いを完結してくださった」、という物語です。

そのキリストは、私たちに何の条件なしに、無条件に、・・「生きていていい」、という宣言をしてくださっているです。

だからこそ、私たちはこのクリスマス物語に、「では何をもって、答えればいいか」、と思わされるのではないでしょうか。・・・・「主イエスを信じなさい!そうすればあなたも家族も救われる」(使徒16:31)これはキリストがもっとも喜ばれる応答でありましょう。





クリスマス-希望-

2013年12月15日 | 日記
 第3アドヴェントの主題は「希望」です。
   家庭礼拝(寺園喜基師)で紹介されている二つの聖書個所をみてみましょう。

◆エレミヤ書29章10節-14節から・・・私たちには神の計画があり、これが希望である。
主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。(10節)
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(11節)
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。(12節)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、(13節)
わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。(14節)

◆コロサイの信徒への手紙1章21節-23節・・・「福音の希望」とは「希望の福音」でもあります。
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。(21節)
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。(22節)
ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕えるものとされました。(23節)



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2013年12月08日 | 日記
説教題:クリスマス-喜びの到来-

起、喜び、・・・「きよしこの夜」から
   来週、ご承知のように西南学院の中学校のギター部の生徒が奏楽してくれます。私は今から、ワクワクしています。その理由の一つが、ギターで、クリスマスの代表的な讃美歌、「きよしこの夜」を演奏してくれるからです。もっというとそれも、作曲家、フランツ・グルーバの原曲に近い、奏楽になるという情報を耳にしたからです。ご承知の方も多いですが、▲「新生讃美歌163番、ここを開く」・・・・きよしこの夜は、新生讃美歌集に書かれているように1818年、ヨゼフ・モールが作詞、フランツ・グルーバが作詞しています。調べによれば、モールが歌詞を渡し、それにグルーバが曲をつけました。そしてそれが、1818年クリスマス、イブの深夜、・・・オーストリア・オーベンドルフにある聖二コラ教会の中に飾ってあった「まぶね」の前で、モールとグルーバーのギター2重奏で演奏されたのが「初演」、だと言われています。

   きよしこの夜、・・この讃美歌ほど世界中に知られた讃美歌はないでありましょう。私たちの手元にある讃美歌では、3節までしかありません。しかし、元々は6節まであったことが分かっています。それがチロル地方に伝わり、チロル民謡となる過程で3節が削られていたのです。
どうしてか、・・それは当時の社会情勢と関係があります。モールは、オーストリア、ザルツブルグ、ここはモーツアルトの生まれた場所ですが、ここで生まれています。そのザルツブルグでは、1800年代の初めから戦いが止むことはありませんでした。フランスに占領され、ドイツ、バイエルンに占領され、トスカナに占領され、再びバイエルン領になり、そして1813年には、ナポレオンのモスクワ遠征に4000人もの若者が徴徴用され、大部分は生きて帰りませんでした。ナポレオンの敗戦後もこの地方の領有権についての決着はつかなかった。最終的に平和になったのは、1816年の夏だった。・・・これはきよしこの夜が誕生する2年前のことです。

実は、モールの元々の歌詞、4節の後半には、「すべての力を注いで、わたしたちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民を抱きしめる」。5節の後半にも、「主は怒りをお捨てになって、父祖たちの大昔に 全世界にいたわりを約束された」、・・・と。つまり、ここには諸民族の和解と平和が歌われていたのです。聖書に約束された神の救いの約束が、今、人となられた「イエスによって実現した」、・・これがモール最も訴えたい歌詞の内容だったのです。・・・・・ところが、チロルの民謡には和解も平和も必要ではなかった。そういう重たい内容は民謡には必要ではなかったのです。

しかし、モールは聖書に約束された神の救いが、「ここに実現したんだ」、神は、「今も生きて働いておられる」、・・そのことに深い感動を覚えたのです。・・・・・そのことはモールにとって、「深い」、心から湧きあがる喜びでもあったのです。

承、マリアの讃歌から
  深い、心から湧きあがるような喜びが聖書に記されています。しかし、今、ご紹介する受胎告知の物語には、・・・・取りあえずは喜びと逆のことが語られます。・・・天使、ガブリエルがマリアの所に来訪します。すると、マリアは、「恐れを抱いた」、とあります。そして天使に、「男の子を産む」と誕生を告げられ、「ダビデの王座をくださる」と告げられると、今度は、「戸惑った様子」が記されています。クリスマス物語の初めにあったのは、「恐れ」と「戸惑い」です。
しかしこれから逆の展開となり、・・・天使から、「いと高き方の力が包む」、と言われると、・・・マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」、とこのみ旨を「受け止め」たのです。このようにマリアの心は移っていきます。そしてその頂点ともいうべきなのが、マリアの讃歌として有名な今日の箇所です。・・・・ここでマリアは一転して、生まれてくる主を「あがめ」、神を、「喜び」讃えます。讃歌とは、・・・主をあがめ、神を喜び讃える、・・・歌であります。

 マリアがどうして、主をあがめ、神を喜び讃えたか!・・・そのことについて聖書は、「身分の低い、神さまのはしためのようなわたしにも目を留めてくださったから」、・・・・とマリアの告白を置いて説明しています。 
では、もう一歩踏み込んで、マリアがどうして、このような告白をすることができたのか!・・・・それは、ルカ1章の45節に書かれています。
福音書の記者、ルカは、洗礼者ヨハネの母、エリザベトの口を通してこう語らせています。「主がおっしゃったことはかならず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」・・・・このエリザベトの言葉は、彼女がどうマリアの信仰をみていたのか、その事を証言する言葉となっています。すなわちそれは、・・・・マリアは信仰の人だ、ということです。・・・・・マリアはエリサベトを訪ねた時、おそらく、「おばさま、実はこういうことがあったのですよ、と一連の、不可解な受胎告知の物語を話したでありましょう」・・・・・そういう話を聞くなかで、・・・・・エリサベトは、おそらく、マリアを襲った「恐れ」も、「戸惑い」も、・・・信仰が乗り越えさせたんだ、・・・・・だからマリアは、「お言葉通り、この身になりますように」、ということができた、とそう考えたに違いありません。

 聖書、ヘブライの信徒への手紙の一節の言葉を借りるなら、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」、とあります。この言葉のように、マリアはこの信仰によって、・・・・・生まれてくる主を「あがめ」、神を、「喜び」讃えた、ということでありましょう。
クリスマスはこのマリアの喜びの先触れから始まっている、と言い直すことができます。

転、さて
 さて、神さまがイスラエルの民と結んだ約束の一つに、「人生を喜ぶ」、ということがありました。だから、人生を喜ぶことは神さまからのプレゼンだということができます。古来、イスラエルの人々は、新しい命が宿ったのを喜び、その命の誕生を喜び、結婚式を喜び、麦の収穫を喜び、・・王の即位を喜び、戦いに勝ったのを喜び、・・・戦利品の分け前を喜び、バビロン捕囚から帰還したのを喜んだ、・・・それらのことが聖書に記されています。これらは目に見える出来事によってもたらされるお祝い的な喜びです。しかし聖書には、他人と分かち合うことのできない個人の内面的な喜びもあることを記しています。それはすなわち、苦しみを通して得られる魂の喜びともいうべきものです。・・・そしてその上で、聖書は、喜びというものは実は、健康を保つ上でも大きな働きをするだ、とこの内面的な喜びの価値を認めています。
 
今喜び、この親戚に「笑い」があると思いますが、喜びや笑いが日常的にある人と、そうでない人の寿命の違いは明らかになっています。・・・・別に長生きしなくてもいい、という厭世的な人もお出でかもしれません。それはそれでいいとしましょう。しかし、喜びのある人、笑いのある人は、そうではない人と比べると、明らかに病気になる確率が違う、・・つまり喜びのある人、笑いのある人の方がはるかに確率的に病気になりにくいと言われます。それは喜びのある人、よく笑う人は、体の免疫機能が高くなるからという理由はよく知られた事実です。・・・実に今日言われているこれらの事は、既に旧約聖書の時代、箴言を書いた人は言い当てています。そういうことで言えば、聖書にはすべての問題についての答えがある、といわれている通りです。
また、教会でもう5年やってきた認知行動療法もこの喜びや笑いと大いに関係があります。この学びを通して自分の認知の癖を修正し、喜びや笑えるようになる人は多くいます。そしての認知行動療法さえも、聖書の中にはこの概念がいくつも示されています。また、ギリシャの哲学者エピクテトスは、気分は出来事によってではなく、その人の受け止めかたによるのだ、ということを既に、2000年前に言っています。ともあれ、日常の生活の中に喜びがある、ということは、それは私たちの精神的・肉体的な健康にとって極めて有益で、それ故、だから、神さまは契約としてまで、イスラエルの民との間に結ばれたのでありましょう。

結、「喜びはない」、という世界に、喜び(クリスマス)が到来する・・民全体へ喜びが
なによりクリスマスは、その喜びの時です。喜びがなければクリスマスではありません。個人的なことで恐縮です。いまから27年前、それは1986年の年の暮れのことですが、私の一家は悲しみのどん底にありました。なぜなら、わたしにとっては妻を、子ども2人にとっては母を亡くし、・・・家庭は昼間でも灯りの消えたような寂しさがありました。まだ、大事な人の死から40日しか経っていない、そう言う中、私たちの一家は、千葉県市川市にある市川八幡教会のキャンドル礼拝に出席しました。当時、ラン先生がまだ宣教師として働いておられました。
羊飼いたちに最初のクリスマスの知らせがあったように、私たち一家にもそれが最初のクリスマスでした。どういうキャンドル礼拝だったか、礼拝プログラムは忘れてしまいましたが、それでも、手にもった蝋燭の灯りと、きよしこの夜の讃美歌の響き、・・・・そしてそれが讃美歌だと知った感動、・・・そしてその歌詞が聖書から来てことを知った感動、・・・・・。 その日の礼拝の感動は今も忘れません。そしてそれは、私たち一家にとって、・・・・深い、心に沁みる喜びであったように思います。・・・・マリアがマリアの讃歌を歌った時も、尚、心の中には不安や恐れ、戸惑いを抱えたまま、・・そういうものを通りこした深い、喜びであったのではないでしょうか。

私自身に起きたクリスマスを通して、クリスマスの喜びというのは、デパートでクリスマスプレゼントを探すような仕方ではなく、・・・あちら側から、神の側から「喜びが到来する」、そういう性質のものではないか、と思わされます。実際、ルカによる福音書によれば、羊飼いのところにまず、天使が現れて、「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」、という形で、神の側から「喜びのメッセージ」が届けられたのです。
そしてそれに対する私たち側の応答は、マリアがそうしたように「主のおっしゃったことは必ず実現する」と信じることです。天使に「民全体に与えられるおおきな喜びを告げる」、とそう知らされた羊飼いたちは「さあ、ベツレハムへ行こう」、とそう応答しました。・・・この神の側からの働きかけ、それに対する私たちの応答、・・・・ここに、神の先触れと私たちの応答のある、ここに・・・主からいただくクリスマスの喜びがあるのです。

そして、その大きな喜びのメッセージの意味するものとは、「完全なる神が、完全なる人となってこの世に来られた」、という明確な事実です。これこそがわたしたちの喜びの源流となっていく事実でしょう。


  
お祈りしましょう

  わたしたちの主よ、

        嬉しきこのよい  喜び歌えや
        嬉しきこのよい  喜び歌えや
        み使いの告ぐる 恵みのおとずれ

    伝統的にイギリスでこう歌われてきたようにクリスマスは、大いなる喜びだと学びました。主のお生ま
れになったことを大いに喜び、そして自分自身が生まれてきたことをも大いに喜びたいと思います。
    そして、この喜びと救い主がおまれになったというよき知らせを隣人に伝えることができるように、私
たちをお用いください。
来たるべき、第3アドヴェントに希望を持ちつつ この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈りま
す。  


クリスマス-希望の到来-

2013年12月01日 | 日記
説教箇所:ルカ2章8節-14節

はじめに、アドヴェントとは、
 今日、講壇の前のクランツに飾ってあるろうそくに1本目の灯りが灯りました。今日は、アドヴェント第一日目であります。アドヴェントとは、「到来」を意味しています。到来とは、主イエス・キリストのご降誕を、希望を持って待ち望むことを現わしています。・・・それゆえ、「待降節」とも呼ばれています。具体的には、・・11月30日にもっとも近い主日から、クリスマスイブまでの4週間を指しています。私たちの教会では、第一主日に併せてクリスマスリースを飾り、アドヴェントクランツの最初の赤い蝋燭を、最後には中央の白い蝋燭を、・・・次々に点火していくという大変、素敵な習慣をもっています。そして今年も昨年と同じく、毎週、それぞれの方が順番に蝋燭に点火し、メッセージをしてくださるようになりました。そう言う訳で、今日は、寺園先生と峯子執事のお二人が蝋燭に点火してくださり、平和について短いメッセージをしてくださいました。平和は何よりクリスマスの中心的メッセージであります。キリストは平和の君と呼ばれました。そこで今日はキリストの賜える平和について聞いていきましょう。

起、世界に争いがある、・・・戦争がある&心の裡は平和ではない
平和について、と申し上げましたが、世界情勢を見ると、・・・・特にシリアの内戦は昨年より一層熾烈になっています。・・・アメリカ軍の撤退したイラクでも、今も自爆テロは耐えません。・・・・アフガニスタンでも同様であります。このように目に見える形で言えば、世界は到るところ争いがあります。

 ところで、私達の国は、先の太平洋戦争の後、68年、戦争がなく、・・平和でした。戦争に行って亡くなる人も、戦争に行って人を殺すこともありませんでした。しかし、戦争がないから、平和といえるのか、・・・もし、そういうならそれは消極的な平和論ということになります。なぜなら平和という概念はもっと広い、とそう言いたいからなのです。
3月11日、東日本大震災により、原発の被害に遭い、住む場所を追われた人にとっては、終の棲家を見つけることこそが平和であるに違いない。自民党の石破幹事長は、「もう帰れない、というべき時がくる」、とそう発言したようです。また福島の漁師さんにとって、放射能の数値が低くなり、取った魚が自由に売れるようになってこそ平和であるに違いない。・・・原発から数キロしか離れていない福島県浪江町を流れる川に登ってくるアユにとって、・・・わたしはここで子どものアユを釣ったことがあります。浪江川は綺麗な清流です。・・・アユにとって除染され山に降り積もった放射能が川に流れてこなくなった時こそ、平和であるに違いない。・・アメリカの基地の75%を押し付けられている沖縄の人にとって、日本の各地が応分に基地を受け入れることこそ、不平等感が無くなることこそ、平和であるに違いない。・・・。引きこもりの人にとって、社会にでて、人とコミュニケーションが気軽にできるようになってこそ、平和であるに違いない。いじめにあっている子どもは今も少なくありません。・・・自分嫌いの人にとっては、自分は価値がある、自分は生きていていい、とそう心から思える時こそ、平和であるに違いない。
・・・・もう少し続けてみましょう。ある夫婦は、夫がすごく権力的でほとんど何を言っても聞いてくれない、また、ちょっとしたことで夫はどなる、・・・こうした妻にとって自分の話をちゃんと聞いてくれ、人格をきちんと認めて欲しい、そうなった時こそ、平和であるに違いない。また、夫婦だけどもう何年もまともな会話がない、このような夫婦にとって、互いにか、あるいはその一方か、にとって向き合ってくれて、会話があってこそ、平和であるに違いない。また、他者と比べ優越感と劣等感に揺れ動き、一喜一憂しながら毎日を送っている若者がいるとしたら、・・・そこから離れることのできる自分を発見できてこそ、平和であるに違いない。・・・・・また、子どもを自殺で、あえて自死ではなくこの言葉を使いましたが、・・・その方は、「自分のちょっとした不注意で、こうなった。一生この重荷を担いでいきる」、とそう語られます。その方にとって、「その重荷は俺の重荷だ、私が担ぐ」、とそう言われるキリストの言葉が心に落ちた時こそ、平和であるに違いない。
・・・・このように考えると、つまり、平和を大きく捉えると、積極的な平和論にたてば、・・・・世界が、・・・平和を享受しているとはとても言い難い、そう思います。・・・・私達の世界は暗闇に覆われ、それ故平和だとは言えないでしょう。

承、羊飼いの心にも平和はなかった
 さて、聖書を見て見ましょう。今日の箇所は、クリスマスには必ずといっていい程、読まれる箇所です。・・・何回読んでも、何回聞いても、素敵な箇所だな、と思います。・・・ここにはクリスマスの物語が見事に切り取られている、そう言っていいでしょう。

しかし、わたしたちの現実の生活が、幸せの部分と辛い部分を抱え併せてあるように、・・・この素敵なクリスマス物語にも、実はその喜びと悲しみの側面が込められています。まず、羊飼いに注目してみましょう。天使は羊飼いに良き知らせを伝えました。最初のクリスマスの栄光に預かったのは、実は羊飼い達でした。・・これは羊飼いにとって、「喜び」でしょう。‥ところが、羊飼いの置かれている状況、評価、・・・それには「厳しい」ものがありました。・・・聖書を知るまで、私も羊飼いに対して牧歌的なイメージをもっていました。例えば、・・・大自然のなかで、自由で、・・・誰からの制約もなく、・・好きな時、好きな場所に行けて、などなど・・・・羊飼いの仕事っていいな、とさえ思ったものでした。しかし、聖書を読むようになり、・・・・・実は羊飼いは差別された者の、・・・その象徴的な存在だったということを知ったのです。・・これには少しの説明が必要です。

当時、律法を護ることはイスラエルの共同体でもっとも大事なことだったのです。紀元、70年、ローマ帝国によってエルサレム神殿を破壊されたイスラエルの民は、神殿礼拝に代わる拠り所を律法に求めました。律法を読み、律法を護る、・・・それが神殿礼拝にとって変わるものとなりました。その中でも特に強調されたことが安息日の遵守でした。安息日には全て仕事を横におき、律法の定める聖書を読み、先祖から受けた祭儀を執り行うこと、・・・・これがもっとも大事なこととされたのです。
 
ところが、このもっとも大事な律法の戒め、・・・安息日を護れない代表が羊飼いだったのです。彼らの飼う、・・・羊には、安息日にも草は必要です。草のあるところに連れて行って草を与え、水のあるところへ連れて行って水をあげる、・・・それは必要な仕事でした。・・・そのために彼らは安息日を護れません。・・・・これは自分たちの努力ではどうすることもできないことでした。・・・・・それでも彼らは罪びとと言われたのです。律法を護らない罪びとはすべて差別されたのです。この差別の故に、彼らの心にも平和がなかった、そういうことができます。・・差別された者の心の中にある、口惜しさ、怒り、嘆き、それ故に彼らの心にも平和がなかった、・・・・・その彼らの胸の内は、神こそが知っておられたに違いありません。
だから当時の社会が罪びとだ、とした羊飼いのところに、・・・クリスマスの良き知らせが真っ先にきた、ここに、・・・クリスマスの大きな意味があるのです。


結、平和の源流
 そのクリスマスのよき知らせは、天使の一言からはじまりました。天使は言いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」
この天使の讃美にあるように、神様の望みは、ご自身が造られたこの地上界が平和であることでした。その地上界に平和を作るために、とうとう神ご自身が人となって、主イエスとなって、この世にきてくださったのです。これがクリスマスの中心的な出来事です。

 「地には平和、御心に適う人にあれ。」、と神は天使を通して語られました。この天使の語った一言が、・・・・天と地に語られた、・・・・平和の基、・・・・平和の源流であります。

 源流と申し上げました。先日、何名かの方々と金山に登りました。豊かな湧水の流れる渓流沿いの素敵なコースでした。しかし、段々、登りゆく間に、2mから3mあった渓流も細くなり、それこそ、最後には湧水がぽたり、ぽたり、と流れる場所まで来ました。源流部でした。私たちはそこでその源流部の証拠写真を撮りました。その最初の一滴の湧水、・・そのたった一滴、・・・それが福岡西部を流れる室見川を作っているのです。

 どんな川もこのような最初の一滴の湧水で造られるように、キリストにある平和はこの神の「地には平和、御心に適う人にあれ。」、のこの一言により始まる、ということができましょう。・・・そして人となられた主イエスは、「平和を実現する人々は幸いだ」、と語られました。こう語られた主イエスは、ご自身が、・・・平和を実現するものとして、・・・・ザカリアが予言した暗闇と死の影に坐しているもののところに、・・・・高いところからあけぼのの光として、・・・・・・・きてくださいました。

 主イエスは、今日、今、ここ、・・・暗闇と死の影に坐しているこの世に、・・・子どもを自死で失い、「自分のちょっとした不注意で、こうなった。一生この重荷を担いで生きる」、とそう語られたその方のところに、「その重荷は私の重荷だ、私が担ぐ」、という語りで、・・あるいはまた、他者と比べ優越感と劣等感に揺れ動き、一喜一憂しながら毎日を送っている者のところに、・・・「大丈夫、あなたは高価で尊い、・・わたしはあなたを愛している」、という語りで、・・・・・また、福島県浪江町を流れる川に登ってくるアユ達に、「もうお前達をこんな目に遇わせない」、という語りで、・・・・・この小さな言葉の一滴を持って、・・・来てくださいます。・・・・・

この小さな一滴は、・・・「大丈夫、私はあなたと共にいる!」、・・・・「わたしはあなたを見捨てることも、見放すこともしない」、という平和の大河となって私達の心に、世界中に、特に戦火の中にあるシリアの弱くされている人々にも、・・・・広がっていくに違いありません。・・・・・なぜならそれが神さまの約束ですから、・・・・。

アドヴェント第一の礼拝に感謝してお祈りしましょう。
平和の源である主イエスが、今日ここで、クリスマス最初の平和の灯を点けてくださったことを感謝します。・・・どうぞ、わたしたちも主イエスに倣い、暮らしのなかで平和の灯を灯すものになれるように、・・・クリスマスを心から喜び、この良き知らせを一人でも多くの隣人に伝えることができますように、・・・・・
・・この祈りを主イエス。キリストの名によって祈ります。   アーメン。