梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

世界バプテスト祈祷週間を覚えて

2012年11月25日 | 日記


今日は「世界バプテスト祈祷週間」を覚えての礼拝です。・・世界宣教を覚える日であります。バプテストの教会では、女性会(ルツの会)がこの祈祷週間の意味、活動内容についてアピールしてくださいます。

そもそも世界宣教はどうして生まれたのでしょうか。わたしたちの活動の根拠がいつも聖書にあるように、この活動も聖書に基づきます。わたしの持っている信徒手帳、P53には「伝道の意義」として次ぎのように記されています。

・・「イエス・キリストは『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ』(マルコ16:15)と言われました。伝道はこのみ言葉に基づくものです。それは自分の状態とか、能力とかによるいい訳をゆるされない、クリスチャンであるならば、どんな人も受けているはずの命令です。その意味で伝道は、牧師とか伝道者がすべきものであって、信徒の自分は無関係であると考えるなら、大きな間違いを犯すことになります。牧師や伝道者は全部の時間を伝道のためにささげていますが、信徒は自分の日常生活の中でイエス・キリストによる救いの事実を証するのです。私たちが祈りによって聖霊の働きを求めるなら、いろいろの有効な伝道の方法が示されるでしょう。けれども最も大切なのは、日常の生活の中で「福音にふさわしく生活」(フィリピ1:27)して、イエス・キリストを証することです。これほど大きな伝道はありません。」

・・・今日、時間的な関係で尚も、牧師は伝道、信徒は生活を通し伝道、・・という構図はそのままかもしれませんが、しかし、信徒の意識として「自分も伝道に!」、という姿勢を示される方を多く見るようになりました。大変、うれしいことだと思います。

公平な社会を目指して

2012年11月18日 | 日記
アモス書5章21節ー27節

 今から、2800年前、アモスは、「正義と恵みの業を行え!」、とこう神の言葉を預かりました。もし、ここで、今、彼が私達にそう語るなら、・・・私たちはどう聞くべきでしょうか。
 いつの時代でも、私達の生きる姿勢は大きく分けて二つあるように思います。わたしはそれをアメリカの神学者、「ニーバーの祈り」で学びました。・・・変えなくてはならないものを変える「勇気」、と変えられないものを受け入れる「心の静けさ」です。・・・多くの不公平さは、多くの社会正義に反しています。・・・・それ故、勇気をもって変えていかなくてはなりません。
 そしてまた、いつの時代でも、不公平な社会を変えるためには、その実際を知ることが必要です。現実を知る必要があります。・・・知って気付くこと。気付いたなら小さな一歩を踏み出すこと。その一歩は、今日、今から私たちができるほどの小さな一歩であります。
 そしてまたこの小さな一歩は主イエスがなされたことです。手が萎えた人に、・・その人は生まれつきの病気ゆえ、・・罪びととされ、差別された人、・・・・社会的不公平に中に捨て置かれた人でした。・・・それらの人に対するイエスさまの眼差しは、やさしいものがありました。しかし、その人をそう扱っている社会に対しては厳しいものがありました。・・「立って、真ん中にでなさい」。これは当時の社会に対する挑戦的な言葉でした。しかし、この短い言葉は、主イエスの小さな一歩でした。・・・なぜなら、それは主イエスの十字架の贖いに至る、小さな一歩であったからです。
 公平な社会を目指して、・・・私たちは、キリストがそうされたように、・・・・目を自分の外に向けて、・・・社会の実態を知り、・・・問題に気付き、・・小さな一歩を踏み出す、・・・・その時、既に、・・・神さまに喜んでいただく教会造りの、・・・小さな一歩を踏み出していることに気づくのではないでしょうか。
 みなさんは、・・・今日、何を知り、何に気付かれ、何に対して小さな一歩を踏み出されるでしょうか。

「見えても、見えない者」

2012年11月11日 | 日記
 
説教箇所:マタイによる福音書13章:10節ー17節

「心で見なくちゃ、物事はよく見えないってことさ。・・・肝心なことは、目に見えないだよ」・・これはフランスの小説家、サン・テクジュペリの「星の王子様」の中の1節です。・・・キリストの十字架によって罪赦されたものは、目ではなく心で見ることができるようになるのです。・・・ですから、見えて、・・見えるのです。
 
 ある教会に、年老いた目の見えないクリスチャンの方がおられるそうです。その教会の牧師の話によると、非常に信仰心が篤く、教会を大変愛しておられるそうです。礼拝を護られ、よく献金なさるそうです。しかし、流石に、寄る年月には勝てず、このところは毎週、礼拝にでることは叶わなくなってきたそうです。・・・・話は、この方がもう少し、元気でおられた時期のことです。・・・・私たちの教会では年に何回か総会がありますが、・・その教会でも総会があり、・・・何らかのことで総会が紛糾していたそうです。・・その場面で、この方が手をあげて発言されたそうです。すると議場はシーンとしてしまったそうです。・・そしてその紛糾は不思議にも収まっていく、というのです。・・この方は目が見えないにも拘わらず、大事なものはすべて見えていたのです。だから、多くの信徒はこの方の発言に矛先を収めることができたのです。

 おそらくサン・テクジュペリは、星の王子様を描く前に聖書をよく読んでいたはずです。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント信徒への手紙第二 4:18)・・・だから、この聖書の1節より、「肝心なことは、目に見えないだよ」、との言葉を紡ぎだしたのではないでしょうか。・・・大事なことは、心でなければ見えない、と。・・・・
 
 イエス・キリストの十字架は、罪あるわたしたちを解放し、闇から光の中へと導いてくれます。闇から光の中に導かれた時、・・・心の目が開かれ、・・・・数えて見よ、‥主の恵み、と、・・・・主が私達に備えてくださっている恵みの数々が見えるようになるのです!・・・・

見えても、見えないものではなく・・・・・見えて、‥見えるものになれ!・・・。