梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

見放すことも、見捨てることもしない!

2014年06月29日 | 日記

聖書個所:創世記4章1節-18節

1. はじめに
このところ、幼児が親から殺される、あるいは小学生の子どもが殺されるなどの殺人事件が相次いで起きています。わたしの実家方面の筑後市でも、何人もの人が行方不明になっていて、その一部が明らかになってきました。どうも大部分が殺されているようです。今日、凶悪な殺人事件も何も大都会だけのことではなく、どこでも、田舎でも、・・起きるようになったと実感さられています。

さて、先程読んでいただいた聖書の個所は、人類最初と言われる殺人の物語です。もちろん、世界史が記すように、あるいは殺人事件で司法が記録するように、何年、何月、何時、・・・どこで、・・・・というようなことではありません。・・・・しかし、物語ではありますが、いゃ物語だからこそ、・・・語られていることの本質を、・・枝葉無しで、幹のままを見ることができる、と言えましょう。 


2.聖書から(その1-献げもの)
 聖書によれば、アダムとエバに二人の息子が誕生しました。そして長男は、「カイン」という名がつけられ、次男には、「アベル」という名がつけられました。長男のカインは、土を耕すもの、農業の初めの者となりました。次男のアベルは、羊を飼う者、・・すなわち牧畜を生業とする初めの者になりました。・・・何年かの後、彼等はそれぞれが自分の収穫したものを、神さまに献げました。
カインは、「土の実り」、・・・・つまりそれは、主要産物の小麦かもしれません。あるいは果物のナツメヤシかもしれません・・・想像するしかないのですが、とにかく農産物を献げたのです。一方、アベルは、羊の群れの中から、「肥えた初子」を献げたのです。

・・・・・ところが、この時、この兄、カインにとって、とても重大な出来事が起こりました。神さまが、「アベルとその献げ物には目を留められた」が、一方、「カインとその献げものには目を留められなかった」、というのです。・・・・・つまり、カインは神さまに無視された、ということができるかもしれません。・・・二人が心を込めて献げたものを、・・・カインに対しての神さまの態度はあまりも冷たいではないですか!・・・・・神さまの対応がわかりません、と。・・・・、と私たちならそう思うかもしれません。・・・・ところが2000年前のクリスチャンは、そうは思わなかったようです。昔、ある人はこの箇所を、「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」、と解釈しました。その根拠となったのが、アベルが、「羊の肥えた初子を持ってきた」、という記されている言葉です。一方、カインの場合は、「土の実りの『最初のもの』」、とは記されていません。だから、「まぁ、一杯あるから神さまの所に持っていった」、という解釈になったのかもしれません。いずれにしても初代のクリスチャン達はカインの信仰を評価していません。だから、神さまがカインを顧みられなかったのは、「当然」、という解釈をしているのです。

 実は、私はここに、微妙に、・・・私たちの日本人の伝統的な神観、・・「神様への思い」とヘブライ人の神観の違いを思わされます。わたしたちの伝統的な神観では、神さまと人間の距離が近いような気がします。だから、このケースでは、・・・「神さまの仕打ちはひどい」、と神さまを人間レベルにしてしまう、そういう気がします。その根っこには、人間が神を造る、という文化があるからではないか、と思うのです。・・・・例えば、学問の神、・・安産の神、・・・戦いの神など、・・・これらはすべて人間が造った神です。神さまが最初に存在していたのではなく、人間によって神が造られたのです。具体的な一例をあげるなら、学問の神と言われる大宰府天満宮は、大宰府に流された菅原道真を人々が神にしたのです。

 一方、キリスト教の神、「ヤーウェ」の神は、天地を創造した神です。人間も第6日目に造られました。造られた人間は、自分達の神、「ヤーウェ」を聖なる文字だとして直接、その名を呼ぶことはできませんでした。畏れ多かったのです。神の名を呼ぶことさえ、恐ろしいとして呼ばなかった人達が、「神さま、ひどいじゃないですか 冷たいじゃないですか」、などというのでしょうか。

・・・・・日本社会においては自分の都合に合わない神は、人間が捨てることができる、そういう側面を持っています。だから大宰府天満宮以外に、もっといい学問の神があるならば、その神の所に行くことに何の躊躇もいらない。・・神を選ぶのは人間、・・・だから神は人間にとって相対的存在となるのです。
 しかし、ヘブライ社会の神は、神ご自身が、「私があなたを選んだ」、と言われる。そこには神の絶対性がああります。
・・・・・だから、「カインとその献げものには目を留められなかった」、というこの箇所を、・・・・彼らとしては、「そうなんだ」、とただそう受け止めるのでしょう。
 
 しかし、カインはそうは思いませんでした。「激しく怒って顔を伏せた」、とあります。「何で、依怙贔屓をすれるんだ! ひどいじゃないか!」・・・・・と一瞬、こう思ったのでありましょう。・・だからカインは激しく怒ったのです。 カインはその内なる感情を留めおくことはできず露わにしました。おそらく顔は怒りで真っ赤になり、顔つきも歪んでいたのかもしれません。でも・・・・流石に、・・・神さまの手前、顔だけは伏せたというのです。

3.聖書から(その2-献げる物への受け取り・評価)
そして人類最初の殺人と言われることが起きたのです。カインは弟アベルを襲って殺したのです。どういう仕方で殺したのか、・・・農機具の鍬をアベルの頭上に振り下ろしたのか、あるいは首を絞めたのか、それについては何ら書かれていませんが、・・・・それはある意味、どうでもいいことなのでしょう。

しかし、何がカインにそうさせたのか、そのことは大事です。もし、カインが、「神さまは依怙贔屓している」、と思ったとしたら、・・それならカインは、自分の怒りを神さまに向けなくてはなりません。しかし、神さまは名を呼ぶことさえも憚られる方、・・・・カインもそう思っていた、・・・だから、カインの怒りのエネルギーは、怒りの矛先は、弟アベルに向かったのです。・・・・そして神さまに、献げものを顧みられた弟アベルに対する激しい嫉妬となり、・・・・・カインは弟アベルに手をかけて殺したのです。・・・人類最初の殺人と言われながらその動機は、「依怙贔屓された」、という程度の、・・・よくある小さなことです。一人の人が人を殺すという時に、・・・考えに考え抜かれてその上で殺したというより、・・・・このようにかっとなり、感情のまま殺した、ということは少なくありません。一方で、命は地球より重たいなどと言いながら、人間はちょっとした動機で人を殺すのです。

こう見てくると我々の行動というものは、起きた出来事を、・・どう思ったのか、どう受け取ったのか、・・その結果のことだということがわかります。だから、もしカインが、「神さまは絶対、依怙贔屓されない方だ、・・これには神さまの方に何らかの事情があるのでは」、と受け取っていたなら、・・・・ここまでの行動にはならず、ましてやこの結果も起きていなかったのではないか、と思うのです。

この物語を私たちに引き寄せていうなら、これは「評価」の問題だ、・・・神さまが二人の献げもの、二人ご自身を評価された、その物語だと読むこともできます。
そして評価と言うならば、今日、ここに来て下さったチャペルクワイアの方々も、来年か、数年後には社会にでて、本格的に評価される立場になられる訳です。わたしもサラリーマンを33年経験して、その間、ずっと、・・・評価され、また管理職となり部下を評価してきました。

「評価され」、ということでいうなら、わたしもカインのように、「不当な評価だ!この上司は何もわかっていない!」、とそう思ったことはサラリーマン人生、1度、2度の事ではありません。おそらく多くのサラリーマンも私と同じ経験をしています。ただ、わたしはカインのように上司を殺すことはしませんでしたが・・・・・。
また、「評価してきた」、ということでいうなら、私も中間管理職でしたので、部下の評価をしてきました。・・・・結論から言えば、「評価は難しい」、「悩ましい」、というのが私の結論です。なぜなら評価は単純に数字だけではないし、単純に今の結果だけのことでもない、将来のことをしているか、どうか。・・・・単純に、本人が持てる能力を十分に発揮したか、それだけのことでもない、周囲を生かしているのか、そういう要素もあるのです。・・・・だから、評価、というものは単純ではない、とそういうことができます。そして、また、時として評価には、・・・される人の人生がかかってくることもある、・・とそこまで考えるなら、・・評価は責任の伴う大変重たい仕事、とそう言わなくてはなりません。・・・・・

ともあれ学生の皆さんは、社会に出れば、取りあえず評価される立場になります。評価について語ろうとするならもっともっと語ることができますが、今日はそこまでの時間がありません。・・・社会にでれば、「不当だ」、と思われる評価を必ず受けます。その時は、勇気をもって上司に尋ねてください。カインは神さまにそうしませんでした。そうするためには日頃、いい上司とコミニケーションの関係を作っておくことです。きっと、カインは神さまとそういう関係を作っていなかったのでしょう。


4.それでも神は救う
聖書に戻りましょう。神さまはアベルを殺したカインに向かい、「お前は、地上をさまよい、さすらう者となる」、と言われました。これは神による裁きです。神さまは、人を殺した者には、殺した行為に相当する罰を与えられます。その裁きの言葉を聞いたカインは、「私の罪は重すぎて負いきれません」、と告白しました。ここからはカインの深い後悔と真摯な態度を読み取ることができます。そしてカインは、「もし、あなたが追放されれば、わたしに出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう」、と人々の報復をも訴えました。ここからはカインの深い恐怖心を読み取ることができます。

しかし、・・・それに対して神さまは、「そりゃ仕方がないじゃないか、お前が播いた種だろう、それは自分で刈り取れよ!」、とは言われませんでした。・・そうではなくて、「お前に誰も、手を出さないように、お前の額に印をつける。・・・・・そしてこの印の付いている者には絶対、手を出すな!」、と言うから。・・・・こう言われたのです。・・・これは神による護りです。・・・・罪を犯したに関わらず、こうしてカインは赦された罪びととしての生涯をおくることになったのです。

そしてこの物語のこの部分には、・・・天と地を創造された神、人間イエスとしてこの地上に降りてくださった神、・・・・・この神さまがどういうお方なのか、そのことが良く示されています。

神さまは、「神に向き合う存在」として創造された人間との関係をみずから断ち切ろうとは、絶対になさらないと、言うことです。確かに、カインの犯した罪に対して裁きをなさいました。殺人事件の審判ですからそれだけでも良かったかもしれません。しかし、神さまはカインに対し、カインに印をつけることにおいて、み放すこともみ捨てることもないさいませんでした。カインとの関係をしっかり護られたのです。ですからここに、「ああ、やっぱり神さまは愛なる方だ」、という神さまの本質をみてとるができるのです。

その神さまは、「最初から」カインを愛しておられたのです。・・・・この「最初から」が大事なことです。・・つまり、カインが深い後悔と真摯な悔い改めをしたから、・・愛されたのではなく、・・・・その前から、つまりカインが生まれたその時から、・・・神はカインを愛しておられたのです。・・・・・だから福音と呼ばれるのです。
・・・ここには、「私は神さまなど知りません」、という方もお出でだと思います。・・実は私も西南学院大学の卒業生ですが、・・・かく言うも私も学生の時代、・・チャペルなどには一度も出たことがなく、「神さまなど知りません。神さまなどいません」、とこうそぶいていた一人です。しかし、そういう私をも神は見捨てず、み放さず、・・そればかりか・・・後に、こんな不信仰な私のような者に、「お前は牧師にならないか」と声をかけてくださったからです。・・・・だからわたしも「最初から」、神さまに愛されていた一人だと、いうことができます。

  この神の愛を知ることは、人生において大きな助けとなります。神さまは確かに、カインの殺人という行為については罰を与えられました。しかし、カインの存在については何も罰を与えられていません。・・・・カインは、神さまに無条件に承認されているのです。愛は無条件の存在承認なのだ、ということができましょう。ここが大事なことなのです。

・・・・・人生において自分の能力に対して無力感を感じることは多いです。自分の能力の否定は、自分の存在の否定と繋がりがちです。先日、私の前勤めていた会社が博多駅前にあり、そこで九州支店長と話す機会がありました。その支店長が、「最近の新入生は成績優秀だけど、ちょっと叱ると傷つき、しゅんとなる」、と嘆いていました。つまり、叱ること、それは「行為の否定」でしかないのに、「自分はダメだ」、と人格の否定にまでつながってくる、というのです。・・・・神さまの愛とは、・・・・わたしの能力遺憾に関わらず、そういうものとは関係なく、・・・・わたしはあなたを愛している、・・・・これが神の愛の、・・・私たち人間との関係おいて・・本質だということができます。・・・ここが大事なポイントです。・・・人生で一人涙する時、・・「私はあなたを愛しているよ」、というこの神の声が聞こえてくるに違いありません。・・・・・・多くの人が証言するので、これは間違いありません。        
 ・・・・神は愛!・・・み放すことも見捨てることもない!

お祈りしましょう。
  カインとアベルの物語を通して、神の裁き、・・・そして裁きを越えた神の愛について学びました。神さまが、「神の独り子、イエスさまを十字架差し出すほどまでして」、・・私たちを愛してくださっていることを、ここに思い起こし、心から感謝します。・・・・人生で孤独に思えた時、「わたしはあなたと共にいる」、と語りかけてくださる神の臨在を知ることができますように・・・・・例え自分が無価値に思えた時、「神さまはみ放すこともみ捨てることもなさらない」、・・・・「存在を無条件に認めてくださっていること」を思い起こすことができますように。
  これらの祈りを、・・主イエス・キリストの名を通して祈ります。   アーメン。

「あなたはどこにいるのか?」

2014年06月22日 | 日記
起、誘惑
 今日のテーマの一つは「誘惑」であります。新共同訳聖書の小見出しにも「蛇の誘惑」とあります。誘惑といえば、「誘惑をする」、あるいは「誘惑される」、・・・・というこのどちらも経験しなかった人は、この地球上に存在していないでしょう。・・・・誘惑とはそれくらい普遍的なものだと言えましょう。今日の聖書の物語は、誘惑が人間に入った、その最初を描いています。

 ここで誘惑するのは、蛇です。誘惑されるのは女です。ここから、誘惑は「する者」、「される者」がいて成り立つ、・・・改めて誘惑とは関係性の出来事だということができましょう。そしてする者は時として巧妙です。聖書はそのことを見事に描いています。それは、1節後半の、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」、という蛇の言葉です。巧妙さのポイントは、「いけない、などと」、という「などと」、という言葉です。しかし、2章の17節では、明確に神さまはこう言われています。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」、と・・・・・「などと」、という言葉は、蛇の捏造です。・・・・つまり蛇は、神さまの禁止命令を一応は受け止めてはいますが、それをかなり薄めて相対化しています。絶対的な命令を相対化することによって、誘惑に乗り易くしているのです。・・・・・
 
 その相対化を更に、推し進めたのが4節の蛇の言葉です。これが誘惑の決めてとなったセリフです。「決して死ぬことはない!」・・・・今日の言葉にするなら、「大丈夫、大丈夫」、だということでしょう。「大丈夫、絶対バレない!」、「大丈夫、大したことない!」・・・・人はこの声により、誘惑に乗ってしまうのです。

・・・「決して死ぬことはない」、と言った後で、蛇はその理由をさらっと言います。「その実を食べるとね、神さまと同じ力を持つようになるだよ。・・・本当のところ、神さまはそれが嫌、なんだよ」・・・その程度の事さ!というニュアンスがあります。・・・・・そんなに深刻になりなさんな 軽く行けばいいんだよ こんなニュアンスもあります。・・・・・また、神さまてぇ、「せこい」と思わない? 自分だけが支配者でいたいなど・・・。こんなニュアンスもあります。・・・・実に巧妙に、神さまに逆らってもいいのだ、逆らう正当性もあるんだ、という思いにさせているのです。

蛇のようにここまで巧妙ではないにしても、誘惑の例は私たちにもあります。メタボは、成人病の前兆です。だから、痩せなくてはならない、・・・そういう人は少なくありません。・・・そういう人の前に、ホテルのバイキングで、・・・おいしそうなステーキやお寿司が並び、スペイン料理のパエリヤもでて、・・・仕上げには、フルーツ、マロンパフェを取り、・・・これでお終いにしよう、思っていたら、・・食べ損ねていた上等のマグロの刺身がでてきた、・・・・・・いゃ、何も今日から、痩せなくてもいいんだよ 明日、明日から痩せればいいんだよ!・・・・そういう声が内から聞こえ、・・・・・こうして私たちは誘惑に屈する訳です。・・・女を誘惑した蛇は、・・・こういう私たちを見て、・・・・ニタニタ笑っているのかもしれません。

 
承、誘惑は目から、・・・その奥にある欲望
  6節には、その誘惑の手順が示されています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ」、という言葉がそれです。すなわち誘惑は人間の感性、それもまず視覚から、見たその時に、・・・入ってくるのです。そう言えば、確か人間の認識の70%は、視覚から入ると言われたことを聞いた記憶があります。

・・・・これは夫婦喧嘩にならないため、連れ合いにも話していますが、・・何年か前、スペインに旅行した時、初めて本番のフラメンコを見ました。若い男性1人と、年配の女性2人と若い女性の1名が踊りました。若い男性は、スタイルもよく、また踊りも素晴らしく、・・・・・男からみても、・・大変恰好よく、そしてセクシーに見えました。男に対し、そんなふうに思ったのは初めてでした。・・・一方、女性の方は、・・特に若い女性の踊り子の「目」に、・・私は魅入られてしまいました。大げさに言えば、あの目で誘惑されれば何もかにも捨てても、いい、と言うほど、・・・・・「目を引きつけられ」、ました。・・・・あのような女性の目を見たことは、その時以来ありません。・・・とにかく、男にも女にも魅せられたスペインでの体験でした。

その一方で、一時期、韓流ブームが起こりました。冬のソナタの主役、ぺ・ヨンジュを追っかける多くの日本の女性達がいました。わたしには、ぺ・ヨンジュは何か中性的に思えますが、・・彼女らにとっては、そんなことなどどうでもいいのでしょう。・・・とにかく、・・・・ぺ・ヨンジュは、素敵だったのでしょう。彼の一挙手一投足を見て、女性達も歓声を上げたのです。

・・・・聖書は、このように誘惑が目からくることを記しています。では、その目に働きかけるものは何でしょうか。・・・・6節、後半には、女が、「園の中央の果実を食べた」ということが記されています。・・・結局、おんなも男も木の実を食べたのですが、・・・「食べた」、というその背後にあって、彼らを唆したもの、・・・・それは神のようになりたい、神のように何でも知っていて、神のように人を支配したい、・・・という人間の欲望、・・・そのおんなと男の中にある欲望が、・・その目に、「大丈夫、食べても」、と語りかけたのではないでしょうか。・・・・


転、「決して死ぬことはない!」・・・・・・蛇の言う通りになったのでは?
  6節、後半には、今申し上げたように、・・・女が、「園の中央の果実を食べた」ということが記されています。女は、「一緒にいた男にも渡したので、男も食べた」、ということも記されています。その結果どうなったでしょう。蛇が言う通りになったのです。彼等は「目が空いた」のです。そして、「自分達が裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」を造ったのです。・・・・彼等は目が空き、その結果、裸であることがわかり、「恥ずかしい」、と思ったのです。だからイチジクの葉で・・・パンツを造ったのです。

・・・今は、亡くなられましたが、わたしの出身教会である市川大野教会に、母教会市川八幡教会から、原口 徹先生がメッセージに来てくださいました。原口先生はこの創世記の箇所からメッセージをされ、アダムとエバが造ったパンツが、「人類最初の手作り製品だと」、言われました。しかし、この手作り品は、神の命令に逆らった結果としての製品なので、以来、人間はどんなにいい製品を造っても、それを凌駕する製品に脅かされ続ける宿命にある、と語られたのです。それは28年前の説教ですが、今も印象深く今も覚えています。・・ともあれ、人間はまず、「恥ずかしい」、という感情を持ったのです。

 そしてパンツを造ったその日、神さまが園を歩かれる音が、二人にも聞こえました。アダムと女は、神さまの顔を避けて、園の木の間に隠れました。・・・このことは、目が空いて、・・・・その結果、かれらの心に、「恐れ」と「不安」そして「自責」の感情が生じたことを意味します。・・・

ところで、神さまは、創世記2章17節で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」、と言われました。しかし、女とアダムは、神さまの命じられたことに逆らい、善悪の木から食べてしまいました。・・・・食べた結果、彼等は死んだでしょうか?   食べた後も、彼等は二人して園を歩いています。死んではいないのです。・・・では、神さまは彼らに、いい加減なこけ脅しを言われただけでしょうか?

この物語に対して、後に、使徒パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」・・・・・パウロは「一人の人」、・・それはアダムを指しますが、その人によって、罪がはいり、その罪によって、死が人間に入ってきた、と明言しています。・・・・この死というのは、この何年か後に、アダムの寿命が尽きて死んだ、というようなものではありません。パウロによれば、・・・食べたその時、・・・アダムと女は死んだのです!・・・・では、「食べた後も歩いている二人と、パウロがいう罪により死んだ」、ということをどう理解すればいいでしょうか。

この回答を得るためには私たちは、創世記1章27節の言葉に戻らなくてはなりません。27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。」・・・・この「御自分にかたどって」、というのは、神に向き合う存在として、・・・すなわち神さまとの関係性を意味しています。・・それゆえ、ここでの死とは、神さまとの関係が切れたことによる死、・・後に主イエスが、「わが神わが神なぜ私をお見捨てになったのですか」、というこの叫びと呼応しています。すなわち、神さまとの関係が切れることが、死なのであります。・・・彼等は神さまの言いつけに背く仕方において、自ら神さまとの関係を断ち切ったのです。・・・だから彼等は、神さまがおっしゃった通り、パウロが記す通り、・・・・確かに死んだのです。・・・・・このように神の言いつけに背くことを、使徒パウロは罪といいました。そして、・・・パウロはこの誘惑物語から、・・・・「罪の支払う報酬は死だ」、ということをみてとりました。

今日、現代を覆う闇の一つが、・・・・恐れ、不安、自分を責めることです。・・・・それらはこの罪の落とし子なのです。・・・・言い換えるなら、・・・・罪の支払う報酬は死。・・罪の支払う報酬は、・・・恐れ、不安、自分を責めること、・・・・だと言えましょう。


結、あなたはどこにいるのか?
 今日のテーマの二つ目は、本日の説教題ともなっている、10節の「どこにいるのか」、・・です。・・・・・この問いは、アダムと女がどこにいるのか?・・・それがわからずに神さまが問われた、とは、・・・誰も思わないでしょう。・・・・なぜなら神さまは、詩編139編によれば、「私たちのことを究めておられる方で、立つもすわるも・・すべてを知っておられる方」、とそう記されているからです。全てを知っておられるその方が、アダムと女がどこにいるのかを、御存じないはずはありません。これは十分に知っていながら、問う、問、・・発問というものであります。・・・・ですから文字通り、どこにいるか、ではなく、・・・・あなたは何者?・・あなたは何をしているの?・・とアダムと女の存在、そして行為を問われた、・・・問なのです。だから、深い、根源的な問いなのです。
 ところが、「どこにいるのか」、と問われたアダムは、・・・文字通り、「私は隠れています」、・・・つまり「あなたに見えない場所にいます」、と答えました。・・・・そして小さないい訳をも一つ付け加えました。・・「裸で、恥ずかしいので」・・・・。

 本来、アダムが真っ先に答えるべきなのは、「私は、『決して食べるな』、といわれた木から食べてしまいました」、という罪の告白でありましょう。丁度、放蕩息子が、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。・・もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(ルカ15:18-19)、という応答をしたように。・・・それなのにアダムは、「恐ろしくなり、隠れています」と答えたのです。その理由として、「裸で恥ずかしいから」、と・・・建前、言い逃れを図ったのです。・・・・私たちにはこうしたマダムの見苦しさは、手に取るように見えます。しかし、もうこれ以上、・・・・アダムを追求したくはありません。なぜなら、アダムの姿は私たち自身の姿であるからです。・・・・・わたしたちも神さまを直視することができませんし、また神さまに対して言い訳ばかりしている存在でもあるからです。


 「あなたはどこにいるのか」、・・・・つまり、あなたは何者で、・・・あなたは何をしているか?・・・この根源的な問は、今日、私たち、一人一人にも問われていましょう。

 もし、あなたがバプテスマを受けているとしたら、「私はクリスチャンです」、と答えるかもしれない。いゃ、答えなくてはならないと思います。この時代、隠れクリスチャンであっては、そうすることでしか生きれなかった人に対して申し訳ないと思うからです。では「クリスチャンとは?」、と問われたなら、「罪びとであるにも関わらず、神の憐れみにより、イエスさまの十字架の贖いのみ業を通し、・・・救われたもの」、とこう信仰告白的に答えるかもしれません。しかし、ここでは、・・・「それだけでは十分な答えにはなっていない」、と言わなくてはなりません。クリスチャンとは、「神さまがあるがままの自分を受け入れてくださり、自分や家族の必要を満たしてくださり、・・また神さまが、・・・救い、慰めをくださる、と・・・・受け身的に信頼するだけの者のことでもない、とも・・・言わなくてはなりません。

 では、誰がクリスチャンなのでしょうか?  クリスチャンとは、自分の生の全領域で、すなわち教会、家庭、職場で、・・・「自分はクリスチャンです」、と公けに言い現わし、・・・その上で、戴いた神さまの恵みに、具体的に応答する者のこと、・・なのです。クリスチャンとは、単に神を信じ、神の愛を、「アーメン」、と受け入れるだけではなく・・・、クリスチャンとして神さまに、具体的に仕えていく者のことである、と言わなくてはなりません。・・・・・その最も初歩的な仕えが、このように礼拝を守るということです。・・・一度、ここでも紹介していますが、韓国では、礼拝を守る人のことをクリスチャンと呼ぶそうです。・・・更に、十一献金を守るもの。・・・・更に、神の栄光のために、自分の時間とお金を惜しまずに差し出す者のことなのです。
 
 もし、あなたがまだバプテスマを受けていないとしても、「あなたはどう生きてきたの?・・・与えられた人生を何に、どう使うの?」、という問は、神さまから等しく投げかけられているでしょう。なぜなら、私たちの神は、こちらが信じようが信じまいが、全ての人の命の造り手であるからです。・・・・

 私たちは自分が望もうが、望むまいが、意識しようが、意識しまいが・・・あなたは何者で、・・・あなたは何をしているか?という、・・・この神さまの問の前に立たされない者は、「一人としていない」、と思います。そしてこの問いに対し、・・・向き合うことも、アダムのように隠れることも、・・それは自由であります。どちらの選択も可能です。しかしこの問いは、自分がクリスチャンとして、あるいは一人の人間として、生きる上で、・・・・間違いなく私たちを立ち止まらせ、自分の内面を見つめさせ・・・・そのことにおいて間違いなく、・・・恵みだ、と申しあげたいと思います。

 お祈りしましょう。
恵み深い天の神さま、「あなたはどこにいるのか」、とあなたからの問について考えました。ともすれば、平平凡凡と流れがちな、人生において、あなたが立ち止まらせてくださった恵みに感謝します。あなたはこの問いも天の高かみからではなく、私たちの傍に来て、恵みとして問うてくださいますから、ありがとうございます。・・・・この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。  アーメン。

神様の御出鱈目

2014年06月18日 | 日記
神さまの御出鱈目(おんでたらめ)

2014年6月15日(日)
福岡城西キリスト教会
ローマ8:1-12

はじめに
(1)おはようございます!

1.福岡西部バプテスト教会の池田ツヤ子姉のこと
(1)福岡支部開拓伝道
藤田英彦先生が恵泉教会を辞任され、福岡に転居されたときに、城西教会が中心になり、姪浜・長住両教会と共に、3教会が協働して福岡西部開拓伝を始め、6年目に福岡西部教会が教会組織をし、福岡西部教会が創立しました。そのとき、「株分け」といって、姪浜から3人の姉妹が開拓伝道所に加わり、城西教会から寺園峯子姉が按手をもって加わりました。
(2)姪浜の池田ツヤ子姉
 姪浜からの3姉妹の中に、今は天に召された池田ツヤ子姉が一番年上の姉妹がおられました。その姉妹が一番愛読しておられた聖書の言葉は
「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むというこことを。」(ローマ5:3-5)
この言葉は今でも福岡西部教会の目標聖句です。
(3)「信仰の成熟・成長」ということ
 苦難が忍耐を、忍耐は練達を練達は希望を産む、ということこそ、信仰の成熟、信仰の成長」ではないでしょうか。
 私は池田ツヤ子姉のことを思い出すたびに「信仰の成熟」「信仰の成長」を考えさせられるのです。

2.九州バプテスト神学校のこと
(1)私の神学生時代
 私は、神学生時代に、聖書の史的・批判的研究に接しているうちに信仰の根底が揺さぶられる経験をしたことがあります。そのとき、先輩から、「落ちるところまで落ちたらいいじゃないか。主イエスも、『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう』(ゼカリヤ13:7)と言われたじゃないか」とにべもなく突き放され、それがきっかけでたちなおったことがあった。
(2)九州バプテスト神学校
 ①九州バプテスト神学校の使命と目標」――この起草したのは、当時神学科長をしていた私でしたが、――の中に、こういう文章がある。
「主と教会に仕える責任と成熟」の項目――「混沌と混迷を深めている社会や世界の状況に直面しつつも臆することなく、『わたしは福音を恥としない』(ローマ1:16)、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい』(Ⅱテモテ4:2)との御言葉に聴き従いつつ、主イエス・キリストと「キリストのからだ」なる教会に仕える責任性と成人性を備える人材の育成に努めていきたい。時に教会の現場で重い課題や問題にたじろぐような困難に出会っても、御言葉に助けられつつ正面から向き合い、教会を建て上げていく姿勢や感性を養うことを大切にしたい。」
②昨年のスクーリング
「献身」と「信仰の成熟と信仰の成長」について学びました。
 日原広志先生――預言者イザヤの学び。「霊的高揚、有頂天、選ばれた! 聖別された! 強烈な自意識」の初期預言から「挫折・砕かれ自己絶対化の粉砕」を経て、初めて「曇りなき目で、自己宣伝・自己正当化の虚飾なく、ありのままを思い出せる後期」に至り、初めて濾過された召命記事を書くことができたと説明。「挫折・砕かれ、自己絶対化の粉砕」がなければ、召命も献身もないことを学んだ。

3.鬼が人間に変えられる礼拝の場
(1)池明観先生との出会い
 恵泉教会時代、池 明観先生との出会い。韓国のキリスト教思想家、歴史哲学者。朴(パク)正煕(チョンヒ)大統領――今の韓国大統領のお父さん――の独裁時代に弾圧の手を逃れて米国留学の帰りに日本に立ち寄りそのまま、20数年、亡命のような形で日本に滞在。恵泉時代に客員としてほとんど毎週出会うことができた。
 この池先生が説教だったか講演だったか、記憶がはっきりしませんが、こういうことを話された。「人間は、何かのために戦うときに、たとえ善い事のためであっても、必ず堕落いたします。水が高いところから低い所に落ちるように例外はありません」。この言葉に私は大変衝撃を受け、「そんな馬鹿なことが!」と言う怒りの思いがこみ上げてきました。「善いこと」「正しいこと」のために戦ってきたといいう自負心と誇りが私にはあったからです。私は17年間、東京を拠点にして、「子どもたちの健康や生命のために渾身の知恵と力を傾けて戦ってきた誇りと自負心がありましたから。そのショックから立ち直るまでかなり長い時間が必要でした。
(2)礼拝がかけがえのない場所に
 かなり時が経って、腑に落ちるようになりました。「善いこと」「正しいこと」のために戦うときには、相手が鬼であれば、私も鬼にならなければ戦えないし、とうてい勝ち味もないと思っている自分に気づいたのです。
 しかし、考えてみれば、鬼はもはや人間ではありません。当時の私に対して、「あんたは怖い人だなあ」」と言われたことが何回かあります。そんなこと信じられないでしょう? でも本当です。
 鬼はもはや人間ではありません。そのことが分かるようになってから、私にとって礼拝の意味が変わりました。教会の礼拝の座は、私にとり、鬼が人間医かえられる場、鬼が人間、あるいは人間性を取りもどす場所に代わって来たのです。教会と共に、礼拝の再発見になりました。
 ずっと後になって、私は、池明観先生の言葉は、自分自身を語ったのではないか、いや、きっそそうだったのだと思うようになりました。
 鬼になる・鬼にならざるを得ない、この社会と世界の中で、信仰の戦いが始まるのです。

4.神さまの御出鱈目
(1)河野博範先生の言葉
 この言葉は、私が神学校に行っていた時代、西南学院大学の英文学の先生で、「アサ会」の先生であった河野博範先生の言葉です。
(2)人間の出鱈目を神さまが正しくくれる、だから「御出鱈目」
 神さまが出鱈目なのではありません。人間は天使ではありません。教会いも天使の教会ではありません。だから色々問題や課題が起こるのです。
 しかし、その人間の「出鱈目」に対して神さまが正して下さるのです。だから、「神さまの御出鱈目」なのです。
 私は、「神さまの御出鱈目」を心から信じているのです。

祈り
 天地を造られ、歴史を支配され、私たちが生きる時も、天に召されるまで御手によって導いて下さる神、あなたの御名を讃美します。
 教会は天使の教会ではありません。キリスト者もまた、天使ではありません。だから、失敗もしますし、挫折もします。旨くいくときもありますが、旨くいかない時もあるでしょう。神の国の来臨までは旅人の教会であり、旅人に過ぎません。
 私たちは時には「出鱈目」としか言えない出来事も起こるかもしれません。一人一人の人生においても「出鱈目」としか言えないことが起こるかもしれません。
 しかし、愛と恵みに富みたもう主はそんな私や私たちの「出鱈目」さえも生かし用いて、あるいは変えてあなたの示す道に歩むように導いて下さることを信じております。この「神さまの御出鱈目」に示されるあなたの愛と恵みを感謝いたします。
 今週も一人一人をあなたの御旨に従がって歩むようにお導き下さい。
 この感謝と祈りを、主イエス

神様の御出鱈目

2014年06月15日 | 日記
神さまの御出鱈目(おんでたらめ)

2014年6月15日(日)
福岡城西キリスト教会
ローマ8:1-12

はじめに
(1)おはようございます!

1.福岡西部バプテスト教会の池田ツヤ子姉のこと
(1)福岡支部開拓伝道
藤田英彦先生が恵泉教会を辞任され、福岡に転居されたときに、城西教会が中心になり、姪浜・長住両教会と共に、3教会が協働して福岡西部開拓伝を始め、6年目に福岡西部教会が教会組織をし、福岡西部教会が創立しました。そのとき、「株分け」といって、姪浜から3人の姉妹が開拓伝道所に加わり、城西教会から寺園峯子姉が按手をもって加わりました。
(2)姪浜の池田ツヤ子姉
 姪浜からの3姉妹の中に、今は天に召された池田ツヤ子姉が一番年上の姉妹がおられました。その姉妹が一番愛読しておられた聖書の言葉は
「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むというこことを。」(ローマ5:3-5)
この言葉は今でも福岡西部教会の目標聖句です。
(3)「信仰の成熟・成長」ということ
 苦難が忍耐を、忍耐は練達を練達は希望を産む、ということこそ、信仰の成熟、信仰の成長」ではないでしょうか。
 私は池田ツヤ子姉のことを思い出すたびに「信仰の成熟」「信仰の成長」を考えさせられるのです。

2.九州バプテスト神学校のこと
(1)私の神学生時代
 私は、神学生時代に、聖書の史的・批判的研究に接しているうちに信仰の根底が揺さぶられる経験をしたことがあります。そのとき、先輩から、「落ちるところまで落ちたらいいじゃないか。主イエスも、『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう』(ゼカリヤ13:7)と言われたじゃないか」とにべもなく突き放され、それがきっかけでたちなおったことがあった。
(2)九州バプテスト神学校
 ①九州バプテスト神学校の使命と目標」――この起草したのは、当時神学科長をしていた私でしたが、――の中に、こういう文章がある。
「主と教会に仕える責任と成熟」の項目――「混沌と混迷を深めている社会や世界の状況に直面しつつも臆することなく、『わたしは福音を恥としない』(ローマ1:16)、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい』(Ⅱテモテ4:2)との御言葉に聴き従いつつ、主イエス・キリストと「キリストのからだ」なる教会に仕える責任性と成人性を備える人材の育成に努めていきたい。時に教会の現場で重い課題や問題にたじろぐような困難に出会っても、御言葉に助けられつつ正面から向き合い、教会を建て上げていく姿勢や感性を養うことを大切にしたい。」
②昨年のスクーリング
「献身」と「信仰の成熟と信仰の成長」について学びました。
 日原広志先生――預言者イザヤの学び。「霊的高揚、有頂天、選ばれた! 聖別された! 強烈な自意識」の初期預言から「挫折・砕かれ自己絶対化の粉砕」を経て、初めて「曇りなき目で、自己宣伝・自己正当化の虚飾なく、ありのままを思い出せる後期」に至り、初めて濾過された召命記事を書くことができたと説明。「挫折・砕かれ、自己絶対化の粉砕」がなければ、召命も献身もないことを学んだ。

3.鬼が人間に変えられる礼拝の場
(1)池明観先生との出会い
 恵泉教会時代、池 明観先生との出会い。韓国のキリスト教思想家、歴史哲学者。朴(パク)正煕(チョンヒ)大統領――今の韓国大統領のお父さん――の独裁時代に弾圧の手を逃れて米国留学の帰りに日本に立ち寄りそのまま、20数年、亡命のような形で日本に滞在。恵泉時代に客員としてほとんど毎週出会うことができた。
 この池先生が説教だったか講演だったか、記憶がはっきりしませんが、こういうことを話された。「人間は、何かのために戦うときに、たとえ善い事のためであっても、必ず堕落いたします。水が高いところから低い所に落ちるように例外はありません」。この言葉に私は大変衝撃を受け、「そんな馬鹿なことが!」と言う怒りの思いがこみ上げてきました。「善いこと」「正しいこと」のために戦ってきたといいう自負心と誇りが私にはあったからです。私は17年間、東京を拠点にして、「子どもたちの健康や生命のために渾身の知恵と力を傾けて戦ってきた誇りと自負心がありましたから。そのショックから立ち直るまでかなり長い時間が必要でした。
(2)礼拝がかけがえのない場所に
 かなり時が経って、腑に落ちるようになりました。「善いこと」「正しいこと」のために戦うときには、相手が鬼であれば、私も鬼にならなければ戦えないし、とうてい勝ち味もないと思っている自分に気づいたのです。
 しかし、考えてみれば、鬼はもはや人間ではありません。当時の私に対して、「あんたは怖い人だなあ」」と言われたことが何回かあります。そんなこと信じられないでしょう? でも本当です。
 鬼はもはや人間ではありません。そのことが分かるようになってから、私にとって礼拝の意味が変わりました。教会の礼拝の座は、私にとり、鬼が人間医かえられる場、鬼が人間、あるいは人間性を取りもどす場所に代わって来たのです。教会と共に、礼拝の再発見になりました。
 ずっと後になって、私は、池明観先生の言葉は、自分自身を語ったのではないか、いや、きっそそうだったのだと思うようになりました。
 鬼になる・鬼にならざるを得ない、この社会と世界の中で、信仰の戦いが始まるのです。

4.神さまの御出鱈目
(1)河野博範先生の言葉
 この言葉は、私が神学校に行っていた時代、西南学院大学の英文学の先生で、「アサ会」の先生であった河野博範先生の言葉です。
(2)人間の出鱈目を神さまが正しくくれる、だから「御出鱈目」
 神さまが出鱈目なのではありません。人間は天使ではありません。教会いも天使の教会ではありません。だから色々問題や課題が起こるのです。
 しかし、その人間の「出鱈目」に対して神さまが正して下さるのです。だから、「神さまの御出鱈目」なのです。
 私は、「神さまの御出鱈目」を心から信じているのです。

祈り
 天地を造られ、歴史を支配され、私たちが生きる時も、天に召されるまで御手によって導いて下さる神、あなたの御名を讃美します。
 教会は天使の教会ではありません。キリスト者もまた、天使ではありません。だから、失敗もしますし、挫折もします。旨くいくときもありますが、旨くいかない時もあるでしょう。神の国の来臨までは旅人の教会であり、旅人に過ぎません。
 私たちは時には「出鱈目」としか言えない出来事も起こるかもしれません。一人一人の人生においても「出鱈目」としか言えないことが起こるかもしれません。
 しかし、愛と恵みに富みたもう主はそんな私や私たちの「出鱈目」さえも生かし用いて、あるいは変えてあなたの示す道に歩むように導いて下さることを信じております。この「神さまの御出鱈目」に示されるあなたの愛と恵みを感謝いたします。
 今週も一人一人をあなたの御旨に従がって歩むようにお導き下さい。
 この感謝と祈りを、主イエス

教会の誕生日

2014年06月08日 | 日記
起、ペンテコステとは
  キリスト教の三大行事と言えばなんでしょうか。日本人の多くは、クリスマス、・・あるいはイースターまでは答えることができるのではないでしょうか。でももう一つ、ペンテコステという大事な行事があることは知らないでしょう。
ペンテコステとは(別名、五旬祭)とも言われていますが、キリスト教徒はこの日を大事な日として祝ってきました。・・・ちなみに私たち日本社会になじみのないペンテコステという言葉は、ギリシャ語で、・・「第50日目」を意味しています。では、何から数えて第50日目なのか、・・・・それは主イエスの復活から数えて第50日目、ということなのです。・・・・・・そのことに由来し、「ペンテコステ」と言われているのです。そのペンテコステとは実は、教会の誕生日を意味しているのです。


承、聖書の講解
  さて私たちの人生では何かの出来事の前後で、その人の生き方が大きく変わるということがあります。例えば、学生から社会人になったという人の顔つきに、「随分しっかりしたな」、などとそれを感じることがあると思います。また教会でいえば、バプテスマの前後の生き方について、・・日曜日を主日というようになり、その日を主に明け渡す、・・そしてその主日は教会の礼拝に出席する、ということにおいてそう言うことができるのかもしれません。

  実は聖書の物語にもそういうところがあります。ある出来事の前と後とでは、生きかたが大きく変わったのです。そのある出来事というのが、これから取り上げるペンテコステのことなのです。イエスさまの弟子たちは、「聖霊を受ける前」と「受けた後」では、全く違いました。何が違ったのか、・・・それは弟子たちの態度・行動です。・・・例えば、筆頭弟子であったペテロがそうです。ペンテコステの前のペテロにはどこか軽さがありました。・・・しかし、ペンテコステの後では、それがどっこい、・・・不退転の覚悟というか、恐れるものは何もないという態度、・・・そこから貫録さえも感じさせます。そのように変わったのです。

 それでは司式者に読んでいただいた聖書を辿ってみましょう。五旬祭の日、(五旬祭とは、過ぎ越し祭から数えって50日目にあたる小麦の収穫祭のことですが)、・・・その日、弟子たち一同は礼拝を守っていました。「はげしい風」、ヘブライ語で「ルアッハ」と言われるこの言葉は、・・・神の息、・・・・それは天から降って来た霊のシンボル、・・・・それが座っていた彼らの耳に響き渡ったというのです。

  そして「炎のような舌が別れ別れに現れ」、とは、・・・「聖なる言葉」を象徴しています。「それが一人一人の上にとどまった」、とあります。これは一人一人に、・・・聖なる言葉が与えられたことを意味しています。

このようにして「聖霊」、・・・すなわち神との交わりのままに、・・弟子たちは「他の国々の言葉で語りだした」。すなわち、文字通り、いろいろの国の言葉で語る、それは奇跡ですが、・・・・もう一つの解釈は、・・・・全世界に届くような生きた言葉を語り始めた、と言うことができます。・・それは今年度の聖句、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」・・・・・・つまり、「生きた言葉を語り、・・・地の果てまで伝道する」、という神のみ旨の実現に他なりません。

「はげしい風」、・・・それは神の息、・・・それは天から降って来た霊のシンボル、・・・・その聖霊が降ってきたこの日をもってキリスト教会では、・・・教会の誕生の日だとしてきました。・・・・・わたしたち一人一人が誕生日を持っているように、教会も誕生日を持っているのです。この聖霊降臨日が、・・・教会の誕生日なのです。

 そして教会の誕生と同時に、・・・教会は全世界に、「生きた神の言葉」を語る使命をいただきました。誕生日、おめでとう、と言うだけではなく、・・・・おめでたいからこそ、・・・教会は喜んで宣教をするようになったのです。先日の教会創立40周年記念礼拝での麦野達一先生の説教がそれであり、音楽コンサートにおける讃美を通してのメッセージがそのことを意味しています。


転、聖霊を受けるとは、・・・受けたら変わる!
  さて、弟子たちは神の息、すなわち聖霊に満たされました。・・・・・1章の8節に、「聖霊が降ると」、とあることから、・・聖霊とは、・・・私たちの中に上から降ってきて何らかの仕方ではいり込むもの。例えば、コンセントを差し込むと電気が流れるように、何らかの仕方で、・・・・・聖霊が流れ込んでいく、・・・聖霊を非人格的な神の力やエネルギー見たいなものを考えがちだと思います。しかし、その考えは明らかな間違いです。・・・聖霊はこうした非人格的なものではなく、・・・・人格なのです。ですから、おどろおどろしい精霊(しょうりょう)と違うのは言うまでもありません。・・・・そうではなく、・・・聖霊とは、わたしたちのもとに来て、私たちの中に住む、・・・「ある者」、・・・すなわち考え、認識し、行動する人格なのです。

  ですから「聖霊が降る」とは、・・・すなわち私たちの側において、人格なる人を心に迎え入れるということなのです。だからこそ、弟子たちは聖霊を迎える前と後では大きく変わったのです。筆頭弟子のペテロの変わりようは、2章14節以降に詳しく記されています。・・・・かって、「お前はイエスと一緒にいただろう」、と尋問され、自分の身を守るために、「いいや、違う。そんな男は知らない」、とイエス様を裏切った「あの男」と同一人物かと、言うほどの変わりようです。それは他の弟子たちについても同様です。

ですから彼等のことはこうも言えます。イエスさまの、 弟子から、・・・聖霊を受けて、・・・イエスさまを伝える、  「使徒」になったと。
使徒となったので彼らは、・・・・「イエスさまは、いつも弱い人の味方だった」、とイエスさまの人となりを語り、・・・・そしてまた「イエスさまは沢山の人を救ってくださった。にもかかわらず、その見返りはあろうことか十字架の死だった。しかし、そのイエスさまは3日後、復活されて今もここで働いてくださっている」、と。・・・・イエスさまが、何をされたか、そして今何をされているか、を語るものへと変えられたのです。・・・・このことを「どこでも」、「誰にでも」伝えるものになったのです。・・・もう、何物をも恐れないとばかりに。

そのことをもっと続けて語りましょう。・・・「弟子たちは、復活の主と40日間も一緒にいながら、まだ、能天気に『イスラエルのために国を立て直してくださるのはいつの日ですか』と聞いています。・・・・・・弟子たちは復活の主に遭いながらも、・・・・未だ目に見える形のイスラエルの救いを、・・それはローマ帝国からの独立を意味しますが、・・・そのこと、「しか」見えていませんでした。

しかし、聖霊を受けてからは、彼らにおいて、・・・この受け止め方は一変するのです。
何度も何度も読んでいたイザヤ書53章に預言されていた苦難の僕のことが、・・・誠にこの人のことだった。・・・・「あっ、そうなのか」、・・・・イエスさまこそが、イスラエルを救うと預言されていたその人だったんだ、という認識。そしてまた主イエスにおいてその預言が成就したんだ、という認識になったのです。つまり、彼等は変わったのです。

弟子たちは、ここで初めて、イエスさまがどうしてこの地上に来られたか、その理由を悟りました。と同時に、異邦人を含むすべての人に及ぶ救いの福音を、・・・・丁度、沢を迸る渓流のように、・・強烈ナエネルギーと共に伝えたのです。先ほど少し、ご紹介した2章の14節以降のペテロの説教を読めば、そのエネルギーが私たちにも伝わってくるのではないでしょうか。

わたしたちにも、ここまではいかないにしても、・・・ 聖霊の導きによりバプテスマを受けて、・・それまでは「日曜日」と言っていたのが、主の日、・・「主日」というようになり、・・・・もうこの日は自分の時間をすべて神様に献げるようにしようと決意するように変えさせられたのです。


結、聖霊を送る・・・共にいる!
 さぁ、聖書は一貫して「神さまが共にいる」、ということを語ります。例えば、神さまは、奴隷の状況にあるイスラエルの民を救おうと決意され、リーダーにモーセを立てようとされました。ところがそのモーセは「私には荷が重いです」「私は口下手でとてもリーダーなんて無理です」、とそう固辞しました。すると神は「私が共にいる!・・・だから、心配しないで受けなさい。大丈夫」、とそう言われました。

また、わたしは病気見舞いの時、必ず読む聖書箇所があります。それは旧約聖書ヨシュア記の1章5節―6節です。・・・・・神さまが、モーセの後継者となったヨシュアという人を力づける箇所です。・・・ヨシュアもまた、あまりにも偉大なモーセの後で、自分が指導者になるなど、とても無理だと、モーセと同じように尻込みをしたのです。・・・・・苦境の中にあったヨシュアの心の中を見通された神は、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。・・・・・あなたを見放すことも見捨てることもない」「強く雄々しくあれ」・・・・と言われます。この言葉は苦境の中にある人への神の言葉なのです。

「あなたと共にいる」、という聖書の言葉を受けて、私たちも「神さまが共にいてくださる」、という祈りをよくします。・・・・共にいてくださる神は、共にいてくださるイエスさまと同じであります。なぜなら「インマニュエル」と呼ばれたイエスさまは、「神は我々と共におられる」、という意味だからです。
そのイエスさまは、ご自分が天の父なる神のみ元に帰り、弟子たちと別れなくてはならない、その時が来たことを悟っておられました。だからこう言われたのです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)・・この「別の弁護者」と言うのが、「聖霊」のことなのです。・・・・・だから今、私たちが「神が共にいてくださる」と言う時の神とは、この別の弁護者なる聖霊のことを指します。そしてその聖霊は、また人格者なるイエスさまご自身のことを意味しているのです。

 その弁護者なる聖霊は人間が語る言葉を、神の言葉たらしめてくれるのです。わたしは今、こうして語らせていただいていますが、・・・もし、ここに聖霊の満ち溢れがなければ、・・・・それは、「私の語り」であり、政治家や時節評論家の語りなどと同じです。
しかし、ここに聖霊の満ち溢れがあるなら、・・私という人間の語る言葉が、神の言葉とされていくのです。・・・・・それゆえ、聖霊の満ち溢れを祈らないわけにはいかないのです。また、同様に聞く側にも、聖霊の満ち溢れがあるなら、・・・・ 、神の言葉となって心に入っていくのです。
 
 ペンテコステ、・・・「聖霊降臨日」、・・・・「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)


 お祈りしましょう。
主なる神様、・・・今日のペンテコステ礼拝をありがとうございます。神様やイエスさまについてはわかりやすくても、聖霊についてはわかりにくい、という感想をよく聞きます。しかし、今日の説教を通しあなたが教えてくださったので私たちの理解は少し前進したように思います。また聖書には、「聖霊によらなければ、誰も主と告白できない」というみ言葉があります。・・・どうぞ、あなたが私たちに働いてくださり、「あなたを主と信じます」、との言葉を言わしめてください。
 今日の聖霊降臨日礼拝を感謝して 主イエスキリストの名を通して祈ります。   アーメン。