聖書個所:創世記4章1節-18節
1. はじめに
このところ、幼児が親から殺される、あるいは小学生の子どもが殺されるなどの殺人事件が相次いで起きています。わたしの実家方面の筑後市でも、何人もの人が行方不明になっていて、その一部が明らかになってきました。どうも大部分が殺されているようです。今日、凶悪な殺人事件も何も大都会だけのことではなく、どこでも、田舎でも、・・起きるようになったと実感さられています。
さて、先程読んでいただいた聖書の個所は、人類最初と言われる殺人の物語です。もちろん、世界史が記すように、あるいは殺人事件で司法が記録するように、何年、何月、何時、・・・どこで、・・・・というようなことではありません。・・・・しかし、物語ではありますが、いゃ物語だからこそ、・・・語られていることの本質を、・・枝葉無しで、幹のままを見ることができる、と言えましょう。
2.聖書から(その1-献げもの)
聖書によれば、アダムとエバに二人の息子が誕生しました。そして長男は、「カイン」という名がつけられ、次男には、「アベル」という名がつけられました。長男のカインは、土を耕すもの、農業の初めの者となりました。次男のアベルは、羊を飼う者、・・すなわち牧畜を生業とする初めの者になりました。・・・何年かの後、彼等はそれぞれが自分の収穫したものを、神さまに献げました。
カインは、「土の実り」、・・・・つまりそれは、主要産物の小麦かもしれません。あるいは果物のナツメヤシかもしれません・・・想像するしかないのですが、とにかく農産物を献げたのです。一方、アベルは、羊の群れの中から、「肥えた初子」を献げたのです。
・・・・・ところが、この時、この兄、カインにとって、とても重大な出来事が起こりました。神さまが、「アベルとその献げ物には目を留められた」が、一方、「カインとその献げものには目を留められなかった」、というのです。・・・・・つまり、カインは神さまに無視された、ということができるかもしれません。・・・二人が心を込めて献げたものを、・・・カインに対しての神さまの態度はあまりも冷たいではないですか!・・・・・神さまの対応がわかりません、と。・・・・、と私たちならそう思うかもしれません。・・・・ところが2000年前のクリスチャンは、そうは思わなかったようです。昔、ある人はこの箇所を、「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」、と解釈しました。その根拠となったのが、アベルが、「羊の肥えた初子を持ってきた」、という記されている言葉です。一方、カインの場合は、「土の実りの『最初のもの』」、とは記されていません。だから、「まぁ、一杯あるから神さまの所に持っていった」、という解釈になったのかもしれません。いずれにしても初代のクリスチャン達はカインの信仰を評価していません。だから、神さまがカインを顧みられなかったのは、「当然」、という解釈をしているのです。
実は、私はここに、微妙に、・・・私たちの日本人の伝統的な神観、・・「神様への思い」とヘブライ人の神観の違いを思わされます。わたしたちの伝統的な神観では、神さまと人間の距離が近いような気がします。だから、このケースでは、・・・「神さまの仕打ちはひどい」、と神さまを人間レベルにしてしまう、そういう気がします。その根っこには、人間が神を造る、という文化があるからではないか、と思うのです。・・・・例えば、学問の神、・・安産の神、・・・戦いの神など、・・・これらはすべて人間が造った神です。神さまが最初に存在していたのではなく、人間によって神が造られたのです。具体的な一例をあげるなら、学問の神と言われる大宰府天満宮は、大宰府に流された菅原道真を人々が神にしたのです。
一方、キリスト教の神、「ヤーウェ」の神は、天地を創造した神です。人間も第6日目に造られました。造られた人間は、自分達の神、「ヤーウェ」を聖なる文字だとして直接、その名を呼ぶことはできませんでした。畏れ多かったのです。神の名を呼ぶことさえ、恐ろしいとして呼ばなかった人達が、「神さま、ひどいじゃないですか 冷たいじゃないですか」、などというのでしょうか。
・・・・・日本社会においては自分の都合に合わない神は、人間が捨てることができる、そういう側面を持っています。だから大宰府天満宮以外に、もっといい学問の神があるならば、その神の所に行くことに何の躊躇もいらない。・・神を選ぶのは人間、・・・だから神は人間にとって相対的存在となるのです。
しかし、ヘブライ社会の神は、神ご自身が、「私があなたを選んだ」、と言われる。そこには神の絶対性がああります。
・・・・・だから、「カインとその献げものには目を留められなかった」、というこの箇所を、・・・・彼らとしては、「そうなんだ」、とただそう受け止めるのでしょう。
しかし、カインはそうは思いませんでした。「激しく怒って顔を伏せた」、とあります。「何で、依怙贔屓をすれるんだ! ひどいじゃないか!」・・・・・と一瞬、こう思ったのでありましょう。・・だからカインは激しく怒ったのです。 カインはその内なる感情を留めおくことはできず露わにしました。おそらく顔は怒りで真っ赤になり、顔つきも歪んでいたのかもしれません。でも・・・・流石に、・・・神さまの手前、顔だけは伏せたというのです。
3.聖書から(その2-献げる物への受け取り・評価)
そして人類最初の殺人と言われることが起きたのです。カインは弟アベルを襲って殺したのです。どういう仕方で殺したのか、・・・農機具の鍬をアベルの頭上に振り下ろしたのか、あるいは首を絞めたのか、それについては何ら書かれていませんが、・・・・それはある意味、どうでもいいことなのでしょう。
しかし、何がカインにそうさせたのか、そのことは大事です。もし、カインが、「神さまは依怙贔屓している」、と思ったとしたら、・・それならカインは、自分の怒りを神さまに向けなくてはなりません。しかし、神さまは名を呼ぶことさえも憚られる方、・・・・カインもそう思っていた、・・・だから、カインの怒りのエネルギーは、怒りの矛先は、弟アベルに向かったのです。・・・・そして神さまに、献げものを顧みられた弟アベルに対する激しい嫉妬となり、・・・・・カインは弟アベルに手をかけて殺したのです。・・・人類最初の殺人と言われながらその動機は、「依怙贔屓された」、という程度の、・・・よくある小さなことです。一人の人が人を殺すという時に、・・・考えに考え抜かれてその上で殺したというより、・・・・このようにかっとなり、感情のまま殺した、ということは少なくありません。一方で、命は地球より重たいなどと言いながら、人間はちょっとした動機で人を殺すのです。
こう見てくると我々の行動というものは、起きた出来事を、・・どう思ったのか、どう受け取ったのか、・・その結果のことだということがわかります。だから、もしカインが、「神さまは絶対、依怙贔屓されない方だ、・・これには神さまの方に何らかの事情があるのでは」、と受け取っていたなら、・・・・ここまでの行動にはならず、ましてやこの結果も起きていなかったのではないか、と思うのです。
この物語を私たちに引き寄せていうなら、これは「評価」の問題だ、・・・神さまが二人の献げもの、二人ご自身を評価された、その物語だと読むこともできます。
そして評価と言うならば、今日、ここに来て下さったチャペルクワイアの方々も、来年か、数年後には社会にでて、本格的に評価される立場になられる訳です。わたしもサラリーマンを33年経験して、その間、ずっと、・・・評価され、また管理職となり部下を評価してきました。
「評価され」、ということでいうなら、わたしもカインのように、「不当な評価だ!この上司は何もわかっていない!」、とそう思ったことはサラリーマン人生、1度、2度の事ではありません。おそらく多くのサラリーマンも私と同じ経験をしています。ただ、わたしはカインのように上司を殺すことはしませんでしたが・・・・・。
また、「評価してきた」、ということでいうなら、私も中間管理職でしたので、部下の評価をしてきました。・・・・結論から言えば、「評価は難しい」、「悩ましい」、というのが私の結論です。なぜなら評価は単純に数字だけではないし、単純に今の結果だけのことでもない、将来のことをしているか、どうか。・・・・単純に、本人が持てる能力を十分に発揮したか、それだけのことでもない、周囲を生かしているのか、そういう要素もあるのです。・・・・だから、評価、というものは単純ではない、とそういうことができます。そして、また、時として評価には、・・・される人の人生がかかってくることもある、・・とそこまで考えるなら、・・評価は責任の伴う大変重たい仕事、とそう言わなくてはなりません。・・・・・
ともあれ学生の皆さんは、社会に出れば、取りあえず評価される立場になります。評価について語ろうとするならもっともっと語ることができますが、今日はそこまでの時間がありません。・・・社会にでれば、「不当だ」、と思われる評価を必ず受けます。その時は、勇気をもって上司に尋ねてください。カインは神さまにそうしませんでした。そうするためには日頃、いい上司とコミニケーションの関係を作っておくことです。きっと、カインは神さまとそういう関係を作っていなかったのでしょう。
4.それでも神は救う
聖書に戻りましょう。神さまはアベルを殺したカインに向かい、「お前は、地上をさまよい、さすらう者となる」、と言われました。これは神による裁きです。神さまは、人を殺した者には、殺した行為に相当する罰を与えられます。その裁きの言葉を聞いたカインは、「私の罪は重すぎて負いきれません」、と告白しました。ここからはカインの深い後悔と真摯な態度を読み取ることができます。そしてカインは、「もし、あなたが追放されれば、わたしに出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう」、と人々の報復をも訴えました。ここからはカインの深い恐怖心を読み取ることができます。
しかし、・・・それに対して神さまは、「そりゃ仕方がないじゃないか、お前が播いた種だろう、それは自分で刈り取れよ!」、とは言われませんでした。・・そうではなくて、「お前に誰も、手を出さないように、お前の額に印をつける。・・・・・そしてこの印の付いている者には絶対、手を出すな!」、と言うから。・・・・こう言われたのです。・・・これは神による護りです。・・・・罪を犯したに関わらず、こうしてカインは赦された罪びととしての生涯をおくることになったのです。
そしてこの物語のこの部分には、・・・天と地を創造された神、人間イエスとしてこの地上に降りてくださった神、・・・・・この神さまがどういうお方なのか、そのことが良く示されています。
神さまは、「神に向き合う存在」として創造された人間との関係をみずから断ち切ろうとは、絶対になさらないと、言うことです。確かに、カインの犯した罪に対して裁きをなさいました。殺人事件の審判ですからそれだけでも良かったかもしれません。しかし、神さまはカインに対し、カインに印をつけることにおいて、み放すこともみ捨てることもないさいませんでした。カインとの関係をしっかり護られたのです。ですからここに、「ああ、やっぱり神さまは愛なる方だ」、という神さまの本質をみてとるができるのです。
その神さまは、「最初から」カインを愛しておられたのです。・・・・この「最初から」が大事なことです。・・つまり、カインが深い後悔と真摯な悔い改めをしたから、・・愛されたのではなく、・・・・その前から、つまりカインが生まれたその時から、・・・神はカインを愛しておられたのです。・・・・・だから福音と呼ばれるのです。
・・・ここには、「私は神さまなど知りません」、という方もお出でだと思います。・・実は私も西南学院大学の卒業生ですが、・・・かく言うも私も学生の時代、・・チャペルなどには一度も出たことがなく、「神さまなど知りません。神さまなどいません」、とこうそぶいていた一人です。しかし、そういう私をも神は見捨てず、み放さず、・・そればかりか・・・後に、こんな不信仰な私のような者に、「お前は牧師にならないか」と声をかけてくださったからです。・・・・だからわたしも「最初から」、神さまに愛されていた一人だと、いうことができます。
この神の愛を知ることは、人生において大きな助けとなります。神さまは確かに、カインの殺人という行為については罰を与えられました。しかし、カインの存在については何も罰を与えられていません。・・・・カインは、神さまに無条件に承認されているのです。愛は無条件の存在承認なのだ、ということができましょう。ここが大事なことなのです。
・・・・・人生において自分の能力に対して無力感を感じることは多いです。自分の能力の否定は、自分の存在の否定と繋がりがちです。先日、私の前勤めていた会社が博多駅前にあり、そこで九州支店長と話す機会がありました。その支店長が、「最近の新入生は成績優秀だけど、ちょっと叱ると傷つき、しゅんとなる」、と嘆いていました。つまり、叱ること、それは「行為の否定」でしかないのに、「自分はダメだ」、と人格の否定にまでつながってくる、というのです。・・・・神さまの愛とは、・・・・わたしの能力遺憾に関わらず、そういうものとは関係なく、・・・・わたしはあなたを愛している、・・・・これが神の愛の、・・・私たち人間との関係おいて・・本質だということができます。・・・ここが大事なポイントです。・・・人生で一人涙する時、・・「私はあなたを愛しているよ」、というこの神の声が聞こえてくるに違いありません。・・・・・・多くの人が証言するので、これは間違いありません。
・・・・神は愛!・・・み放すことも見捨てることもない!
お祈りしましょう。
カインとアベルの物語を通して、神の裁き、・・・そして裁きを越えた神の愛について学びました。神さまが、「神の独り子、イエスさまを十字架差し出すほどまでして」、・・私たちを愛してくださっていることを、ここに思い起こし、心から感謝します。・・・・人生で孤独に思えた時、「わたしはあなたと共にいる」、と語りかけてくださる神の臨在を知ることができますように・・・・・例え自分が無価値に思えた時、「神さまはみ放すこともみ捨てることもなさらない」、・・・・「存在を無条件に認めてくださっていること」を思い起こすことができますように。
これらの祈りを、・・主イエス・キリストの名を通して祈ります。 アーメン。