Irish Pub TULLAMORE<タラモア>

代々木八幡のアイリッシュパブ タラモアです。
ここではお休みとイベントの情報を中心に。日々のことはFBで発信してます。

屋号Tullamoreの由来

2005-09-25 13:53:30 | COLUMN
「ところで店名のTullamoreって何ですか?」ってよく聞かれます。とりあえず「アイルランドの地名です。」と答えます。が、当然相手はそんな回答で納得してくれる筈もなく「で、何故(数あるアイルランドの都市の中で)Tullamoreなの?」と突っ込まれます。こちらは何となく後ろめたい気持ちになりながらモゴモゴと「えっ、あっ、いやあ、ウイスキーのTullamore Dewが有名なんで。。」と返すと、相手は「ふーん。」って感じになってそれ以上話が膨らむことはありません。
そうなんです。赤裸々に真実を告白すると、実は我々はTullamoreに行ったことがないのです。件の問答に於いて、相手が期待している回答は、「いやあ、祖母がアイルランド人でTullamore蒸留所の出納係長だったので夏休みにしょっちゅう遊びに行ってました」とか、あるいはせめて「旅行でTullamoreに行った際に入ったパブO'BrienでFinnという奴と知り合って今では無二の親友になったので」ぐらいのストーリー性のある回答だと思います。皆様の期待に応えることが出来なくて大変申し訳ないと思いますが、残念ながら我々とTullamoreを結びつける必然性はウイスキーのTullamore Dewぐらいしかなく、そこには人様に話して聞いていただくようなストーリーは何もありません。残念。

Tullamoreという名前は村上春樹さんの本「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」をパラパラと読んでいるときに思いつきました。当時、我々はPub開業を前に必死で屋号を考えていた(探していた?)わけですが、これといったものも思い付かずに焦っておりました。我々がPubの名前の条件として考えたのは、①日本人に読みやすく、覚えやすい②アイルランドに関係があるが、コテコテのアイルランド的ネーミングではない③それでいて在日アイルランド人に一応納得してもらえる名前、というものでした。その村上さんの本はアイラとアイルランドの蒸留所を巡る紀行文ですが、その中に、アイルランドのある町のパブで老人が一杯のTullamore Dewを飲み干す様を描写(?)した文章があり、そこでTullamoreという地名を思い付き、「行ったこともないけどウイスキーで有名で①-③を満たしそうなので、これでいいか」って感じで決めました。そのときに4つ目の条件として「ストーリー性のある名前」、というのを付け加えていたとするなら当然別の名前になったでしょうね。というか未だに決まっていないと思います。

Tullamoreには行ったことがない、と書きましたが、正確に言うとTullamoreを通過したことはあります。GalwayからDublinまでの列車の路線にTullamore駅はあり、僕は車掌さんがタラモアー~ってアナウンスしているのを記憶してます。妻のYukaは覚えていない、と言いますが。あのときに列車を飛び降りてTullamoreで1、2泊すると何かストーリーを捏造することは出来たのでしょうねえ。いつか行って見たいと思ってます。

開店して4ヶ月余り、ときどきTullamore以外でどんな名前が良かったかを真剣に考えますが、未だに何も思い付かないので、やはりTullamoreで良かったと納得している次第であります。名前にストーリーはないけど、Pub Tullamoreのストーリーをこれから作っていきたいものですね。なんちって。



ゲイトマウスその後とTullamoreのBGM

2005-09-18 13:51:49 | COLUMN
9月15日のTullamoreはゲイトマウス・ブラウン・デーということにして、サイン入りブロマイドをバックカウンターの中央に設置、音楽もゲイトマウスご本人のCD・LPに加えて、本人にゆかりのあるミュージシャン達(Tボーン、アルバート・コリンズ、コーネル・デュプリー、ライトニン等のテキサス系ギタリスト)のCDを特集しましたが、誰一人として反応するお客さんはおられませんでした。悲しい。何十年に一人出るか出ないかの天才的なブルース・ギタリストなんですがねえ。。高田渡さんの特集をやれば大反響間違いなしだと思いますが、さすがにIrish PubのBGMとしてはまずいかなと思っております。

ところで、Tullamoreではその日にかけるCDをバイトのタケちゃんがセレクトすることになってます。CDの在庫ですが、数えたことはないので詳細は不明なるも少なくとも1000枚以上はあるでしょう。その中には、ロック、フォーク、R&B、ブルース、ソウル、ジャズ、TexMex、キューバ系、サルサ、カリブ系(カリプソ、スカ、マルチニーク)、ブラジル、アイリッシュ、ハワイ、日本等の雑多なジャンルのCDが含まれております。
一応おおまかなガイドラインとしては以下になってます。

①Irishばっかりかけるとその筋の愛好家の溜まり場になるので各ジャンルを満遍なくかけること
②でも一応Irish Pubなのでたまに何枚かに一枚くらいはIrishを混ぜるのが望ましい
③但し、サルサとハワイと日本は避けたほうが良い

上記ガイドラインに基づいて毎日タケちゃんが15-20枚くらいのCDをセレクトするわけですが、好きなCDが選べたりするのって楽しそうですよね?ところが実際にやってみると結構大変で、当日のCDをセレクトしプレイヤーにセットするだけで20分くらいかかる重労働なのです。これが嫌で僕がバイトのタケちゃんにCDセレクトの仕事を押し付けている、という噂もあるようです。おまけにセレクトしたCDのラインナップを毎日僕がチェックし、「ふーん」とか「へー」とか「最近ちょっとワンパターン?」とか嫌味を言われるタケちゃんも大変だなあとつくづく同情します。たまに営業終了間際にとんでもないの(たまにあるんです)がかかったりして、翌日Yukaにも嫌味を言われたりすることもあるしね。
まあそれはともかく、本日もタケちゃん入魂のセレクトによるCD達がTullamoreに彩りを添えます。皆さんも時折変な音楽がかかるIrish Pub Tullamoreを楽しんでください。






ゲイトマウス・ブラウンと高田渡

2005-09-15 12:48:45 | COLUMN
テキサス・ブルース・ギターの名手クラレンス・ゲイトマウス・ブラウンが亡くなりました。81歳とのこと。
昨年から癌で闘病生活に入っていたようで、8月末にカトリーナが上陸する前にLouisiana州Slidellの自宅から故郷Texasの兄弟の家に避難し闘病していた模様ですが、Slidellの自宅崩壊の報を聞き、バンドメンバーが言うには「生きる意思をなくし」てそのまま帰らぬ人となったようです。9月10日のことです。詳しくはこちらを。http://go.reuters.com/newsArticle.jhtml?type=entertainmentNews&storyID=9619790&pageNumber=0
まあ、カトリーナうんぬんに関係なく、そんなに長い命ではなかったのでしょうが、ハガネのような精神力(と肉体?)を誇ったゲイトマウスが「生きる意志をなくした」というのはなんとなく寂しいものです。

今年亡くなった偉大な音楽家としては、4月の高田渡さん、9月のゲイトマウスで2人目になります。二人に共通するのは、僕が両者のサインを貰ったことがある点です。というか、人にサインをお願いしたのはこの二人だけです。
渡さんのサインは、7-8年くらい前に渡さんのレコード(Fishing on Sunday)がアナログで再発されたのを吉祥寺で購入して、そのままHavana Moonというバーに飲みに行ったらカウンターの隣に渡さんが飲んでいて、買ったばかりのレコードにサインしてもらったものです。「来月あたりは中古レコード屋に流れてんだよね。これ。」なんて言いながらサインしてくれました。
ゲイトマウスの場合は、1992年だったと思いますが、現在は曙橋でMambo Barという店を経営している三井 尚武氏と二人でNew Orleansに遊びに行ったときに現地で観たライブでサインを貰いました。今どうしてもその店の名前が思い出せませんが、普通の小さなクラブの最前列(ゲイトとの距離は推定4-5m)でゲイトマウスのプレイを初めて目の当りにして、ギター弾くのをやめたくなるくらいの衝撃的を受けたものです。当時でゲイトは68歳かそこらでしょう。ライブは前半後半の間に中休みがあって、その中休みになるとバンドメンバーがクラブのテーブルにゲイトマウス・グッズを沢山並べます。CDやらバッジやらブロマイドやら。それを順番に並んで買うと、支払い所の横にゲイトマウスが待っていてグッズにサインしてくれるという仕組みです。僕はブロマイドを買ってサインしてもらいました。思い切って握手の右手を出すと、なんとゲイトは左手で握手に応じてくれたのであります。なんかへんてこりんですが、とにかくゲイトと握手をした数少ない日本人だと胸を張って生きております。

渡さんはライブは通算で7-8回見に行ったと思うし、ひょんなことから個人的に接する機会にも恵まれたりして、Liveのトークのネタにも使ってもらったりしました。昨年、自宅から吉祥寺駅に向かうバスに乗っているときに、吉祥寺駅前のいせや(焼き鳥屋)で昼間から飲んでおられるのをバスの中から見たのが僕が渡さんを見た最後です。
ゲイトマウスについてはその後3回くらい日本でライブを見てます。一回は六本木、もう一回はたしか日比谷の野音、最後に見たのは、おととし12月の新宿パークタワーでのライブだったと思います。あのときで79歳でしたが、やりたい放題やって人生怖いものなし、という感じでしたが、ゲイトも人の子、癌とハリケーンには勝てなかったようです。


パブリカンの一日

2005-09-11 15:57:35 | COLUMN
パブを始めて4ヶ月経ちますが、その間に色んな知人・友人がTullamoreを訪れて下さいました。僕も妻も元はIT関連企業に勤めていたのでその関係の元同僚なんかも知人に多いわけですが、決まって皆が尋ねてくる質問は「何時に起きて何時に店に入って何時に店を出て何時に寝るか?」というものです。どうやら飲食関連の仕事に就いたことの無い人は、こういう水商売の生活サイクルに大変興味があるらしい。言われてみれば僕自身もサラリーマン時代に店に人にそういう質問をしたことがあるかも知れない。という訳で今回は秘密のベールに包まれた我々パブリカン(というらしい)の生活を特別に公開しちゃいます。

Irish Pub Tullamore店主の平均的な一日

am10-11時 起床 (割と流動的ですが大体こんなもんです。)
*風呂(シャワー)、新聞、メールのチェック、会計システムへの前日分の売上・経費の入力、スカパー放映予定のチェックをこなし、時間が余れば本か雑誌を読む。

pm1時半頃 家を出発
*大抵の場合は家の近所のスーパーで野菜等を買っていく。店の近くのスーパーは異常に高いため。

pm2時過ぎ 入店
*昼食は店で食べる。それも近所の弁当屋とかで買ってきたお弁当或いはお惣菜。「品質チェック」の一環として、ギネスなんかも試飲してみる。食事後は昼寝したり音楽聴いたりしてリラックス。

pm3時過ぎ 業務開始
*足らない物を買い足したり、仕込みを始めたりする。

pm4時 営業開始
*開店後すぐはお客さんはあまり来ないが。


am0時半頃 営業終了
*閉店時間は0時ですが、実際は30分くらい余分に営業してます。

am1時過ぎ-1時半 後片付け終了
*売上確認及び売上額のシステムへの入力を行う。その後「品質チェック」のためのビール1パイントとともに賄いを食べる。実際は賄いを作らない日も多く、近所の弁当やおにぎりを食べることも多い。或いは向かいの居酒屋塩梅や家の近所のバーで食事を取ることもある。

am2時半ごろ 店を出る
*店から家までは自転車で約20分。坂があってキツイ。

am3時ごろ 帰宅
*軽くシャワーを浴びる。たまに軽くウイスキーを飲むことがある。

am3時半頃 就寝

という感じです。睡眠時間は大体6-7時間ぐらい取っているように見えますが、これはあくまで月-木のケースであり、金・土は午前2時までの営業なので就寝時間はそのまま2時間くらい後ろ倒しになります。従い平均5-6時間でしょうか。サラリーマン時代は大体午前1時半-2時くらいに寝て7時半に起きてましたので、睡眠時間だけを見ると特に大差ない、と言えます。
ちなみに上記はあくまで僕の生活パターンであり、妻の場合は若干異なります。どのように異なるかも含めて妻のケースも載せたいのですが、勝手に載せると怒られそうなので、今回は自重しておきます。







ニューオーリンズ

2005-09-04 14:07:58 | COLUMN
皆さんもご存知の通り、アメリカのニューオーリンズがハリケーンの影響から洪水、そして現在は無法地帯と化しているとのことです。アイリッシュパブとニューオーリンズは全く無関係ではありますが、個人的には3回訪問したことがある大好きな街があのような状態になるのは大変辛いことであります。

初めてニューオーリンズを訪れたのは多分1987年の3月ごろですから、18年前ということになります。そのとき僕は大学の春休みを利用して一人でアメリカをうろうろする旅をしていました。アメリパスというグレイハウンド(長距離バス)の格安チケットを手にLAから各地を転々としてニューヨークまで行ったのですが、ニューヨークは氷点下になろうかという寒さの上に財布をひったくられたりして気分が滅入ったので、「もうイヤ。暖かいところに行きたい。」と思って滞在予定を繰り上げてバスで丸一日以上(だったと思う)かけてニューオーリンズにたどり着いたであります。
初めてニューオリーンズに降り立ったとき、ニューヨークとは打って変わっての暖かさと何とも言えないユルいというかヌルい感触がしたのを良く覚えていて、それですっかり気に入りました。バスディーポから街の中心部まで歩く道すがら、人々がちゃんと信号を守っている(注:ニューヨークの人は信号を守らない。)のを見るにつけどこかホッとした気分になったものです。
というわけでとにかく第一印象が良かった街です。後になってから、実は凶悪犯罪発生率は全米でも屈指でニューヨークなんかと比べても遜色がないこと知り、また数年後に旅行した際に貧困層の居住区に紛れ込んだりしてこの街の現実の一部を目の当たりにしたのですが、それでも僕にとっては最初に感じたヌルい感じが忘れられず、それ以降今日に至るまでの18年間にわたり個人的全米好感度都市No.1の座をダントツで守り続けたわけであります。

そのニューオーリンズが悲惨な状況になっているという現実に直面して自分がどういう行動を取ったかと言うと、どういう訳か名物料理のガンボを久々に作りました。今週のスペシャルで出そうと思ったのですが、事務手続きに手間取り(注:スペシャルをメニュー化する際の店内プロセスがうまく行かなかったこと指す)、結局メニュー化しないまま週を終えてしまいました。今週また作るかも知れませんし、作らないかも知れません。こういう形でしか街の復興に向けて行動できないというのも情けないものです。でも街がどんなに無法地帯化し壊滅状態になろうとも、個人的全米好感度都市No.1の座はいつもダントツでニューオーリンズであります。