誰ともすれ違うことなく、県道をさらに進むと、犬飼の滝を近くに見渡すことができる滝見台に至ります。滝見台から見上げた高台に和気清麻呂を祀った「和気神社」があると聞いていたので、早速詣でることにしました。いくつもの階段を上っていくのですが、途中で土砂崩れになっている箇所があります。先日の台風14号によるものでしょうか。
階段を上り詰めると、そこは藤棚がある公園になっていました。和気清麻呂の生地は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)で、そこにも和気神社がありますが、藤野郡は名のとおりの藤の名所です。今も日本最大の藤棚があり、春には盛大に「藤まつり」が行われるそうで、そちらに肖ったのでしょうか。
公園の向こうの杉木立に「和気神社」の赤い鳥居が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d4/15cecce9989ed3dc4e351aec14826d5e.jpg)
参道の奥に拝殿が見え、思ったよりこじんまりしています。Tomotubby たち以外は誰もいない、時間が止まったような場所でした。どうしてこんな場所に和気清麻呂の神社があるのか疑問だったので、歴史を紐解きました。
時は奈良時代。女帝孝謙天皇の病を(怪しげな)宿曜秘法で癒し、帝の寵愛を得た僧、弓削道鏡は大臣禅師、太政大臣禅師、法王と位を上り詰めます。宇佐八幡宮で道鏡を皇位につけるべき旨の神託があったと奏上させ、道鏡は自ら皇位につこうとします。
皇位継承に関わる由々しき問題ゆえに、和気清麻呂が神託の真否を問いに宇佐八幡宮に派遣されます。都に戻った清麻呂は、皇位承継者は皇統から選ぶべきと、道鏡の即位を阻む内容の神託があった旨を奏上しますが、逆に天皇の怒りをかって、小学生のいじめの如く、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という変な名前に改名させられたうえ、大隅国、つまり現在の鹿児島県へと流刑になりました。
これが西暦769年に起きた「宇佐八幡宮神託事件」です。
それから時を経ること1100年、幕末時代、上京した薩摩藩主島津斉彬は、三条実美から和気清麻呂が流刑になった場所を調査して欲しいと依頼を受けます。島津家の助力により、その地が現在の牧園町妙見と特定され、藩主斉彬は石碑を建てたのでした。この石碑は和気神社の前に残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/97/adecb0d56628cb3ddfc09497082c1bd5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/ed/f57a6e9c6f898519355996803a574ad6.jpg)
和気神社には、狛犬の代わりに一対の猪が鎮座しています。これは、流刑になった和気清麻呂が宇佐八幡宮の近くまで辿り着いたときに脚が萎えて歩けなくなり、その窮地に突如として300頭もの猪が現れて御輿の前後を守りながら八幡宮までの道のりを案内したという逸話が元になっています。明治時代に発行されたいくつかの拾円紙幣には、清麻呂と猪が印刷されています。この猪は和気氏と密接な関係を持った帰化人系の秦氏を象徴しているという説があります。流刑に際しても、清麻呂は秦氏の保護のもとにあったらしいのです。(参考HP)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/c0/1bb502bf9fd1392d83fb33ac78983404.jpg)
和気神社境内にある白亥殿には、妙見温泉で生まれた白猪「あいちゃん」が奉納され、飼われています。鼻をしきりに地面に擦り付けていました。ブヒブヒ~
階段を上り詰めると、そこは藤棚がある公園になっていました。和気清麻呂の生地は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)で、そこにも和気神社がありますが、藤野郡は名のとおりの藤の名所です。今も日本最大の藤棚があり、春には盛大に「藤まつり」が行われるそうで、そちらに肖ったのでしょうか。
公園の向こうの杉木立に「和気神社」の赤い鳥居が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d4/15cecce9989ed3dc4e351aec14826d5e.jpg)
参道の奥に拝殿が見え、思ったよりこじんまりしています。Tomotubby たち以外は誰もいない、時間が止まったような場所でした。どうしてこんな場所に和気清麻呂の神社があるのか疑問だったので、歴史を紐解きました。
時は奈良時代。女帝孝謙天皇の病を(怪しげな)宿曜秘法で癒し、帝の寵愛を得た僧、弓削道鏡は大臣禅師、太政大臣禅師、法王と位を上り詰めます。宇佐八幡宮で道鏡を皇位につけるべき旨の神託があったと奏上させ、道鏡は自ら皇位につこうとします。
皇位継承に関わる由々しき問題ゆえに、和気清麻呂が神託の真否を問いに宇佐八幡宮に派遣されます。都に戻った清麻呂は、皇位承継者は皇統から選ぶべきと、道鏡の即位を阻む内容の神託があった旨を奏上しますが、逆に天皇の怒りをかって、小学生のいじめの如く、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という変な名前に改名させられたうえ、大隅国、つまり現在の鹿児島県へと流刑になりました。
これが西暦769年に起きた「宇佐八幡宮神託事件」です。
それから時を経ること1100年、幕末時代、上京した薩摩藩主島津斉彬は、三条実美から和気清麻呂が流刑になった場所を調査して欲しいと依頼を受けます。島津家の助力により、その地が現在の牧園町妙見と特定され、藩主斉彬は石碑を建てたのでした。この石碑は和気神社の前に残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/97/adecb0d56628cb3ddfc09497082c1bd5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/ed/f57a6e9c6f898519355996803a574ad6.jpg)
和気神社には、狛犬の代わりに一対の猪が鎮座しています。これは、流刑になった和気清麻呂が宇佐八幡宮の近くまで辿り着いたときに脚が萎えて歩けなくなり、その窮地に突如として300頭もの猪が現れて御輿の前後を守りながら八幡宮までの道のりを案内したという逸話が元になっています。明治時代に発行されたいくつかの拾円紙幣には、清麻呂と猪が印刷されています。この猪は和気氏と密接な関係を持った帰化人系の秦氏を象徴しているという説があります。流刑に際しても、清麻呂は秦氏の保護のもとにあったらしいのです。(参考HP)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/c0/1bb502bf9fd1392d83fb33ac78983404.jpg)
和気神社境内にある白亥殿には、妙見温泉で生まれた白猪「あいちゃん」が奉納され、飼われています。鼻をしきりに地面に擦り付けていました。ブヒブヒ~
Though i dont understand what you've written, i think you did great ;) Your photos are so beautiful ^^
Have a nice day ;)
Ho Chi Minh City.
I stumbled on a nice Vietnamese restaurant in Simokitazawa, Tokyo last night and had delicious Viet cuisine for dinner.
When I came back home, I was surprised at receiving a comment from Nuoc Cong Hoa.
とてもきれいで素敵なHPですね。
紹介のため、リンクさせていただきました。
今後もみにまいりますのでよろしくお願いします。
鹿児島は黒豚で有名なのに
白猪までいてびっくりでした。
くまさん。また遊びに来てくださいね。