ときぶーの時間

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みなさんご支援宜しくお願いいたします。

13年目を迎えて 1

2024-03-11 05:50:03 | 日記

みなさん、おはようございます。

東日本大震災の日からまる12年が経ち、今日、13年目のスタートを切りました。

代表の松村が被災地に残された動物の保護を始めてから皆さんの温かいご支援により、今日まで無事に活動して来れましたこと心から感謝申し上げます。

みなさま、本当にありがとうございました。どうぞこれからも応援よろしくお願いいたします。

現在、震災から13年経って富岡町の人口は約2100人です。震災前は約16000人でしたので、原発で成り立っていた町の復興はとても厳しいものになっています。

今日はこれまでの13年を振り返って更新させていただきます。

写真は松ちゃんの親友?と思うほど仲の良い、フランスのフォトジャーナリスト アントニオ・パ二オッタさんです。今日は彼の写真を紹介しブログを更新させていただきます。

 

アントニオさんは2011年富岡町が強制避難区域に指定され住民が居住地域への立ち入りを禁止されてから、人のいなくなった富岡町でたった一人で残された犬や猫の救援活動をしていた松ちゃんと出会いました。

それから今も付き合いがあり何度も来日しては松ちゃんに会いに来てくれ親交を深めている松ちゃんの友人です。

 

2011年津波後の富岡の海岸 (アントニオさん撮影)

僕の町は海岸から200mくらい離れた場所に駅があり、駅前通りは瓦礫によって本当にひどい状態でした。

店も家屋も瓦礫とともにめちゃくちゃでしたね。家の中に軽トラックが入っていたり、家屋がそのまま流されて駅前に佇んでいたりと、想像のはるか上を行っていました。

2011年津波後の富岡の海岸 (アントニオさん撮影)

海岸に行ったときは拾得物を身内の方に届けられるように、ボランティア活動をしていた松ちゃんです。

 

震災直後、地震と津波と原発事故で壊滅的な町の惨状を憂いている場合でなかった松ちゃんは、日々、家に残された犬や猫たちの餌やりをし、朝から晩まで動いていました。

特に震災直後は、餌を確保するのが本当に大変だったと言っていた。

店がいわき市まで行かないと無い。富岡町から40km以上離れたいわきのホームセンターで餌を購入するも、次に餌を買いに行ったら棚が空っぽで入荷していないとか、こんなことが当たり前にあって本当に苦労したようです。

この頃は、放射能を恐れて社員の健康被害を考え配達を拒否していた配送会社がたくさんあり、商品の欠品が多かったです。ガソリンもいわき市まで出ないと購入できなかったから、それだけでも大変だったろうし、餌の確保に苦労したのです。

2011年残された家のペットたちの餌やりに同行したアントニオさんの写真 

2011年5月頃、松ちゃんは東京に出て来て青山にある動物愛護協会の理事長に直談判して、犬、猫、鳥用の餌を大量に用意してもらった。

あれがなければどうしようもない状況だったから本当に助かりました。あの時の若い理事長さんに僕は今も心から感謝しています。

2011年 アントニオさん撮影

彼はその餌で町に溢れた動物たちに餌を与えることができた。

それはイノブタやダチョウや、その他の動物たちを救った。

町の中を徘徊していたダチョウに餌を与える松ちゃん 2011年 (アントニオさん撮影)

ダチョウも15羽(15頭)くらいは檻から逃げ出して郡内の町を徘徊していました。

僕も目の前でダチョウを見たときは怖かったです。2m以上の高さで威圧感が凄かったし、本当に別世界いる感じ。

サファリに来たような異様な感覚を覚えましたね。

 

自分で買ってきた配合飼料で餌付けする松ちゃん。2011年 (アントニオさん撮影)

松ちゃんは犬や猫の世話は毎日続けた。真夏の餌やりは朝から始め正午くらいには暑さのせいで頭がボーとして体が動かなくなると、富岡川にすっぽんぽんで川に入り、30分くらい入って体が冷えてきたら活動開始。午後も暑さでやられそうになったら又、川に入って体を冷やしてから夕方暗くなるまでやっていました。

町には誰もいなかったから、すっぽんぽんでも問題なかった。

みなさんは、電気のない生活を想像できますか?一度、電気製品を使わない生活をしてみるとわかります。電気のありがたさが。

電気がなければご飯を炊くこともできないし、ましてや真冬は買って来たご飯を温めたくてもレンジが使えなくて冷えたままのガリガリご飯しか食べられない。

真夏は冷蔵庫が使えないから保存が利かない食べ物は買えないし冷たいものが飲めない。洗濯機も動かないから手で洗うしかない。お風呂も沸かせないから入れない。掃除機も使えない。照明もTVも何も使えないんです。

不便極まりない生活です。そんな生活を彼はしていた。

2011年 (アントニオさん撮影)

明かりはろうそくを使っていました。水は山の湧き水を使っていました。トイレは自然公園(林とか山の中)です。(笑)

冬は湧き水が凍って溶けるまで何もできなかった。

ダチョウは砕いた氷を与えると、そのまま口に入れて飲み込んでたけど、犬たちは溶けるまで待っていました。

兎に角、究極の生活でしたね。僕は呆然としました。僕にはできないと。。。。

離れ牛を撫でる松ちゃん 2011年 (アントニオさん撮影)

何月頃だったか国から要請があったのか、動物愛護協会が被災地のペットを救出した団体及び個人ボランティアに支援金を出すと発表し、全国からいろいろな動物ボランティアが入り、犬や猫の数が減って犬や猫の世話が楽になっていた。

この頃は、町に牛や豚、イノシシなどの動物が縦横無尽のように出没してました。住宅街に似つかぬ動物たちが徘徊していてカオスな状態。

上の写真の牛は畜主さんが餓死させたくないからやむなく放った牛なので、人なれしていて従順な牛が多かったと思います。

 

それに引き換え繋ぎっぱなしで避難した人もいた。

 

惨かった。許せなかった。  3枚とも2011年 (アントニオさん撮影)

酷すぎる 松ちゃんは原発事故の証人としてこの状況をカメラに収めた。

この牛舎には100体以上の亡骸があった。

この写真を見たとき、僕はこれが21世紀の日本にある光景なのか?と愕然とした。

 

松ちゃんは犬猫の世話で走り回っているときに、モ~モ~と元気よく牛の鳴き声が聞こえていたので、牛は元気にしてるんだなんて思っていたそうです。

犬猫の世話で1日が終わる余裕のない毎日を過ごす中で、ふと、あれっ牛の声が聞こえないよなと牛舎を見に行った時に、この状況と遭遇したのです。

松ちゃんは振り返り、犬と猫の世話だけでいっぱいいっぱいだった。一人では助けたくても体力的にも、とても牛のことまで手が回らなかったんだ。。。。と。

牛を飼ったことなんて無いずぶの素人だから、餌はどこから買えばいいのかも、何もわかっていなかったとも言っていた。

松ちゃんちの使ってない納屋に入り込んでいた牛 2011年 (アントニオさん撮影)

 

保護したダチョウの柵の餌を見て納屋から出てきた牛 2011年 (アントニオさん撮影)

 

肘を付けてダチョウの餌を食べる牛 2011年 (アントニオさん撮影)

夏場は、どこもかしこも草が生えていて牛の餌は潤沢にあったから、国道に出てきて車と衝突する事故だけ目立っていたが、秋から冬にかけて食べる餌がなくなり、民家の納屋にある味噌樽とか農家の米ぬかとかを狙って家々を壊して、さらに糞尿をまき散らしていたから役場への苦情が多かった。

僕の家の庭にも牛の糞があったことがあったので、自宅の柿を食べに来ていたんだとすぐにわかった。

当時、双葉郡内には1000頭を超える離れ牛がいた。

国は早い段階から全頭殺処分を決めていたが、ついに松ちゃんが殺処分現場を目の当たりにしてしまったのです。

 

帰還困難区域の松村牧場  母親と子牛の写真 2012年 (アントニオさん撮影)

上の写真ではないが、松ちゃんは牛の親子の殺処分現場を見て怒りを爆発させた。

前足と後ろ足の4本のうち3本を縛られ、立っているだけでやっとの親牛に筋弛緩剤注射を打って母牛が倒れて死んだ。子牛は母親が死んだことも知らずにおっぱいが欲しくて横たわる母牛の乳首を懸命に吸っていた。

その子牛の姿を見て、松ちゃんは我慢できなかった。

その子牛にも筋弛緩剤注射を打とうとしていたらしい。

そこで「お前らやめろ!」と筋弛緩剤で牛を殺している人間に「それをよこせ!」と殺処分を止めてしまったのだ。

松ちゃんは「それ1本をよこせ!お前に打ってやる。そしてもう1本は俺が打つ!だから早くよこせ」と、それは鬼気迫る本気の松ちゃんだった。そんな彼の顔を見れば誰でも怖いと思う。

職員さんとの押し問答で「じゃぁ、あんたが離れ牛の面倒を見るのか?責任とれるのか?」って言われて、売り言葉に買い言葉で「あ~、俺の町にいる牛は俺が面倒を見る」って言っちゃったんだ。

これが牛を保護することになった大きな要因です。

この行動はダメだと言われるかもしれませんが「牛たちは何も悪いことしていない。なんで罪のない牛が殺されなくちゃいけねぇんだ。全部人間が悪いんだ。この事故だって東電が起こしたんだから、東電が被災地の動物たちが死ぬまで面倒をみるのが筋だべ。」が彼の持論だったし、人間の都合で殺される動物たちを哀れに思う松ちゃんのことを僕は理解できた。

しかし国の指示通り殺処分を遂行する職員の仕事を止めたということで大きな問題になった。

これが本当に大問題に。。。。。

この後のことを次回、書かせていただきます。

今日は東日本大震災でお亡くなりになった方々へ哀悼の意を捧げたいと思います。

みなさん、本日は長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

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