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「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

NHK「ジャパン・デビュー第1回」現象が起こす深刻な人権侵害:ブログ「安禅不必須山水」2

2009年08月08日 | 22世紀を迎えるために
(写真:初めて出版された森丑之助の伝記研究を紹介する台湾のブログ)
1.”正義の味方”が捏造する台湾の近代史
 今までNHK「ジャパン・デビュー第1回」の史実の捏造、歪曲、隠蔽を一部だが取り上げてきた。
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(1))()(4上)(4中上)(4中中)(4中下)(4中下続)(
 ”正義の刃”を振りかざすナチス中国とその同調者たちの台湾社会に対する暴力にいかに抗するか?蟷螂の斧に過ぎない市井の一市民のできることは、できる限り史料を紹介し、歴史像を再建することだろう。前回に続き、NHK「ジャパン・デビュー第1回」を擁護する左翼の若造が書いた「安禅不必須山水:植民地台湾」に見られる台湾社会への差別事件を取り上げてみたい。

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「安禅不必須山水:植民地台湾」(4.筆者と時代背景)つづき
 7月から9月にかけて紙面の多くを割いて報じていたものは「討蕃隊情報」です。台湾北部の宜蘭、新竹方面で、軍を大動員しての先住民を討伐するための戦争が起きていました。連日、特派員による前線報告、戦闘武勇伝、討蕃隊慰問、戦死者追悼、義捐金の募金、などが掲載されています。領台後15年たった1910年においても、台湾地元の新聞では「討蕃戦」が主要な話題だったことが分かります。また8月の終わりから9月の始めにかけては「日韓併合」の特集もあります。
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 「7月から9月にかけて紙面の多くを割いて報じていたものは「討蕃隊情報」です。(略)領台後15年たった1910年においても、台湾地元の新聞では「討蕃戦」が主要な話題だったことが分かります」とあるが、1910年当時で6面ある記事を忠実に全部読んでいたらこんな言い方はできないはずだ。例えば、討伐の記事が目立つ7月2日の記事を見ると、討伐関係の記事もあるが、その他の政治、経済、社会の記事、広告も同じように掲載されている。データベースでは132件の記事と広告が1ページ半ある。その内討伐関係は1面のほぼ全体、2面と5面の一部を占めているが、全体で見れば4分の1程度である。戦況によって変化はあるとしても、最も多い日でこうした分量であり、この時期の新聞紙面の多くが討伐記事に塗りつぶされていたということはない。ほとんど載ってない日もあり、もし新聞データで「討蕃戦」が多くを占めていたというためには、内容分析で定量的変化を調べなくてはならない。
 「領台後15年たった1910年においても」というような大きなレベルのテーマを論じる場合は、たとえば正確に内容分析で前後10年分ぐらいの定量的傾向を立証しなくてはならず、そうした正しい研究法が取られていない以上、事実の正しい帰納とは言えない。「安禅不必須山水」は自分の予断だけで、「「討蕃戦」が主要な話題だった」という記事の傾向を作り上げ事実だと主張している。
 また、7月から9月以外の月を見れば、こうした記事は一部に「蕃情」として見られるにすぎない。月によるばらつきも悉皆調査をしなくては結論は出せない。そして、この時期の台湾全体の様子は。1910年の日本社会全体の様子を語ることと同様、そもそも簡単には帰納できない。地域性がどの程度あったのかも、どのような史料が他に残されているかによって正確にはわからない。『台湾日日新報』は台北の新聞であり、他地域の様子を知るには適当な史料ではない。結局、ある時代のある社会の様子を再現しようとしても、ある史料による何らかの場所と話題に絞ったものしか今の私たちには語り得えない。
 実は、100年前という、すでに完全に過去に入っている、こうした大きな時間と空間の全体を無条件に知り語る方法は人間にはないのである。史料を集め、ある方法で整理し焦点を結ばせる以外の方法を私たちは知らない。NHK「ジャパン・デビュー第1回」現象は、そうした当然の道理をナチス中国式に踏みにじる市民社会への暴力なのである。
 結局、「安禅不必須山水」は、当時の日本帝国は先住民差別と弾圧以外のことはなにもしていなかったという予断と結論によって、討伐行動のある日だけを適当に抽出して、「台湾地元の新聞では「討蕃戦」が主要な話題だったことが分かります」という結論をだし、日本統治時代の1910年の台湾ではずっと先住民への討伐「だけ」が続いていたかのような誘導宣伝コピーを書いているのである。
 「安禅不必須山水」がしているのは、知り得ないものを知っていると主張する非常に悪質な情報操作であり、また他国の史料に隠された、ある方法でしか見えてこない史料の焦点を私は何でも知っていると語り、その結果外国である台湾の歴史を勝手に書き換えるという、重大な外国人差別なのである。
 「Aも、Bも、Cも・・・もあった」とき、「Cだけだった」と主張するのが正しいと云うのは、ネットで常見されるナチス中国的論法だが、この「安禅不必須山水」も本家と同じだ。市民社会の言論の自由を否定する、基本的人権への深刻な侵害でもある。

2.アジテーションは歴史か?
 「安禅不必須山水」の以下の部分も差別と偏見に満ちている。

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(4.筆者と時代背景)つづき
そうした時期に日英博覧会は開かれました。台湾在住の日本人は「生蕃(台湾原住民族)」の二面を見つめていたことになります。一面は、戦う相手としての鬼が島の鬼としての「生蕃」。そしてもう一面は、従順で模範的なロンドンに派遣された「生蕃」。憎っくき敵としての「蕃公」と、お国の為に働く「蕃公」、この2つの「蕃公」に好奇のまなざしを送っていたというわけです。
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 こうした書き方にも重大な差別性が露見している。まず、「台湾在住の日本人は「生蕃(台湾原住民族)」の二面を見つめていた」とあるが、『台湾日日新報』の読者は日本人ばかりという証拠はどこにもない。漢文版は創刊以来日本語版の『台湾日日新報』の1ページに掲載され、台湾本省人の読者が明らかに存在していた。明治38(1905)年より明治44(1911)年までは、漢文版『台湾日日新報』が出され、1910年には漢文版が別に出されていた。「安禅不必須山水」の書き方は、まるで当時の台湾本省人は読者ではなく、さらに敷衍すれば新聞なども読んでいなかったかのような書き方である。台湾ではすでに清朝時代から各種の学校が設けられ、1985年の日本領台後から日本語教育も始まっていたから、1898年から毎年10000人以上の公学校卒業生が出ており、強制的にではあるが日本語教育を受け日本語が使えるようになった台湾人が年ごとに増加していった。台湾本省人を一切度外視した書き方は、明かな人種差別ではないか?
(註:なお、勘違いしないようにしていただきたいことは、台湾の親日派の人々は”日本統治時代がよく国民党時代が悪い”という二項対立的見方をしているのではないという点である。教育に関して云えば、問題は別な所にあった。台湾の日本語教育を支えた蔡茂豊先生の『台湾日本語教育の史的研究』大新書局によれば、日本人小学校に通う日本人生徒の就学率が1898年の70%から1944年にはほぼ100%に達したのに対して、公学校に通う本島人生徒の就学率は4%から71%にしかならず、本島人の教育は総督府から差別されていた。また、日本人学校と本島人向けの公学校という差別があり、植民地支配が必然的に持つ差別構造の強化は今に至るまで親日派の台湾人が日本統治時代に対して不満に思っている点と言える。そして、NHKも「安禅不必須山水」のような退化した左翼の若造もこうした史料、史実を全部消去して、勝手な歴史小説をわめき立てている点が、さらに台湾本島人への差別になっているということである。)
 もう一つ、この「安禅不必須山水」の若造の犯している大きな差別は、「台湾在住の日本人」という架空の支配者集団を造って、日本統治時代の台湾の本島人は日本人に一方的に支配される人々だったという、いわば”弱体な被支配者”という、まったく根拠のない、台湾人を差別したイメージを流布している点である。台湾に居た日本人は最も多かった時期1945年の敗戦時の引き揚げ者数が48万(台湾の人口は約600万)だったことからみて(アジア太平洋からの引き揚げ者数)、日本人の人口は本島人の10%以下と考えられる。支配者層といっても、日本人は人口中では僅かであり、日本人と台湾人は職場では上司と部下の関係で、共に働いていた。『台湾日日新報』の編集にも台湾本島人が大きな役割を果たしていた。以下は、台湾でのデータベースの紹介文であるが、『台湾日日新報』の評価は日本側の書き方と大きく異なる。

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臺灣日日新報資料庫 漢珍/YUMANI 清晰電子版
《臺灣日日新報》係於西元1898年由日人守屋善兵衛併購《臺灣新報》與《臺灣日報》而成。為日本治理臺灣時期,發行量最大、延續時間最長的報紙,其出版品質為人稱道,甚或有國學大師章炳麟(太炎)、史學家連、尾崎秀真等任職該報而使得《臺灣日日新報》奠下良好發展基礎。
報自1898年5月6日創刊,至1944年3月31日止,共發行1萬5,800餘號,在1924年時發行量為1萬8,790処ヘ。是二十世紀上半最長壽、版面內容最豐富、同時也是發行量最大的報紙。《臺灣日日新報》記錄了當時臺灣的社會風氣、時事新聞、文藝活動以至於社會現象等,均已成為今日研究臺灣歷史最具價值的史料,要了解日本時代總督府施政及臺灣進入現代社會的變遷,本報是不可或缺的資料。
 『台湾日日新報』は1898年から日本人守屋善兵衛が『台湾新報』と『台湾日報』を買收して成立した。日本統治時代の台湾では、発行部数は最大で、最も長い間続いた新聞である。その出版の品質は周知のものであり、国学の大家・章炳麟(太炎)、史学者・連、尾崎秀真などが勤めて記事を書き、『台湾日日新報』に良質な発展の基礎を築いた。
 1898年5月6日に創刊され1944年3月31日まで発行号数は15800号あまり、1924年の発行量は18790部であった。これは20世紀前半では最も長く存続し、紙面の内容は最も豊富で、同時に発行量が最大の新聞である。『台湾日日新報』は当時の台湾社会の雰囲気を記録しており、時事ニュース、文芸活動から社会現象まで、現在台湾の歴史を研究するとき最も価値のある史料で、日本時代の総督府の施策により台湾が近代社会へ入った変化を了解するにあたり、不可欠の史料である。
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 章炳麟は孫文先生と行動をともにしたこともある20世紀初めの革命思想家の一人で、日本に滞在したことがあり、漢文学での国学を大成した、魯迅の先生である。
 以下の史料を見れば、この時代の別な側面が想像できるだろう。以下は、漢文学関係の動きである。

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国立台湾文学館
1895
■ 中国清朝が日本と下関の「春帆楼」で下関条約を調印、台湾を日本に割譲する。
■ 台湾の官吏や士紳が台湾民主国を建国、年号を永清とし、抗日活動を継続する。
■ 日本軍が台北で始政の式典を開催。
■ 台湾民主国が崩壊。
1896
■ 日刊紙「台湾新報」が台北で発行開始。
1898
■ 「台湾日日新報」発行開始、章太炎(炳麟)が来台し「漢文欄」の主編となる。
■ 総督児玉源太郎が台北で第1回の饗老典を開催、80歳以上の高齢者を招き、詩文でその長寿を祝う。
■ 日本人が「玉山吟社」を結成。
1899
■ 彰化で第2回饗老典を開催。
■ 総督児玉源太郎が台湾島内の詩人や墨客を招き、別邸南菜園で詩吟の会を開催、翌年『南菜園唱和集』(籾山衣洲編)を刊行。
■ 台南で第3回饗老典を開催。
■ 総督府が第2回から第3回の饗老典の祝辞、謝辞、および「饗老典詩文募集」への応募作品を編集し『慶饗老典録』として発行。
1902
■ 林痴仙と林幼春が台中霧峰にて「櫟社」を結成。
1909
■ 東洋協会台湾支部が「台湾時報」を創刊。
■ 台湾北部の文人が「瀛社」を結成。
1911
■ 梁啓超が日本から来台し、台中霧峰の名士林献堂を訪問、滞在期間、櫟社の同人と頻繁に交流する。
1919
■ 『台湾文芸叢誌』を出版。
■ 台湾総督府が「台湾時報」を創刊。
1920
■ 東京の台湾人留学生を中心に「台湾青年」創刊。
■ 連雅堂が台南で『台湾通史』上巻、中巻を出版。
■ 林献堂、蔡恵如などが台湾議会設置請願運動を開始。
■ 佐藤春夫が小説のテーマを求め来台。
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 章炳麟のような革命家の動きは、直接、間接に台湾での民族意識の高揚に繋がっており、林献堂の台湾議会設置請願運動や、その後の新文学運動に繋がっていくと言える。この時代の日本人は年表に出ている政治家ばかりではなく、台湾にも来たことのある森鴎外のような文学者まで漢文学を高い文化的素養ある文学として尊敬していた。総督府はナチス中国のように、反対派の文化人や活動家をやたらに虐殺したり、資料を偽造したりはしていない。
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 現代の退化した左翼が使っている二項対立図式で歴史を見ると、植民地支配者=強者=何でもできる=近代的対植民地被支配者=弱者=何もできない=非近代的という、新しい差別を植民地のすべての人々と歴史、文化、社会に強制するという、過ちを犯すことになる。台湾の人々は常に主体的に日本との関係を保っていたのが上記の年表からも分かるであろうし、総督府が、ナチス中国のように反対派を全部強制収容所に入れて惨殺していたわけではないことも分かる。
 『台湾日日新報』に対して以下のような説を流布するのは、無教養を通り越して、台湾の史料に対する重大な差別ではないか。

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台湾日日新報(神戸大学新聞記事文庫
明治31(1898)年5月、「台湾新聞」「台湾日報」の2紙を合併して、台北に創刊された。合併は台湾総督府の主導によるもので、以後は総督府の機関紙的存在となり、総督府の府報などを附録としていた。漢族系住民への広報のために中国文ページが設けられていた。台湾では最大の部数を持つ新聞であった。
昭和19(1944)年4月、島内の日刊紙が統合され「台湾新報」となった。終戦後は漢族系スタッフが発行を継続し、「台湾新生報」に継承された。
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 「総督府の機関紙的存在」は根拠がなく、いったい史的にどう変化したのか立証が必要である。私が見た1900年代の広告欄では、総督府の広告は1件だけで、残りの30件~40件はすべて民間の商店や企業、個人の広告だった。中にはかなりいかがわしい「楳毒の治療法」、「金儲けの方法」などの広告があり、「総督府の機関紙的存在」として、いかがわしい「楳毒の治療法」「金儲けの方法」などの広告をしていたとは到底理解できない。しかも広告は1897年では4Pの本紙中1Pを占め、1900年代では6P中の1.5Pを占めていた。紙面の1/4は広告であり、総督府が資金を出して自分に都合よく勝手に編集していた「機関紙的存在」」とはまったく理解できない。
 「総督府の機関誌的」な政治、軍事関係は強いて全部挙げても国際と経済を含めて全体の2Pで、残りは新聞小説、旅行記(今話題にしているパイワン族の話など)、花柳界の話、今で言う社会欄のさまざまな事件(例:台北で荷車に子供が倒された、賭博をしていて警官に説諭された)で、「総督府の機関紙的存在」として相応しいとはとうてい思えない内容が半分以上を占めている。編集過程と内容に付いては史的な見直しが必要であろう。また、日本のこうした紹介は、先に挙げた台湾での評価と全く異なる。
 また「漢族系住民への広報のために」は革命家の章炳麟が漢文欄の主筆だったことがあることからみてまったく根拠がない。彼は偏屈で有名な人物であり、命令や監視下で働くような人物ではないからだ。台湾で革命を煽動されたら困るのは総督府ではないか?また、漢文版の主筆で主な人は有名な漢学者・尾崎秀真で、台湾の漢文学と文学の発展に寄与した先人として台湾で今も高く評価されている。「広報のために」という”御用新聞”的評価は漢文版の記事の質の高さから見て、まったく不当であろう。。
 漢文台湾日日新報全文電子版
 この神戸大学図書館の書き方は、想像するに第二次世界大戦の時期の台湾の様子を過去にまで遡らせ、日本統治時代全体に被せたためと思われる。これは、あきらかに史実に対する非道である。この論法で行けば、昭和初期の朝日新聞を敷衍すれば明治中期の朝日新聞が語れることになってしまうし、現在の朝日新聞を語ると漱石時代の朝日新聞が語れることになってしまう。日本の国立大学の図書館の中にまで、すでにナチス中国流の非道論法が入り込んでいる。
(註:この神戸図書館の紹介を書いた人物も「安禅不必須山水」の若造と同じ様な退化した左翼の典型だろう。「漢族系住民への広報のために中国文ページが設けられていた」ということは、台湾の先住民は一切文字が読めなかったと言っているのと同じであり、先住民を差別しているばかりでなく、台湾内でのエスニックグループの差別を助長している。また、「中国文」という単語は単語としてそもそも存在しない。「中文」は華語の単語で「中国文」ではない。1900年代の、この時代は「漢文」「国文」である。結局、台湾=中華人民共和国という偽装誘導図式がこの説明には隠蔽されている。NHK「ジャパン・デビュー第1回」の退化仲間がこんなところにも侵入している。)
 以上、NHK「ジャパン・デビュー第1回」現象は、結局その背後に、至る所でナチス中国の宣伝をわめかせる、史実とはまったく関係がないアジテーションであり、その故に市民的な言論の自由への弾圧なのである。 

3.台湾の先住民政策
 最後に、台湾の総督府の中の「理蕃」に対する考え方すら統一されていなかったことは、当時の史料を少しでも読んだことのある人ならすぐに分かる。Wikipediaですら、後藤新平と原敬の対立を書いている。薩長藩閥対自由党の争いがその背後にあると考えられ、総督府の中にもそれぞれの息の掛かったスタッフが居て、そんなに簡単に方針が統一されていたとは考えられない。
  台湾日本統治時代:統治初期の政策
 また、台湾のような輻輳したエスニック・グループが複雑な相互関係で形成してきた社会の問題である「生蕃」の存在を、「安禅不必須山水」のように「一面は、戦う相手としての鬼が島の鬼としての「生蕃」。そしてもう一面は、従順で模範的なロンドンに派遣された「生蕃」」というような、現在の退化した左翼お得意の二項対立で、台湾の本島人も日本人も見ていたとは思えない。
 代表的な人物は「生蕃」中でも最も勇敢な戦士だったブヌン族などと親交を結んだ民間人類学者の森丑之助である。以下にエピソードの紹介がある。
 玉山に生きるブヌン族の狩人
 次の機会に書きたいが、政府と個人の動きはこの時代も今も一致していない。「○○国、○○人だから××だ」は完全な幻想である。歴史には「Aも、Bも、Cも・・・」ある。だから、いつまでも人の心の拠り所になるのだ。


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