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「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

今ならまだ間にあう2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(2)

2009年06月21日 | 市民のメディアリテラシーのために
(写真は、読売新聞を恫喝するナチス中国・李長春)
1.NHKによる捏造の「物語」:ジャパンデビュー
 前回に続いて、第4の権力・メディアの言語的暴力についてNHK「ジャパンデビュー第1回」をもとに考えてみよう。
 今ならまだ間に合う─第4の権力:メディアの正体を知ろう1─
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(1)
 この番組はほとんど全編が資料、史実の捏造、歪曲、隠蔽、削除でできあがっている。台湾の言い方で言えば典型的な「斷章取意(文章や談話から一部分を取り出すこと。つまり、資料を切り張りして内容を自分の都合のいいように編集すること)」である。

2.「漢民族」について
 マスコミのレトリックの中で、悪質なものの第2は「要約」である。以下の部分の前半は、前回論じた。今回は、後半部分を考えてみよう。

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(1)NHKスペシャル 「アジアの“一等国”」偏向報道問題まとめWiki:
番組全内容文字起こし:1
―― 日本の南西に位置する台湾。ここは日本の最初の植民地と成った場所です。
近代日本とアジアの関わり、その原点はこの地にあります。
毎年秋に行われる道教の祭り、台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です。
日本は太平洋戦争の敗戦まで、50年間に渡り台湾を支配しました。
台北市の公園に、日本の統治時代を生きた台湾の人々が居ました。
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 今回は、「台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です」について考えてみよう。この番組の最大の問題点の一つが、この表現にある。この番組の他の部分には、日本統治時代以前の台湾の歴史はほとんど書かれていない。台湾の400年の歴史を報道しないで、日本統治時代の50年だけを取り上げること自体が、まさに「斷章取意」である。NHKは、「台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です」で、実は、1895年以前の台湾の約300年の歴史を「要約」してしまったのである。
 「台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ」が意味するものは、たとえば、以下のような、様々な種族、民族の台湾への移住と開拓の歴史である。しかし、移住と開拓と言ってもそれは平和的なものではなく、先住者にとっては暴力と武力による侵略にほかならない。台湾へ移住してきた種族、民族の間で、そうした先住民に対する征服や侵略が繰り返されてきたのは当然のことである。
 先史時代の歴史は置くとして、現在も台湾で生き続ける先住民(原住民)の歴史は以下のようになる。

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台湾宜蘭県政府・宜蘭県の歴史:民族の多元化
宜蘭はその昔、カバラン、甲子蘭、蛤仔難(カパラン)などと呼ばれており、漢民族が移住してくるまではカバラン族が優勢民族でした。カバラン族の生活は、河川の近くに小さな集村を築くようにして営まれ、彼らの集落は清朝時代には「カバラン三十六社」と呼ばれていました。近年の学者たちによる調査で、カバランの旧社遺跡は少なくとも40以上に上ることが分かりました。18世紀末、多くの漢民族が蘭陽平原に移民して開墾を進め、あらゆる手段でカバラン族の土地を奪いました。このため、カバラン族は本来の拠点を追われ、一部の人は南下して花蓮、台東沿岸一帯に移り住み、そこで加禮宛地区を中心とした集落を築きました。
タイヤル族は約250年前に宜蘭の大濁水渓(現在の和平渓)にたどり着きました。その後、タイヤル族は思源啞口から濁水渓の上流の谷地へと移り住み、現在大同郷に住むタイヤル族の基盤を形成しました。一部のタイヤル族は南湖大山を東へと進み、南澳北渓や和平北渓に居住するに至り、タイヤル族の南澳グループを築きました。彼らの主な居住地は南澳郷です。大同郷の英士以南の各は桃園の卡奧湾から来たグループです。
宜蘭地域で活動してきた漢民族以外の民族は、上記の南島民族だけではありません。新航路が発見されたため、17世紀にはヨーロッパから人々が台湾にやって来ました。1626年、スペイン人が台湾先住民に殺害されたという口実をもとに、兵を引き連れて台湾に攻め入り、港付近の集落を焼き払い、蘇澳を占領してサン・ロレンツォ城を建設しました。
その後、スペイン人は台湾南部を占領したオランダ人に追われることとなります。1640年より、オランダ人は漢民族の商人にあらゆる商品や日用品の取引と徴税を委託しました。依頼を受けた商人は、この会社の一切の税金を代納する代わりに、この会社に対して絶対的な独占取引権を得ることができました。その後、鄭王朝から清朝時代の初期までこのような制度がはびこっていました。おそらく17世紀以降、カバラン語の分かる漢民族が台北と宜蘭を行き来し、貿易や徴税の仕事に従事していたものと思われます。
統治と徴税の必要上、オランダ人統治時代には最も古い宜蘭地区の人口資料が作成されました。大まかではありますが、カバラン族は平原に44~50のを築いており、人口は1万人前後であったと記録されています。
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 以上のように、台湾の先住民社会は常に海外からの侵略によって苦しめられ、支配されてきた。台湾を組織的に統治したのは16~17世紀のスペイン、オランダであり、そうした西洋人による統治の傷跡が、台南の安平古堡(ゼーランディア城)や淡水の紅毛城(アントニオ堡塁)に今も残っている。

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麻豆渓事件
麻豆渓事件(まとうけいじけん)はオランダ統治時代の台湾で発生した原住民の反オランダ抗争事件。
海賊被害に悩まされていたオランダ東インド会社は、1629年に第3代台湾長官のピーター・ヌイッチにより62名の兵士を麻豆社に入り海賊の捜索に当たった。しかし麻豆社では表面上はオランダの統治下に入っていたが、族人がオランダ入植者に殺害される事件があり、また成人男性に対する強制的な使役に対し不満を有しており、案内人を務めた麻豆渓社の人々はオランダ人の捜索を妨害した。
夕刻を迎えたオランダ兵は捜索を中止、帰営することになった。帰途朝豆渓を通過した際、捜索に同行した麻豆渓人に武器を持たせ、また川を渡る際に彼らに背負われていたが、川中に至ると麻豆渓の人々は突然オランダ兵を川に投げ込み、全員を溺死させた。
ピーター・ヌイッチはこの報告を聞いて怒りを表したが、浜田屋弥兵衛事件の処理に終われており報復攻撃を断念、ハンス・プトマンスが後任の長官に就任すると料羅湾の海戦に破れ、また劉香による熱蘭遮城襲撃もあり、麻豆渓への報復攻撃がなされたのは事件発生から6年経過した1635年であった。11月23日、プトマンスは自ら4,500名のオランダ兵士と2000名の新港社原住民により麻豆社を攻撃、僅か1日で260名の麻豆渓の人々が殺害され、また社内の三千を越える家屋も焼き払われた。12月19日になり麻豆社はオランダに降伏、オランダへの帰順の態度を表明した。
この出兵をきっかけにオランダは未帰順の各地に出兵、蕭壠社、大目降(現在の新化鎮)、貝加溜湾(現在の安定郷)、哆囉国(現在の東山郷)、小琉球などの社を投降させた。しかしオランダの苛政に対し、原住民は面従腹背の態度をとり、オランダ統治時代を通じて完全に帰順することはなかった。
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 西洋人による統治の痕跡は、以上のような先住民への弾圧、征服にともなって起きた先住民女性への暴行、強姦などによって、遺伝的形質として、淡水、基隆、台南などヨーロッパ人に占領された地域に見られる、金髮(色の薄い髮や赤毛)、彫りの深い顏立ち、白い肌と雀斑など、台湾人の間にしばしば見られる非アジア人的な身体的特徴がはっきりと示している。こうした被支配の歴史を無視して台湾を語ることは台湾の歴史に対する冐涜と言える。 
 そして、西洋人の後は、第二の災厄が中国大陸からやってきた。

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鄭成功為何要荷蘭牧師?
鄭成功怎樣對待台灣原住民,為何會激起民變。黃叔璥的《台海使槎錄》裡就說:「沙轆番原有數百人,爲最盛;後爲劉國軒殺戮殆盡,只餘六人潛匿海口。」史載鄭成功「立法尤嚴,諸夷不遺赤子,並田疇廬社廢之」。
  江日昇的《台灣外記》卷五裡,也說到鄭軍凌虐台灣原住民,以致他們支援荷蘭來對抗鄭軍:「七月,張志、黃明縱管事楊高凌削土番,大肚番阿狗讓殺高反。成功令楊祖征之。祖與讓戰,中標槍死。其鋒甚熾,欲出援荷蘭。功復令黃安、陳瑞二鎮往征。安設伏誘戰,遂斬阿狗讓。撫綏餘黨,班師。」
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 日本人を母親に持つ鄭成功が率いてきた中国大陸軍は、実は、台湾の先住者にとって以上のような、虐殺、酷刑、酷税などの大災厄をもたらした。その台湾征服にあたり、原住民はオランダ人をむしろ支援したと言われている。NHKが言う「台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ」が意味するものは、こうした悲惨な征服の歴史の隠蔽である。台湾の先住民を起点に考えれば、以下のような悲惨な征服の歴史を台湾の共同体は日本統治時代以前に体験してきた。
1)第1層の植民地支配:西欧人(スペイン人、オランダ人)による先住民の征服・統治(16~17世紀)
2)第2層の植民地支配:明軍による台湾征服(17世紀後半)
3)第3層の植民地支配:清朝による台湾征服と統治(18世紀~19世紀末)
 こうした歴史を切り離して、日本統治時代だけを語ることは、取りも直さず、”台湾を植民地化した勢力は、日本だけだった”と主張するためであり、その裏に、台湾はそれまでずっと”台湾=漢民族の土地=「中国」領だった”という虚偽の含意を持たせることにほかならない。 
 先住民を視点とすれば、台湾を「中国」の植民地化したのは、実は、「ほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」による清朝時代の約200年なのである。先住者の視点を”人権”のお好きなNHKが避けたのは、中南米やアフリカ、アジア、大洋州に広く残る16世紀以降の欧米の植民地支配の歴史を隠蔽して、”日本帝国の植民地支配だけが悪い”という、プロパガンダを行うためである。そのためには、先住民の歴史は抹消する必要があった。番組で日本統治時代以前の台湾が隠蔽されているのは、それを出してしまうと、植民地支配が近代までの人間社会の普遍的現象だったことに触れざるをえなくなるためなのである。
 その点から言えば、明らかにNHKの視点は、”西欧社会のすること(植民地支配)は正しいが、近代日本のしたこと(植民地支配)だけが間違っている”という、拝欧主義を根底に持っていることになる。そこから、自称”フランス”の資料や”イギリス”の資料が番組で多数、日本統治時代を非難する材料として持ち出されたのである。

3.「漢民族」による台湾侵略
 先住民の視点で清朝時代を捉えれば、明らかに「漢民族」は侵略者であった。

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漢民族による開墾
漢民族が台湾に足を踏み入れるようになると、台北盆地は17世紀末期に初回開墾期に入り、徐々に北海岸の各地まで開拓を進めました。1770年代になると、呉沙等の漳州人が三貂社(現在の台北県双渓郷、貢寮郷)に進出してきます。1786年に文爽事件が起こり、当時の台湾知府(行政長官)である楊廷理は、防御策を講じる中で残党が山越えをし、三貂、蛤仔難などの地まで逃げのびていると聞き、淡水庁の同知(官)である徐夢麟を三貂に派遣し、これを捕らえるよう命じました。徐夢麟の返信の中で、呉沙は長らく三貂に暮らし、人々に信頼されているため、反逆勢力の防御に当たってもらうことができると書いています。これが、後に「宜蘭開拓の第一人者」として名をはせた呉沙の史料における最初の登場です。
この情報に興味を抱いた台湾北部の資本家は、1787年から何度か人々を率いて宜蘭へ足を運ぼうとしましたが、成功には至りませんでした。このため、呉沙に出資して開拓部隊を組織し、蘭陽平原の開拓を進めることを企図します。1797年、宜蘭の平埔族各社に疫病が流行し、呉沙が薬を用いてこれを治癒し、各社との関係を改善したと言われています。そして、漢民族による宜蘭進出に同意し、初めて開拓の拠点となる頭城が設立されたのです。
このとき、いわゆる「呉沙の宜蘭開拓」のニュースが伝わり、各地の漢民族がチャンスを求めて宜蘭にやって来たとされています。
こうした人々が組織した「九旗首」は呉氏一族が指導者として敬われていましたが、実際には群雄割拠の段階にありました。1804年、漢民族は五圍(現宜蘭市)まで開墾を進めていきました。
1806年、台湾西部から五圍へやってきた平埔族の阿里史各社は漢民族の攻撃を受け、あえなく濁水渓(現蘭陽渓)南方に生存の地を見出し、ここで思いがけず羅東地区の開拓者となったのです。1810年には、楊廷理が宜蘭開拓の準備を始めました。このときの彼の調査によると、宜蘭の人口はすでに14,452世帯、42,904万人に達しており、この内ガマランは38社、総勢5,540人に及んでいました。
漢民族が蘭陽平原を開墾する過程において、「結首制」が大いに役立ちました。「結首制」とは、30~50人の農民が1つの「結」を編成し、「小結首」というリーダーを立てて拓殖を行うシステムです。「結」のもとで田園は複数の「份」に分けられ、1人の開拓者が1份を開拓することになります。小結首の上には大結首、総結首、そして土地の資本家があります。小結首が担当する地域は「結」と呼ばれ、大結首が担当する地域は「圍」と呼ばれます。このような基本的な開墾の単位は、台湾西方の漢民族による開墾経験と異なり、比較的大きな開拓要因と個人の意欲があったために成り立ったと考えられます。
漢民族が「呉沙の宜蘭開拓」から1809年の清廷によるカバラン庁設立までに行った開墾活動は、事実上、清廷の「越境開墾の禁止」命令に違反するものでした。しかし、時すでに遅く、漢民族の集落は蘭陽平原の大半を占めるに至っており、開拓の指導者は業主権を握るため、そして先を見越した地方官史は治安維持のため、宜蘭に官史を置いて治め、版図に組み入れるべきと、朝廷に再三提案していました。しかし、清朝の台湾管理政策は消極的であったため、聞き入れてはもらえませんでした。
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 もちろん私達日本人がアイヌへの侵略を語りたくないように、台湾人(福建人、客家人)も原住民への侵略は語りたくないだろう。それはしばしば「開拓」という名前で呼ばれる。しかし、「開拓」とは、先住民への圧迫なしにはありえないことで、それがしばしば暴力をともなっていたことも否定できない。文字を持たなかったアイヌも、すでに滅びた平地の平埔族も歴史を残すことはできなかった。つまり、歴史を語ることは、いつも一定の視点、勝者の視点をとっていることに他ならない。NHKが日本統治時代を語る視点も、そうした勝利者の視点、いわば戦後の視点で語っているのと同じことで、差別者(勝者)の視点に最初から立っているのである。その勝者は、まぎれもなく第二次大戦の勝者・欧米であり、また中国なのである。NHKは、差別者として日本共同体の歴史を書き換えたばかりではなく、台湾人と台湾共同体の苦闘と苦悩を踏みにじっている。

4.悲惨な清朝統治時代
 清朝に支配された時代、台湾に開拓者として渡ってきた福建人や客家人も、幸福とはほど遠い、悲惨な生活だったことは否定できない。それは、アメリカの西部劇のように、先住民と移住者間での闘争ばかりでなく、移住者間で土地争い、水争い、利権争いが頻発し、だれも調停できなかったからである。

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分類械闘
分類械闘(ぶんるいかいとう、繁体字表記は分類械鬥)は18世紀中期から19世紀末にかけて清代の台湾で発生した族群間の武力衝突。
大規模な械闘事件発生地点と年代
18世紀
分類械闘が頻発した地区1751年:閩粵械闘
台湾に於ける初めての大規模械闘、朱一貴起義後に閩粵間での支持対象の不一致が遠因である。
台湾知府覚羅四明は1757年に着任すると機闘を厳重に取り締まった
1769年:閩粵岡山汛(岡山)械闘
閩人である黄教による叛乱
清朝は粵系住民を用いて乱を平定したが、この際粵系住民は閩系住民の村落を襲撃した。
1769年:彰化漳泉械闘
1777年:閩粵械闘
閩粵両族が樹林を巡って闘争。粵系住民が敗れ竹塹へ移住。
1782年:彰化嘉義漳泉械闘
1783年:台北黃泥塘械闘
1783年:台北嘉義彰化漳泉械闘
福建より黄仕簡が来台し乱を平定
1786年:楊氏宗族械闘
1786年:漳泉械闘
1789年:黄氏異姓械闘(黄霞事件)
1791年:徐氏異姓械闘
1791年:沈氏異姓嘉義械闘
1791年:黄氏同姓宗族械闘
1791年:彰化漳泉械闘
1796年:林氏異姓械闘
19世紀
1806年:漳泉新竹械闘
1806年:漳泉分類械闘
1806年:轎夫職業鹿港械闘
職業集団による械闘
1809年:漳泉台北械闘
1826年:漳粵彰化嘉義械闘
員林の客家人が桃園埔心へ移住する。
1826年:粵人呉氏宜蘭械闘
1830年:挑夫宜蘭械闘
職業集団による械闘
1834年:閩粵台北新竹械闘
1840年:新荘閩粵械闘
促使客家人移居桃竹苗
1846年:漳泉械闘
1847年:大甲械闘
1850年:漳泉台北械闘
1853年:漳泉台北新竹宜蘭械闘
1853年:台北閩粵械闘
1853年:漳、同安両籍台北械闘
頂下郊拼
1854年:中壢閩粵械闘
1859年:漳泉台北桃園械闘
漳人の八芝蘭(士林)が壊滅的な被害を受ける。
住民は芝山岩へ避難し八芝蘭を再建した。
1862年:蘇黄異姓台北械闘
北門外の大稲埕
1865年:彰泉嘉義械闘。
1876年:粵人異姓苗栗械闘
1882年:閩人陳呉異姓台南械闘
1883年:閩人林姓同姓異族鳳山械闘
1883年:閩粵鳳山械闘
1885年:閩人黃氏同姓異族嘉義械闘
1888年:閩人異姓嘉義械闘
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 NHKは、したり顔で”なんだ住民同士のちょっとした口喧嘩でしょう”と言って済ませてしまう気であろうが、実態は武力衝突で、大規模な場合は、反乱軍として清朝から討伐されている。武器も本格的で、刀、弓、鉄砲、大砲など重武裝であり、清朝軍が鎮圧に手間取った反乱も少なくない。負けた側は、土地財産を失い、婦女子は略奪、強姦の対象になり、生き延びた場合もさらに生存に過酷な山間地に移住する他はなかった。

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戴潮春の乱
戴潮春の乱は、朱一貴の乱・林爽文の乱と並ぶ清朝統治時代の台湾の三大反乱の一つ。1862年に発生し、1864年に鎮圧された。事件は官府が天地会を弾圧したことから始まり、影響は北は大甲鎮、南は嘉義県に至る台湾中部全体に広がった。
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 「台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です」の200年間の実態はこのようなものである。清朝は19世紀末まで、住民の福利厚生などまったく眼中になく、「夷を以って夷を制す」を実施していただけであり、法による支配や警察権の行使もなく、事実上、統治を放棄していたというのが実態である。
((3)へ続く)


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