蓬莱の島通信ブログ別館

「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

今ならまだ間に合う2─NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(3)

2009年06月24日 | 市民のメディアリテラシーのために
(写真:北京オリンピックを名目に今も行なわれる中国の「人間の展示」)
1.猛威をふるうマスコミの暴力
 前回に続いて、NHK「ジャパン・デビュー第1回」を例として、マスコミの報道暴力について考えてみよう。
 今ならまだ間に合う─第4の権力:メディアの正体を知ろう1─
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(1)
 今ならまだ間に合う2─ NHK「ジャパン・デビュー第1回」の詐術(2)
 前回も述べたように、この番組はほとんど全編が資料、史実の捏造、歪曲、隠蔽、削除でできあがっている。こんな番組を「ドキュメンタリー」と称するのは、ペテン、詐欺に外ならない。

2.NHKによる「誘導」のレトリック
 今回は、以下の部分を取り上げてみたい。

==========
(1)NHKスペシャル 「アジアの“一等国”」偏向報道問題まとめWiki:
番組全内容文字起こし:1
語り・礒野佑子:
――日本のアジア支配の原点となった台湾。そこから近代日本とアジアとの関係が見えてきます。
50年間の日本の台湾統治を象徴する、二枚の写真です。
「人間動物園」、そして「台北第一中学校の生徒達」。
――台湾の先住民族です。およそ100年前、日本は彼等をロンドンに連れて行き、博覧会の見せ物として展示しました。
この写真には世界にデビューした日本が、一等国へと登り詰めるまでの歴史が秘められています。

==========

 「50年間の日本の台湾統治を象徴する、二枚の写真です」は、この番組の結論とも言える文で、実は、最初からこうした結論があって、この番組のすべての内容が構成されている。「人間動物園」と「台北第一中学校の生徒達」を選んだのは、番組を見ればすぐに分かるように、”大日本帝国は原住民を見せ物にして差別した”、”大日本帝国は台北第一中学校の生徒達に示されるように、内地人を優遇して台湾人を差別した”という番組の焦点を作るためである。この二枚を日本統治時代の代表とするとNHKが述べたことは、結局、”大日本帝国は植民地を差別した”という結論を最初から出すために番組を作っていると言っていることと変わらない。「誘導」のレトリックが最初から使われている。
 「人間動物園」については、すでに疑義が出されて、NHKが回答している。1回目の回答は以下である。

==========
一と二の[人間動物園]に関して回答させていただきます。
 番組では、「【日本は、会場内にパイワンの人々の家を造り、その暮らしぶりを見せ物としたのです。】」、「【当時イギリスやフランスは、博覧会などで、植民地の人びとを盛んに見せ物にしていました。人を展示する『人間動物園』と呼ばれました。日本は、それを真似たのです】」とコメントしています。
 日英博覧会についての日本政府の公式報告書「日英博覧会事務局事務報告」によれば、会場内でパイワンの人々が暮らした場所は「台湾土人村」と名付けられ、「蕃社に摸して生蕃の住家を造り、生蕃此の所に生活し、時に相集りて舞踏したり」と記されてい  ます。相撲などほかの余興と異なる点は、パイワンの人びとを「土人村」で寝泊まり、生活させ、その暮らしぶりを見せたことにあります。イギリスやフランスは、博覧会などで被統治者の日常の起居動作を見せ物にすることを「人間動物園」と呼んでいました。日本は、植民地統治の成果を世界に示すために、イギリスやフランスのこうしたやり方をまねてパイワン族の生活を見せました。日本国内では、日英博覧会の7年前、1903年、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会において、「台湾生蕃」や「北海道アイヌ」を一定の区画内に生活させ、その日常生活を見せ物としました。この博覧会の趣意書に、「欧米の文明国で実施していた設備を日本で初めて設ける」とあります。
 植民地研究の権威であるフランスのブランシャール氏は「人間動物園は、野蛮で劣った人間を文明化していることを宣伝する場である」と指摘しています。日英博覧会の公式報告書にも「台湾が日本の影響下で、人民生活のレベルは原始段階から進んで、一歩一歩近代に近づいてきた」と記されています。番組では、上記のような史料や研究者への取材により、日英博覧会のパイワンの人びとの集合写真に「人間動物園」という表示をしています。
==========

 NHKの「人間動物園」という呼び方は、フランスのブランシャール氏などをあらかじめ証言者に選んで、周到に準備してあったものだろう。
 しかし、こうした歴史的事実を理解する場合に大事なことは、当時の博覧会の社会文化的コンテクストをなるべく再現することである。「人間動物園」という呼称だけでなく、いったい当時の博覧会では何がどのように展示されていたのかという全体像の中で、植民地人や先住民を展示する行為や意義を理解する必要があるということである。
すでに様々な領域で近代から現代にかけての博覧会の内容や意義が研究されている。博覧会に関する研究は関係要素が多様で、誰かが専門家と言える状況にはない。また、NHKがそうした研究状況を断定、裁断する権利もない。NHKが出しているブランシャールなる人物の見解は、そうした多数の見解の中の一つにすぎない。NHKはなぜ博覧会研究の専門家ではなく、植民地研究の「ブランシャール」なる人物を選んだのか、客観的な理由を説明するべきだろう。また、そうでなければ、日本人研究者もたくさんいるなかで、フランス人だけを出したのは明らかに日本人研究者への人種差別である。
 Cinii:博覧会 
 もちろん19世紀後半から第二次世界大戦終結までの20世紀半ばまで、世界は文字通り「帝国主義」の惨禍を被った時代であり、日本は欧米の侵略を受けないためにも、19世紀後半から繰り返しヨーロッパやアメリカで開かれた各種の博覧会に出品している。

==========
国際博覧会
1862年 ロンドン万国博覧会(第2回) - オールコック駐日イギリス公使により日本の伝統工芸品が初めて展示された。
1867年 パリ万国博覧会(第2回) - 幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品。水戸藩の徳川昭武、渋沢栄一らがパリに赴く。
1873年 ウイーン万国博覧会 - 日本政府として初めての公式参加。日本館を建設。
1876年 フィラデルフィア万国博覧会 - アメリカ独立100周年記念祭典。電話機、ミシンが初登場。
1878年 パリ万国博覧会(第3回) - シャイヨー宮が建設。エジソンの蓄音機や自動車が出品。
1880年 メルボルン万国博覧会
1888年 バルセロナ万国博覧会(第1回)
1889年 パリ万国博覧会(第4回) - フランス革命100周年を記念するエッフェル塔が建設され、後にパリのシンボルとなる。
1893年 シカゴ万国博覧会(第1回) - コロンブスのアメリカ大陸発見400周年記念祭典。
1897年 ブリュッセル万国博覧会(第1回) 
1900年 パリ万国博覧会(第5回) - 過去を振り返り新しい20世紀を展望することを目的とした。
1904年 セントルイス万国博覧会 - 会場面積は万博史上最大。
1905年 リエージュ万国博覧会 - ベルギー独立75周年記念祭典。
1906年 ミラノ万国博覧会
1910年 ブリュッセル万国博覧会(第2回)
1913年 ヘント万国博覧会
1915年 サンフランシスコ万国博覧会 - パナマ運河開通ならびに太平洋発見400周年を記念した。
1925年 パリ万国博覧会(第6回) - 装飾美術と近代工業をテーマにしたいわゆるアール・デコ博覧会。
1929年 バルセロナ万国博覧会(第2回)
1933年 第5回ミラノ・トリエンナーレ - 特別博。
1933年-1934年 シカゴ万国博覧会(第2回) - 一般博。初めてテーマを設定(「進歩の一世紀」)。
1935年 ブリュッセル万国博覧会(第3回) - 第一種一般博。テーマは「民族を通じての平和」。ベルギー鉄道開通100周年を記念。国際博覧会条約発効後、最大規模の博覧会であった。
==========

 こうした博覧会は日本国内でも繰り返し開かれ、台湾や朝鮮半島が日本の植民地になってからは植民地でも開かれるようになった。基本的な内容は、当時の文化、芸術、技術、科学、教育などの水準を誇示するとともに、現在のモーターショーやゲームショーのような製品や産物の宣伝の機会で、現在もこうした博覧会は継続して開かれていることをみても、19世紀の帝国主義文明(近代文明)が現代に残した遺産とも言える。
 現代の博覧会でも、しばしば「人間(人類学的)の展示」が行われていることに、皆さんはお気づきであろうか?モーターショーやゲームショーではアトラクションにセクシーな女性が付き物であり、オリンピックや万国博での各種の民族衣装を着た現地の人の「展示」や踊りや音楽などの「展示」は人気の出し物である。もし帝国主義時代の「人間動物園」が”帝国の支配の誇示”で”人種差別”だと、NHKのような”正義の使者”がのたまうなら、昨年の北京オリンピックの「人間動物園(各種の民族衣装を着た現地の人の「展示」や踊りや音楽などの「展示」)」も、同じ理由(中華人民共和国の国威発揚)で非難されるべきであろう。いったい両者のどこが違うのだろうか。全く理解できない。それどころか、一切の人間の「展示」は人種差別やジェンダー的差別になってしまう。
 また、現在のようなメディアが発達したグローバル化以前の社会では、海外旅行はたとえば現在の民主党と自民党に君臨する鳩山一族のような一部の特権階級の專有物であり、私達のような凡俗下賎の族には、生涯手の届かないものだった。もちろん20世紀半ばまでテレビなどはなく、海外の事情をその目で知ることができるのは特権階級の特権の一部とも言えた。事情は欧米でも同じであり、労働者階級が国外に旅行できるチャンスなど一生かかってもあるかないかだったと言える。従って、博覧会は海外の珍奇な産物や文化を体験できる、それ以外には方法のない唯一の機会だった。
 欧米の各国や博覧会に出品した当時の非欧米系独立国・清朝、日本などが「人間の展示」を行ったのも、そうしたコンテクストと事情の中で考えるべきであろう。 NHKは、台湾のパイワン族を「展示」した部分だけを当時の博覧会のコンテクストの中から取り上げて、日本帝国の支配の非道を訴える材料に利用しているが、こうした史料の扱いは「斷章取意」の典型で、事実を扱うと主張するなら一番していはいけない方法である。

==========
番組全内容文字起こし:2
―― 台湾領有から15年後の1910年。日本は、統治の成果を世界に示す絶好の機会を得ます。
ロンドンで開かれた日英博覧会。日本とイギリスの友好関係を祝う催しでした。
近代国家として坂を駆け上ってきたジャパン。会場では日本の産業や文化が幅広く紹介されました。訪れた観客はおよそ800万人。特に人気を集めたコーナーがありました。台湾の先住民族、パイワン族。
日本は、会場内にパイワンの人々の家を作り、その暮らしぶりを見せ物としたのです。
==========

 当時の博覧会や博物館のコンテクストで言えば、こうした「人類学の展示」は目的や意図はともあれ、いつも行なわれていることだった。たとえば、まだ日露戦争前の1904年4月30日から12月1日にかけてミズリー州セントルイスで開催されたセントルイス万博は20世紀に入って最初の大規模な万国博覧会で、世界の各国が出品した。
 アジアに関する展示は以下のようなものだったと言われている。

==========
楠元町子:セントルイス万博における展示
(3)アジアの展示
 米国は、帝国主義政策に基づき、社会進化論と人種差別主義を背景にした悪名高い「人間の展示」を大規模に展開し、フィリピン統治の正当化を意図した広大な「フィリピン村」の展示を行った。「フィリピン村」全体で、40の種族1200人の植民地住民が実際に居住し、見物人の奇異のまなざしを浴びながらフィリピンの自宅と同じ生活を余儀なくされた。
 初めて万博に公式に参加した中国は、清朝皇族の溥倫(Pu Lun)を派遣し、中華思想の下に国家の威信をかけて西洋と異なる文化を前面に出した展示を行なった。精巧な彫刻が施された建築物や家具、金糸の刺繍や色彩豊かな服装がその豪華さ、華麗さから米国人の興味を引き絶賛された。しかし中国の展示物は米国の当時の基準からは過去のものであり、纏足や弁髪などの中国の風習は遅れた中国の象徴と見られた。
 万博の日本村で興行した日本芸者の一行は「ゲイシャ・ガールズ」と呼ばれて、万博の会場に到着した時から、服装や習慣が米国人の眼を引いた。日本政府は国際的に日本文化としての芸者を印象付けようとし、万博のパンフレットに芸者の絵を用いるなど「ゲイシャ・フジヤマ」の日本イメージの形成に積極的に関与した。
 欧米諸国は自国の権威と文化を強調する展示、アジア諸国は宗教色の強い展示を行い、各国の明確な意図を持った展示戦略は、その後20世紀の各国の持つ国家イメージを強烈に形成する役割を果たした。また万博の参加国は、展示物を説明するため自国民を派遣したので、参観者は政府館や展示館で異文化の人々と直接交流し、より具体的に異文化の知識を得ることができた。西欧諸国が鉄道模型や化学品のように工業品を展示したのに対し、南米やアジア諸国は鉱山資源や農産物の展示が中心であり、万博の展示は参観者に近代的西欧を視覚させる効果があった。セントルイス万博での中国や日本が示した非西欧諸国の展示に対して、米国人は「異質」な点のみに興味を抱き、西洋文化の優秀さを再確認し、世界をリードしていくのはやはり西洋であるという世界観を形成したといえる。
==========

 アメリカは、フィリピンの先住民を大規模に展示し、清朝は自国民の皇族の生活を展示し、日本は自国の女性と、この資料は触れていないがアイヌを展示した。「人間の展示」を先住民に限るのは、明らかに先住民を被差別者と偏見で見ているから起こることで、アメリカのしたこと(フィリピンの先住民を大規模に展示)も、清朝のしたこと(皇族の生活を展示)も、日本のしたこと(女性とアイヌを展示)も、この20世紀前半最大の博覧会ではまったく「展示」行為に違いはなかった。
 博覧会の研究では、「万博の参加国は、展示物を説明するため自国民を派遣したので、参観者は政府館や展示館で異文化の人々と直接交流し、より具体的に異文化の知識を得ることができた」とされ、こうした展示の意味はまさにそこにあった。展示された先住民や国民や女性が何を見て、何を手にして帰ったかは、別に調べる必要がある。現代のモータショーの女性たちが男性の習性を冷たく見ているように、展示された側も見る側を観察し、進んだ西洋人の風習や性格を見ぬいていたかも知れない。
 「人間の展示」をこの時代に限るとする見解は、明らかに恣意的で主観的な作為(お金をもらっていれば仕事だとか、社会的に認められているからとか、文化的に高いものならそれは正しい展示だとか)に過ぎない。現代でも誰も疑うことなく、セクシーな男女や民族性を見せ物として「展示」している以上、私達が20世紀前半の行為を非人間的だとか差別だとか非難する資格はないだろう。「人間の展示」が非人間的というなら、マスコミの番組の一切が「人間の展示」である以上、すぐにすべての放送は停止されるべきだろう。今となんらしていることは変わらない。方法や名目が違っているだけのことである。
 日本帝国が行っていた博覧会での「人間の展示」について、博覧会研究者からは、NHKのような、言わば恣意的で偽善的な”お高いモラルを誇示する”似非道学者的見解ではない、史実に即した日英博覧会のアイヌの「人間の展示」研究が既に出ている。
 宮武公夫:黄色い仮面のオイディプス : アイヌと日英博覧会
 氏が述べているように、当時の「人間の展示」は、他の出しものと同様に貴重な資金源となるアトラクションで、プロモーション・ビジネスとしておこなわれていたのである。いったい今とどこが違うのか?大事なことは、「人間の展示」かどうか、あるいはその是非ではなく、それが何に寄与したかであろう。
 パイワン族の展示については、さらに資料を探してみたいが、セントルイス万博におけるアイヌの展示については、以下で、氏がその意義を明確に述べている。
 宮武公夫:博覧会の記憶 : 1904年セントルイス博覧会とアイヌ
 氏は、アメリカでの「人間の展示」について詳細を示し、NHKのあげるブランシャールなる人物とはまったく異なった意義を博覧会に認めている。NHKの”ドキュメンタリー”は日本帝国を断罪するという結論があって書かれた小説であるのに対して、史実を明らかにするとは氏のような行為を言うので、読者の皆さんにも、原論文をぜひお読みいただきたい。 

3.偽善を超えて
 本ブログでも、NHKに関する記事は多々述べてきた。
 NHK無用論(1)─”弱み”に支配される公共放送という悲惨─
 NHKがこの番組でしているような、”私達は番組で人や民族、国家を裁く権利がある”というのは、マスコミの暴力の中で最大最悪の市民社会への暴力と言える。
 しかも、NHKは自身がモラルを語り得る状態にはない。
 NHKの不祥事
 今回の、「ジャパン・デビュー第1回」には、サブリミナル手法も使われていたと指摘されている。
 チャンネル桜が検証―NHKスペシャルにサブリミナル効果!(付:解説動画)
 自身を棚に上げて、しかも公平中立などとうそぶいて、中華人民共和国に協力するNHKなど、偽善を超えて、まさに”犯罪的”、”非人間的”としか言いようがない。
 以上、述べてきたが、誤解のないように付け加えておきたいが、私は「人間の展示」を正しい行為だと主張しているわけではないし、展示する側に差別意識がなかったなどと言っているわけではない。ただ、NHKのようにモラルの問題にしてしまうならば、モラルを語る主体の問題を離れることはできないということである。以下のイエスの説話のように、私達はいつも「人間の展示」と同じ行為をしなければ私達の社会が成り立たない以上、それを鏡とする他に私達には語る言葉がないと言っているだけである。
 キリストと姦淫の女
 私達は偽善を超えるところから、市民社会の平和と安全を守り、自身を生き抜く手掛かりを得ることが出来る。中島敦の「李陵」は、権力の暴力に直面した、そうした市民として李陵と司馬遷を描いている。宮刑を受けた司馬遷は、以下のような生き方を選んだ。
 青空文庫:李陵 
==========
 司馬遷(しばせん)はその後も孜々(しし)として書き続けた。
 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活(い)きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連(ろちゅうれん)の舌端(ぜったん)を借りてはじめて烈々(れつれつ)と火を噴くのである。あるいは伍子胥(ごししょ)となって己(おの)が眼を抉(えぐ)らしめ、あるいは藺相如(りんしょうじょ)となって秦王(しんおう)を叱(しっ)し、あるいは太子丹(たいしたん)となって泣いて荊軻(けいか)を送った。楚(そ)の屈原(くつげん)の憂憤(うっぷん)を叙して、そのまさに汨羅(べきら)に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦(かいさのふ)を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己(おのれ)自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 (中略)史記(しき)百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝(ぶてい)の崩御(ほうぎょ)に近いころであった。
==========
 歴史の女神はこうした人にその真実の扉を開く。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。