安野光雅の『旅の絵本』シリーズは昭和52年に始まった。第4巻はアメリカ編で、58年に刊行された。それ以後20年ほどの長い中断があって、平成15年にスペイン編が出た。その中に「村の結婚式」という場面がある。
確かに村の結婚式の様子が描かれている。
しかし、このシリーズには説明的な言葉というものが一切ない。すべての画像が、あたかも飛行機の離着陸時のような俯瞰的な視点からとらえられ、人間界の生活の様子が一見何気なく描き出されている。
安野の俯瞰的な構図は、日本画の伝統的な視点にもつながるもので、このシリーズでは、ちょうど絵巻物を絵本の形式で展開させたような感じになるが、絵本には普通にある文字による言葉がない。
その代り、氏の作品を観る場合、画像全体を眺めた後、細部を見て楽しんだり、作者が仕掛けた謎を発見したりする喜びがある。その喜びを完全に満喫したいというのが安野ファンだろう。
この作品も、細部を見ていくと、単に結婚式の場面や、お祝いの準備のモティーフばかりでなく、人間の生から死に至る「人生のサイクル」が暗示されているようにも見える。
例えば、めでたいこの場面に描かれなくてもよかった教会の右手の墓地のモティーフはもちろん死を暗示している。
さらに、この作品の極め付きは、画面中央下方部に描かれた、鍛冶屋のモティーフである。
鍛冶屋といってもただの鍛冶屋ではない。
ベラスケスだ、ベラスケスの描いたギリシャ神話に基づく鍛冶屋の場面が、この結婚式の絵の場面のなかに引用されている。
それはこんな場面だ。
太陽神のアポロンが、愛と美の女神ヴィーナスを妻としている美男ならざる火の神である夫ウルカヌスに、彼女と軍神マルスとの不貞を告げにきた。
鍛冶屋である火の神ウルカヌスが目を丸くして驚き、のけぞっている。
周りにいた鍛冶屋の仲間も、皆、一様に驚き、アポロンの方に眼を向けている。
そういう場面を、ベラスケスが描いた。そして、そのベラスケスの作品「ウルカヌスの鍛冶場」は、この絵本がスペイン編であるにふさわしく、スペインの有名なプラド美術館にある。
結婚式の場面に、わざわざ妻の不貞をその夫に告げにくるギリシャ神話の一場面を借りて、それをリアリズムの基調で描いたベラスケスの作品を持ってきたのは、まさに安野光雅のユーモアとアイロニーというほかはない。
が、しかし、それに気づかなければ、村ののどかな鍛冶屋の一場面に終わってもいっこうに差し支えないかも知れない。
安野光雅の頭は、それほどかたくはない。
確かに村の結婚式の様子が描かれている。
しかし、このシリーズには説明的な言葉というものが一切ない。すべての画像が、あたかも飛行機の離着陸時のような俯瞰的な視点からとらえられ、人間界の生活の様子が一見何気なく描き出されている。
安野の俯瞰的な構図は、日本画の伝統的な視点にもつながるもので、このシリーズでは、ちょうど絵巻物を絵本の形式で展開させたような感じになるが、絵本には普通にある文字による言葉がない。
その代り、氏の作品を観る場合、画像全体を眺めた後、細部を見て楽しんだり、作者が仕掛けた謎を発見したりする喜びがある。その喜びを完全に満喫したいというのが安野ファンだろう。
この作品も、細部を見ていくと、単に結婚式の場面や、お祝いの準備のモティーフばかりでなく、人間の生から死に至る「人生のサイクル」が暗示されているようにも見える。
例えば、めでたいこの場面に描かれなくてもよかった教会の右手の墓地のモティーフはもちろん死を暗示している。
さらに、この作品の極め付きは、画面中央下方部に描かれた、鍛冶屋のモティーフである。
鍛冶屋といってもただの鍛冶屋ではない。
ベラスケスだ、ベラスケスの描いたギリシャ神話に基づく鍛冶屋の場面が、この結婚式の絵の場面のなかに引用されている。
それはこんな場面だ。
太陽神のアポロンが、愛と美の女神ヴィーナスを妻としている美男ならざる火の神である夫ウルカヌスに、彼女と軍神マルスとの不貞を告げにきた。
鍛冶屋である火の神ウルカヌスが目を丸くして驚き、のけぞっている。
周りにいた鍛冶屋の仲間も、皆、一様に驚き、アポロンの方に眼を向けている。
そういう場面を、ベラスケスが描いた。そして、そのベラスケスの作品「ウルカヌスの鍛冶場」は、この絵本がスペイン編であるにふさわしく、スペインの有名なプラド美術館にある。
結婚式の場面に、わざわざ妻の不貞をその夫に告げにくるギリシャ神話の一場面を借りて、それをリアリズムの基調で描いたベラスケスの作品を持ってきたのは、まさに安野光雅のユーモアとアイロニーというほかはない。
が、しかし、それに気づかなければ、村ののどかな鍛冶屋の一場面に終わってもいっこうに差し支えないかも知れない。
安野光雅の頭は、それほどかたくはない。