美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

雨宮雅郷とは誰

2021-12-05 13:20:00 | 中村彝

 中村彝のある展覧会図録では明治41年2月とされる写真があって、同じ写真は彝関係の様々な文献に見出すことができる。7人の若き画家仲間が写っている写真で、そこは、撮影年がそのとおりなら、太平洋画研究所の教室ということになろうか。

 前列に左から高野正哉、白山仁太郎、中原悌二郎、鶴田吾郎、後列に雨宮雅郷、彝、野田半三の7人だ。
 彝は、明治39年の秋に本郷菊坂の白馬会第二研究所から赤坂溜池の白馬会研究所に転じ、中原、鶴田、高野、広瀬嘉吉を知る。そして更に40年3月から、鶴田、広瀬、高野、中原らを追うように太平洋画研究所へ移った。
 さて、その7人の写真だが、このうち、特に雨宮雅郷という人物は、その生没年や作品などを含め、ほとんど何も知られていない。この写真のキャプション以外、彝との関係も言及されることがないと思われる。
 しかし、雨宮の名は、中原悌二郎が残した明治40年1月1日から43年8月26日までの「青春時代の日記」(中原信『中原悌二郎の想出』)の中には、時折り現れる。なので実在の人物には違いない。主に中原が太平洋洋画会に移る前に彼の名が出てくる。
 例えば明治40年1月15日には、「午後雨宮氏とスケッチに虎の門近辺をあさり歩き、数葉を得。」
 翌日にも「十時雨宮氏、白山氏等と虎の門の近傍に於て水彩の写生をなす。」
 同22日「雨宮氏、白山氏等と葵橋に於て思ふままスケッチに筆を走らす。」
 2月3日には、高野、鶴田、雨宮、白山、中村、野田らの名前が出てくる。「午後八時雨宮、白山のニ氏辞し去り、残るは余と中村氏と野田氏と、当の主人公たる鶴田氏のみとなりたり。談又愈々神境に達して、神気言ふべからず。」
 明治43年6月10日の日記にも雨宮の名が出てくるが、今のところ、彼について知りうるところはざっとこのくらいだろうか。
 鶴田吾郎の『半世紀の素描』にもこの写真は掲載されている。そして雨宮の名が雅郷であることは、確かめられる。
 しかし、先に引用した『中原悌二郎の想出』に掲載されている写真では、野田半三と雨宮雅郷とが取り違えられており、さらに雨宮雅郷とすべきところが、雨宮美文となっている(冒頭写真)。これは、雨谷美文の名と混同しているのであろう。が、雨宮雅郷と雨谷美文とは別人物であり、雨宮美文なる人物は存在しない。さらにこの本の別の写真でも雨宮美文となっているところがあるが、これは長谷部英一と思われるのだ。
 かくして、雨宮雅郷の写真も7人のなかの一人として写っているもの以外見当たらないのである。
 鶴田吾郎によれば、その略年譜に白馬会同期の広瀬、白山、高野、雨宮、中原、後から入った彝らを「7人組と称し交遊す」とある。そして鶴田は明治39年の秋に太平洋画会に移る。
 ついで広瀬、高野が続き、中原、中村も太平洋画会に移る。中原が太平洋画会に移ったのは明治40年2月17日からである。
 7人組については、梶山公平氏によれば、5人組の彝、中原、鶴田、広瀬、高野に加えているのは、野田と堀進ニだ。このように「後年鶴田は語っていた」と梶山氏は述べているが、先の鶴田の言う7人組とはやや異なったメンバーとなっている。
 広瀬は、先の7人の写真に写っていないが、5人組には間違いない。
 写真に写っている7人のなかで情報量が少ないのは、雨宮と白山、特に雨宮である。
 「この他にむっつりと素朴な描き方をしている広瀬嘉吉、浅草の米屋の息子だった白山仁太郎、土佐の人間で川端玉章のところで日本画をやっていたという高野正哉、それらの数人がいつの間にか1つのグループになって時々各自の家で集まるようになった」と鶴田は書いているが、ここでも雨宮については触れていない。
 雨宮の名が雅郷となっているのは、日本画でも描いていたのか、雅号のようにも見えるが、生没年も出身地も分からない。詳しい情報が知りたいものである。
 なお、鶴田が「時々各自の家で集まるようになった」と書いているが、その様子は悌二郎の明治40年1〜2月の日記に窺えるものだろう。それは、太平洋画会に移る直前の頃だった。
 
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中村彝画室の遺品整理と印型シール

2021-12-04 20:29:00 | 中村彝
Ⅰ.

 中村彝と同郷の弟子、鈴木良三氏によると、大正13年12月27日に彝の画室での告別式が神式で執り行われた。突然の死であったが、彝は普段から備えていたのか、「遺書」はあったらしい。翌年、中村彝画室保存会が結成され、「あらゆる物品に印刷したレッテルを附し、番号を記録した。」(鈴木良三『中村彝の周辺』)

 ここで書かれている「印刷したレッテル」とは、朱文方印型の「中村画室倶楽部所蔵」シールのことだろうか。

 私が彝作品の真贋などに興味を持ったころには、人事異動なども重なって、オリジナル作品の裏側を具に観察したりできないままになってしまった。それに、オリジナル作品をこじ開けたりする危険さや上司の許可などという問題もあって容易にできず、このシールを研究する機会を逸してしまった。

 が、この朱文方印型のシールは、おそらく良三氏が言う「印刷したレッテル」のことではないかと今は考えている。
 この(おそらくは印刷された)印章シールにAの何番とかCの何番とか、墨などによる手書きの番号が書かれている。ちなみに、まだ、あくまで類推の段階だが、Aというのは油彩画のようで、Cはスケッチや素描の類に多く見られるようである。すると、Bというのは水彩やパステル画の類だろうかとも推測される。しかし、このシールは、もちろん作品のみでなく、残された本などにも貼ってあり、はっきり読み取れないが、EかFの3となっている本を見たこともある。

 ただ、注意すべきことは、仮に作品にこのシールが貼ってあったとしても、これは、直ちに彝が描いた真作であることを証明するものではない、ということである。
 そのシール自体が偽造されたものでない限り、それは、彝の画室の所蔵品であることを取り敢えず確定しておこうとするものだ。

 しかもこのシールがすべて印刷されたものなら、未使用の余分なものが生じていた可能性も考えられるので、それが適切に処分されなかったような場合は、後々に誤った用いられ方がされた可能性も排除しきれないのである。
 さらに、彝の画室には、彼に作品を見てもらおうと、他の画家たちが置いていった作品もあったかもしれないのである。
 よって、このシールのある作品は、彝の真作ではあっても、死に至るまであまり人目を引かず、生前に人手に渡らなかった作品に貼られたものとも言えるし、彝の真作以外の模倣作品などにも、間違って貼られたことなども考えられる。当然、スケッチ類などには、数多く貼られた可能性も推測できる。
 であるから、「中村画室倶楽部所蔵」印シールだけでなく、真作であることをもっと強く保証する措置が取られている作品もある。(ちなみに、番号付きで貼付したシールの登録台帳のような重要備品は、まだ発見されていない。)すなわちシールの他に、鶴田吾郎や二人の鈴木氏らの裏書なども加えられたりしている作品がそれである。

Ⅱ.

 例えばそうした作品の1点に豊田市美術館にあるドクロを描いた静物画がある。そして、これとほとんど同一のモティーフ構成ながら、その筆法などの様式的特徴がかなり異なる三重県立美術館の作品がある。

 三重の作品には、古い図版が存在する。それと現在の作品を比較すると、特に古い図版に見られる作品の上部が若干切り取られ、おそらく修復も加えられたものだとわかる。しかし、三重の作品は、ドクロのある静物画の中ではもっとも速度感のある力強い筆法によって描かれている。一方、豊田市美術館の作品は、筆法が総じて弱く、緩やかで、右上方部に一筆書のように描かれている、ぶら下がった紐のような線状の形は、現在、三重にある作品の古い図版と比較しても、合致はしない。そもそもいったいこれは何を描いたものなのだろう。

 出品歴を見ると、三重の作品は、以前から出品歴があるが、豊田市の作品は、あまり知られていなかったのか、日動出版の中村彝作品目録にも載っておらず、水戸、鎌倉、東京、新潟で行われた過去の彝の展覧会にも出ていなかった。(すでに豊田市所蔵後の2003年に水戸で行われた中村彝の展覧会では、出ていた。)

 さらに他にも類似する構図のドクロの静物画もある。いったいこれらの作品は、相互にどのような関係にあるのだろう。その辺の解明はまだ進んでいないようだ。先に述べた絵画裏面にあるかもしれない「中村画室倶楽部所蔵」シールなどを含め、研究すべきことが多くありそうである。

Ⅲ.

 彝の存命中から人手に渡って、もちろんこのようなシールなどのない、真作も多い。むしろ、油彩画などでは、シールなどのない真作に彝の優れた作品があると言えなくもないのである。


 それにしても、なぜ遺品の整理に直接手押の印でなく、印刷された「レッテル」、すなわちこの印章型のシールを貼ったのだろうか。油彩画の木枠や画布の裏では手押の印が難しいというのがあるのかもしれない。だが、紙の作品にもこの印刷した方印を切り取って貼っていったのは、手間ひまかかる作業だったに違いないし、スタンプ印やエンボスなどの方がよかったのではないかとも今は思う。

 だが、いずれにせよ、彝の遺品の中には、日常身の回りのものだけでなく、作品類なども予想に反して、かなり多かったのではないか、という疑問もこうして見てくると湧いてくる。

 ところが、鈴木良三氏は、その著書に「ベッドの下の戸棚の中にあった板寸の油絵は全部生前に私に命じて燃してしまったので1枚も遺っていなかった」と書いている。
 ただ、没後に、物置にしていた玄関に50号の「婦人像」の画布が巻かれていたのが発見され、皆で大喜びしたというエピソードを添えている。

 おそらくこれは、現在はメナード美術館にある魅力的な未完の俊子像のことだろう。この作品は、あたかも成就しなかった彝の恋の「心の真実の形見」のように永遠に遺されたのかもしれない。
 すなわち、これこそが彝の真の遺品なのだが、それについて論じるのは、今は控えておこう。
 ただ、この作品は、今回の記事の趣旨に関連して、酒井億尋が「買い取ってしばらく所蔵していた」と良三氏が語っていることをここに記しておく。

 そして、良三氏はこれに続けてこう語っている。
 「その他にはスケッチブックや便箋などに描きちらしたような自画像や、エスキースなどがあったが、これも側近といった連中が、二、三人で分配した程度で、油の作品は無かった」と、油絵がなかったことを再度強調し、明言している。スケッチ類なども、側近の人たちに「分配」されてしまったと言うのである。

 しかしながら、実際には、彝没後に「中村画室倶楽部所蔵」シールが貼られた作品が、年々、次々に確認されている。特にスケッチや素描の類に付されたCの番号が目につく。これらは「側近」筋から出てきたものであろうか。
 また、良三氏が油絵はなかったと明言しているにもかかわらず、Aの番号も皆無ではない。
 もし、Aの番号が、本記事で類推する通り、油彩画に振られたものとするなら、まだ未知の作品がかなりあることも想像される事実すらある。

 印刷された「中村画室倶楽部所蔵」シールの謎は、今後、さらに深く解明されなければならない問題を多く含んでいるのである。

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