美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

中原悌二郎の友人・雨宮雅郷

2024-04-17 11:17:21 | 中村彝

 中村彝や中原悌二郎の文献に掲載されているある写真を見ると、そこに雨宮雅郷なる人物が親しい友人として紹介されていることに気付く。しかし、この人物について、私のまわりの美術に詳しい人たちに訊いてみると、誰も知らなかった。

 そこで、私は少し前にこのブログで「雨宮雅郷とは誰」という記事を書いた。しかし、それ以上のことは分からなかったし、他の人から何の情報の提供もなかった。だが、今回、以下のことが分かったので、報告しておこう。

 雨宮雅郷は、前の記事で書いたように、彝というよりも、悌二郎の初期の日記にその名が見られる友人であり、一方、彝の友人の雨谷美文と混同されることがあった。

 確かにこの二人は混同されやすいのかもしれない。

 実際、悌二郎関連の文献に、雨宮雅郷とすべきところを雨谷美文などと写真の解説などに記されているものがあった。

 雅郷というのは、なんだか日本画家の雅号のようにも見え、日本画も描いていたのかと想像させる名前のように思えるかもしれないが、どうもそうではなさそうである。

 雨宮雅郷は、少なくとも明治44年までは油彩画を描いていたことが、やっと分かった。たとえば、そのころある展覧会に、「荒磯」「自画像」「夕日」といった作品を出品している。が、その画像までは分からない。

 そして、この展覧会に雨谷美文も「冬光」等の作品を出品しているが、その「冬光」では彼が雨宮美文と誤植されていた。

 そのほか今回分かったことは、同姓同名の別人でなければ、雨宮雅郷が、大正元年ころには、四谷区新宿で菓子商を営んでいたことである。その時その菓子商店は開業以来、31年ほど経っていたというから、開業したのは、彼の父母の代であろう。その雅郷氏は、少なくとも大正年間、菓子商であったらしい。

 もし、その菓子商の雅郷氏が、悌二郎たちの友人であるなら、そこに彼自身や、悌二郎らとの交流の何らかの貴重な資料などが見つかるかもしれない。そうした意味で、こうした探究も意義のないことではなかろう。

 

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中村彝と中原悌二郎 ドストエフスキーの《空想的リアリズム》をめぐって(2)

2024-04-13 01:41:34 | 中村彝

 小林秀雄が依拠しているドストエフスキー全集は、主に米川正夫の訳文に拠るものらしいので、米川氏と交流があった悌二郎が引用した下記①②③の典拠を、最初はそこから探し求めて確認したかったが、まだ見つからない。

 「①余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。②余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。③多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。」(中原悌二郎「空想的に迄で進んだ写実主義」、引用冒頭の数字はこのブログ筆者によるもの。また、中原の原稿では③の部分が改行されているが、ここではブログ形式の都合で続けて表記している。)

 上記の内容は、ドストエフスキー芸術の本質に関わるもので、彼の芸術における《空想的リアリズム》と呼ばれている特徴を示しているものだ。

 これはもちろん全体として一つのまとまりのある文章としても読めるのだが、三つ別々の出典があるものとしても読める。または、③で改行されているところから、二つの典拠があるものとしても読める。

 中原悌二郎が中村彝の「エロシェンコ氏の像」について、ドストエフスキーの言葉を引用しながら語ろうとした未完の原稿では、①に加えて②の文の途中の「あり得ようか」までが続けて引用されていた。

 そして、小林秀雄の『白痴』に関する最初の論考では、ドストエフスキーの同じ言葉を引用しているが、それは①の部分のみであった。

 先のブログ記事で私は③の部分がドストエフスキーの比較的よく知られているある書簡から取られていることを述べた。そして、その書簡には、①と②の部分はないとも書いた。

 それなら①と②の部分はどこから取られたのだろうか。そこで調べてみると、ドストエフスキーの厖大な『作家の日記』の中のある箇所に次のフレーズがあることが分かった。

 「まぎれもない写実主義、いわば幻想的な域にまで達する写実主義」、これである。

 そしてこのフレーズの少し前に「私は美術における写実主義が非常に好きなのだが」というフレーズがあることも分かった。(訳文の引用は、新潮社版の『ドストエフスキー全集』に拠る。)

 だが、果たして、これらは悌二郎が引用した①の部分の典拠なのだろうか。

 因みに、上の訳文での「幻想的」と「空想的」とでは、明暗の違いが著しく、日本語のイメージではかなり異なるが、(英語で言えばおそらくファンタスティックで)、これは文脈によって翻訳者がどの語彙を選ぶかにかかっている。であるから、ここでは取り敢えずは問題なかろう。「美術」と「芸術」の語も同様であるが、先の新潮社版では芸術一般というよりも明らかに美術を指しているので、訳者は「美術」としたのだろう。

 しかし、『作家の日記』のこれらの部分が、悌二郎が引用した①の典拠であると考えるのは、やっと探し出したのだが、かなり躊躇われる。

 なぜなら、「私は美術における写実主義が非常に好きなのだが」から「まぎれもない写実主義、いわば幻想的な域にまで達する写実主義」までの間には多くの文が入っているし、「まぎれもない云々」は、実は括弧内に見出されるフレーズなのである。しかも②の部分へとは繋がっていない。

 それなら、それはひとまず措いておき、先に悌二郎が引用した②の部分はどこにあるのかを探ってみよう。

 すると、これも調べてみると実は、『作家の日記』のそれより以前の個所(1876年3月)にこんな部分があることに気づく。

 「現実は退屈で単調であるといつも人は言う。気晴らしのために人は芸術や空想(ファンタジー)に頼ろうとし、小説を読むのである。私にとっては話は逆だ。ー現実よりもファンタスチックで、意外なものがあり得ようか?時には現実よりもさらにもっと途方もないものがあり得ようか?」(訳文は同上)

 上記の後半部分は確かに②の趣旨とほぼ合致している。ほぼ合致しているが、もちろん同一でなく、しかも①とは繋がっていない。むしろ、『作家の日記』ではこちらが先に出てくるのである。

 それなら、悌二郎は『作家の日記』のそれぞれの部分を自分で自由に繋ぎ合わせて先の小論「空想的に迄で進んだ写実主義」に、①②として、引用したのだろうか。

 だが、悌二郎が厖大な『作家の日記』を読んで、そこから部分と部分を繋ぎ合わせて①と②の文章を作ったとまでは、想像できない。しかし、いずれにせよそれらは、バラバラではあってもドストエフスキーの言葉であるから、その思想は通じてはいよう。が、それらの幾つかの部分をわざわざ繋いで悌二郎の引用部分の直接の典拠とするにはかなりの無理がある。

 やはり、更にドストエフスキーに関する他の文献に当たって探すべきではなかろうか。

 すると、シュテファン・ツヴァイクが、その著でドストエフスキーを引用したこんな文章に出会った。

 「『①私はリアリズムを、空想的なものに達するほどまでに愛している。というのは、②私にとって現実以上に空想的なもの、思いがけないもの、現実以上に非現実なものが、いったいあるだろうか』とドストエフスキー自身が言っている。」(冒頭の数字はブログ筆者のもの。訳文の引用はみすず書房版の『ツヴァイク全集5』に拠る。)

 このツヴァイクの引用における①の訳文の文法構造は、問題の引用における①とは、若干異なって見えるが、意味的には本来、同じものと見てよいであろう。しかもこれは、先の悌二郎の引用部分における②とも完全に繋がっている。

 こうしたことから、悌二郎が引用した部分の少なくとも①と②とはもともと繋がっており、別々のものではなかった、ということが言えると思う。

 悌二郎は、ツヴァイクが引用したのとおそらく同じドストエフスキーの文章、すなわち①と②とが繋がっているドストエフスキーの文章を何かで読んで、かなり気に入り、自分のノートにメモしていたのではなかろうか。

 そして、ストラーホフ宛の書簡から取られた③も、改行して、そのノートに書いたのではなかろうか。

 いずれにせよ、①と②の文とが繋がって書かれているドストエフスキーの文章は、確かに別に存在すると見てよいだろう。

 つまり、先に見た『作家の日記』における諸部分からのものは、悌二郎の引用の直接的な典拠とまでは無理して言う必要はない。(続く)

 

 

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中村彝と中原悌二郎 ドストエフスキーの《空想的リアリズム》をめぐって(1)

2024-04-11 09:12:33 | 中村彝

 中村彝の代表作「エロシェンコ氏の像」(大正9年作)について、親友の彫刻家である中原悌二郎がドストエフスキーの言葉を借りながら語ろうとした未完の原稿がある。しかし、これは、彝の研究者たちにはあまり知られてないようである。文献等に引用されることも、きわめて稀である。ただし匠秀夫の中原悌二郎についての基本文献『中原悌二郎 その生涯と芸術』には、彝のこの作品を語るに当たって引用されている。

 そのドストエフスキーの言葉とは以下のようなものである(旧漢字、仮名遣い等は改めた)。

 「余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか」(『彫刻の生命』「中村彝氏の『エロシェンコ氏の肖像』を見て」より)。

 実は悌二郎、このドストエフスキーの「空想的にまで進んだ写実主義」という言葉を「実に面白い」と感じていた。

 というのも、ロダンの芸術を語る際にも、悌二郎はこの言葉を好んで引用しているからである。しかも、そこでは他のフレーズも付け加えられている。

 「余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。ードストエフスキー」(上掲書「空想的に迄で進んだ写実主義」より)

 大正期の芸術家である悌二郎は、彝の代表作とロダンの芸術を語る際に、今日、ドストエフスキーのリアリズムの本質を語る際に極めて重要な概念となっている「ファンタスティック・リアリズム」の概念を好んで用いていたのである。それが重要な概念だということは、例えばマルコム・V.ジョンズの"Dostoyevsky after Bakhtin"(1990)などの著書を見ても分かる。

 悌二郎のこの引用は、日本におけるドストエフスキー受容史の中でも注目されることと思われるが、それは本稿の目的ではないから、ドストエフスキーの研究者に任せるほかはない。

 しかし彼は、そもそも先の引用をドストエフスキーの如何なる文献から取ってきたのであろうか。そのことだけでも確かめたいと思って、いくつかの文献を探ってみたが、まだその完全な解決には至っていない。ただ、悌二郎がドストエフスキーの言葉として掲げたこと、そのこと自体には誤りがないことは確かめられた。どういうことか?

 何しろドストエフスキーの文献資料は厖大で、今なお新たなドストエフスキー全集の編纂がロシアでも進んでいるような状況らしいので、日本語訳の「全集」にその出典が見つかるという保証はない。しかし悌二郎がロシア語の文献などからこれらの言葉を見出したとは考えられないから、日本語文献からの引用とするなら、彼が活動していた時代の評論、翻訳などを含む何らかの文献にこのような言葉が載っているはずだ。

 もしくはここで忘れてはならないのは、彼が旭川出身で、元来文学好きでもあり、旭川でロシア文学者の米川正夫と出会い、親交が古くからあったことである。すなわち米川氏から悌二郎がドストエフスキーの言葉を直接に教示されている可能性もあるのだ。もしそうだとすると、なお厄介である。確かめる手立てがなお困難となるからである。しかし、前者の記事で悌二郎は「何かの本で・・・読んだことがある」と言っているので、やはり文献から探し出すのが順当だろう。

 今のところ私に分かったのは、先の引用のそれぞれ異なる部分、部分の出典に過ぎない。すなわち、それらの部分、部分をつなぎ合わせると、悌二郎が掲げたドストエフスキーの言葉になるという程度で、完全な解決には到っていない。もちろん、匠氏の文献にも悌二郎が引用した出典は示されていない。

 「①余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。②余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。③多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。ードストエフスキー」

 私が最初に分かったのは上記のうち③の部分だ。これは、ドストエフスキーの書簡の中に見出せる。すなわち、1869年2月26日のストラーホフ宛書簡にこの一節がある。ただし、それは①と②に繋がっているわけではない。

 次に私が見出したのは小林秀雄がドストエフスキーの『白痴』を語るに当たって引用している①の部分だ。しかし、その典拠は示されていない。小林は米川氏の『ドストエフスキー全集』に依拠しているらしいから、そこに手懸りがあるのかもしれない。(続く)

 

 

 

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中村彝と『ルカ福音書』のザカリア

2024-02-07 08:04:50 | 中村彝
 多湖実輝に中村彝がしばらくぶりに与えたある葉書の終わりの方にこんなくだりがある。

 「然し僕はこの頃声が出なくなって終ったから會っても愉快には話せない。(まことをは語らん日まで黙[もだ]せよと神の教かわれ声立たず)」。

 この葉書は未刊行なので知る人は少いと思うが、かつて筆者はあるブログhttps://note.com/riki_72/n/ne49f4432ce5aで全文を紹介したことがある。

 彝のこの葉書の前に、彼は久しぶりに親友から書簡を貰ったのだが、その内容は知られていない。せいぜいその返信であるこの葉書からおぼろげに推測するしかないだろう。

 多湖は、彝に会って何事かを頼みたかったのだろうか。もし、そうだとしたら、「然し僕はこの頃声が出なくなって終ったから會っても愉快には話せない。(まことをは語らん日まで黙[もだ]せよと神の教かわれ声立たず」とあるのを読んだとき、彼はこれをどのように思い、解釈したろうか。

 この葉書は、彝が今は悦んでは会えない、会えるような心身の状況にないと、言っているようにも読まれる恐れもあるだろう。

 彝は、この葉書で多湖の手紙がしばらくなかったので、彼の病気が思わしくないのではないかと心配したうえで、自分の病状が非常に良くないことを書いた。

 こうしたことから、多湖を今の自分に近づけないほうがよいともとれるが、何ともわからない。

 この葉書に触れらているように彝は木村博士から死期が近いことを宣告されている。それはこの年の2月下旬のことであり、さらに3月28日には中原悌二郎の死を知らされた。
そして自分の病状の良くないことと突然の「ひどい変化」を案じて、7月11日には中村春二宛書簡で、自分の死後のことについての願いごと(遺言状)まで認(したた)めた。

 したがって、この頃の彝にはきわめて大きなストレスがかかっており、彼は実際、一時的にせよ心因性の「失声症」に陥ることがあったのかもしれないと、今日では、読めるかもしれない。

 さて、彝は実際どうして『聖書』からの引用とも思われるような括弧内の言葉を遣って多湖実輝にやや長めの葉書を書いたのだろう。

 このことについて、筆者は別のブログ
に標記のような題で一文を書いてみた。興味のある方はご覧あれ。


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中村彝と臼井吉見の『安曇野』

2023-10-03 09:21:40 | 中村彝

 臼井吉見(1905-1987)の『安曇野』は、氏の代表的な著作物である。

 本著は「大河小説」と言われているが、多くの場面が、紛れもない実在の人物の事実的な要素によって構成されている。作者は主要人物の伝記的事実やその背景を、労苦して詳細・丹念に調べ上げ、この小説を書いたことは間違いない。

 さて、中村彝がこの小説に登場するのは、主に第3部の冒頭当たりからだろう。その中でも、この小考で取り上げるのは、その第3部「その五」、「その六」で語られている場面についてである。

 なぜ、『安曇野』に語られている中村彝を問題にするかと言えば、彝を調べていた私自身がかつてこの「小説」を読んでいて、ある種の戸惑いを覚えた経験があるからである。(おそらく他の登場人物の伝記的事実を知っている多くの人も、私と似たような戸惑いの経験をしたかもしれないが、ここでは問題の対象を際限なく広げていくわけにはいかない。)

 その戸惑いというのは、読んでいて、これはどこまでがフィクションであり、事実の部分はどこまでか、というような問題である。フィクションと割り切って読んでしまえばそれでよいのだが、読書中、自分の知っている事実とどうしても照らし合わせたくなる箇所もあり、そうすると多少頭の中が混乱してくるので、これを若干、解剖・整理してみる必要を感じた。

 この作品は全体としてはフィクションなのだが、臼井氏が書いた部分や文章の細部を見ていくと、実在する彝の書簡などの資料の一部が殆どそのまま本文に組み込まれているような場合があることに気付く。何処までが資料からの引用なのか、何処からが臼井氏が純粋に創作した文章であるのかよく分からない書き方である。

 それは歴史小説などでは当たり前の手法なのかもしれない。だが、注意しなければならないのは、彝が他の人物に宛てた書簡の一部を、別の人物に宛てた手紙として利用しているような場合があることである。

 例えば大正5年1月31日の彝の書簡がある。

 これは彝が相馬俊子との最後の会見を語っている長い毛筆書簡であり、実際には白河の伊藤隆三郎に宛てたものであるが、その手紙の一部を、中原悌二郎に宛てた手紙として臼井氏は利用している(『安曇野』第3部115‐116頁)。

 最初の短い2文と手紙末尾の短い2文を除き、「会見の顚末を委しく書くといいのだが」以下、「悪魔はこの絶望と疑ひとをねらって、人の心に入り込むのだ」まで、伊藤宛の彝書簡からの引用である。決してそれは中原悌二郎に宛てたわけではない。

 また、中村彝の大正4年3月の書簡がある。

 実際には伊豆大島から中村春二に宛てたもので、大島風景の色彩的な叙述や、彼の健康状態と眼前に見えている風景とを重ね合わせた画家の内面・心理描写が見られる実に印象的な手紙である。

 『安曇野』第3部「その五」の冒頭部(81‐86頁)の多くの部分は、この手紙に始まり、彝の『藝術の無限感』にある「藝術の無限感」のような小文や「細心な霊よ」のような詩文も組み入れ、さらに3月19日の同じく中村春二宛て書簡や、8月14日の伊藤隆三郎宛の手紙などの一部を、瞬間「おやっ」とは思わせつつも、不自然さをあまり感じさせないように、巧みに繋ぎ合わせて、3月5日の中原悌二郎宛の書簡に仕立て直している。

 つまり、その冒頭部の悌二郎宛のかなり長い、創作されたと思われる彝の手紙は、実は、彝が実際に異なる人物に宛てた実在する複数の手紙の部分や詩文等をいくつか組み合わせて再構成したものなのである。

 『安曇野』の文学的な価値や、その手法の可否についてここで立ち入ろうとは思わないが、この作品の読者は、こうした場面もここにはあるのだということは知っておいたほうがよかろうと思う。

 

 

 

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