美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

中村彝のコレクターたち(4)-伊藤隆三郎と洲崎義郎

2022-02-20 18:18:37 | 中村彝
 彝没後の翌年に開かれた遺作展に出品された洲崎義郎蔵の作品は、当時の目録によれば、66点中17点もあった。
 今村繁三蔵は、同じく11点、伊藤隆三郎蔵は9点であったから、3人のコレクターの中で最も多く出品したのは洲崎の作品だった。
 しかし、洲崎の彝所蔵品は、今村と伊藤の所蔵品に比べるとその質がやや低いと評価されることがあるが、本当にそうだろうか。
 今村の所蔵品は前回のこのブログ記事で示したが、伊藤の所蔵品はまだだったので、先ず出品された伊藤隆三郎のそれを一覧で列挙しておく。

11 ステーションの雪
12 友の像
15 少女裸像、大正3年
19 少女
22 裸体習作、デッサン
26 大島風景、パステル
33 庭の一隅、パステル
51 水浴の女
53 椅子によれる女

上記のうち、特に注目されるのは12,15,19,53だろう。(51は、プラド美術館にあるルーベンスの有名な「三美神」の向かって左側の女性裸体像を自由に模写した小品である。作品に書かれているR.はルノワールを意味するものではない。)
 これらは、いずれも人物画であり、15と19は俊子を描いた作品と考えられる。
 伊藤隆三郎は、彝の人物画の秀作を比較的多く所蔵していたのではなかろうか。
 もし、高島菊次郎の彝コレクションが伊藤隆三郎から多くを買い取ったものとするなら、さらに、伊藤は、回顧展図録3の「読書」、11の「少女習作」(現在、横須賀市美術館蔵)などの人物画も持っていたわけで、伊藤隆三郎の彝コレクションの特徴は人物画の秀作にあったと言ってもよいかもしれない。

 さて、洲崎義郎所蔵品の出品された17点は以下の通りである。

10 ダリヤ
27 大島風景
28 大島の椿
29 静物
30 自画像
35 苺
37 ダリヤ
38 鳥
40 平磯海岸
41 平磯
42 目白の冬
45 庭の雪
46 洲崎氏の像
47 自画像
54 庭園
55 庭の一隅
57 静物、パステル

 ここから見ると、洲崎のコレクションには彝の自画像と、自身の肖像画を除いて、人物画は比較的少なく、静物画と風景画が多い。(続く)
 

 

 
 
 

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中村彝のコレクターたち(3)ー今村繁三

2022-02-14 00:23:38 | 中村彝
 中村彝の没後に直ぐ開催された画廊九段での遺作展の目録によると66点が出品された。そのうち以下の11点が今村繁三所蔵の作品だった。

 巌
 海辺の村
 (明治44年の)女
 (大正3年の)静物
 (目録14番の)静物
 (同24番の)ダリヤ
   (大正5年の)裸体
 エロシェンコ氏の像
 (目録58番の)女
 朝顔
 老母像
 
 これらの作品は、その多くが主要な展覧会に出品された彝の作品であり、今村がいかに彝の重要な作品を所持していたか分かる。
 目録に写真図版がなくても、2点の「静物」と「ダリヤ」を除けば、どの作品であるかが制作年とタイトルから容易に確認できる作品群である。
 2点の「静物」のうち、大正3年とされる静物も、今村が持っていたのであるから、重要な作品である可能性が高いが、どの作品を指示しているかは明確でない。実際に大正3年の作品かどうかも分からない。
 今村が持っていた静物画で重要なのは、1911年1月15日の年記とT.N.のサインを持つ作品かもしれない。1911年は明治44年だが、この作品は、大正3年の大正博覧会に出品され、銅賞を獲得している。が、遺作展に出品されたかどうかは明確ではない。
 これは、写真図版がある昭和16年の回顧展図録ではなぜか大正2年作の「静物」として載っている。また、そこでは某家蔵とされている。しかし、同年の森口本の図版ではこれが今村蔵と明記され、制作年は、年記通りの明治44年がとられている。
 今村が持っていた作品のうち、昭和16年までに「巌」は御物となった。同じく官展出品作品の「女」と「老母像」は徳川家に移った。今村は彝のこれらの作品を、この頃までには事情があり、手放したのかもしれない。
 また、森口本の図版で大正6年作とされる佳品の「静物」も昭和16年までには徳川家の作品となっているので、あるいはこの作品も、もとは今村蔵の作品であった可能性があるかもしれない。
 遺作展58番の今村蔵の「女」は、金塔社展出品の作品と思われる。色調や作品のサイズも「エロシェンコ氏の像」と対を成すかのような作品であるから、今村が持つに相応しいし、隣り合わせに並べると本来同じ額縁に入っていたことに気付くはずだ。
 今村蔵の「裸体」や「エロシェンコ氏の像」、そして「朝顔」もそれぞれの時期の代表的な作品と言ってよく、今日ではもちろんどれも公的美術館の所蔵となっている。
 更に今村蔵の彝作品は、遺作展に出品されたもの以外にもまだあった。例えば今日ポーラ美術館にある日本の古代神話から取材したという3人の裸体女性が描かれた「泉のほとり」も今村蔵の作品であった。
 他に森口本14番の「花」、そして、今日、三重県立美術館にある「髑髏のある静物」、茨城県近代美術館にある「カルピスの包み紙のある静物」も旧今村蔵として重要である。
 そして、より興味深いのは、今日、メナード美術館にある俊子を描いた横長の大きな作品「婦人像」も森口本では、今村蔵になっている。これは、未完成ながら、彝の代表的な作品の1点と言っても過言ではない作品である。
 この作品は、彝没後にそのアトリエから発見され、鈴木良三の著書によれば、酒井億尋の所蔵となった作品である。
 が、いつの時点からか、(森口本の記述が正確なものとするなら)今村蔵となったことが推測される。
 そして、おそらくこの作品は、興味深いことに、マネのいくつかの作品からの影響が濃厚にあるものではなかろうか。(特にその「オランピア」と、おそらく彝がカラーの複製画を持っていたと思われるニーナ・ド・カリアスを描いた「団扇と婦人」からの影響が大きいのではなかろうか。)
 このように今村繁三の中村彝作品のコレクションは、実に粒揃いであったのである。
 なお、今日、茨城県近代美術館にある「裸体」は、森口本では、もはや今村蔵とはなっていない。昭和16年までには、他の所蔵家に渡っていたのかもしれない。
 
補遺:
 相馬俊子を描いた彝の「婦人像」とは反対に所有者が入れ替わった作品がある。すなわち、遺作展では今村蔵となっていた「朝顔」は、昭和16年までには酒井億尋蔵となっている。(2022-2-19記)

 
 
 
 
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中村彝のコレクターたち(2) ー高島菊次郎

2022-02-06 15:39:18 | 中村彝
 中村彝作品の初期コレクターとして、今村、伊藤、洲崎に次いで、高島なる人物が現れた。それは、昭和16年の中村彝回顧展図録や同年に公刊された森口多里の本を見ると確認できる。

 しかも、それは、1,2点にとどまらない。さらに、高島家のコレクションとされている作品にはかなり重要なものが含まれているのである。

 前のこのブログ記事で、それは、高島なる人物が伊藤隆三郎のコレクションを受け継いでいるからではないかと推測した。

 では、この高島なる人物とは誰だろう。本稿では、それは、中国美術のコレクションで名高い高島菊次郎のことではないかと思うのである。
 
 「高島菊次郎氏(1875~1969)は、日本の製紙業界に大きな貢献を残しました。またそのかたわら、50歳を過ぎた頃から老子・荘子を中心に漢学を研究し、書画に関する関心を次第に深め、中国書画の収集に力を注がれました。その収集品は、早くから高島コレクションとして内外に喧伝され、その分野の研究に果たした功績はきわめて大きなものがあります。」
 
 上に引用したのは、東京国立博物館が2005年に展示した中国美術に関連した「高島コレクション」の紹介文章からの一節である。
 ここには高島が、洋画家たち、特に中村彝の作品もコレクションしたなどとは一切書かれていない。けれども、彼が製紙業界に大きな貢献をしたという部分に注目されたい。
 実際、製紙業界が彝の作品を所蔵していた証拠は今日においても確認できるのである。
 例えば明治44年作の「読書」や、<大正八年六月彝>の年記と署名のある優れた作品の「静物」がそうした製紙業界に関連した作品である。
 では、この2作品は、伊藤蔵として大正14年の遺作展に出ているかと言えば、それは出ていない。伊藤がこれらの作品を持っていたが出さなかったのか、持っていなかったから出なかったのかは今のところ分からない。
 逆に遺作展51番の、ルーベンスから自由に部分模写した彝の小品「水浴の女」は、伊藤蔵であったが、これが、高島コレクションに一時的に入ったかどうかもまだ分からない。(鈴木良三によれば、この小さな作品だけはかなり後まで伊藤が愛蔵していたようである。現在では確か多摩信金蔵となっている。)
 一方、「ステーションの雪」や「椅子によれる女」のように伊藤蔵から高島蔵に移った作品があることも確かである。
 このようなわけで、伊藤蔵の彝作品が全て直接に高島コレクションに入ったのかは、まだ十分には確認できているとは言えないかもしれない。
 けれども、高島菊次郎は、王子製紙で高橋箒庵の後を継いだ人物であることも注目すべき事実である。
 高橋義雄箒庵は、水戸の出身で彝の支援者の一人である。彝没後シスレー模写が鈴木良三氏によって箒庵に届けられた。
 だから高島菊次郎が高橋箒庵などから聞いて水戸の画家彝の名前を以前から知っており、その作品を伊藤などからまとめて買い取ることがあったとしても不思議ではなかろう。
 むしろその可能性は、これまで述べた様々な状況から、かなり大きいと言えるのではなかろうか。(©︎舟木力英)
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中村彝作品のコレクターたち

2022-02-05 15:22:00 | 中村彝

 中村彝のコレクターとして有名なのは、今村繁三と伊藤隆三郎、そして洲崎義郎の三人だろう。

 彝が内面を告白した最も親密な書簡を取り交わしたのは、おそらく洲崎とだろうが、資金面での現実的な援助が多かったのは今村と伊藤に違いない。
 彝が大正13年のクリスマス・イブに亡くなって、早くも翌年3月に遺作展が画廊九段で開かれた。既に当時の目録には66点の作品がリストアップされている。
 内訳は洲崎が17点、今村が11点、伊藤が9点の出品であった。他に所蔵者名が明らかにされている作品が11点、それが明示されていない作品が18点である。
 以上のとおりであるから、その展覧会の出品作品の中核を成すのは間違いなくこれら3人が持っていた作品だったと言ってよいだろう。この遺作展は、正に彼らのコレクションを中心にして成り立っていたのである。
 
 これまでも、彝の伝記や書簡などから、例えば今村が、「海辺の村」や「エロシェンコ氏の像」などを手に入れていたであろうことは知られていたが、更に具体的に彼らがどのような作品をコレクションしていたかは、あまり詳しくは分からなかった。しかし、この遺作展目録によって彼らが持っていた作品のタイトルだけはある程度分かるようになったのである。
 
 しかし、大正14年の遺作展の目録自体、今日では入手が非常に困難なものであり、その上、そこには写真図版が付いていないので、「少女」とか「静物」などと記されていても、それがどの作品を指示するものかは、はっきりしない。
 そこで、ここでは昭和16年3月、銀座青樹社で開催された「中村彝回顧展」の図録と、同年に公刊された森口多里著『中村彝』の図版とを比較対照して、そこから遺作展出品作品の所蔵者にさらに具体的に迫ろうと思う。
 
 回顧展図録と森口本はいずれも彝歿後20年にも満たない戦前に公刊され、図版付きで載っている。しかも、コレクターたちは、世界恐慌の影響を受けながらも、辛うじて彝の作品を所蔵していた痕跡が、これら昭和16年の著作物に残されているかもしれないのである。そのことも期待しつつ検証してみたい。
 すなわちここで紹介するのは、遺作展目録、図版付きの回顧展目録、そして森口多里著『中村彝』の作品図版の比較対照によって得られた彝作品の初期の所蔵者に関する考察である。
 
 先ず回顧展図録と森口本の図版を比較対照して最初に気づくことは、回顧展図録には、洲崎蔵の表示のある作品が見当たらないということである。さらに、ここには今村の名も全く明示されていない。が、回顧展図録には某家蔵となっている作品が9点ある。ここで、某家蔵となっている作品は、実は今村蔵の作品と見做せるものである。なぜなら、ここで某家蔵となっている作品は、同じ年の森口本で全て今村蔵となっていたからである。
 また、回顧展図録では、伊藤の名も全く出て来ない。つまり、洲崎、今村、伊藤の3人の名前が出てこないのだが、伊藤の名前がないのはなぜだろう。伊藤は既に昭和16年の時点で彝の作品を手放したのであろうか。
 どうもその可能性も否定できない。なぜなら、回顧展図録では、高島家が彝の作品を9点ほど出品していることが明示されており、この高島氏が伊藤の彝コレクションの多くを買い取ったのではないかと思われるからである。
 と言うのは、明らかにかつて伊藤が持っていたはずの作品が、高島蔵の作品に含まれているからである。
 旧伊藤蔵の作品は、遺作展目録には写真図版がないので、原則的には回顧展図録や森口本で高島蔵となっている作品と比較対照することができないのだが、特徴的なタイトルから明らかに伊藤蔵の作品だったものが高島蔵の作品に含まれていることが分かるのである。例えば「ステーションの雪」、「椅子によれる女」などの特徴的なタイトルの作品は明らかに伊藤から高島に移動した作品と分かる。こうした事実から、高島蔵の他の彝の作品も、あるいは伊藤蔵の作品から引き継がれたものではないかと推測するのも飛躍とは言えないだろう。
 ただ、遺作展目録で伊藤蔵になっている「友の像」は、回顧展図録に出品されておらず、森口本では所蔵者名が明示されていない。
 一方、俊子を描いた愛知県美術館の「少女裸像」もタイトルから判断すると伊藤蔵から高島蔵に移った作品のように見える。
 回顧展図録と森口本にある高島蔵の「読書」は、遺作展目録に載っていないが、あるいはこれも伊藤蔵の作品だったのかもしれない。
 また文展出品の中村屋蔵の「少女」(今日では文展目録に従って「小女」表記されることが多いが、どんなものだろう)も、なぜか回顧展図録と森口本に高島蔵とある。この記述に間違いないなら(註)、この作品も、かつては伊藤蔵だったということだろうか。さらには、今日、横須賀美術館にあるやはり俊子を描いた「少女習作」(回顧展図録11=森口本16)も高島蔵とあるから、これももとは伊藤蔵だった可能性がある。しかし今日メナード美術館にあるやはり俊子を描いた「婦人像」は、今村蔵の作品であったことが窺える。
 では、このように彝存命中にはその作品の所蔵者として名前が出てこない高島氏だが、伊藤蔵の重要な作品を多く所蔵するようになったと思われるこの高島氏とはいったいどのような人物なのだろうか。(続く)(©︎舟木力英)
 
(註)森口本では俊子を描いた文展出品の「少女」と大正博出品の「少女裸像」の出品歴を相互に取り違えている。
 
 
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