美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

「土浦病院と小川芋銭」展を見る

2020-09-21 20:34:00 | 小川芋銭
先日、標記の展覧会を見た。小規模な企画展だったが、自分には、かえってじっくりと展示内容が見られてよかった。

地元に密着した展示で丁寧な解説パネルなどがあって、手紙のくずし字も親切にその読みが書いてあった。

芋銭の書簡などの文字はそれ自体が魅力的だが、おおかたの現代人にはもはや読むのが難しいから、その読みが書いてあるのは親切だ。(冊子の方にも書いてあればもっとよかった。)

かつて岡本かの子が川端康成に宛てた書簡なども展示された川端康成の美術コレクション展が各地の美術館で開催されたことがあった。だが、展示品の難しいくずし字の読みが示されていないものがあった。

しかも、それに関連した全国版の新聞記事に、新発見とされるある書簡の写真が載っていたが、その中のくずし字の読みには誤りがあった。後で訂正されたのかどうかは知らないが、大新聞の全国版記事にもそういうことがあるのだ。

さて、先の「土浦病院と小川芋銭」展に戻ると、展示されている昭和9年7月8日の芋銭の書簡にこんな一節があった。

「此程は阿部知事より予而御送り申上候寒巌二公図潤筆として金五十円御恵与を御郵送被下正に受納仕候御手数拝謝仕候」

この部分の読み自体は問題ないと思うが、その内容はどのように解釈したらよいのだろうか。私が引っ掛かったのは「阿部知事より」という部分があったからだ。

この言葉がなければ、潤筆料を除いてほとんど問題ないのだが、実際この言葉があるので、当事者でない者には意味内容がよく分からないものになっているのだと思う。

なぜ、阿部知事が、潤筆料の支払いに関与してくるのか。これについては、何の解説もなかった。

そもそもここに出てくる「寒巌二公」とは展示されている屏風作品「寒山拾得図」を指しているのかどうか。

ところで、昭和9年当時の金五十円だが、これは今ではいくらに相当するのだろう。ある情報だと、1円は2500円ほどというのがあった。当時の1円は今日の2000円から3000円ほどとすると、高くともそれは15万円ほどだ。

芋銭の2曲1双屏風が、昭和9年当時、今日の15万円ほどとすると、これではあまりに安過ぎると言わざるを得ない。

してみるとこの書簡が述べている「寒巌二公」とは石島氏の持っている屏風作品ではなく、別のおそらくは小さな作品のことを言っているのかもしれない。

実際、昭和9年3月21日の石島宛芋銭の書簡ではこんなことを述べている。しかもそこには阿部氏の名前も出てくる。

「…水戸にゆく時は従来と別描法の寒山携へ可申存候、阿部氏へ宜しく是祈候」

作品の価格などより、人文的な芸術家である芋銭にとっては、作品所有者との持続的で人格的な交流こそ大切だったのかもしれないが、金五十円の作品は、昭和5年頃制作の屏風作品ではなく、阿部知事が購入した別の作品を指しているのではなかろうか。

石島氏が、おそらく知事から依頼されて金五十円を芋銭に郵送し、芋銭はそれを確かに受領しましたというのが展示されていた昭和9年7月8日の書簡の内容ではなかろうか。そう考えるのが最も自然な解釈だろうと思う。





(掲載写真は土浦市立博物館発行の無料冊子より)


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2020-9-13までの呟き

2020-09-14 10:12:00 | 日々の呟き
日本の今日の経済状況、世界的に見て最悪という朝日新聞コラムを数日前に読んだ。
庶民は何も知らず、印刷されたお金を今も欲しがっているが、ハイパーインフレの時代は歴史上確かにあったのだ。
日本国の庶民が老後の生活のために貯めている預金もそうなると紙屑同然となるのか…#財政ファイナンス


茨城県近代美術館に行った。「名作のつくりかた」展を見た。中村彝、中西利雄、浦田正夫、現代の美術では中村義孝さんの作品など、それぞれ少数の展示だが、丁寧に作品制作の秘密やその経過を探っている。

一階の所蔵品展示室では、稲村退三の「滝へ行く道」という作品を見た。
滝は描かれていないが、県北大子町にある有名な袋田の滝に至る小道のことか。
今日の日本の油絵から消え去ろうとしている俳句的作品の妙味を感じた。

この絵が描かれた昭和30年代の滝周辺は今とはだいぶ違う。この絵の前に立って、轟音が聞こえる昔の袋田の滝に至る直前の小道を思い出した。

今は袋田の滝を見るために、大量の観光客のために整えられた安全な人口のトンネルを通って行くが、これは昭和30年代には、まだなかったものである。

稲村退三の絵が袋田の「滝へ行く道」を描いたものとするなら、この作品は、そうしたトンネルができる以前の袋田の滝を思い出させる貴重な作品というべきだ。


「人前で恥をかくと、服従しやすくなる心理実験もあるそうだ。」
頭木弘樹著『食べることと出すこと』についての黒沢大陸氏の書評より


「<人間が生まれながら心に備えている、文法のためのテンプレートなどというもの>はないとする。…ジェスチャーや語順、イントネーション、そして文法などが相互に作用することによって言語が発生したのではないか。」
ダニエル・L・エヴェレット著『言語の起源』についての武田砂鉄氏の書評より

「インテリジェント・デザイン説を痛切に批判し続けている。…聖書を原理主義的に信じる人がほとんどいない日本では、むしろ大人気ない印象すら与えかねないほどの舌鋒の鋭さだ。」
リチャード・ドーキンス著「さらば、神よ 科学こそが道を作る」についての須藤靖氏による書評より


置き場所を動かすと、新しい場所を忘れて古い場所を探すことがしばしばある。あまり場所を動かさない方が忘れない。


様々な「恐怖」が煽られると共和党はトランプ化し、民主党は「左右の内部対立を抱え込む」という今日の朝日新聞コラムを読む。
「恐怖が深めた分断 劣化する政治」


「すがすがしくおめでたい」という社説を読む。「いずれにしろ」が口癖の政治家についての強烈な文章だ。

権力者によるいじめの3段階、孤立化、無力化、透明化があるという。そして「被害者は自ら誇りを掘り崩し、加害者に隷属していくー。」
ジャーナリストにすら権力に隷属化していく傾向が見られるこの時代、ついに安倍政治にも増して「すがすがしくおめでたい」時代の到来か。



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