歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

広島県府中市・ツジ遺跡 「賀□私印」銘・青銅製印鑑を発掘

2010年10月30日 | Weblog
 府中市教委は29日、備後国府があったとされる同市元町のツジ遺跡から中世の青銅製印鑑を発掘したと発表した。県内では牛乗遺跡(庄原市)に続き2例目だが、印面の文字が読めるのは初めて。備後国府関係の有力者の私印とみている。
 印鑑は印面が4cm四方、つまみ部分を含む高さ3・5cm、重さ120g。篆書で「賀□私印」(□は不詳)の4文字刻まれており、9~10世紀ごろの平安期のものとみられる。「私印」は個人の印鑑を示し、2文字目は判別不能だが「友」(注2)である可能性が高いという。8月に地表から約80cm掘った中世(12世紀以降)の地層から土師器のかけらなどに混じって出土した。
 文献(注1)に岡山県吉備中央町(旧賀陽町)の豪族賀陽(かや)氏の賀陽宗成が865年、安房守から備後介として赴任してきたとの記述があり、賀陽氏に関係する人物の持ち物だった可能性もある。
  現地説明会が11月14日(日)午後1時半か開かれる。遺跡は府中駅の北約800mの距離。
[参考:中国新聞、山陽新聞]

(注1)中国新聞が触れている文献とは、「三大実録」と思われる。「三大実録」で賀陽朝臣宗成に関する記録は下記のとおり。
 三代実録 貞観四年(862)3月4日 備中國賀夜郡人左大史正六位上賀陽朝臣宗成。隷左京職。
 三代実録 貞観六年(864)1月7日 左大史正六位上賀陽朝臣宗成(略)外從五位下。
 三代実録 貞観六年(864)6月28日 外從五位下賀陽朝臣宗成爲安房守。
 三代実録 貞観七年(865)5月16日 外從五位下行安房守賀陽朝臣宗成爲備後介。

また、続日本紀には、765年に備中国賀陽郡の人賀陽臣小玉女等十二人が賀陽朝臣の姓を賜るとの記録などがある。
 続日本紀 天平神護元年(765)6月朔日 備中國賀陽郡人外從五位下賀陽臣小玉女等十二人賜姓朝臣。
さらに、三大実録では桓武天皇の第七子と記される賀陽親王(794-871)が、日本後紀の821年に初出し、薨じる871年までの間に記録がたくさん現れる。豪族・賀陽氏と関係があるか否かは不明。
 日本後紀 弘仁十二年(821)1月7日 无品賀陽親王四品。
 三代実録 貞観十三年(871)10月8日 二品行大宰帥賀陽親王薨〈云々〉。帝不視事三日。桓武天皇第七子也。

(注2) 「友」は「太」とも見える。もしそうであれば、「賀太」となり、松江市・キコロジ遺跡から出土した平安時代初期(9世紀)の墨書土器に書かれた「賀太」と同じ字となる。キコロジ遺跡の「賀太」は「潟」かとも想像していたが、吉備津神社の神主・賀陽氏が出雲に足を運んだ折、朝酌川あるいは大橋川を渡ったときに祭祀を行ったとか、ここで一時逗留したなどが考えられ興味は尽きない。
 ちなみに、臨済宗開祖栄西(1141-1215)は、吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として生まれている。

過去の関連ニュース・情報
 2010.7.8ツジ遺跡(備後国府跡) 役人官舎跡とみられる建物跡を確認
 2010.3.3ツジ遺跡(備後国府跡) 平安時代の区画溝や国司の官舎跡が出土
 2010.8.27 松江市・キコロジ遺跡 平安初期の「賀太」と書かれた墨書土器が多数出土

ツジ遺跡から青銅製印鑑発掘(中国新聞) - goo ニュース

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筑西市・南台遺跡 古墳時代の竪穴住居跡16基や円墳11基が出土

2010年10月29日 | Weblog
 筑西市大塚、深見の南台遺跡(なんだいいせき)発掘調査で、古墳時代前期から中期にかけた竪穴住居16棟が確認され、さらに古墳時代後期とみられる直径20m級などの円墳11基が見つかった。集落の場所が、何らかの理由で古墳群になったらしい様子がうかがえるという。
 住居跡は約8m四方の大きな遺構が3棟発見された。住居跡からは土師(器など多くの土器が出土し、ほかに4世紀末ごろの土器製の五徳が6個発見された。土器製は珍しいという。住居跡から焼けた柱などが出土したことから、集落が火災に遭ったか、集落を移転する際に焼き払った可能性があるという。
現地説明会が30日(土)午前10時と午後1時から開かれる。
[参考:茨城新聞、筑西市HP]

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豊橋市・若宮遺跡 弥生時代後期(2世紀頃)の環濠と完形に近い壺が出土

2010年10月29日 | Weblog
 豊橋市教委は、若宮遺跡(同市牟呂町地内)の第6次調査で、弥生時代後期(2世紀頃ろ)の環壕ととともに土器が完形に近い形で見つかったと発表した。
 発掘された環壕は、長さ約30m、幅2.4m、深さ1.5~1.8m。集落の一部を発掘しただけであり、環壕全体は500~600mと推定される。 断面はV字型をしているが、表面がかなり削られており、本来の深さは2mほどだったらしい。二重環壕とみられ、愛知県内では極めて少ない構造だという。
 環壕から出土した完形に近い壺は、口を上にして置かれていた。中は空で、祭祀などのため意図的に置かれたのではないかとみている。
 現地説明会は30日(土)午前10時30分と午後2時の2回、牟呂坂津町の発掘現場で行われる。
同時に、これまでの出土品を展示した発掘回顧展も開く。(山崎祐一)
[参考:2010.10.25 東日新聞、東愛新聞、2010.10.29毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2008.10.25 豊橋市・若宮遺跡 埴輪窯
 教育委は24日、同市牟呂町若宮地内の古墳時代の若宮遺跡で竪穴住居跡3軒余、埴輪窯、土器類などが見つかったと発表した。
特に埴輪を焼いた古窯は、豊橋市内では近くの牟呂水神窯に次ぐ2例目となる。[参考:東日新聞]

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栃木県市貝町・北ノ内遺跡 奈良・平安時代集落跡から大型の四面庇掘立柱建物跡を確認

2010年10月29日 | Weblog
 栃木県県埋蔵文化財センターは28日までに、小貝川沿岸の文谷地区にある奈良・平安時代(8世紀前半から10世紀後半)の北ノ内遺跡(芳賀郡市貝町文谷地内)で、集落内に当時の役所・寺院クラスに匹敵する大型の四面庇掘立柱建物跡(桁行き4間・梁間2間、柱穴1・3m×1・2m)を確認した。
 今回、竪穴建物跡33軒、掘立柱建物跡18棟、土坑15基が確認され、ほかに益子で製作された坏などの須恵器、「目」と墨書された碗や円面硯などの土師器、刀子、槍鉋(ヤリガンナ)などの鉄器が多数出土した。
 発掘調査現地説明会が30日(土)午後1時半に開かれる。
[参考:下野新聞]




キーワード: 槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ
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岩手県平泉町・無量光院跡 舞台の柱跡発見

2010年10月28日 | Weblog
写真は2007.4.27撮影。奥が本堂跡、手前が中島跡

 平泉文化遺産センターは27日、国特別史跡「無量光院跡」(平泉町)で舞台とみられる柱跡が見つかり、本堂正面に舞台があった可能性があると発表した。
 本堂跡の東端から池にかけて直径40~45cmの柱穴13個を確認。穴の中には直径約20cmの木柱が残っていた。未発掘の部分もあるが、状況からみて6m四方(3間×3間)の中に柱が縦横4列(計16本)建っていたとみられる。 柱は礎石などを設けず、池底の地面に穴を掘り、直接打ち込んだようだ。池に突き出る形で舞台が建設された可能性があるという。
 儀式や法要などに使われていた可能性があるとみている。 奥州藤原氏が模したと言われる平等院鳳凰堂(京都府宇治市)でも確認されていない。平等院では法要などの儀式が営まれた場合に仮設の舞台が設営されたという。
 本堂から池のほぼ中央にある中島を結ぶ橋は確認できなかった。
 また、北側の池跡の調査で、地表面下約20cmに池底を確認した。周辺の状況から当時、水深は約40cmと推定。舟を浮かべるような池ではなかったとしている。
 1952年に国が実施した本堂跡の調査について、再調査も実施。地表に敷き詰められたとみられる正方形(40~50cm)の塼(せん、素焼き板)が東西に5列再確認された。装飾の可能性があるという。
 現地説明会は30日(土)午前11時から開かれる。
[参考:岩手日日新聞、河北新報、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.4.22 平泉・無量光院跡 池跡に水張り 庭園を再現
 2008.10.4 平泉・無量光院跡 古い溝跡、導水路か

「無量光院」に柱跡13ヵ所 舞台か正方形の建物 平泉(河北新報) - goo ニュース
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忠南瑞山市・礼川洞遺跡 1世紀の墳丘墓から漆鞘鉄剣が出土

2010年10月27日 | Weblog
 百済文化財研究院は瑞山市礼川洞一帯を発掘調査した結果、18号墳丘墓と命名した墓から漆鞘鉄剣1点を収集したと26日発表した。
 18号墳丘墓では、1世紀頃に作った埋葬施設(土壙・木棺墓)の他にも4世紀初めの土器が出土した2次埋葬施設が発見され、後代に追加葬があったことがわかった。
 漆鞘鉄剣は、1次埋葬施設で木の鞘が腐食され青銅製鞘装飾と短い鉄刃だけ残った状態で発見された。このほかにも、鉄斧、鉄矛、鉄鎌、鉄鏃、削刀等各種鉄器と多量の玉が副葬されていた。
 2000年前の漆鞘鉄剣はこれまで慶州や昌原・茶戸里遺跡、慶山のような慶尚道地域だけで発見されてきたが、慶尚道以外の地域では初めて瑞山で発掘された。

今回の調査区域では、
 青銅器時代前期の駅三洞型住居跡(서울역삼동집터)6基
 初期鉄器時代の土壙墓2基、甕棺墓1基(光州新昌洞遺跡出土のものに似る)
 原三国時代から三国時代(百済時代)の墳丘墓103基・甕棺墓2基
 高麗時代の土壙墓1基
 朝鮮時代の住居跡12基
など計171基の遺構が確認された。

 このうち、礼川洞遺跡(서산 예천동 유적)の中心をなす墳丘墓は大部分が方形の周溝を廻らした埋葬施設で、大部分が木棺を使ったとみられる。103基中36基の埋葬主体部が調査されたが中心年代は3世紀後半と推定した。
 一部の墳丘墓では、慶州・舍羅里古墳で出土したのと形状が類似した鉄鋌が1~2個ずつ立てられたまま発見され、被葬者の頭や足下側から環頭大刀・刀子など多量の鉄器類と二重口縁土器や兩耳附壺などの土器類および玉類が出土した。
 研究院は、黄海道地域古朝鮮勢力の南下と関連した集団と推定すると推測する。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.6.19 慶州平野内・塔洞 2千年前の新羅建国勢力の首長の木棺墓を発掘か? ・・・漆鞘鉄剣が出土



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 表題に「礼川洞遺跡(예천동 유적)」としたが、聨合ニュースの記事では、「礼川洞」としか書いていない。既に礼川洞遺跡は存在して発掘調査が行われているので、推測の元に「礼川洞遺跡」とした。
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福井市・河合寄安遺跡 5世紀前葉の記号土器23点、墨書土器1点を確認

2010年10月26日 | Weblog
 福井市文化財保護センターは25日、同市森田地区と坂井市にまたがる河合寄安遺跡(かわいよりやすいせき)で平成13年度に井泉(せいせん)跡から多量に出土した古墳時代中期(5世紀前葉)に作られたとみられる土器の中から、記号土器23点および墨書土器1点が見つかったと発表した。古墳時代中期の土器に墨で記号があるのが見つかったのは全国で初めて。
 記号土器とは、土器にヘラ状の工具などで直線や曲線を描いたもの。長頸壺(水壺)に描かれることが多く、井戸などから出土することから「水」に関わる祭祀に用いられたと考えられている。弥生時代中期から後期にかけて、主に近畿地方で流行し、全国へと波及したが、古墳時代に入ると次第に衰退していった。
 記号土器は高坏10点、甕10点、大小の壺3点。大半が底部の裏面に記号が刻まれていた。記号は直線を2~6本組み合わせたもので、近畿地方のものと似ている。
 墨書土器は復元した大きさが直径17cm、高さ11cmの高坏で、2重の弧線に放射状の6本の直線を組み合わせた記号が脚部の内側に書かれていた。描かれた位置が記号土器の高坏と共通していることから、記号土器の一種と考えられるという。だが、器表面が赤く彩色した形跡もある点で他の記号土器と区別され、祭祀の中で特別な役割をもって用いられていた可能性もある。
 同遺跡からは木製の祭壇「案(あん)」やミニュチュア土器が出土している。
 記号土器24点は30日から同センターで開かれる企画展「土の中の祈り」で展示する。
[参考:福井新聞、中日新聞、共同通信、福井市HP]

5世紀の墨書土器出土 表面にシカの記号、福井(共同通信) - goo ニュース
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全南霊岩・沃野里方台形古墳 4本の木柱を立てて石室壁を築造した横口式石室墓を発見、埴輪も出土

2010年10月25日 | Weblog
 国立羅州文化財研究所は25日、全南霊岩郡始終面沃野里方台形古墳(영암 옥야리 방대형고분)に対する発掘調査結果、南北約30m、東西約26.3mの封墳の中に横口式石室墓、竪穴式石槨墓、甕棺墓、木棺墓等多様な埋葬施設が確認されたと発表した。
 封墳中央で発見された横口式石室墓は、石を積んで造った墓室が長軸3m、短軸1.1m程の細長方形であり、特に4つの木柱を立てて石室壁を築造していた。木柱を立てて石室壁を築造したものは栄山江流域古墳では報告されたことがなくて、伽耶地域に属する昌寧・校洞、金海・大成洞、良洞里古墳などの地だけから確認されている。
 封墳はクモの巣形状で、区域を分割して土を埋める方式で積んだことが明らかになった。分割盛土する方式は、今までは伽耶地域古墳築造方式の典型的な方法と知られたが、今回の栄山江流域古墳でもその事例が明確に現れたとしている。
 墳丘と封墳周囲を囲うような溝から、日本で「埴輪」と称する円筒形土器が多量出土した。
 これまで、霊岩始終面一帯には4世紀頃甕棺古墳が密集分布して初期甕棺古墳社会の中心勢力だったと知られたが、今回の発掘調査を通じて、6世紀前後の時点にも相当な中心勢力が存続していたことを確認することができたという。
[参考:聨合ニュース]

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東大寺・国宝「金堂鎮壇具」のうち、大刀2本が幻の宝剣「陽宝剣」と「陰宝剣」と判明

2010年10月25日 | Weblog
 東大寺(奈良市)と調査した元興寺文化財研究所(同市)が25日、東大寺の大仏足元から明治時代に出土した国宝の「金銀荘大刀」2本にX線を当てて調べたところ、刀身の把(つか)近くの内側部分から「陽劔」「陰劔」と象嵌された銘が浮かび上がり、約1250年間にわたり行方不明だった宝剣「陽宝剣」「陰宝剣」と分かったと発表した。
 光明皇后(701-760)が聖武天皇(701-756)の遺品として東大寺に献納後、正倉院から取り出し、埋納したとみられるが、理由は不明。皇后からの献納品目録「国家珍宝帳」の武器リスト筆頭に記した貴重な宝剣で、正倉院研究の上でも画期的史料。
 「陽宝剣」と「陰宝剣」は鉄製で、長さはいずれも1m弱。鞘は木製の漆塗りで金銀の金具で装飾されており、把にサメ皮を使っている。明治40年(1907)と翌年、屋根改修工事の際に足場の支柱を立てるために大仏の須弥壇周囲に穴を掘ったところ、右膝近くから出土。同時期に見つかった別の大刀、銀製鍍金狩猟文小壺、瑞花六花鏡、水晶玉などとともに「東大寺金堂鎮壇具」として1930年に国宝指定された。
 今回の調査で、別のもう一口の金鈿荘大刀には北斗七星を象嵌した七星文が確認された。
 大仏殿への大刀などの「鎮壇具」の埋納が、従来考えられていた地鎮とは異なるとの見方も出ている。
[参考:時事通信、共同通信、MBS毎日放送、読売新聞、東大寺展図録(1980朝日新聞社)]

消えた正倉院宝物と確認=東大寺大仏殿の大刀2振り―1251年ぶり・奈良(時事通信) - goo ニュース
1250年ぶり幻の宝剣判明 東大寺大仏の足元埋納大刀(共同通信) - goo ニュース
大仏殿で発見の刀、1250年不明の正倉院宝物(読売新聞) - goo ニュース
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上野・寛永寺の大奥の華麗な副葬品を修復

2010年10月25日 | Weblog
 昨日24日の読売新聞で、2007年から08年に行われた徳川家の菩提寺・寛永寺(台東区上野)の改葬に伴う発掘調査で、歴代将軍の正室や生母らの墓に納められていた主な副葬品の修復作業が終わり、十二単(じゅうにひとえ)や装飾品などがよみがえったと報道されていた。
 このブログでも、発掘当時のニュースを採り上げていたので、昨日は想定外のアクセスがあった。
 13代将軍家定の正室・澄心院(ちょうしんいん)の墓から見つかった十二単の大袖(丈189cm、幅145cm)は、亀甲綴り模様の絹地に、金糸で鳳凰が刺繍されており、一条家から将軍家に嫁いだ時の嫁入りの正装としてまとっていた可能性があるとしている。他に、約20点のガラスの簪(かんざし)。中に、葵の葉の飾りが付いたものもある。
 12代将軍家慶の正室・浄観院(じょうかんいん)の墓からは、水晶を刳り貫いた仏舎利容器(高さ2・7cm)や経典類などが見つかった。
 寛永寺には、寛永寺霊園と谷中霊園があり、澄心院および浄観院の墓は、谷中霊園の方にある。
[参考:読売新聞]

大奥の妻たちの華…寛永寺の副葬品修復(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.13 徳川13代将軍家定の正室・澄心院の墓所に八角覆堂の遺構が見つかる
 2008.6.10 徳川12代、13代将軍の正室・浄観院と澄心院の墓誌が見つかる 2.9m四方の最大の大きさ
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忠北清原郡梧倉面主城里で多鈕細文鏡が11片のかけらで出土

2010年10月24日 | Weblog
 中原文化財研究院は24日、忠北清原郡梧倉面主城里(충북 청원군 오창면 주성리)一円の発掘調査結果、初期鉄器時代土壙墓をはじめとして三国時代と高麗・朝鮮時代までの古墳約370基を確認したことを明らかにした。
 このうち、初期鉄器時代に作られた「41号土壙墓」は、長さ251㎝、幅60㎝、高さ110㎝で、その内部では長さ215㎝、幅40㎝、高さ9㎝以上の木棺があった跡が発見された。土壙底には灰色粘土が2~3㎝厚さで敷かれた。稜線斜面から、黒陶長頚壺(흑도장경호)と11片に割れた多鈕細文鏡(다뉴세문경이)、そして6片に割れた青銅武器・槍の一種である銅鉈(동사)などが出土した。
 多鈕細文鏡は青銅器時代(BC700-300)末期~初期鉄器時代(BC300-100)の韓半島に登場する。一部分は消失しているが、かけらを接合した結果、多鈕細文鏡の本来大きさは直径が8.8㎝で、裏面には中心から若干上側にある鈕2個が確認された。
 やはり、割れた状態で発見された銅鉈は、平面形状は細長方形だが先端は幅が若干広い。大きさは、長さ15.6㎝、幅2.1㎝、厚さ0.15~0.25㎝である。
 銅鏡や鏡と同じような遺物は墓に死体と共に埋める時は、わざと破って入れることが多いと話す。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010-08-10 全北全州・完州新豊遺跡 初期鉄器時代の土壙墓70基以上と青銅鏡が出土

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鳥取市・高住平田遺跡 平安時代の「木」と彫られた銅製印鑑が出土

2010年10月23日 | Weblog
 鳥取県教育文化財団が発掘調査の高住平田遺跡(鳥取市高住)から、3cm四方の面に「木」と彫られた平安時代の銅製印鑑が見つかった。
 遺跡内を流れていた川の岸から2、3m離れたところで発見された。「木」の文字は、氏名から一文字をとったものと考えられ、この地域に有力者がいたと推定できるという。
 現地説明会は、11月3日(水)午後1時半から開かれる。
[参考:毎日新聞]

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鳥取市・本高弓ノ木遺跡 弥生時代後期の盛土状遺構を確認

2010年10月23日 | Weblog
 鳥取県教育文化財団が発掘調査の本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡(鳥取市本高)から弥生時代後期の盛土状遺構が見つかった。遺構は四隅突出型だが、埋葬施設は見つかっておらず墓ではないという。祭壇の可能性もある。
 現地説明会は、11月3日(水)午前10時半から開かれる。続いて午後1時半から高住平田遺跡(鳥取市高住)で現地説明会が開かれる。
[参考:毎日新聞]
過去の関連ニュース・情報
 2009.3.26 鳥取市・本高弓ノ木遺跡 古墳時代の穂摘具が出土


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木津川市・恭仁宮跡 大極殿の南面回廊跡の遺構を確認 続日本紀の記述に符号

2010年10月23日 | Weblog
 京都府教委は22日、恭仁京の中心部「恭仁宮跡」で「大極殿院」南面回廊の可能性が高い遺構を確認したと発表した。
 今回の調査では、昨年度に見つかった朝堂院西塀跡の北側で、大極殿の南面回廊に関連するとみられる柱穴を発掘。すでに北東、北西コーナーが見つかっていることから、回廊と確定すれば、大極殿院の南北は、従来の予想より約60m以上長い約172mになる。
 また、東西幅は約142mのため、大極殿を囲む回廊の全長は628mとなり、回廊の外周は移築前の大極殿院の東西回廊を合わせた長さとほぼ一致する。続日本紀の記述(注1)や過去の平城宮発掘調査結果と符合することも分かった。
 現地説明会は30日午前11時~午後4時に随時行う。
[参考:産経新聞、共同通信、京都新聞]

(注1)続日本紀 天平15年(743) 十二月廿六 初壞平城大極殿并歩廊、遷造於恭仁宮四年、於茲、其功纔畢矣。

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.22 恭仁宮跡 朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形
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香南市・東野土居遺跡 古墳時代初期からの大規模集落跡やほぼ完形の庄内式土器が出土

2010年10月23日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターは22日、香南市野市町土居の東野土居遺跡で弥生~室町時代の建物跡約60基や古墳時代初期の竪穴建物跡(5m四方)から、大阪の河内平野で作られた「庄内式土器」がほぼ完全な形で出土したと発表した。
 東野土居遺跡は、国道55号から香宗川までの東西1・5kmにわたる大規模な遺跡で、弥生時代に最大規模だった田村遺跡(南国市)の集落が消えた後にできたと位置づけされている。
 出土した庄内式土器は高さ24cm、幅20cm、口の直径17cm。きめの細かい土で薄く仕上げられているのが特徴。 煤(すす)が付いており、煮炊きに用いたらしい。 一帯では破片も多数出土した。
 付近からは奈良―平安時代の円形の硯や多数の瓦も見つかっており、寺院か役所があったとみられる。
 室町時代の遺構では中国製の陶磁器(青磁、白磁)が見つかった。
 現地説明会は24日(日)午前10時半~正午に開かれる。
[参考:読売新聞、高知新聞、朝日新聞、毎日新聞]

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