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足利市 機神山山頂古墳 葺石施した2段墳丘

2008年08月19日 | Weblog
 市教委は18日、織姫神社がある機神山(はたがみやま)山頂古墳の第1次発掘調査結果を発表した。
 葺石が施された2段築成の前方後円墳で、葺石は石室がある南側正面だけでなく北側も丁寧に造られた本格的な古墳であることが確認された。
 調査の結果、2段目の墳丘は全長36m、高さ4m以上あった。斜面にはチャートの割り石を積んだ葺石が施され、傾斜は45度から60度と急だった。墳丘1段目には葺石はなく、全体に山すその斜面を削り出してテラスおよび1段目墳丘を造っていた。葺石は墳丘の崩落を防止したり、見栄えを良くしたりするために造られたらしい。
 また北側中央のくびれ部テラス部分からは、円筒埴輪がほぼそのままの形で南北に2基並んで据えられて出土した。また他の調査個所からは馬、太刀、楯、翳(さしば)などの埴輪片約千点が出土したが、これらはもともと墳頂に並んでいたものが転落したものらしい。
 同古墳は古墳時代後期(六世紀後半)に造られたと見られ、明治26年(1893)に行われた調査では石室から鏡、馬具、勾玉などの副葬品や埴輪などが出土。昭和48年(1973)に市指定史跡になった。今回は墳丘の斜面など7カ所に溝を掘るなどして規模や形状を本格的に調べた。
 市教委は「小首長クラスの古墳のため、周囲から見られることをかなり意識して造られたのでは」と説明している。
 機神山から両崖山にかけての標高53mから118m、東西500m、南北600mの範囲の尾根上と斜面に26基の古墳が点在、機神山古墳群と呼ばれている。
同市内には、約1300の古墳が残っており、今回調査を行った機神山山頂古墳は、墳頂部の標高が118mと古墳群のなかでも最も高い場所に位置し、市街地全体を見渡せることなどから、古墳群のなかでも有力な首長の墓であったと考えられるとしている。
 同古墳は普段は立ち入り禁止となっているが、市教委は23日午前十時から正午までの間、現地説明会を開き一般に公開する。
[参考:下野新聞、産経新聞、読売新聞、東京新聞]

<機神山山頂古墳の位置関係>
 東400mに足利市役所、南1kmに利根川、東南1kmに足利館、鑁阿寺、北東5kmに先の大日如来坐像で話題になった樺埼寺がある。

<現地説明板より>
 機神山の頂部を占める本墳は後円部を東、前方部を西に向けて築造された前方後円墳である。紛糾の全長は約36m、後円部径と前方部幅はともに約19m、高さとともに約3mで、見事な二子塚形である。
 本墳の埋葬施設である横穴式石室は、奥壁、両側壁、天井石すべてに割石(硅岩)をもって胴張袖無型に構築上し、後円部の南に開口するが、石室内には(被葬遺体の副うように)直刀2、鉄鏃17、獣帯鏡2、六鈴鏡1、勾玉、小玉や馬具(杏葉1、轡1)、須恵器などが納められ、また封土(墳丘)には人物、馬、鳥、家、靫、楯などの形象埴輪や円筒埴輪が樹てられていた。
 山頂に盛土した本墳は山腹に群在する古墳群(主に小型円墳)の主墳であれば、領民が挙(こぞ)Tってつくったものにちがいない。眼下にいろがるおのれの支配じを睥睨(へいげい)し権威を誇示するようであるが、また黄泉の国から領民たちを見守る姿でもある。本墳はおよそ六世紀代にこの地一円を治めた支配者の奥津城(墳墓)であろう。
(昭和53年6月 市重要文化財指定) 昭和61年7月  (財)足利市民文化財団、足利市教育委員会

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