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ソクラテスの問答

『哲学の始原』より

ソクラテス本人の弁によれば、巷で人を呼びとめて問答するという仕事を、彼自身は楽しんでしていたわけではない。それは「気の進まない」ことであった。神の命令と考えて、使命感から行っていたという。

たしかに、ひとりで立ち尽くして自分の知や無知ばかり考えていた人間が、他人の知の吟味を楽しむことはなかっただろう。そんなことをしても何か新しいことを知るわけでもない。むしろ知恵や知識をただすことは、相手にきつい質問をすることになるので、たいてい相手から嫌われる。

知の吟味は相手に口頭審問を受けさせるようなものだから、そのじつ内心、知らないことを「教えてほしい」と思っていただけの人間はたじろぐほかない。これまでの生きかたを否定されるような質問、善悪についての答えられない質問を浴びせられて、自分がひどく無知な人間か悪人のように扱われたと感じ、あるいは他人の前で恥をかかされたと感じて、たいていの人は傷つく。ソクラテスの真実さに気づき、友好を求める人間もたしかにいたが、ごく少数にすぎなかった。

一方、プラトンたちのように、観客の気軽さをいいことに、ソクラテスが問答でほかの人間をやっつけていくのを見聞きして「おもしろがる」、あるいは「そのやりかたをまねたくなる」若い人たちは大勢いただろう。いかにもありそうなことである。

また、ほかの都市からやってきてソクラテスの問答を聞き、その論法を学ぼうとする、俗に言う「先生」たち、いわゆるソフィストたちもいたらしい。そのソフィストたちを通じて、賢人ソクラテスの噂がアテナイのみならず、かなり遠方のギリシア諸都市にまでひろがっていたことは、裁判におけるソクラテス自身の弁からもはっきりしている。

ソクラテスは裁判が終わり、死刑が決まったあとで、裁判員たちに向かってこう言っている。

 「アテナイ人諸君よ、諸君は悪名を得て、とがめを受けるだろう。この国の人間を悪く言おうとする者に、あなたがたは知者のソクラテスを殺したというので、非難されるだろう」

 こういうことを公言しても、ソクラテスが笑われることはなかったようだ。そのくらい彼は、「知者」としてギリシア世界にその名をとどろかす有名人だったのである。

ソクラテスの問いはさまざまであるが、代表的な問いは、つぎのようなものである。

 「靴屋や馬飼いになるのには、どこに行って学べばよいか、迷う人間はいない。靴職人のところへ行って学べば、靴をつくることができるようになるし、馬飼いのところへ行って、馬の育てかたを学べば、馬飼いになれる。そしてだれも、馬を御する術を学んでいない人間を駅者にやとったりしない。しかし自分の息子を国家の指導者にするとなると、どこへ息子をやればよいのか」

人の上に立つ者になるためには、正、不正くらいは知っていなければならない。では、正しいこと(正義)を知るためには、どこに行けばいいのか。だれがそれを教えてくれるのか。それを見つけることは、やはり容易なことではない。

つぎのことを考えてみればよい。「故意に悪いことをする人間は悪い人間に違いない。ところで、つぎのことを考えておかなければならない。そもそも悪いことを知っている人間は悪い人間であり、よいことを知っている人間はよい人間ではないか。しかし故意に悪いことをする人間は、よいことを知っていて悪いことをする。他方、故意でなく悪いことをした人間は、よいことを知らないで悪いことをしたのだ。しかし、よいことを知っている人間がよい人間なら、故意に悪いことをする人間は、故意でなく悪いことをする人間よりよいことを知っているのであるから、よりよい人間だろう。だとしたら、故意に悪いことをする人間のほうが、そうでない人間よりも善い人間であり、したがってより国家の指導者にふさわしい、ということになるのだろうか」

ソクラテスはこんな論を展開して人を混乱させていたのである。

多くの人々がおもしろおかしく、あるいは悪い意図をもってソクラテスの論法をまね、あちこちで使った。それが当時の穏当な人々に懸念をいだかせた。実際、世の中の大多数は、穏当な人々である。そしてその人々は、とくに疑うことなく、白分か子どものころに教えこまれたとおりに、わけ知り顔で「よいこと」「悪いこと」を息子に教え、のんきに暮らしていた人々だった。

どの社会にも長幼の序がある。年長者を敬い、偉いとされた人はそのまま、偉い人のままに敬う、ということを疑わずに生きる習慣である。

ソクラテスの問答は、「よいこと」のどれにも「疑い」を持ちこんだ。しかも、人の意表を突く問いに満ちていた。おそらく、ソクラテスがひとりで己の知を吟味していたときに見いだした論なのであろう。しかしその問いが若者のあいだで流行して、くりかえし論じられるようになると、社会の秩序を維持している長幼の序も疑われるのではないかという懸念が生じた。さらにソクラテスは、独特の問答で実際に社会の権威者たちを締めあげていた。それは反抗期の若い人にとって痛快なことだった。一般社会がその行為に懸念をいだいたとしても、おかしくはない。この懸念を背景に、ソクラテスは社会の良識の破壊分子として七十歳にして裁判にかけられ、自分の信念を曲げなかったために死刑になったのである。紀元前三九九年の春のことだった。
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