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ホロコーストはイスラエル国家の存在

『ホロコーストに教訓はあるか』より イスラエルの教訓

ホロコーストはイスラエル国家の存在と必然性を正当化するため長く利用されてきたし、同時に、イスラエル国家が未来永劫存在の危機に曝されていることの証拠としてあげ連ねてきた」。国が危機にあるときには、一般の人々は不安になってホロコーストの教訓から指針を求め、その文脈のなかで直面している危険がどこにあるのか探そうとする。たとえば、迫害された人々について、あるいは地方や国や世界の無関心に対して行う正義の戦いについて、ホロコーストのアナロジーを適用できると主張し、衝突する利害関係に正統性を付与する場合もある。たとえば、何かの運動を行う者たちが自分たちの苦しみを劇的なものとして示そうと、強制収容所で囚人が着せられたストライプ柄の制服を身につけて登場したり、迫害された人々と結びつけて考えてもらおうと黄色い星を身につけて現れたりする可能性もある。それによって問題がややこしくなり、さらに解決が難しくなることもあるし、ホロコーストのときのように、静かに対応した結果、解決不能に思えるようになることもある。

ホロコーストの魔力を強力に呼び出そうとする動きとして、イスラエルの物理的存在にかかわる安全保障問題もある。アイヒマン裁判の六年後に当たる一九六七年六月、イスラエル人は現実の脅威に直面した。それは結果的に六日間戦争(第三次中東戦争)に至ることになる出来事だった。背景となる問題の一つは、核武装さえしかねないほど強力な軍事力を備えるようになったエジプトが「新たなホロコースト」を引き起こすのではないか、とイスラエルが恐怖感を抱いたことだった。そのあと連続して危機が訪れた。五月、エジプト大統領ガマルーアブドゥルーナセルは重装備の軍隊をイスラエルの南部国境沿いに集中させ、イスラエルからエジプト軍を隔てる国連の緩衝軍を放逐し、ティラン海峡を封鎖した。これによりイスラエル船舶は、イスラエル南部の港エイラートへの航路を取ることができなくなった。イスラエルが戦争を仕掛ければ、「限定戦争を推し進める。エジプトはこの戦争で、最終的にイスラエルを地球上から抹消するつもりだ。十一年前からこの瞬間を待っていた」とナセルは同盟国に向かって宣言した。不安が高まり、イスラエルは予備軍を動員し、この紛争を判断するためホロコースト関連の分析を行った。「待機期間」と呼ぶ準備段階だった。危機が高まるなか、ヨルダンがシリアとエジプトについた。ホロコーストとの関連が分析され続けた。「警告が続いた数週間、新聞はナセルをヒトラーになぞらえ続けた」とトム・セゲフは書いている。「戦争以外の方法でこの危機を回避しようとする提案は、第二次世界大戦前にチェコスロバキアに押し付けられたミュンヘン協定に喩えられた」。

数週間後の一九六七年六月五日、イスラエルはエジプトに対してかねてから準備していた先制攻撃を行い、空軍と地上軍を送ってシナイ半島を席巻した。ヨルダン、シリア、イラクの遠征軍が戦闘に加わるなか、イスラエル軍は東エルサレム、ガザ、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領した。これによって、イスラエルは戦前のイスラエルの三倍の領土と、百万人近い住民を支配することになった。勝利は戦争の脅威と同じように、ホロコーストと結びつけて考えられたとトム・セゲフは書いている。イスラエルの若き将校ユーリ・ラモンは、このときの特別な経験について次のように書いているが、それは人々の間に広がっていた気持ちを反映している。戦争の二日前のことだ。私たちは決定的な瞬間が来たと感じていた。夜警から戻ったところで、汚れた軍服を身につけ武器を携帯していた。私は口ハメイ・ハゲタオトのキブツにあるゲットー・ファイターズ博物館にやって来た。私はかつての戦士たちに敬意を表したいと思っていた。戦士たちのごくわずかしか、国が自らを守るために立ち上がるこの日まで生きることができなかった。私たちの戦争は火葬場で、強制収容所で、ゲットーで、森で始まるのだとはっきり感じた。

目覚しい勝利のおかげで、ホロコーストの場所とイスラエル社会が学んだ教訓について深刻に考えなくてもよかったし、イスラエルの正統性が確認できたように思えた。歴史学者は、多くのイスラエル人がホロコーストと結びついた不安感をかなぐり捨て、達成感を味わった短い内省期間について叙述した。だが、これでいいのかと思う気持ちは長く続かなかった。六日間戦争のあと、一九六九年から一九七〇年にかけてエジプトが報復戦争に出て、断続的に攻撃を行った。一九七二年のミュンヘン・オリンピックでは、イスラエルの選手が殺害された。一九七三年のヨム・キプルの日(堕罪の日、十月六日)には、エジプトとシリアが率いるアラブ諸国がユダヤ人占領地を攻撃する戦争が起こり、イスラエルは緒戦で敗北を喫した。この戦争がイスラエル最大のトラウマとなることは初めからわかりきっていた。まず、エジプト軍がスエズ運河のイスラエル側にあるバーレブ・ライン要塞群を超えて襲撃した。そこは、一九六七年にイスラエルが獲得した地域だった。イスラエル北部では、シリア軍がゴラン高原に敷いたイスラエルの防衛を突破し、席巻した。何千人ものイスラエル兵が戦死し、イスラエル空軍は重大な損失を蒙った。イスラエルの国としての統率力が動揺したように思えたにもののすぐに立て直し、戦いの流れを変えた。しかし人々がホロコーストにとらわれる気持ちが続いたのも当然だった。イスラエルは絶えず包囲下にある、という感覚だ。

安全保障問題とホロコーストと結びつけて考えるときに最もお寒く感じて困惑せざるを得ないのは、ホロコーストの過去をイスラエルに対する地政学的な脅威と結びつけた「アウシュヴィッツの国境線」などどいう誇張した表現だ。第四次中東戦争(ヨム・キプル戦争)が終わってまだ二年しか経っていないときに生まれた表現だが、それは今日まで使われている。この発想は、征服した領土から撤退すれば、アウシュヴィッツ規模の虐殺、すなわち悪夢がよみがえることに他ならない、とするものだ。「アウシュヴィッツの国境線」は、イスラエルの著名な外交官アバ・エバンが、イスラエルが戦争前の状態に戻ることを心配して、一九七五年に国連の総会行った演説に端を発する。

私たちは、現在の地図が一九六七年六月四日のそれと同じものではないということを公の場で話してきました。私たちにとって、これは安全保障と原則の問題なのです。六月の地図は私だちからすると、安全のない危険な状態です。私はそれがアウシュヴィッツの記憶に重なるものだと表現しますが、大げさに言っているわけではありません。もし敗れていれば、一九六七年六月にどんな状況が待ち受けていたのかということを考えると身体が震えます。山上にはシリア人がいて私たちは谷底にいる。海の見えるところにはヨルダン軍がいて、私たちの喉もとを手で押さえているエジプト人がいる。こうした状況は歴史のなかで繰り返されてはならないものです。エバンが説明したイスラエルの感じた不安から、いかなる状況下であっても撤退することが必ずや死をもたらす危険につながる--ジェノサイドまで至るIと論じるところには、かなりの飛躍がある。だが、多くの人々がこの考え方を受け入れた。イスラエルの定住者たちは、何年もかけて「アウシュヴィッツの国境線」の歌を歌いながら前進し、平和のために土地を取引することに抗議した。「アウシュヴィッツの国境線」に賛同して、相互に領土を交換し一九六七年の休戦ラインに戻ることを論じ、それ以前に戻すことを提言したバラク・オバマ大統領を非難する者も最近では現れている。私か見つけた最も言語道断と思える例として、アメリカの最右翼シオニスト機関が二〇一一年に宣言した言葉がある。
 「私たちはアウシュヴィッツには戻る気はない!」
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