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お盆は家族制度そのもの

お盆は家族制度そのもの

 お盆は家族制度の集約です。個々が変われば,家族制度が変わる。何しろ、海外に嫁入りしたものだけでなく、死んだ人間までも家族として呼び込むのですから。

先を読んだ革命の実施

 ロシア革命は急激な変化に耐えられなかった。事前に読み切らずに,その場で対応していった。ロシア大陸は広大です。ペテルスブルグの変革の押しつけでウクライナは圧殺された。

 未来を見る眼がなかった。共産主義はユートピアは描いたが、未来は考えなかった。

 サファイア革命は未来から見ていく。日本の戦争姿勢にしてもそうあるべきです。日清・日露の20万人の犠牲を背負って、310万人の太平洋戦争に至った。

重要なのは動機付け

 豊田市の環境学習設備に「さあ!」を考えたのも、動機付けです。豊田市に足りないのは、今の生活から出ようとしないこと炉です。自分は「豊か」だと思い込んでいる。

 この意図が分からない豊田市の上層部は「さあ?」としてしまった。彼らこそ動機付けに掛けている。

未唯空間の新しい観点

 未唯空間を新しい観点から見ていきましょう。現象に合わせて、膨らませていく。

数学とは何か?

 なぜ、数学を使うのか。それは数学は先から見ることができるから。起こってからバタバタとやるのではなく、先から構造を見ていく。

 数学はもはや、次の次の向かおうとしている。今の時点でそこまで考えられている。数学は基本的なものです。

 世の中の数学は、教科書を含めて、ピント外れです。

 この問題意識は教養部ストの時の「数学とは何か」の自主講座から始まった。
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ヨルダンと「イスラム国」の狭間

『ブラック・フラッグス「イスラム国」台頭の軌跡』より ヨルダンの首都アソマン 二○一五年二月三日

日没後間もなく、ヨルダンの首都アンマン最大の女性専用刑務所にサジダーアッ‥リシャウィの死刑執行命令書が届いた。アメリカのワシントンを公式訪間中のアブドゥッラーニ世国王が自ら下した指令で、国王専用機の機内からヨルダンの王宮へと伝達されたものだった。命令書は王宮職員から内務省へ、さらに刑務所局へと送られたが、そこで職員たちのあいだに動揺が走った。国家による死刑執行というのは何段階もの手続きが必要な煩項な仕事である。それに比べて国王の要求は単刀直入-翌朝の日の出までにその女を死刑台へ送れ。

看守長は足早にリシャウィの独房へ向かった。一〇年近くものあいだ、孤独の内に閉じこもるかのようにして監禁生活を送ってきた場所だ。四十五歳となり、かつてのように細身ではない。来る日も来る日もほとんど変わらず、テレビを見るか、ペーパーバックのコーランを読んで過ごした。誰とも会おうとせず、どんな思いを抱いていたにせよ、それは常時かぶっている刑務所支給の薄汚れたヒジャブの下に隠されていた。決して暗愚な女ではなかったが、いつ見ても自分の置かれた状況をまったく理解していない様子だった。死刑判決が下ったのちも、稀に国選弁護士が接見すると、「いつ家に帰れるのかしら?」と訊くのが常だった。やがて弁護士の訪問も途絶えてしまった。

そして今、看守長がジシャウィを前に座らせ、翌朝には死ぬことになると説明したときも、うなずくだけで、ひと言も発しようとはしなかった。その後、声を上げて泣いたのか、祈りを捧げたのか、あるいは呪誼の言葉を吐いたのか、刑務所の関係者らの耳に届くことはなかった。

リシャウィに死刑判決が下ったとき、誰も驚きはしなかった。二〇〇六年、裁判長はヨルダン史上最悪のテロ攻撃の実行犯の一人として、リシャウィに絞首刑を言い渡した。同時刻に三ヵ所でホテルが爆破され、六〇人が犠牲となった。大半が結婚式の参列者たちだった。ジシャウィは自爆攻撃の実行犯だったが、生き延びた。眉の濃い、どこか風変わりな女で、爆発し損なった自爆ベストを見せびらかすような格好で無様にもテレビカメラの前に立だされた。一時期はアンマンの誰もがリシャウィのこれまでの歩みを知っているほどだった。三十五歳で未婚だったこのイラク人の女が、夫と妻という役回りで自爆攻撃を実行するために見知らぬ男との結婚を受け入れたこと。最後の瞬間にパニックに陥り、逃げ出したこと。アンマン北部の郊外をタクシーでさまよい、方角もわからず、返り血を浴びた服と靴のままで通行人に道を尋ねて回ったことなど。

しかしそれからもう一〇年近く経っていた。現場となったホテルは再建され、名前も変わっていた。そしてジシャウィはヨルダンの入り組んだ刑法制度の迷宮の中へ姿を消していた。ジュワイダ女性刑務所内では、薄れゆくかつての悪名を身にまとったまま、もはや誰も目もくれなくなった博物館の秘宝のような存在となっていた。ヨルダンの情報機関の古株たちのなかには「ザルカウィの女」と呼ぶ者もいた。ホテルの自蟻攻撃を命じた悪名高きヨルダン人テロリスト、アプー・ムサブ・アッ=ザルカウィとのつながりを嘲った呼び名だ。だが若手の情報部員たちはリシャウィのことなどほとんど覚えていなかった。

それがわずか一ヵ月の間に事態は一変した。ザルカウィの部下たちがリシャウィを忘れてはいなかったことがはっきりしたのだ。あの事件以来、テロリストたちは組織名を改め、今やヨルダンではアラビア語の頭文字を取って「ダーイシュ」として知られていたI英語では「イラクとシリアのイスラム国」を意味するISIS。そのISISが二〇一五年一月、ジシャウィを返せと要求してきたのだった。

リシャウィ釈放の要求が突きつけられたとき、ヨルダンは近年稀に見る政治的危機の渦中にあった。ヨルダン空軍機がシリア国内で墜落し、若きパイロットがISISの戦闘員らに拘束されていたのだ。にやけた顔つきの聖戦の戦士らに囲まれて、おびえたまま、ほとんど裸に近い姿で引き回されるパイロットの写真をISISは公開した。戦闘員のなかには、アラーが空から降らせてくれたこの大いなる贈り物を抱き寄せようと腕を仲ばす者もいた。

ヨルダンでは王宮から治安機関に至るまで、国王とその側近たちはさらなる不愉快な知らせが届くことを覚悟していた。ISISが公の場でパイロットを惨殺するか、法外な金額の身代金を要求してくるか。

案の定、ISISは身の毛もよだつようなやり方でその決断を明らかにした。空軍機墜落から一週間と経たずして、パイロットの自宅の家族のもとに、パイロット本人の携帯電話から電話がかかってきた。受話器の向こうから、イラク誼りのアラビア語を話す正体不明の男がISISの奇怪な唯一の要求を告げた。

「われわれの妹、サジダを返せ」と、男は言った。

その後、いくつかの新たな条件を加えながら同じ要求が繰り返されたが、交渉はつかみどころがなく、ほぼ一方的なものだった。すべての要求はヨルダンの情報機関である総合情報部の本部へと回送された。そしていずれの要求も、この機関のテロ対策部門を取り仕切るいかめしい四十七歳の准将のデスクの上に行き着いた。容赦のない厳しさで恐れられているこの組織のなかでも、アブー・ハイサム准将は別格だった。たくましいストリート・ファイターの体躯と、鉄床のような性格の持ち主だ。何度も姿かたちを変えてきたISISと長年にわたって戦い続け、尋問してはトップクラスの戦闘員たちの口も割らせてきたことで有名だった。ISISの前身組織の生みの親、かのザルカウィ自身もアブー・ハイサムによって何度か拘置所にぶちこまれていたし、今ISISが釈放をもくろむサジダ・リシャウィも同様だった。

ISIS側の要求は、ヨルダン国外ではほとんど意味がないものだった。リシャウィは戦闘員としても、リーダーとしても、それどころか何かの象徴としてでさえ、まったく利用価値がない人物だった。参加したのもわずか一件のテロ攻撃にすぎず、それもしくじっていた。「ザルカウィの女」などというものにはほど遠く、攻撃を命じたこの男とは面識すらなかった。ISISが彼女を名指ししなければ、死刑執行はこれといったきっかけもないままにいつまでも延期され、おそらく残りの人生を獄中で静かに送ったに違いない。

しかしアブー・ハイサムにはわかっていた。リシャウィの名をふたたび持ち出すことで、テロリストたちはその黎明期を思い起こさせようとしていたのだ--ISISという組織もまだなく、シリアの内戦も始まっておらず、この組織を台頭させたイラクの崩壊もなく、世界がザルカウィというテロリストの名前すら聞いたことがなかった時代のことを。ムハーバラートの工作員たちはこのテロリスト集団が足場を築くことを防ごうとしてきた。だが失敗していた--ときには自分たちの誤りによって、しかしむしろ多くの場合は、ほかの連中の判断ミスによって。ジハードを標榜したザルカウィの活動は今や独立国家を自称するまでになり、ヨルダンと国境を接するイラクとシリア両国の一部を領土だと主張していた。そしてリシャウィの一件は、ISISが今こそ清算しようともくろんでいる多くの禍根のIつなのだった。

忘却の彼方からこの亡霊を呼び覚ますことで、ISISはヨルダン史上もっともおぞましい襲撃事件の夜を思い起こさせようとしていた。それはアブー・ハイサムの世代の男たちの胸に--諜報部隊の隊長たち、捜査員たち、そして今やムハーバラートのリーダー格に育つたかつての補佐官らの記憶に--焼きつけられていた。かつて一度だけ、ザルカウィはヨルダンの心臓部を直撃することに成功したことがあった。そして今、ヨルダン空軍のパイロットを手中にして、ISISはふたたびそれを繰り返そうとしていた。

あの夜、アブー・ハイサムは現場に立っていた。リシャウィが有罪となり、絞首刑の判決を受けた犯罪の様子を、今も細部に至るまで覚えていた。あの夜の感覚は忘れようがない--血と煙の臭い、そして泣き叫ぶ負傷者たち。
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ボコ・ハラム イスラーム・コミュニティの分裂

『ボコ・ハラム』より  舞台装置「ナイジェリア」の誕生 ボコ・ハラムを生んだ国 石油が作り上げた地域経済大国 頻発する政治暴力 ボコ・ハラムは「反キリスト教」組織か

イスラーム・コミュニティの分裂

 英国による間接統治の導入により、旧ソコト・カリフ国のアミールたちは、イスラームに基づく社会秩序を一定程度は維持できることになった。とはいえ、所詮それは、英国支配下における限定的な「成功」に過ぎなかった。ソコト・カリフ国時代に権勢を誇っていたアミールたちにしてみれば、英国という異教徒による支配は本心では屈辱的だったに違いない。しかし、武力ではどう転んでも英国に勝てない以上、英国支配下でのイスラーム権力機構の温存という苦渋の選択をしたのであった。

 その結果、アミールたちは北部のイスラーム教徒住民に対して、異教徒支配を受け入れた自らの判断の妥当性を説明する必要が生じた。アミールたちは、間接統治に理解を示すウラマーたちの力を借りて、異教徒支配を「やむを得ないもの」とする論理を編み出し、住民たちを説得しようとした。

 だが、そもそも英国が間接統治を導入し、ナイジェリア北部におけるアミールの存在とシャリーアの存続を認めたのは、ナイジェリア北部のイスラーム社会に敬意を払ったからではない。存続を認めたのは、既存のイスラーム社会の仕組みをそのまま利用した方が、ナイジェリア北部社会を効果的に統治できると判断したからに過ぎなかった。英領植民地ナイジェリアにおける真の権力者が土着のアミールではなく、ロンドンの大英帝国政府であることは言うまでもなかった。

 英国の支配を受け入れたアミールやウラマーが「間接統治を受け入れた判断の妥当性」を住民たちに説明してみたところで、すんなりと恭順の意を示す住民ばかりではないことは、容易に想像がっくだろう。むしろ、異教徒支配を受け入れた既成のイスラーム政治エリートに対し、反感を抱くイスラーム教徒の住民が現れてもおかしくない。そして現実に、アミールたちを「英国の手先」と見傲す反体制派のウラマーたちが登場し、ナイジェリア北部のイスラーム社会内部の分裂が進行することになった。

 植民地体制下のナイジェリア北部では、教育を巡っても、イスラーム・コミュニティ内部に様々な分断の火種が生まれた。ソコト・カリフ国の統治下では、イスラームの聖典「クルアーン(コーラン)」を学ぶ学校制度が普及していたが、英国は植民地行政を担う官吏を養成するため、1920年代から1930年代にかけて、近代法を学ぶカレッジや法学校をナイジェリア北部に相次いで設立した。英国は住民から向けられる敵意を警戒してナイジェリア北部でのキリスト教の布教を制限したので、これらの高等教育機関で学ぶ学生たちはイスラーム教徒のまま英国式の近代教育を受け、卒業後は官吏としてシャリーア法廷などで雇用されることになった。

 しかし、その一方で、植民地化以前からナイジェリア北部に存在したイスラーム教のクルアーン学校の出身者は不遇をかこった。クルアーン学校からはウラマーに代表されるイスラーム知識層が多数輩出されたが、彼らは高い水準の教養を備えていたにもかかわらず、英国が設立したカレッジや法学校で近代教育を受けていなかったので、雇用には恵まれなかったのである。このため近代教育を受けた後にシャリーア法廷などで働くナイジェリア人官吏たちは、職に恵まれないウラマーの敵意の対象となり、ナイジェリア北部のイスラーム知識層内部の反目・対立が進んだ。

火種を抱えたままの独立

 第2次世界大戦(1939~45年)で、英領植民地ナイジェリアの人々は英軍の一員として世界各地で戦った。6年に及んだ戦争が終わると、欧州の宗主国は経済的にすっかり疲弊し、広大な植民地を維持することは不可能になった。19世紀から欧州列強を中心としてきた国際社会は、米国とソビエト連邦という二大超大国を中心とする秩序に再編され、東西冷戦が始まった。世界のパワーバランスが大きく変わる中、英国はインド、フランスはインドシナ半島、オランダはインドネシアで激しい独立闘争に直面し、40年代後半から50年代にかけてアジアの植民地が次々と独立を果たしていった。

 アフリカの植民地の民族運動の指導者たちは、こうしたアジアでの独立の動きに触発され、英領ナイジェリアでも民族主義者たちを中心に政党の結成が進んだ。英国政府は元々、植民地に立法協議会を設置していたため、50年代になると、選挙で選出されたアフリカ人の代表者が英国政府と独立に関する交渉を進めることになった。その結果、60年10月1日、英領ナイジェリアは工リザベス英女王を元首に戴く英連邦の一員として独立を果たした。新国家の領土は、東隣に位置する旧英領植民地カメルーンの一部を国土に編入した以外は、英領植民地ナイジェリアの領土をほぼそのまま引き継いだものであった。

 新たな独立国家に引き継がれたのは領土だけではなかった。植民地時代に形成された数々の分断の火種もまた、新生国家ナイジェリアに引き継がれることになった。第一に、キリスト教が優勢な南部とイスラーム教が優勢な北部との間の宗教に沿った分断。第二に、多数の民族を強制的に共存させたことによる民族間の分断。第三に、英国による問接統治下で深まった北部のイスラーム・コミュニティ内部の分断。いずれの分断も自然発生的に形成されたのではなく、植民地体制の統治構造の中で歴史的に形成されたものであった。

 独立時のナイジェリアは、東部、西部、北部の3つの州から成る連邦国家であった。イボ人を中心とする東部州と、ヨルバ人を中心とする西部州の2州が「南部」であり、イスラーム教徒のハウサ人やフラ二人が暮らす北部州が「北部」である。

 ナイジェリアでは植民地体制下で激化した独立運動も一枚岩ではなく、南北の諸政治勢力が激しく対立しながら運動を展開してきた。第2次大戦後の40年代後半から50年代にかけて南部の独立運動を主導したのは、労働組合、学生組織、民族団体などで構成する「ナイジェリア・カメルーン国民会議(NCNC)」であった。また、南部の中でも、西部州ではヨルバ人を中心とする「行動党(AG)」が支持を広げていた。

 これに対し、北部の独立運動は、1951年にイスラーム政治エリートによって結成された「北部人民会議(NPC)」を中心に展開した。NPCのリーダーは、19世紀初頭にソコト・カリフ国を建国したフラ二人、ウスマンーダンーフォディオの子孫であるアフマド・ベロという人物だった。

 独立を6年後に控えた54年、さらに58年に実施された植民地体制下における自治議会選挙では、南部ではNCNCやAGが多数の議席を獲得し、北部ではNPCが圧勝した。だが、どの政党も単独では過半数を獲得できないため、54年、58年ともに北部のNPCと南部のNCNCの自治政府連立政権が成立し、60年の独立の日を迎えた。独立の初代ナイジェリア連邦総督にはNCNC総裁のンナムディ・アジキウェ、連邦政府の首相には北部のNPCの副総裁アブバカル『タファワ・バレワが就任し、南北のバランスを取った。
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